手紙
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1部分:第一章
第一章
手紙
そもそもはじまり自体が間違いだった。これは双方に言えることであった。
彼はドイツの諸侯の一人であった。ハノーファー選帝侯でありドイツでは大貴族と言ってもよかった。少なくとも彼は自分をドイツ、神聖ローマ帝国の人間だと思っていた。
その彼が突如として王になることになったのだ。歳は五十四歳でもうかなりいい歳だった。身も心も完全にハノーファー選帝侯だったのだ。
ところがこの時イギリスのスチュアート朝が断絶した。この国は長い間カトリックとプロテスタントの王位継承について揉めていたが彼はたまたまかつてのスチュアート朝の王ジェームス一世の曾孫であった。母方の系列とはいえそうであったししかもカトリックであった。これが大きな縁となった。
この縁で彼は突然イギリス王にとの声があがったのだ。彼にとっては思いも寄らぬ話であった。最初に話を聞いた時に顔を顰めさせた程だ。
「私が王に?」
「その通りです」
使者であるイギリス人が彼に恭しく述べるのであった。フランス語で。彼もまたフランス語で応対をしている。英語の他にフランス語も話せることが役に立っていた。
「どうぞ。我等の王に」
「私はドイツ人だぞ」
だが彼は気難しい顔でこう言葉を返すのだった。見れば周りにあるものは全てドイツのものだ。イギリスのものでありそうなものは一つもない。
「それでもいいのか」
「王家の血を引いておられるのは貴方だけですが」
「他にはいないのか?」
「さて」
その問いには首を捻るイギリス人だった。
「何処におられるやら。少なくともわかっているのは」
「私だけか」
「そうなのです」
このことをまた彼に告げた。
「貴方だけなのです」
「ううむ、他にはいないのか」
「お嫌ですか?」
「私は英語を話せないぞ」
このことを今はっきりと言うのだった。
「言っておくがな」
「左様ですか」
「左様ですかではないだろう」
気難しい顔でまた語る選帝侯であった。
「確かにフランス語で多少のことは話せるが。それでも」
「御気になさらずに」
しかしそれでもイギリス人は彼に言う。
「そんなことは全く」
「気にしなくていいのか」
「はい、そうです」
イギリス人は何処までも楽天的だった。少なくとも彼から見れば。
「私共がいますので」
「君達が?」
「宮廷費も用意しておきます」
「宮廷費か」
それを聞いて彼の心がまず動いた。
「ううむ。そうだな」
「七十万ポンドです。自由にお使い下さい」
「凄い額だな。そうだな」
それを聞いてさらに心が動いた。
「だがイギリスの政治もわからないしな」
「それは我々にお任せ下さい」
要するに黙っていろということだが彼にとってはそれでもよかった。何しろイギリスについて何も知らないからだ。それでどうこうするつもりもなかったのだ。
「それに関しましても」
「では私は王でいるだけでいいのか」
「左様です」
こういうことであった。
「ただそれだけでいいのです。貴方は」
「反対派はいないか?」
彼が次に気にしたのはこのことだった。
「私は外国人だ。その私が王になってもいいのか?」
「前例がありますし」
「前例がか」
「はい、そうです」
イギリスはかつてはノルマン公が王になったしスチュワート朝にしろチャールズ二世の娘の夫であるオレニエ公を共同統治者として王に迎えている。欧州の王家というものはハプスブルク家を中心とした婚姻政策の影響で互いに血のつながりが濃いのである。余談であるが後のビクトリア女王はロシアのロマノフ二世とドイツのヴィルヘルム二世の仲の悪さを零していたが実は彼等は女王の血が入っていたのである。
「それもありますし。まあ」
彼を王と迎えることに猛反対し暗殺さえ考えている人間のことはここでは隠している。
「政府も議員達の忠誠を約束していますし」
「つまり政府も議会もか」
「貴方は何も心配されることはありません」
ここであえて恭しく述べたのだった。
「貴方様は」
「そうか。それではな」
「はい、どうぞ陛下」
もう王と呼んでいる。
「我が連合王国へ」
「うむ」
こうして彼はイギリス王ジョージ一世となった。しかし王となりイギリスに入った彼を見てイギリス国民達は顔を顰めさせた。それは彼自身についての問題ではなかった。
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