モンスターハンター 風の弾弓少女
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中編
森の木々から鳥が一斉に飛び立ち、警戒の鳴き声を上げながら逃げ去る。凄まじい威圧感が空間にのしかかった。黒い飛竜の出現だけで、その場が瞬時に地獄へと変貌したかのようだ。飛竜に利用されたジャギィも混乱の叫びを上げながら逃げ惑う。
ルーヴェンはハンターとなって初めて、明確に恐怖を感じていた。訓練生の身でリオレウス、リオレイアを討伐してきた彼だが、今現れたナルガクルガはそれらと異質の飛竜だった。四足歩行の飛竜は翼が未発達な分、四肢の筋肉はリオレウスとは比べ物にならないほど発達している。縦横無尽に大地を駆け回り、その豪腕で獲物を仕留めるのだ。飛行能力は高所からの滑空ができる程度だが、飛行可能な高度まで自力で跳躍できる筋力を持つ。
だがルーヴェンの恐怖の根源は、そんな教科書で学んだ生態とは別のものだった。今まで対峙してきたモンスターは皆、テリトリーを侵す狩人を撃退すべく戦っていた。あるいは家畜を狙うべく人間の村を襲う者もいた。
このナルガクルガは違う。野生の本能か、それともどこかでルーヴェンたちの接近を感知していたのか。強い敵意と殺意を持ち、自らハンターを、ルーヴェン自身を狩りにきたのだ。まるで自分がモンスターに抱いていた憎悪を、そのまま返されたような恐怖に陥る。
モンスターの気迫に呑まれた。その一瞬の隙がハンターには命取りになる。
ナルガクルガは地を蹴り、空中へ躍り上がった。巨体にも関わらず黒い体が軽く宙を舞い、一瞬視界から消える。ルーヴェンがはっと振り向くと、背後で刃翼が煌めいていた。
「ちっ!」
物怖じした自分の不甲斐なさに舌打ちしつつ、咄嗟に地面を転がる。間一髪で刃翼はルーヴェンの頭を掠めた。被っているヴァイクヘルムを刃が擦り、一瞬澄んだ音が響く。
だがその直後、ナルガクルガの尻尾が大きく振りかぶられるのが見えた。今度は尾による一撃が来る。
かわせないと瞬時に分かった。ルーヴェンは転げたまま右手一本で太刀を振るう。せめて一矢報いようとしての一撃だ。
その刃は確かにナルガクルガの腕に当たった。しかし太刀は重量で押しつぶす大剣とは違い、しっかりと刃筋を立てなくては斬れない。不安定な姿勢からの攻撃は漆黒の体毛に阻まれ、刃は滑ってしまう。ナルガクルガの体毛は鱗が変化したものであり、敵の攻撃を滑らせて受け流す進化なのだ。
そして最大の武器はその体毛でも刃翼でもない。その尾による神速の一撃だということをナライから伝え聞いている。振りかぶられた尾が今まさに、ルーヴェンを狙っていた。
「ルーヴェン!」
ピリカレラが叫び様に鹿角ノ弾弓を射る。棘付きの弾丸がまとめて四つ、同時に射出された。彼女は狙いを一瞬で定めて射たが、それでも弾丸は正確にナルガクルガの頭部に命中した。人間であれば即死する威力だが、飛竜にとっては軽傷である。だが額を撃たれたナルガクルガは僅かにバランスを崩した。尻尾による薙ぎ払いの軌道が逸れ、ルーヴェンは辛くも体勢を立て直し、ナルガクルガの間合いから脱出した。
弾弓の一撃は大した傷ではなくとも、迅竜としては相当不快だったようだ。首をもたげると、漆黒の嘴を大きく開いた。
――ギャオオオォォォゥ!――
耳を劈く咆哮に、空気がビリビリと震える。残っていたジャギィたちが一斉に逃げ散った。思わず耳を塞ぎつつもルーヴェンは、冷静になるべく師の言葉を思い出した。最初に猟場へ行ったときに教え込まれた、狩りの基本を。
『気圧されるな。戦うときはモンスターの目を見ろ。目を合わせられない相手には勝てない』
ルーヴェンは愛刀を構えつつ、息を吐いて心を落ち着ける。そして真っ直ぐに、ナルガクルガの目を見据えた。黄色い目は刺すようにルーヴェンたちを睨み、見ている全てを獲物と捉えているかのようだ。その眼光が目に見えない力を生み、ルーヴェンたちを押しつぶそうとしている。
