猫の憂鬱
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第4章
―4―
木島達が目の前に現れた時の雪村は、穏やかな顔で猫を撫でていた。観念したというより、あれだけ判り易く証拠を残したのに何故もっと早く判らなかったの?と挑発に近い笑顔だった。
「もっと早く、気付くかと思った。」
「タキガワコウジさん、青山涼子殺人補助の疑いがあります、署迄来て頂けますね?」
「遅過ぎるよ、刑事さん。」
猫を下ろした雪村…タキガワコウジは寂しそうな顔で、自分を見上げる猫の頭を撫でた。
ネェ、と鳴いた猫にタキガワコウジは涙を落とした。
「此の子、如何なっちゃうんだろう…」
其れだけタキガワは云い、車に乗った。加納の腕に抱かれる猫に、木島も同じ事を思った。
*****
事の始まりは十年前、青山涼子の父、葵早雲の死から始まった。莫大な遺産を相続した青山涼子は、けれど全く金に興味は無く、三歳になったばかりの子供を放置し絵を描く事に明け暮れていた。夫であるタキガワセイジは、そんな妻に、愛想尽かしていた。
生まれた子供は我が子じゃない。
其れだけでも腹立たしいのに、青山涼子はあろう事か夫が邪険にしないのを良い事に息子の面倒を夫に丸投げ、カンバスに向き続けた、最愛の父親の死を忘れるように。
息子が懐いていたのが幸運だった、パパと戯れる子供を蔑ろにする程、セイジは薄情では無かった。青山涼子とは正反対だった。
青山涼子は、薄情な人間だった。故に友人が居らず、出来ても其の性格で離れていった。
学生時代からそうで、友達が離れて行く程猫に執着した。
良いもん、此の子達が居たら…。
高校に進学はしたが結局中退し、引き篭もって只管絵を描いた、描き続け、十七歳の時、飛び出すようにドイツに渡った。
ドイツに行けば変われる、そう思った、絵を描き始めた理由も、美術書籍で見たドイツの田園からだった。
売れなくて良い、ドイツで絵を描こう、そしたら私は変われる。
現実は酷かった、此処迄するかという位差別された。なのに、ドイツ語も儘ならない少女を男達は重宝した。
其の男達は、金を払うのは肉体では無く絵だ、という風に涼子の絵を持っていった、其の内の一人に、ギャラリーを持つ男が居た。其処に置かれた涼子の絵は、ぼちぼちだが其の男のお陰で売れ始めた。
セイジと出会ったのは涼子が二十一歳の時で、こんな事やめな、と救ってくれた。
絵なら僕が売るから、君は絵を描いていれば良いよ。
此処で変われていたら良かった、良かったのに、大人の欲望に浸かり切った涼子は出来なかった。
絵が売れても、其れは私を求めてるんじゃない、絵が、求められてるだけ。
涼子の男遊びは止まらなかった、セイジは其れでも涼子を捨てなかった。今此処で捨てたら、画家になる前に人として駄目になる、そう思い、涼子が二十五歳の時結婚した。
もう其の時期には中々に売れる画家だった、路上で描けば群がられた。
涼子が二十七歳の時、子供が出来た。
涼子には、其れがセイジの子供で無いのは判っていた、判り切っていたのに、産んだ。
セイジは薄く笑うだけで、何も云わなかった。抑に会話が無い夫婦で、息子が生まれた一番最初の会話が、誰の子?――さあ、だった。
涼子はカンバスと猫にしか興味が無い、だからセイジが面倒見るしかなかった。
涼子が二十九歳、息子が二歳の頃、父親の早雲が没した。
セイジは、笑った。やっぱり見捨てなくて良かった、誰の子かも判らない息子を育てていて良かった、神様からの御褒美だ……そう、涼子が相続した遺産に笑った。然し涼子は冷淡な表情で、そうですか、とだけ呟き、相続手続きをした。
――涼子…?
――セイジさん、好きに使って良いわよ、私は自分で稼いでるから。使い切って良いわよ、唯、二億だけ息子に残しておいて。口座は日本でね。何れ日本に戻るから。
涼子の要求は其れだけだった。云われた通りセイジは日本の口座に二億置いた、其の手続きをしたのが、セイジの弟、コウジだった。
――何其の女、馬鹿なの?
――ううん、馬鹿というか、金に執着が無いんだよねぇ。
――兄貴だけずるーい、僕もお金、欲しいなあ?
――はは、じゃあドイツおいでよ、一年は遊んでたら?御前、どうせなぁんもして無いんでしょう?
