| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

小松原源五郎教授の書斎

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

2部分:第二章


第二章

「また面妖な」
 本を閉じる。すると光の様に出て来た。
「ほら、言った通りでしょう?」
「ううむ」
「教授の目の前だけなんですけれど」
「じゃあ私が君の側で本を開けば君の姿が消えると」
「そうです」
「閉じれば君が出て来るのか。これはまた」
「おかしいですか?」
「おかしいって言うより変な話だよ」
 本を机の端に置いて言う。
「私と教授が一緒にいる時だけですから」
「ふむ」
「私が出たり消えたりするのは」
「じゃあ君は普通の生活はできるのか」
「はい」
 ちずるはまた頷いた。
「もう自然に」
「そうか」
「それで教授」
 ちずるは急に甘い声を出してきた。女学生特有のハリと色気が同時にある声だ。教授も男である。その声に心を動かされないと言えば嘘になる。
「何だい?」
「お話があるんですが」
 ちずるもしたたかである。わざわざ耳元で囁いてきた。どうやら彼女はその外見から出て来るイメージよりも男というものを知っているようだ。
「話って」
「一緒に住みませんか?」
「君とかい?」
「そうですよ」
 わざわざ媚惑な笑みも向けてきた。計算づくのようだ。
 教授もそれはわかっている。だが一人身でありそろそろ妻も欲しいかな、と思っていた頃だ。女は実は嫌いではない。乗ることにした。ちずるに顔を向ける。
「それじゃあ」
「いいんですか?」
「ちょっと待った」
 晴れやかな顔になったちずるを一旦止める。
「本当にいいんだね」
 まずは念を押した。
「勿論ですよ」
 ちずるは迷うことなく言葉を返す。
「ですから先生の前に出て来たんですよ」
「それじゃあわかってると思うけど」
 とにかく念を押す。
「僕の家は凄いよ」
「知ってますよ」
 ちずるも言葉を返す。彼女は明るい声だった。
「本だらけだって仰りたいんでしょ」
「そう」
 教授はそれを聞いて大きく頷いた。
「それはもう凄いものだけれど」
「ですから私は本の世界から来たんですよ」
「平気なのかい?」
「そこから来たのに平気も何もないじゃありませんか」
 笑ってこう言う。
「そうじゃないんですか?本は私にとって寝床みたいなものなんですよ」
「寝床か」
「ええ」
「それじゃあ大丈夫だね。けれどいいかい」
「何ですか?」
「周りからくれぐれも変とは思われないように。本の世界から来ただなんて」
「大丈夫ですよ、先生」
 ちずるは笑ってまた言った。
「本の世界から来たなんて誰が信じます?」
「しかしだね」
 教授はまずそれを心配していたのだ。何処から来たと言われて本から来た、ではあからさまにおかしい。そうなればちずるも自分も厄介なことになると思ったからだ。
「ここにいるって言えばいいじゃありませんか」
「ここって京都かい?」
「はい。お役所の住民票ってやつも簡単に書き換えられますし」
「そんなことができるのか」
「私は本の世界にいますから」
 答えになっているようななっていないような返事だった。
「そんなの簡単ですよ」
「簡単っていうけどね」
「中に入って書き換えればいいんですから」
「それで済むのか」
「はい。それで私は目出度く京女に」
 鮮やかな赤い色の袴をひらひらさせながら言う。
「うら若き都の乙女と一緒。先生、果報者ですよ」
「今一つ信じられないなあ」
 ちずるの軽い調子に不安を拭いきれないのだ。
「そんな簡単に話が済むのだろうか」
「こっちの世界だけならそうもいかないでしょうね」
 ちずるはあっけらかんとして言った。
「けれど私は元々こっちの世界の人間じゃありませんから」
「大丈夫なのか」
「そういうことです。それじゃあ帰りましょう」
「うん」
 ちずるに促されるまま研究室を出て家に帰る。もう暗くなった京の道を二人で歩いていく。
 古い背広を着て帽子を被ったまずは品のいい格好の教授と鮮やかな女学生姿のちずる。お似合いとは少し言い難い組み合わせの二人が夜道を歩いているのはおかしいと言えばおかしい光景であった。
「道は知ってるよね」
「勿論ですよ」
「やっぱり知ってるかい」
「地図の本に入ったこともありますから」
「そうなのか」
「私は本なら何処にも入り込めるんですよ」
「羨ましいな」
 教授はそれを聞いて思わずこう呟いた。
「何処にでも行けるなんて」
「けれどどれは先生が本を読んでいる間だけですよ」
「そうだったね」
「それに。今は先生のお側にいる方が」
「ここへきてお世辞かい?」
「違いますよ」
 ちずるは笑ってそれを否定した。
「だって先生を選んでここへ来たんですから」
「僕をかい」
「そうですよ。本が好きな人だから来たんですよ」
「へえ」
 そう言われて悪い気はしなかった。
「ですから。宜しくお願いしますね」
「うん、わかったよ」
 こうして二人は一緒になった。教授ははじめて若い女性と二人暮しとなりこれまでとは全くうって変わった幸せな日々を過ごすようになった。そしてそれは学校の中でも噂になった。
「最近小松原教授変わったな」
「ああ」
 生徒や教授達も口々にそう噂し合った。
「何でも結婚したらしいぞ」
「嘘だろ、それは」
「いや、本当に。それも若くて綺麗な女の人だ」
「本当なのか、それは」
「つい最近まで女学生だったらしいな」
 そういう触れ込みになっている。誰もちずるの本当の姿を知りはしない。知ることも出来ない。
「羨ましいな、それは」
「まああの本の虫の教授に奥さんができただけでも驚きだが」
「まあな」
「ただ。ちょっと変わったな、教授も」
 気付く者は気付いていた。
「変わった!?」
「ああ。前程本を読まなくなったな」
「そういえばそうだな」
「あれはまた何でだ?」
「本以外にも興味のあるものができたんだろう」
「奥さんのことか」
 外れてはいないが真相を知らない言葉であった。
「多分そうだろうな」
「ううむ、実に意外だ」
 皆異口同音にこう述べた。
「結婚しただけでなく愛妻家にまでなったとは」
「こりゃ近々大変なことが起こるな」
「地震でも来るかな」
 だがこれは実際には何時でも来るものだ。たまったものではないが日本ではとかく地震が多い。戦争よりもこちらの方がずっと怖い程だ。戦争は外交的努力で避けられるが地震はそうはいかないからだ。
「おいおい、縁起でもない」
「さもなければ雷か火事や台風か」
「だから縁起でもないって」
「いや、本当に信じられないからな」
 それだけ小松原教授とちずるのことが信じられないのだ。
「まさかなあ」
「まあそうだが」
「けれどまあ教授も人間だったということだな」
 ここで実に失礼な言葉が出て来た。
「奥さんを持ってそれを好きなんだから」
「そうなるかな」
「そういうことだ。まあここは祝うとしよう」
「ああ」
「朴念仁だった教授が真人間になったことに」
「乾杯というか」
 何だかんだと理由をつけて飲み屋へ向かった。この時代の学生も何かあれば飲みに行くのは変わりはしなかった。これは教授達も同じであった。
 とかく教授とちずるのことは話題になっていた。しかし二人はそれを気にしてはいなかった。
 二人は仲睦まじい夫婦となっていた。誰の目から見ても普通の夫婦に見えた。
 本当のことは二人だけが知っている。二人しか知ることが出来なかった。

 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