だが若き狩人たちはの視線は、それに抗った。
「尻尾を斬り落とす! 援護してくれ!」
そう言って、ルーヴェンは鉄刀【神楽】を八相に構えて駆け出す。
「分かった!」
ピリカレラも鹿角ノ弾弓に新たな弾丸を番える。弓には麻痺薬の入った瓶が取りつけられていた。ハンターの使う弓にはこのような薬瓶を装着する機構が備わっている。発射される矢に自動的に薬品が塗付され、効果を発揮するのだ。
ナルガクルガはピリカレラに注意を向け、ぐっと左前足を下げた。ナルガクルガが獲物に襲いかかるとき、進む方向と反対の前足が下がる……その習性をピリカレラは知っていた。
咄嗟に、向かって右側へ身をかわす。その直後、彼女のいた場所を刃翼の一撃が通り過ぎた。その刃には丁字乱れに似た刃紋が浮き上がり木漏れ日を乱反射させ煌めいていた。モンスター同士の抗争、そして狩人との戦いを経て何度も刃こぼれし、そして再生を繰り返す過程でこのような模様ができたのだろう。どんな名刀にも勝る恐るべき凶器だ。
ピリカレラの兄もまた、この刃にかかって散った。
「そこ!」
回避の直後、彼女は弾弓を放つ。見事翼に命中し、麻痺毒の塗られた棘が竜の皮膚に食い込んだ。しかし少量の毒では効果はない。
すかさず次の弾を手にするピリカレラとは反対の方向へ、ルーヴェンが回り込んだ。モンスターと相対したときは決して直線的に動かず、弧を描いて動くようにとアカデミーで教わった。そして相手の動きを見極めつつ間合いを詰める。
ナルガクルガはピリカレラの方に注意を向けていた。飛び道具を持つ人間を警戒しているのだ。その隙に、ルーヴェンはその長い尾を狙う。飛竜を相手にするときは尾を切り落とし、相手のリーチを少しでも短くするのが定石だ。ことにナルガクルガの尻尾には伸縮性があり、見た目以上に間合いが広い。
八相に構えた太刀の切先を後方へ向け、振りかぶる。疾走の後、左脚で踏ん張っての急停止。大木さえ一薙ぎにする長大な尾目がけて、加速を利用し太刀を振り下ろした。
しかし。その一撃は空を切り、刃は虚しくも地面に食い込むだけだった。ナルガクルガが跳躍したのである。
慌ててその動きを目で追うと、迅竜は身を翻し、ルーヴェンの遥か後方へ着地していた。その尻尾が上を向いて回転し始め、シュルシュルと独特の風切り音が聞こえる。尻尾の先端、折り畳まれていた棘状の鱗が逆立ち始めた。
「逃げて!」
ナルガクルガはリオレウスと違いブレスを吐かない。その代わりに別の飛び道具を備えている。ルーヴェンも知識として知ってはいたが、戦った経験のあるピリカレラの叫びでようやくそれを思い出した。
身をかわした瞬間、防具の肩を棘が掠める。遠心力によって射出されたナルガクルガの尾棘が、ルーヴェンの背後の木々に突き刺さった。掠めたヴァイクシリーズの肩にも傷ができている。まともに喰らえば防具を貫通していたかもしれない。
ピリカレラが木々の合間を走りながら弾弓を放つ。彼女の腕は確かだった。ナルガクルガもまた激しく動き回ったが、ピリカレラは的確に頭部へ命中させた。厄介な弓使いに対し、迅竜は威嚇の唸り声を上げて駆け出す。
ルーヴェンはその側面を取ることに成功した。ナルガクルガの意識がピリカレラに向いている今、再び尾を狙うチャンスだった。
しかしルーヴェンが間合いを詰めた瞬間、竜は黄色い瞳を彼の方へ向けた。構わず尻尾目がけて太刀を振りかぶる。
迅竜の体が反転したのはその瞬間だった。ルーヴェンの一撃は紙一重でかわされ、またしても刃は空を切る。そしてナルガクルガは振り向き様、前足を彼の脇腹目がけ突き出していた。
「うッ……!?」
短く、鋭く繰り出された一撃。硬い魚の鱗で作られた防具は飛竜の爪を通しはしなかった。しかしルーヴェンはその衝撃に耐えきれず、地面に倒れ込んでしまう。
――『後の先』を取られた……!?