――そうそう!俺、絶賛ニートよ!おふくろ、チョーうるせぇの、親父もうるせぇよ。何の為に慶応出したと思ってんだ、って。
――威張んな、馬鹿…
葵早雲の死後から半年後、コウジはドイツに来た。セイジは三十一歳、コウジは二十五歳だった。
――実際さぁ。
買ったばかりのポルシェを運転しながらセイジは云った。
――僕、元から物欲って無いんだよね、気付いたけど。子供の頃から憧れだったポルシェ買っただけで、何も変わってないなぁ。涼子はあんなだし。
――変な女だよなぁ。
タキガワ兄弟は、似ていたが、似ていないと云われたら似ていない。実際、兄のセイジは細長く、弟のコウジは体格が良かった。セイジが筋肉付ければコウジに似るし、コウジが痩せればセイジに似た。
――兄弟でも、体格は似てないんだね。こっちの方が好きかも。筋肉質な人、好き。
涼子は云い、ドイツに来て一週間でコウジはあっさり涼子と寝た。
最初は抵抗した。
涼子に押し倒された時、運悪くセイジが帰宅し、気不味い雰囲気になった。けれど涼子もセイジも全く無関心で、セイジはたった一言こう云った、涼子、名器だよ、と。
はあ?と思ったが、つまりそういう病気なんだ、とコウジは諦めた。
コウジは無職で、なんのやる気も無い性格だったが、幼い頃から漫画絵だけは描いていた。リビングで其れを見付けた涼子は、もう少しこうした方が良いわね、とコウジの画風を模写し、修正された其の模写をコウジが模写した。其れを毎日のように繰り返し、何時しか逆が起きた。
涼子が描いた漫画絵をコウジが模写し始めたのだ。
基本がコウジの漫画絵の模写だったので画風に大きな変化はなかったが、雰囲気が“青山涼子”になった。
コウジがドイツに来て八ヶ月後、其の事故は起きた。
車を運転していたのは、コウジだった。酒が入っていたのも間違いはない、唯、其れで事故を起こしたのだ、人身事故を。
思い切り人を跳ねてしまったのだ。
街灯も儘ならない暗い細道で、凄まじい衝撃とフロントに乗り上がった人間を見た。横に居たセイジも心臓がバク付き、コウジは顔面蒼白でハンドルを握り締めた。
――やって、しまった…
――馬鹿コウジ…、だから酒飲むのやめなさいって云ったじゃない…
二人は車から下り、道路でぐったりする人物に近付いた。腕が変な方向に曲がり、頭から血を流していた、息はあるもの、内臓いってるな、と呼吸の仕方で判った。
セイジは、一応三年迄だが、医学部に通っていた。
――此れはまずいな…
――やだ、捕まりたくない…、兄貴…
――そうねぇ…、僕も弟を犯罪者にしたくないなぁ…、あれ…?
呻く男を見るセイジは、蒼白する弟の顔を見た。
自分の中に息する悪魔が、盛大な息吹と共に生まれた瞬間だった。
――コウジ。
――何…
――交換しよう。
――はい?
――此奴、僕達そっくりだ。特に御前。
頭から血を流す男は、確かに自分達そっくりだった。空港に向かう途中だったのか、男の持ち物の中にパスポートがあった、免許証も現金も、日本行きのチケット全てが揃っていた。
――コウジ、逃げなさい。
――え?
――此奴として、逃げろ…
冷え過ぎて、指の感覚が無かった、其の手に乗せられたパスポートを開き、自分のパスポートを開いた気分だった。
顔が、余りにもそっくりだった、此処迄似なくても良いだろう?と鼻で笑った。
――雪村、凛太朗…
――良い?僕の話、良く聞いて。
君は今日から“雪村凛太朗”として生きる、僕がコウジとして生きる、死んだのは、タキガワセイジだ。
――なんで?え?なんで死亡者がセイジになるんだよ…、俺じゃ、ねぇの…?
――御前には、やって貰いたい事があるんだ。
涼子を、殺せ。
辺りに煙草の匂いが充満した。
薄暗い空間で煙草の火だけ、浮きだった。
――いや、直接殺すのは僕がしよう、財産と息子…、自然な形で僕が受け継ぐ…。勿論君には、毎月幾らかあげるよ、不自由無くね。君は今から、雪村凛太朗として日本に行って貰う。彼が何の為にドイツに来たか、日本で何をしているか判らないけど、名刺があると思う。まあ、良い、無断欠勤でもなんでもして、でも携帯電話には出て、其れで上手く情報引いて。其れで君が出来そうだったら、其の儘其の仕事に就いたら良い。
――兄貴…は…?
――僕は此の儘、彼を僕に見立てて殺す。ボンネット凹んじゃってるし、何処かに突っ込むよ。
――其れで…?え…?
――僕が証言する、死んだのが兄貴だと。
兄が一体何を考えて居るのか、全く判らない。冷静なのかそうで無いのかも判らず、コウジは頷くだけだった。
――いや、だからさ、俺が死んだ事にすりゃ良いじゃん…?
