小松原源五郎教授の書斎
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1部分:第一章
第一章
小松原源五郎教授の書斎
京都は昔から大学の街と呼ばれている。かって都であった頃から貴族達も学問に励んでいた。紫式部が兄の勉強の時に一緒にいてその兄よりも漢文をスラスラと読んだ話も残っている。貴族達も学問には精通していたのである。
それから時代が下がって明治になり大正になった。古都にあるその多くの大学の一つに小松原源五郎という教授がいた。
人はこの教授を評してよくこう言う。変わり者だと。
その大学の文学部で日本文学を教えていた。研究熱心であり知識は豊富だ。三十にして教授となったのもその知識を買われてのことである。だがその生活があまりにも異様だったのである。
研究熱心なのは誰もが認めるところだ。だがあまりにも熱心であり過ぎた。日がな一日本ばかり読んでいるのだ。講義がないならばそれこそ研究室から出て来ない。彼の書斎は本で埋もれ窓も床も見えない程だ。机の上にも読みかけの本が積み上げられ、彼はそこに座ってやはり本を読んでいる。学生達にもあまり興味がなく、結局は本ばかり読んでいるのである。そんな
彼を人々は書痴だの変人だの陰口を叩いていた。
だが彼はそうした噂も一切気にはしなかった。やはり本ばかり読んで人付き合いもない。当然結婚もない。彼の家もまた本ばかりであり活字ばかりがあった。食べるものや着るものへの金も切り詰めてやはり本を買って読む。それでも彼は一向に平気であったのだ。
夏も冬も本を読む。雨でも雪でも。彼にとっては季節の移り変わりも天気もそんなに気になるものではなかった。気になるのはやはり本のこと、字のことだった。他には最低限の興味しかなかった。
ある秋の日。京都の秋は清々しい。あのうだるような夏が嘘のように過ごし易くなる。もっともすぐに凍えんばかりの冬がやって来るのだがこの時は違っていた。京都の秋はいいものである。
だがやはりと言うべきか小松原教授にはそんなことは関係なかった。その日も研究室で本を読んでいた。今度は何やら難しい漢文の本を読んでいた。
見ればまだ若いというのに髪は真っ白になっていた。顔は若々しいがどうにも健康的なものは感じられない。小さな目はやはり本に向けられている。背は高いが背中を折り曲げている為に一見ではそうは思えない。そんな風貌であった。
読みながらふと腕時計を見る。見ればもう大学を去らなければならない時間だ。
「もうこんな時間か」
彼は誰もいない部屋でこう呟いた。
「早いものだよな、本当に」
一日の時の流れがである。好きなことをしていると本当に時間の流れというものは早い。彼の場合は本を読んでいる場合である。だから今日も時間の流れを早く感じたのであった。本を閉じ家に帰ろうとする。
その際その読みかけの漢文の本に便箋を入れようとした。机を見回す。
「ええと」
見れば丁度いい便箋があった。若い女性が描かれている。袴の女学生だ。
「これはちょっとなあ」
実は教授はこうした格好の女学生に抵抗があるのである。
実は大正時代に流行ったこの袴の女学生というのは最初かなりはしたない格好とされていたのである。袴は男がはくものである女がはくものではないと思われてきたのだ。これは若い娘が外を出歩く際に悪い虫がつかないようにと男の様な格好をさせたからである。なおこの格好は明治帝も不快感を表わされたと言われている。だが後に下田歌子が自身の学園である実践女子高等学校において正式に制服として定められてからようやく受け入れられたのである。ちなみにセーラー服は海軍の服装である。
「まあいいか」
だがそこにある女性の絵自体はよかったので使うことにした。それをページに挟み閉じる。その時だった。
「はじめまして」
急に隣から若い娘の声が聴こえてきた。
「!?」
教授はそれを聞いた時まずは幻聴かと思った。
「気のせいだな」
「あの」
だがそんな彼にまた声をかけてくるのだ。
「御聞きですか」
「聞こえているけれど」
どうやら本当に誰かいるらしい。声がする隣を見た。
「君は誰なんだい?」
「おわかりになられませんか?」
見ればそこには若い女学生がいた。
「君は!?」
「私ですよ」
「私ですよと言われても」
この歳まで独身だったのは伊達ではない。彼にとっては見たこともない若い娘がそこにいたのだ。
「いきなり出て来られても。君は誰なんだい?」
「ちずるといいます」
女学生は名乗った。
「姓は・・・・・・橋野とでもしておきましょうか」
その白く整った顔に笑みを作って言った。見れば目は切れ長で形がよい。唇は赤く小さい。そういえば何処かで見た顔である。
「しておくってじゃあ今までなかったのかい」
「はい」
ちずるは答えた。
「実は名前も」
「何か訳がわからないな」
教授はそれを聞いて首を傾げるしかなかった。
「いきなり僕の隣に来て名前も姓も今作りましたって。おかしいじゃないか」
「おかしいですか?」
「おかしくなかったら何なんだよ。名無しだなんて」
「今本の世界から出て来たばかりですから」
「本の!?」
「はい」
ちずるは悪戯っぽく笑って答えた。
「本の世界から」
「ってここからかい」
「そうですよ」
教授は本棚にこれでもかと並べられた本の山を指差して言う。ちずるはそれに対して笑いながら答えるのである。
「それが何か」
「じゃあ君は人間じゃないのかい」
何かと科学的なものが尊ばれていた時代であったが彼は全てにおいて科学を優先させる男ではなかった。
本を見れば何かと妖怪や幽霊といったものが出て来る。彼はそうしたものを否定しないのである。
「いえ、人間です」
「けれど本の世界から出て来たって」
「教授」
ちずるはまた笑って言った。
「こっちの世界だけが世界じゃないんですよ」
「というと?」
「他にも世界は一杯あるんですよ」
「一杯って」
はじめに聞いただけではどうにもピンと来ない言葉だった。
「今僕がいる世界だけじゃなくて他にも世界があるのか」
「そうですよ」
見ればちずるはやっぱり笑っていた。
「本の世界もそうですし」
「ふむ」
「まあこっちの世界だけってことはないということですよ」
「そうか、面白い話を聞いたよ」
教授は思わず顔をほころばせた。本ばかり読んでいる彼が人との話で顔をほころばせるのはかなり珍しいことであった。
「本の世界のことは」
「こっちの世界には前から来たいって思っていたのですよ」
「前からか」
「けれど。中々来れなくて」
「それはまたどうしてだい?」
「本のせいですよ」
「本の」
「はい」
ちずるは言った。
「実は教授がいつも本を読んでおられるので。私が出られなかったんですよ」
「またおかしなことを言うな」
教授はそれを聞いて目を丸くさせた。
「私が本を読んでいると君が出られない」
「そうなんですよ」
ちずるは頷く。
「試しに本を開いて下さい」
「うん」
言われるまま本を開く。するとちずるは急に姿を消した。
「あれっ」
見ればちずるは何処にもいない。まるで煙の様に消えてしまっていた。
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