ナルガクルガは最初からルーヴェンの方を狙っていたのだ。剣を使うハンターはまず自分の尻尾を狙ってくることを知っており、わざと隙を見せて攻撃を誘った。生粋の狩人である飛竜は、獲物を狩る瞬間が最も狩られやすい時であると分かっていたのだ。
予想以上の狡猾さに驚愕しつつも、ルーヴェンは受け身を取って起き上がろうとする。だがナルガクルガは一鳴きして跳躍した。黒い巨体が宙を舞う。長大な尾が鞭の如くしなり、上空からから振り下ろされる。
咄嗟に地面を転げて回避を試みるが、間に合わなかった。地面を這っていた蔦が防具のヒレ飾りに引っかかったのだ。
「……!」
死。恐怖が脳裏にわき起こる。
両腕で顔を庇った途端、全身に強烈な衝撃と痛みを感じた。背中が地面にめり込んだ。
頭が、体が急激に重くなり、意識が次第に薄れ行く。それでもルーヴェンは立ち上がろうとした。だが迅竜の牙が、捕食者の目が、完全に迫っていた。
父の最後が頭をよぎる。緑色がかった獣竜種……背中に備えた槍で父を貫き、そこから撒き散らした酸で村を地獄に変えた、いくら憎んでも憎みきれない仇。憎悪がルーヴェンの力だった。その力が、この狡猾な竜には通用しない。
――こんな所で……!
ナルガクルガが牙を剥いた刹那、横から飛来した何かが竜の鼻面に直撃した。破裂したその球体からは茶色い煙が広がり、迅竜は大きく仰け反る。悪臭が漂った。アカデミーの農場で何度も嗅いだ臭いだ。
ナルガクルガは短く叫び声を上げたかと思うと、すっとルーヴェンの視界から消える。その瞬間、彼の体からふっと力が抜けた。
……意識が闇に落ちて行く中で、ピリカレラが叫んでいるのが聞こえた。
「ルーヴェン訓練生は今頃、ナルガクルガと出会っているかの」
ハンターアカデミーの資料室で、校長は呟いた。アカデミーに保管されている資料は書物だけではない。教官や訓練生が持ち帰ったモンスターの体の一部や剥製、遺跡から発掘された古代の狩猟器具なども数多く展示されており、一種の博物館の様相を呈していた。
最も目を引くのは中央に置かれた、リオレウスとリオレイアの剥製だろう。職人の手によってハンターがつけた傷を修繕され、生きていたころそのままの姿で並んで展示されている。翼や頭部のみならともかく、飛竜を丸ごと剥製にして展示している施設はほとんどないだろう。
無論、これは単なる飾りとして作られたものではない。剥製の周囲には火竜の生態や、狩る際の狙い所について記した説明書きが置かれていた。そして初めてこの資料室を訪れたハンター候補生たちの内、ある者はその威容に後ずさり、またある者は美しさに取り憑かれてその場から動けなくなる。そうやって自分たちがどのような世界へ身を投じて行くのか、自覚するのである。
だが校長とその背後にいる教官・ナライが見つめていた展示物は、それと比べれば遥かに地味で目立たないものだった。大きな瓶の中で薬液に漬けて保存されている、棘状の物体。人の背丈の半分ほどあるそれはモンスターの体の一部だった。滅びたルーヴェンの村から回収されたサンプルで、持ち帰ったのはナライだ。説明文には『未知の獣竜種の体の一部。音に共鳴する性質がある』とのみ記されている。
「今回の試練、私の弟子には荷が重いのでは」
「彼の能力は並のベテランに匹敵する。天才と言っても過言ではない」
心配そうに尋ねるナライに、校長は静かな口調で答えた。好々爺然とした彼だが、その眼差しには若者たちを見守る優しさと、弱肉強食の中で生きるハンターとしての厳しさ、両方が存在していた。多くの若者の成長、巣立ち、そして時には死を見てきたのである。
「だが、竜への憎悪に憑かれておる。憎しみから得た力は自らを蝕むことに気づいておらん」
校長の正しさをナライは認めた。ナライ自身、幾度となくルーヴェンにそのことを説いてきたが、彼に理解させることはできなかった。結局ルーヴェンは竜への憎悪を抱え込んだまま、独り立ちに足るだけの力をつけてしまった。
「儂らが教えてやれる時はすでに過ぎた。彼はより厳しい状況の中で、狩人の本分を見出さねばならぬ」
「ピリカレラという少女の兄も、ナルガクルガとの戦いで死んだそうですが」
「彼女はルーヴェンとは違う。チュプの民の生まれじゃ」