顔面の横に叩き込まれた拳にコウジは怯えた。
――聞こえなかったかな?死んだのは、セイジ。
此の兄は、昔からそうだった、自分が従わないと平気で手を下す人間だった。壁から離れたセイジの拳は血が滲み、助手席に乗せて、と雪村を指した。
――じゃあね、コウジ…じゃなかった、凛太朗。日本で待ってて。
トランクは、重かった、タクシーの中でずっとパスポートを見、兎に角出国検査の時聞かれそうな事を頭に叩き込んだ。唯、簡単だった、日本人が日本…自国に行くのだからスムーズだった。顔が似てるだけでこんなにも簡単に通れるものなのかと、疑った。
パスポートが本物だから。
唯、渡した人物が違うだけ。其のパスポートも十年期間のもので、発行日が八年前と古かった。八年あれば、大体人相は変わる、だから怪しまれなかった。
名前と生年月日であっさり通れた。
本当にこんな事で大丈夫なの?と怯えた位だった。日本に着いた瞬間逮捕されるんじゃなかろうかと怯えた。
雪村が結婚していたらどうする?妻になんていう?流石にバレる。
然し雪村は、独身だった。此れはセイジが疑った。
二十代半ばで結婚してる奴が、大体新婚だと思うけど、指輪してないなんておかしいじゃん。此れ見よがしに嵌めてるよ。
日本に着いたコウジは其の儘ラブホテルに向かい、一日前に起きた事を反芻した。
殺した、俺が、殺したんだ…
脳裏に焼付く雪村凛太朗の屈折した身体を流すように頭からずっとシャワーを浴び、泣いた、罪悪感に泣き、兄の恐ろしさに泣いた。ぐしゃぐしゃの頭で荷物を確認し、携帯電話を確認し、雪村凛太朗を把握した。
名刺には設計士とあった、勤務する工務店の番号もあった。電話には取引先や上司、同僚の番号がある。
建築士…。
何処迄も幸運だった。
コウジは理工学部で、建築士の資格を持っていた。学校卒業後、就職した先の工務店と折り合いが悪く、無職であったに過ぎない。一年程だが、設計を携わっていた。
響く電話、肩が強張った。
――はい…
――おー、雪村、ドイツどうだった?
――疲れました…
本心だった、電話の相手は雪村の勤務する工務店の社長で、疑って居ないのか豪快な笑いを飛ばした。
――御前、突拍子過ぎんだもんなぁ、何時も。
――済みません…
――有給残ってますよね?仕事抱えてないんでドイツ行って来ます、ドイツ建築見て来ます!って、ど突いてやろうかと思ったけど、実際有給溜まってたし、……おい、大丈夫か?
――え…?
――いや、大人しいなぁって思ってよ。
心臓が、締まった。
――本当、疲れたんですよ…、食事も合わなかったし…
――あっはっは、じゃあ一寸は痩せたか!?お?御前、設計士っつーより、現場っぽいもんな、あはは。
――帰国して間が無いんですよ、実際今、寝てましたし。
――おー、済まん済まん。
今迄有難うな。
電話から漏れた労いの言葉に状態が飲み込め無くなった。
――社長…?
――独立、頑張れよ。其れが云いたかったんだ。御前はな、良い職人になるよ、本当。今迄、有難う。
こんなに虚無感と罪悪感を覚えた事なかった。
そんな人間の人生を、俺は……。
自首しよう、其れが良い、兄貴がどう動いてるか判らないけど、無理だ、こんな。
そんなコウジの揺らぎを察知したのか、コウジの携帯電話が鳴った。
国際電話。
――兄貴…
――タキガワセイジは無事死んだよ。肋骨行ったけど…、息するのも痛い…
――兄貴、あのな…!
――ん?
――あのさ、俺…
――自首しよう、なんて云うなよ?
柔らかい声だが、其れは脅迫であり、命令だった。
駄目だ、俺が、殺される…
兄は何時でも恐怖の対象で、コウジの支配者だった。
――あ…
兄の恐怖に喉が干上がった。痛い程声帯は乾き、唾を飲み込む度激痛を伴った。
――雪村さん、建築士、だった…
――そうなの!?…いっ…、其れは都合が良い。
――兄貴、大丈夫…?
――嗚呼、僕は心配無い。
復讐を始めると、悪魔の吐息を鼓膜に知った。
もう、戻れないんだ…。
悟った。
雪村凛太朗は、細かい性格なのか、携帯電話の自分の情報に住所を記入していた。翌日、ホテルから出たコウジは住所をタクシー運転手に告げ、雪村凛太朗として生きる道を選んだ。
雪村の部屋は、几帳面さが見て取れた。洗濯機は空で、きちんと畳まれている、クローゼットに掛かるシャツもクリーニング済みのビニールの儘下がっていた。
恋人は?居ないの?
