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ラミア

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1部分:第一章


第一章

                    ラミア
 言い伝えの時代のことだ。ギリシアから遠く離れたサハラの砂漠で。
 そこを彷徨うのは一人の若者だった。名をホメロスという。今はまだ世に知られてはいない詩人である。巻き毛の金髪に白い肌と黒い目を持っている。端整というよりは少女を思わせるその顔立ちからは優しげなものが伝わる。そうした感じの知的な印象を与える若者であった。
 その彼が砂漠の中を進んでいた。太陽の日差しが強く砂の海が何処までも続いている。その中を一人黙々と進んでいた。
 だがやがて。彼はふと立ち止まり周囲を見回した。
「確かこの辺りだったか」
 ギリシアの言葉で呟く。ここではほぼ誰も知りはしない言葉を。
「話には聞いているが。むっ」
 やがて近くにあるものを見つけた。それは泉であった。かなり大きな泉であり周りには果樹の木々まである。砂漠の中では救いの神にも等しい水がそこにあった。
 だが彼はそれを見てもまずは静かなものだった。驚きも心配もしない顔であった。
「一応は近付いてみるか」
 まずはこうすることに決めた。それから歩いていく。
 そうして少しずつ近付いて。辿り着いた時にようやく微笑んだ。
「よし、本物だったな」
 蜃気楼ではないかと疑ったのだ。砂漠ではよくあることだ。彼自身これまで砂漠を進んで多くの蜃気楼を見てきた。だから彼なりに慎重になっていたのである。
 だが蜃気楼ではなく本物とわかり。彼はまずは服を脱ぎ捨て泉の中に飛び込んだ。それから水を好きなだけ飲み身体も髪も洗った。それまで汗と渇きに悩まされていた身体も心も一気に潤っていく。その潤いを堪能した後でようやく泉を出てそれから果樹を口にする。暫く心も腹も満たして木陰に入って木にもたれかかって休んだ。そのまま暫く寝た。
 暫くして目が覚める。すると泉の中に一人の美女がいた。
「女か」
 白く奇麗な裸身を泉の中に浸している。黒く長い髪がそこに浮かんでいる。ギリシアのものであるその顔はまるで女神の様に整い気品のある美貌を見せている。ホメロスは一目見ただけで彼女のその美しさに心を奪われてしまった。見惚れている彼に向こうも気付いたのはすぐであった。
「どなたですか」
「あっ」
 思わず見惚れてしまっていたことにここで自分でも気付いた。
「申し訳ありません。私は」
「どなたですか?」
 しかし美女は彼を咎めることはせず胸をその両手で隠したうえで穏やかに笑って彼に声をかけてきた。黒髪がその白い裸身を覆って隠している。
「どちらから来られたのですか?」
「ギリシアからです」
 ホメロスは正直に答えた。彼とても誇りがあり嘘をつくことはしなかったのだ。詩人としての誇りであった。
「そうですか。ギリシアからですか」
「はい。詩を求めてこちらに来ました」
「詩を求めて?」
「そうです。私は詩人なのです」
 そのことも正直に述べた。自分を隠すことはここではしなかった。
「ですから。詩を求め各地を旅しているのです」
「そうだったのですか」
「そして遠くこの地を旅しているうちにこの泉に辿り着き」
 そのことも述べる。
「そしてここで休んでいたのです」
「そうだったのですか」
 美女はそれを聞いて泉の中で静かに微笑んだ。水面にもその静かで美しい、水連を思わせる微笑みが映し出されている。それはホメロスにもしっかりと見えていた。
「それでこちらに」
「言い訳になりますが貴女がここにおられるなどとは」
「それはわかっています」
 穏やかな笑顔をそのままにホメロスに答えてきた。
「ですから。それは御安心下さい」
「有り難うございます」
「ただ」
 だがここで美女はホメロスに対して言ってきた。
「何でしょうか」
「少し。時間を下さるでしょうか」
 こう彼に告げてきたのである。
「時間をですか」
「はい。宜しいでしょうか」
「私としましては別に」
 ホメロスはいささか謙遜した調子で答えたのだった。
「むしろこちらこそ」
「はい。それではですね」
 美女はその言葉を受けてその整った顔に微笑みを浮かべさせた。それからまた述べたのであった。
「後ろを。向いていて下さい」
「はい」
 身体を拭き服を着るのだ。すぐにわかることであった。ホメロスは決して無体な男ではない。だからこそ彼女に対して礼儀正しく振舞っているのである。この辺りはギリシャによくいる英雄達とはいささか趣きが異なっていた。彼等の多くは異性、同性に対してお世辞にも礼儀正しいと言える人物が少ないからだ。
 しかし彼は違った。そういうことだ。だからここでも紳士的に振る舞い彼女に背を向けた。これが彼の気遣いであった。
「有り難うございます」
「御気になさらずに」
「ええ。それでは」
 ホメロスは後ろを向いた。そうして暫く、向こうから声がかかるまで待つつもりだった。しかし。ここで妙なことを感じたのであった。
 中々その声がかからないのだ。不自然なことに。そのかわりに背中から妙な気配を感じ取っていた。ねっとりとしてそれでいてはっきりとした感触だった。悪意と殺意。それは今まで彼がここでは全く感じたことのないものであった。それを感じたがそれでも振り向くことはなかった。
 これは美女との約束であった。だから彼は何時までも振り向かなかった。本音を言えば振り向きたかった。後ろから感じる気配がただならぬものであったからだ。どうしても振り向きたかったがそれでも振り向かなかった。あくまで美女との約束を守ることにしたのである。
 だが中々声はかからない。何時の間にか太陽は落ち夕刻になった。赤い世界になったがそれも終わろうとしている。その間もずっとねっとりとしたまとわりつくような殺意と敵意は絶えることがなかったがそれを感じていても振り向くことはなかった。何としても約束を守り我慢していたのだ。
 
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