寒い地方に住む少数民族・チュプ族。ナライも彼らのことは知っていた。ハンターギルド創立より前から竜を狩り、その素材を利用してきた狩猟民族である。彼らの教義では竜や獣を精霊の化身と考え、狩りは精霊に己の力を認めさせるための行為として捉えている。精霊に認められれば、その肉や毛皮、鱗や牙を恵みとして得られるのだ。それ故に彼らにとってはモンスターを狩るのは名誉なことであり、狩りでの死もそれに次ぐ名誉とされている。
故にピリカレラが迅竜を追うのは、憎悪からではない。
「彼女と共に恐怖と向き合えば……あの若者も憎しみを超え、迅竜に打ち勝てるかもしれん」
「それができなければ?」
ナライの言葉に、校長は彼を見上げた。厳しさの籠った、小さな瞳で。
「儂らは若者を導くのが仕事じゃ。しかし、彼らを弱肉強食の掟から解き放つことはできん」
真に強い者が生き残る。
それが百年以上若者たちを見守ってきた、老いた竜人の答えだった。
……テントの中で、ルーヴェンは不快な覚醒を味わった。目をしばたたかせ、そこがどこであるのか、自分がどうなったのかを知ろうとする。今寝かされているのは自分たちが設営したベースキャンプのテントであると分かるまで、少しの時間を要した。
防具は体から外され、簡素なベッドの傍らに置かれていた。凄まじい衝撃による凹みが見られる。愛刀もすぐ側に立てかけられていた。インナー姿で寝かされている彼の腹部と腕には包帯が巻かれ、微かに痛みを感じる。漂ってくる独特な薬品の臭いは以前に一回だけ嗅いだことのあるものだ。アイルーの救助隊のみが使える、獣人族秘伝の薬だった。
状況を把握し、嘆息する。彼はナルガクルガの一撃を受け、ピリカレラが呼んだ救助アイルーによってベースキャンプまで搬送されたのだ。
「……くそっ」
小声で悪態を吐きつつ、起き上がる。だがその怒りは竜ではなく、自らの不甲斐なさに向けられたものだった。彼の太刀はナルガクルガに僅かに擦ったのみで、後は完全に手玉に取られたのである。そして死の恐怖が、未だ脳裏に焼き付いていた。まるで今まで竜に抱いていた憎しみが、全て自分に返ってきたかのようだ。
頭を抱えながら体を起こし、テントからゆっくりと歩み出る。川のせせらぎが聞こえた。長期戦に備えて食料の確保も考え、川の側にテントを設営したのだ。空にはすでに月が昇り、星が瞬いている。こんな時間になるまでずっと眠っていたらしい。
月光に照らされ、川辺に立つ少女の後ろ姿が見えた。小振りな釣り竿を後方へ掲げ、鋭い振りでルアーを放つ。虫を模した疑似餌は本物の昆虫のようにふわふわと宙を舞い、水面へと落ちていく。
疑似餌が水に着く瞬間、魚が飛び出した。誘われるがままに食いついた魚は針にかかり、ピリカレラが竿を上げると空中へすっと釣り上げられた。だがすぐに針から外れ、川へ落下した。わざと逃がしたのだとルーヴェンには分かった。彼もたまに釣りをやるが、まだ小さい魚は逃がすようにしている。ピリカレラは手首の捻りで巧みに竿を操り、針を外したのだ。
再び疑似餌が水面付近を舞い、誘われた魚が食らいつく。鮮やかに釣り上げられ、鱗が月光に輝いた。今度は大型だ。僅かな手首の動きで、振り子のようにピリカレラへと接近し、そこで針が外れる。魚は吸い込まれるように、彼女の腰につけられた魚籠へと収まった。
ルーヴェンの視界の中で、竿を操るピリカレラの姿は時折景色に溶け込んでしまう。彼女の纏っている桔梗シリーズは決して地味な防具ではないが、それでも自然の中に飲まれるかのように、存在感が希薄になっている。魚からはただの木や石のような自然物に見えているかもしれない。初めてナライと共に狩りに行ったときも、このような光景を見たことがある。すぐ目の前にいるはずの師の姿を、ルーヴェンは一瞬見失ってしまったのだ。
ピリカレラも師と同様、我が身を自然の一部とする技術を身につけている。天才と呼ばれるルーヴェンが、未だに真似できない技術を。
数匹の魚を釣り上げ、ピリカレラは魚籠を一瞥して身を翻した。ルーヴェンと目が合う。
「あ……大丈夫?」
「……平気さ」
足早に駆け寄ってくる彼女に、ルーヴェンは静かに応じる。
「ナルガクルガはどうなった?」
「こやし玉で追い払った。追うのは明日にした方がいいわ」