無人の部屋に呟いた。
仕事を軌道に乗せる迄、一切を経っていたのか、雪村の部屋は全く女っ気が無かった。女物のスキンケア用品は疎か、アメニティ用の歯ブラシさえなかった。洗面台に置かれる歯ブラシは一本、洗面台の下にストックが何本かあるだけだった。
其処からコウジは、パソコンや書類を漁り、雪村を一層把握した。前の工務店から引っ張って来たであろう先方に自ら連絡を入れ、雪村凛太朗を徹底した。
随分と古風な人間…。
パソコンで設計図を作る建築士が多くなった今、雪村は態々設計図面台を自宅に置いていた。其の真ん中、定規が上下左右に伸びる一眼レフのような黒い軸に触れ、涙が溢れた。
御免、御免、雪村さん…。
此れが贖罪とは思わない、思わないが、霞む視界で設計図を製作した、雪村が歩むであった其の道を、進んだ。泣きながら、設計図を完成させた。
其の時には、兄のセイジみたく、痩せこけていた。
――嗚呼、やっちゃった。
セイジからの連絡は、事故を起こした一年後だった。
――しくった、息子の趣向を把握しておくべきだった…
――何…?
――涼子を殺すつもりが、息子を殺してしまった…
幻聴かとうたぐった。
セイジは確かに息子を、我が子のように愛していた。
――トリカブトで作った蓬餅…、息子が誤飲した…
セイジの計画はこうだった。
自分が出掛ける前に、涼子が好物の蓬餅をトリカブトで作った、其れをアトリエに置いて居たのだが、うっかり息子が摂取した。
――彼奴、アトリエに入ったらカンバスしか目に入らないからな…
――兄貴…?
――嗚呼、大丈夫、僕は疑われて居ない。いや、確かにベルリンの当局から疑われてはいるが、所詮僕は、コウジ、だからね。なんで叔父が甥を殺さなきゃならないんだ。
壮大な、兄の計画を知った。
セイジの作製した、トリカブトの蓬餅で涼子を毒殺、天涯孤独な息子の親権を残された叔父のコウジに相続させる手筈だった、然し実際に死んだのは誤食した息子で、涼子は存命している。其れで、支離滅裂な青山涼子の、息子は旦那が殺した、の発言に繋がる。
そう、息子を殺したのは、紛れもなく夫だった、青山涼子は、正しい発言をした。誰からも信じて貰えなかったが。
――此れじゃなんの為にコウジ名乗ってるか判らない。
――兄貴!?
――手を考える。涼子は此れを機に日本に帰ると云ってる。其処でコウジ、頼みたい。
ほとぼり冷めた時、十年二十年先で良い、涼子に近付け。財産は五分の一も減ってない……セイジの魔力にコウジは頷いた。
建築士としての雪村の名が大きくなった。
此れで良いよな、雪村さん。
月命日、雪村にコウジは呟いた。
あれから五年、雪村凛太朗は、一級建築士に迄名を馳せた、其れが、コウジの弔いだった。
涼子は果たして帰国した。
帰国したとセイジに聞かされたが探す気は無かった。
唯、一度出会った人間は、もう一度巡り会うよう道が出来て居るのだと、目の前に現れた涼子を見て思った。
――やっぱり。
――え?
先に声を掛けて来たのは涼子の方だった。
此の時出会ったのは偶然で、初めて入った喫茶店で仕事を纏めている最中だった。
レモンイエローのワンピース、少し明るい髪色、涼子は美しかった。
――一瞬セイジさんかと思ったわ。貴方、コウジさんよね?
涼子の笑顔は、五年前と何も変わらず綺麗だった。痩せた自分に対しセイジに似ていると云った。
――あの…
――涼子よ、覚えてる?
――涼子、さん…ですか…?人違いじゃないでしょうか。
すっとぼけた、コウジはドイツに居るセイジがしている事になっている、此処でボロを出せば、あの兄に何をされるか判らない。干上がる喉に唾を送り込んだ。
――私、雪村凛太朗、ですが…
――え?
免許証と名刺を見せたのが良かったのか、涼子は本気で人違いだと思った。大きな目を開き、やだどうしよう、と丸めた手で口元を隠した。
――御免なさい…、知り合いにそっくりだったもので…
――いえ、大丈夫ですよ。
――本当、御免なさい。
必死に演技をした、不自然だっただろうが、元から他人とコミュニケーション取らない涼子には、此の不自然さは見抜かれなかった。
本当云うと、涼子に惚れていた、肉体関係を結んだから情が移ったのもあるだろうが、コウジは軟派な兄とは違い、硬派だった。見た目はほぼほぼ一緒だが、性格は真逆だった。
御前、江戸切子っぽいよね、と云ったのはセイジだった。見た目ごつい癖に繊細だと云いたいのだ。
最後に会った時より涼子は一回り細くなっていた、無理も無いが、元から細いのに…と同情した。
暫く無言で見詰め合った、其れを終わらせたのはジャケットの内ポケットに入る携帯電話電話だった。
――雪村です。ええ、お世話になっております。
少し寂しそうに微笑んだ涼子は小さく会釈し去ろうとした、何故なのか、其の白く細い手首を掴んだ。
此の時掴まなければ、涼子は死ななかった、断言して良い。
セイジには、日本で無名に近い涼子を見付けられる筈が無い、と云えば良かったのに。
身体はあっさり重ねる事が出来た、一ヶ月もなかった。二回目のデートであっさり身体を許した、恋人でも無い男と寝るのは変わってないんだなと、真っ白な身体を見て思った。
――私ね、画家だったの。
――そうなの?
――うん。
――私、黄色って大好き。
――金運的な何か?
――違う違う、昔飼ってた猫がフォーンって云って、黄色っぽい毛並み持ってたの。
個人的な話を涼子がしたのは此れだけだった。筆は折ったが、凄まじい猫好きなのは健在していた。
デートの時、偶々ペットショップの前を通り、居たのだ、其処に、ソマリが。涼子が喰いつかない筈が無く、ショーケースに張り付く涼子は、バッグを買うように猫を飼った。カードであっさり買い、満足そうに猫を抱き上げた。
――きな粉、きな粉ちゃん。
何其の変な名前、と思ったが、思い出せば此れと全く同じ種の猫を“きな粉”と呼び、盲愛していた。
個人的に猫は嫌いだった、毛が付くし、気紛れに纏わり付いて煩い、気分一つで噛み付くのも気に食わない。
なのにきな粉はコウジに懐いた。追い払っても追い払っても喉を鳴らし、正直鬱陶しかった。涼子のベッドで寝りゃ良いもの、何故俺のベッドで寝てる!と、毎日毎日安眠を妨害してやった。ソファに座ると我先にと膝上に乗り、人の気も知らず勝手に寝る。ええい、こちとらトイレ行きたいんじゃい。
――もう!キナ様!パパの部屋入っちゃ駄目って云ってるでしょう!なんで判んないの!お馬鹿しゃんなの!お馬鹿しゃん!キナ様お馬鹿しゃん!
書類をめちゃかちゃにしておいて、本猫は窓の近くで暢気に毛繕いし、ボコボコ怒るコウジをちらっと見ては、ネェ、と鳴き、自慢の体毛を手入れした。
誰が触ってやるものか!そんな策略には乗ってやらん!あたし綺麗でしょ?と見詰めれば万人が撫でると思うなよ、此の毛玉風情が!貴様のような長毛は、尻尾を排泄物塗れにし、胃に溜まった毛をえはえは吐いて居りゃ良いんだ!
其れを見て涼子がコロコロ笑っていた。
――パパが大好きなの、気を引きたいんだもんねぇ。
――ネェ。
――パパはお馬鹿しゃんなきな粉ちゃんは嫌いです!
――ネェ。
――……キナ様…、ホルホル…、毛っけサラサラです…
――あっはっは、大好きじゃん。よう、下僕。
――ネェ。
――はい、下僕です…
幸せだった、本当に。此れが雪村凛太朗の人生の代償だったとしても、幸せだった。
セイジが、目の前に現れる迄は。
二人が結婚した一年後、セイジが帰国した。
目の前に現れた時、足元が崩れる気がした。いいや、本当に、気を失った。目を覚ますと、目の前で涼子はセイジに陵辱されていた。顔面を紫色に腫らし、ぐったりする涼子をセイジは笑顔で犯していた。気を失っている時に殴られたのか、頭に鈍痛がした。
――涼子、喜べ、あの猫な。
釣り上がるセイジの口元は魔物のように醜く、聞かされた言葉にコウジは胃液を吐き出した。頬を胃液で濡らし、生臭い匂いに又吐き出し、酸に涙腺が刺激された。
――……外道…!
――お、お目覚めか。遅ぇよ、ばぁか、一回目出ちゃったよ。
――きな粉に何した…
――きな粉…、はは、うける。
細い左薬指は真逆に折れ曲がり、ソファの上で涼子は揺れていた。
――きな粉なんだろう?じゃあ、全盲にしねぇと、あのクソ猫、目ぇ見えてなかったんだぜ?
――きな粉…きな粉……
か細い涼子の声にコウジは身体を起こし、激痛を訴える頭を押さえ、猫を探した。我が妻より猫か…コウジは自嘲した。
――きな粉…、キナ様何処だ…、パパだよ…、きな粉ぉお…!