モンスターの糞を利用したこやし玉は、刺激臭でモンスターを追い払うための道具だ。嗅覚が鋭い種類も鈍い種類も、大抵のモンスターは体に異臭がつくのを嫌う。天敵に見つかりやすくなるし、例え自分が住処の生態系の頂点にあっても、強い臭いを纏っていては狩りの成功率が大きく落ちてしまうのだ。故にこれを投げつけられたモンスターは狩人との戦いを一時放棄し、身を清めに向かうのである。
ピリカレラの機転によって、ルーヴェンは命拾いする形になった。彼女に助力するはずが、足を引っ張る形となってしまったのだ。
「すまない。俺のせいで……」
「ううん。貴方が無事でよかった」
テントの前にある平たい岩に、先ほど釣った魚を置く。ハンターたちからはサシミウオと呼ばれる、生で食べられる種類だ。岩の上で跳ね回る魚を押さえつけ、ピリカレラは小刀の一撃でとどめを刺す。
「……でも、ルーヴェンは何と戦っていたの?」
「え?」
意味の分かりかねる発言だった。ルーヴェンはナルガクルガと戦い、彼女もそこにいた。返答に窮するルーヴェンの前で、ピリカレラは小刀で魚を切り刻み始めた。トントンとリズミカルに音を立てながら。
「まるで、目の前にはいない『何か』を斬ろうとしているみたいだったけど」
ルーヴェンは目を見開いた。彼女の言葉が胸に突き刺さる。
ピリカレラの言う通りだった。ルーヴェンを突き動かしているのは憎悪……家族を奪った謎の竜への怒り。例え相手がリオレウスであろうと、ナルガクルガであろうと、彼の敵はその先にいた。半ば無自覚ではあったが、常に『あの竜』がルーヴェンの相手だったのだ。
この弓使いの少女は、そんなルーヴェンの感情を見抜いていた。彼女の問いに答えることができず、ルーヴェンは沈黙する。静寂の中に魚を刻む音だけが響いた。大きさを揃えて切り分けたり三枚に下ろしたりするのではなく、骨諸共切り刻んだ。竜車の中で食べていた魚肉団子を作っているのだ。
しばらくしてピリカレラは手を止め、ルーヴェンに小刀を差し出した。
「交替して」
「……ああ」
小刀を受け取り、ルーヴェンはすでに原型のなくなった魚をさらに刻む。ふと、戦いが始める前に聞きそびれたことを思い出す。彼女の戦う理由。兄の仇を憎んでいないのに、何故追うのか。何故憎まないでいられるのか。
「私たちにとって、竜は精霊の化身なの」
先にピリカレラが沈黙を破った。ルーヴェンの気持ちを察したかのように。
「でも人の血肉を食べた竜は汚れた精霊となって、その後も人間を食べようとする」
「つまり、あのナルガクルガは……」
ピリカレラはこくりと頷いた。ルーヴェンは合点が行った。あのナルガクルガの纏う、得体の知れない恐怖の正体。あくまでもあの迅竜は捕食者として、ハンターを獲物として狙っていたのだ。人肉の味を忘れられず、ピリカレラが「汚れ」と表現した狂気をはらんで狩人を狩ろうとしていた。そしてルーヴェンはその狂気に飲まれかけた。
「よほど飢えていたんだと思う。でも汚れた精霊は精霊の国へ帰れなくなって、この世で苦しみ、狂い、地獄へ堕ちる」
顔を上げ、少女は月を見た。今夜は満月で、黄金色に輝いている。あのナルガクルガも同じ月を見ていることだろう。だが汚れた迅竜の心が、この優しい月光で癒されることはない。
「だから人間の手で、精霊の国へ送り返すの。兄さんが失敗したから、私がその役目を引き継ぐ。チュプの狩人は昔からそうやってきたわ」
彼女の瞳には一点の曇りもなかった。澄んだ黒い瞳には憎しみは宿っていない。ただ強い意志があるのみ。
ルーヴェンはその瞳を直視できなかった。自分はきっと、こんな奇麗な目をしていないのだろうと。
「ルーヴェン」
俯く彼の顔を覗き込み、ピリカレラは語りかける。
「気をつけて。汚れた精霊は人間にも取り憑くわ」
「そう……かもな……」
そう答えるのが精一杯だった。ひたすら魚を刻むことに没頭しながらも、ルーヴェンの胸にはピリカレラの言葉が深く食い込んでいた。
自分の狩人への道は憎悪の道、復仇の道。教官たちに諭されても、今までそれを変えられなかった。
だが、このピリカレラという少女を見ていると、彼はそんな自分が無性に情けなく思えてきたのだ……
後書き
お待たせしました……と言っても待っていてくださった方がどのくらいいるかは分かりませんが。
今回から本格的に狩猟シーンです。
何か不自然な点などがありましたらご指摘いただけると幸いです。
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