――ネェ……
逸そ、自分が殺されたかった。書斎でぐったりする猫に血の気が引いた。
何で毛が濡れてるんだ、何でこんな毛がゴワゴワしてるんだ、何で、何で……。
何できな粉がこんな目に遭わないといけないんだ……
感覚失せた手で猫を抱き上げ、白濁に変色する目元を見た。
――きな粉!きな粉、パパだよ!判る!?パパの声判る!?キナ様!
――ネェ……
――きな粉…、きな粉…、大丈夫、大丈夫パパが付いてるから、ママは一寸手が離せないのね…?病院連れて行ってあげるから。
――いやぁ…
――嫌じゃないの!きな粉が病院大嫌いなの判ってるよ、でも御前死んじゃうんだよ!そしたら…
パパに怒られる事もなくなっちゃうよ…?
云い、全身が恐怖に痙攣した。
きな粉が死ぬ…?そんな馬鹿な話があって堪るか。
きな粉はもっと、もっと、もっとうんと、俺を困らせ、其の姿を見下す猫なんだ…!
――ネェ……
――良いから、ね?きな粉、パパの事、好きだよね?パパもきな粉の事、大好きだよ。だから、離れたくないんだよ…
猫は、笑ったりするのだろうか。でも確かに、猫はコウジを見て、体温を知って、泣きながら笑った。
――涼子…
――きな粉…、きな粉ぉお!
――大丈夫、きな粉は病院に連れてくから…
涙で状況は見えなかった、涼子が恍惚とした表情でセイジのペニスを咥えて居たとしても。
運転出来ないのは把握していた、だから猫を抱え、タクシーを捕まえた。さぞ気持ち悪かっただろう、四十手前の男が猫を抱え鼻水垂らし行き先を告げるのは。
時刻は、夜の十時だった。其の病院は夜の八時迄で、けれど獣医もスタッフも只ならぬ猫の風貌とコウジの形相に診察してくれた、タクシー運転手の力もある、何があったか判りませんが助けて下さい、と態々、立てないコウジを支え院に迄付き添ってくれた。
――先生、先生きな粉……キナ様!
――お父さん、お父さん……!何が起きたんですか?何が起きて、きな粉ちゃんは、劇物を被ったんですか!?
――劇物…?
――酸が強い薬物です、何が、顔に掛ったんです?
ふっと、理性が戻ったのをコウジは知った。
――妻は…、油絵を描くんです…、きな粉は活発で…、其の剥奪塗料を…
――判りました、強力な酸性ですね?
けれどお父さん、希望は持たないで下さい……夜中の二時迄猫は治療室に居た、憔悴し切るコウジに医者が云ったのは、視力の回復は見込めない…そう、絶望的なものだった。
嘘だろう、きな粉は死ぬ迄一生、俺や涼子の顔を見られないのか…!?
――先生…?嘘でしょう…?!
――月並みで申し訳無い、きな粉ちゃんの視力は…
医者がパフォーマンスで涙を流すのかと、コウジは知れず笑った。
――網膜が完全に焼けて居ます…、見えて居ても、分厚い幕が張ったようにしか…
――きな粉は、きな粉一生、此れから先、私を認識出来ないんですか…?
――お父さん、ご主人、違います。猫は、非常に聴覚臭覚が発達した生き物です、そして、感覚を覚える生き物です。一度叩いただけで警戒し粗相するのも、視覚反応以上に他器官が優れているからです。きな粉ちゃんは、きちんと、貴方を認識します。猫は賢い生き物です、危害を加えないと判れば、貴方を認識します。賢く、従順なんです、猫は。きな粉ちゃんは、貴方を心底愛して居ます。
酸素マスクを小さな口に付け、白濁する目を動かしながら、猫は必死にコウジを探した。
――ネェ……
――きな粉、きな粉、パパだよ、判る?
――ネェ、パパぁ…
――判る?判る?きな粉、パパの匂いと声…
――ネェ…
――だからパパ云ったろ?オイタも大概にしろよって…
――パパぁ?
――御免な、きな粉、守ってやれなくて。熱かったよな…
――パパぁ…
きな粉ね、パパ大好き。
そう、酸素マスクの向こうから笑ってくれた気がした。猫以上に視界が霞んだ。
――パパぁ…
――きな粉、覚えて、右で君を抱えて、左手で撫でてくれる人が、パパだよ。パパはこうやって君を守るから。
乱暴だったのは確か、撫でるというより、叩いていたが、猫はコウジを認識した。
――覚えて、きな粉、こうやって抱くのが、パパだよ。
多分、歩いて帰ったのだろう、リビングのソファで憔悴する涼子を見てやっと、自分が自宅に居るのが判った。
――貴方は、誰…?
頬を腫らす涼子は聞いた。
――誰なの?貴方は誰なの……!
――御免…
シャワーを浴びせる為抱えたが涼子は暴れ、殴られた。生臭い臭いが湯気と共に上がり、吐き気がした。
――病院、行こうか……
――嫌よ…
――君はきな粉か…
タブの中で膝を抱える涼子の身体を洗いながら、今迄の事を全て話した。自分はコウジである事、ドイツで雪村凛太朗を轢き殺し、セイジの示唆で雪村凛太朗として生きて来た、現在タキガワコウジを名乗るのはセイジ。
――なんでそんな事するの…?
――其れは、僕が?兄貴が?
――セイジさんよ…、なんで息子を殺したの…
――君の、財産…、蒼早雲の、遺産…
馬鹿ね。
顔を上げた涼子は泣いた儘笑い、云えば全部上げたのに、と折れ曲がる鼻を鳴らした。
――全部使って良いって、云ったじゃない…、馬鹿ね……
そんな事の為に自分を殺そうとし、誤食で息子を殺したのか。
馬鹿みたい、本当、馬鹿みたい……。
涼子の心は、へし折られた指のように折れ、心療内科の世話になった。然し、其れも直ぐに通わなくなった。
見事にセイジの子を妊娠したのだ。妊婦に出せる薬は無いと云われ、涼子の不安は腹と同じに膨らんだ。
――ねえ、凛太朗さん。
――何?
私を殺して。
頬は窶れ、肉という肉が涼子の身体から失せて居たのに、腹だけは突き出ていた。其れが不気味だった。
――やだよ。
――そっか。
笑った涼子は其の儘階段に倒れ込んだ、腹を下に倒れ、人形のように階段を転げ落ちた。床に広がる薄まった血液に涼子は笑っていた。
――大丈夫?涼子。生きてる?
――うん、大丈夫…、一時間、じっとしとく…、一時間経ったら救急車呼んで…
大きな音に猫が何事かと現れ、生臭い臭いに鼻を動かし、コウジが呼ぶと、涼子が転げ落ちた階段を登り、腕に収まった。指示通りきっかり一時間後コウジは救急車を呼んだ、血の気引かす涼子を抱え、救急車が来るのを待った。
空っぽになった腹に手を乗せる涼子は、病室の窓から雲を眺め、溜息を吐いた。
――一時間激痛に耐えたのに死ねなかったわ。
病室は、もう暖房の入る時期だった。背中に汗が浮き、ジャケットを脱いだ、涼子は笑顔で其れを羽織り、ベッドに寝た。翌日涼子は産婦人科の病棟から精神科の病棟に移った。
自宅と職場と病院の往復で、コウジの一日は終わった。帰宅した時には疲れ果て、風呂にも入らず寝た。
そんな生活が半年近く続き、漸く涼子が退院するとなった其の日、事故は起きた。
病院に向かっている最中、ウィンカーも出さず車線変更した車と衝突し、後方車から追突された。追突された衝撃で車は横向き、対向車線にはみ出た車体後方に対向車が衝突した。
コウジの乗っていた車は、車って此処迄凹むんだ?という具合に鉄屑と化し、命があるのが不思議だった。
一番重症だったのはコウジで、死亡したのが事故の発端である軽自動車を運転していた十代の青年の運転席後部に座っていた中学生の少女だった。無理も無い、六十キロ近い速度の車に追突されたら、車体の軽い車の被害は大きい。最悪な事に、後部座席に座っていた少女はシートベルトを着用して居らず、ドアーに凭れていた。横にも少年が一人居り、追突された衝撃で少女に激突している。
現場検証した刑事は、素直にコウジに同情した。なんというか、青年達の親が見事な迄の支離滅裂さを発揮し、死亡した少女の親がコウジに賠償を求めると言い出した。確かに追突し、死亡させたのはコウジであるが、発端は青年の無謀運転と少女自身のシートベルト無着用である。其れでも慰謝料を払わなければならないのだろうかと同情した。
運が良かったのは、コウジの車に追突した後方車と対向車の運転者が青年両親を訴えた事だった。
俺見てだぞ、其の白い軽がぎゅん!って動いて、後ろが追突した!だからクソガキが悪い!
あたしも見てたわ!ライフが車線変更した瞬間、前のアウディが急ブレーキ掛けよったわ!ウィンカーなんか出してなかったわ!絶対!左ハンドルだからよぉ見えんのよ!如何してくれんのよ、あたしのベンツ!あんたの軽とは違うんよ!?SLKよ!?あんた買えんの!?いいや、買って貰うからな!今直ぐ買いなさいよ!
アウディの兄ちゃん可哀想じゃねぇか!御前みてぇなクソガキにやられてよぉ、俺のゴルフも買い直せよ!
そう、青年の病室で喚いていた。
言い方悪いが、不良が不良に喚いているとしか思えない状況で、コウジは、流石に其れは青年が可哀想だから、SLKの新車は絶対に無理ですがゴルフ位なら…、と信じられない事にコウジが対向車であったゴルフを新車で賠償した。あんた何処迄馬鹿で善人なんだ!?と云われはしたが、如何考えたって、如何見たって、申し訳ないが、青年両親にそんな財力があるとは思えなかった。SLK所有者の派手女には、中古でも良いですか?と一応聞いては居たが、なんで一番の被害者の貴方が買うの、此の阿保に買わせるから、とヒステリックに喚いた。常識考えろ、と青年と青年両親に喚かれていたが、其の後は知らない。其の女が用意した弁護士で、話は片付いた。
コウジは三ヶ月程入院し、楽しい入院生活ではあった。三人は同じ病室で過ごし、二人は一ヶ月程で退院したが、楽しくも怖かった。
常に二人は青年の悪口を言い合い、ワーゲン親父の鼾が煩い事煩い事、其れに派手女が、オッさん、序で鼾の治療もして貰い、と云う。
動けるようになった二人は松葉杖付き付き、態々毎日青年の病室に行っては嫌味を放ち、一時間程暇を潰して居た。
ワーゲン親父の妻は、女好きの治療もしたら、と派手女の笑いを誘っていた。迎えには行けなかったが、退院した涼子も、コウジの世話をしつつ小さく笑う。
何が怖かったか、派手女の見舞客である。一度、父親らしき男性が、泣きながら派手女を抱き締めていた。其の後ろに、皺一つないスーツを着た怖いお兄さん二人が直立不動で立っていた。コウジもワーゲン親父も、嗚呼だからあんな高級車であんな啖呵切れたんだ、と納得した。
派手女の世話は専ら、ステンレスみたいな怖いお兄さんがし、週に一回、夫らしき人物が来た。言葉が痛烈で、ベンツ諸共廃車んなったら良かったのに、しぶといの、メシマズ治る迄帰って来んな、と何をする訳でも無く、唯々嫁に暴言を吐き、だのに派手女はヘラヘラ笑っていた。
二人が退院した後、事故から二ヶ月後、病室に現れたセイジにコウジは氷結した。猟奇的な成人限定の同人誌を持って。
――何?此れ…
――此れ、御前が描いたやつ?
――え?
――其の作者の名前、見てご覧。
同人誌をコウジに渡したセイジはパイプ椅子に座り、細長い足を揺らした。其の口調は、タキガワコウジを演じるものでは無く、知っている兄の話し方だった。
タキガワコウジ…、然し自分は一切描いた事は無い、何故こんな物が自分の名前で出回っているのか理解出来なかった。
唯、誰が描いたかだけは、はっきり判った。此の雰囲気は明らかに涼子だった。
セイジが何故こんな物をコウジに渡したか、“タキガワコウジ”と名乗るセイジの元に出版社側から連絡が来たのだ。
涼子がどんな意図があって“タキガワコウジ”の名を使い、如何わしい冊子を作ったかは判らない。
――で、何?
――御前、一寸代わりに描いてよ。
――は?
――だって僕、漫画なんか描けないし。
――いや、僕だって、漫画なんかもう描けないよ!
――だって、此の絵って、コウジのだろう?僕、覚えてるもん。だから最初、コウジが描いてるのかと思った。やっぱ涼子が描いてたのか。
――…其の話は、僕から、涼子に云ってみる…
――本当?有難う。焦ったぁ。
肉の無い頬に皺を作りセイジは笑い、三人部屋だが、現在はコウジ一人しか入院していないのに、態々区切りのカーテンを引いた。
――本題ね。
――うん。
――涼子と離婚して。
我が耳をうたぐった。理由は判る、全く赤の他人の雪村凛太朗が夫の儘だと、如何転んでも涼子の金はコウジに行く。
詰まり、そういう事である。
そんな提案に、殺される為に涼子を差し出す程コウジは涼子に非情では無い、寧ろ、愛している、今更邪魔するな、もう諦めろ、と啖呵切った瞬間、首の圧迫感と息苦しさを覚えた。カーテンを閉めたのは、何時ドアーが開いても良いようにである。
――誰に口聞いてんだ、あ?
――離……
――御前は、俺に従っときゃ良いんだよ。
――絶対…嫌……、涼子は、渡さないから…
――あの女に惚れてんの?
――煩い…
――御前、めでたいね。御前が入院してる間、涼子が何してるか知ってんの?
――煩い……!
――御前の手に負える女じゃねぇんだよ、あの淫乱は。死ぬ迄治んねぇぞ。
愛して居たのは自分だけだったのか、涼子を愛するなんて馬鹿げた話なのか、無意味な事なのか。
俺の人生って、なんだろう。
――良い材料揃ってんじゃん、凛太朗さん。
コウジの泌尿器科の診断書を見たセイジは、ゆっくりと笑った。
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