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すり

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1部分:第一章


第一章

                          すり
 おみよは表向きの仕事は洗濯屋である。江戸で洗濯女なぞ幾らでもいる。
 しかし岡引の三次はだ。いつもおみよにこう言うのだった。
「おめえまたやっただろ」
「やったって何がだい?」
 見れば切れ長の垂れ目に左目の付け根に泣きぼくろのあるあだっぽい女だ。黒髪を奇麗に結っていて柳の様な腰が妙に艶かしい。一見すると夜鷹にも見える。
 しかしその彼女にだ。三次は鋭い目で言うのだった。
「だからだよ。すっただろ」
「おやおや、旦那もおかしなことを言うね」
 自分と然程歳の変わらない大柄で四角い顔の三次にだ。おみよは悪びれず返す。
「証拠はあるのかい?」
「証拠か」
「そうだよ。あたしがやったっていうのね」
 そのあだっぽい顔で悪びれずにだ。おみよは返すのだった。
「あったらいいけれどそれはどうなんだい?」
「へっ、相変わらず達者なのは手だけじゃねえな」
 三次はそんなおみよに苦い顔になって言う。口の中も実に苦くなった。
「全くな。証拠はねえよ」
「ほらみなよ。濡れ衣じゃないか」
「けれど実際にやってるだろ」
 そのおみよにだ。三次は反撃に出た。
「おめえはよ。どうなんだよ」
「さてね。それはどうかね」
「すりは重い罪だぜ」
 三次は顔をぐい、と前にやっておみよを見据えてだ。こう言った。
「下手をすれば獄門だ。それでもいいのかよ」
「だからやってないって言ってるだろ」
「あくまでしらを切るのか。捕まらないっていうんだな」
「捕まる?あたしはそんな野暮な奴じゃないよ」
 おみよは今度は暗に認めてきた。しかし三次の言う通り証拠はない。だからだ。
 平然として悪びれずだ。こう言うのだった。
「そんな捕まるなんてね」
「ねえっていうんだな」
「そうだよ。生憎だね」
「まあ獄門はなくても島流しだ」
 三次はそんなおみよに警告を続ける。彼にしても鬼ではない。
「いい加減足を洗え。いや、手をな」
「まだ言うのかい」
「何度でも言うさ。いいな、手を洗え」
「洗濯でいつも手は洗ってるよ」
「そんなことじゃねえ。本当にどうなっても知らなねえぞ」
「ならないさ。生憎ね」
「本当に口の減らねえ女だな」
 いい加減苛立ちを覚えてだ。三字は目を怒らせた。
「俺や他の岡引の目は誤魔化せてもお天道様は誤魔化せねえからな」
「やれやれ。今度は神様頼みかい?生憎あたしは神様なんて信じちゃいないんだよ」
 では何を信じているかというと。おみよは笑って三次に言った。
「韋駄天様だよ。仏様だよ」
「おめえそれは泥棒じゃねえか」
 韋駄天は泥棒も司る。まさにそれだった。
「何処まで悪びれねえ奴なんだ」
「そうでもないと江戸で女一人で生きていけないよ」
「真面目に生きても何とでもなるだろ」
「どうだからね。とにかくあたしは何もしちゃいないよ」
 見つかる様なことはだとだ。おみよは平然と言ってだ。
 そのうえで三次の前から去り人ごみの中に消える。三次はそんなおみよを忌々しく見るだけだった。
 おみよはすりを続けた。その腕は凄くすられた方は気付かない。しかもだ。
 すったらその中にあるものを幾らか抜いて相手に戻す。だから証拠もなかった。おみよはまさにすりの天才だった。
 それでこの日も小遣いを稼いでいた。しかしだ。
 またすったその後でだ。不意に己の手を見てだ。その異変に気付いたのだった。
「?何だいこれは」
 見れば手に黒い斑点をある。それを見てまずはこう思った。
「瘡毒かい?違うね」
 吉原にある病だ。花魁や客がかかり鼻が落ちて死ぬ。
 最初はそれかと思った。しかしだ。
 すぐに違うと思った。色が違うからだ」
「瘡毒は赤かったね」
 赤、若しくは紫だ。しかしそれは黒かった。それでだ。今度はこう思ったのである。
「黒子かい?けれど急にはできないよね」
 だからだ。それも違うと思った。しかし何かはわからない。
 考えてもわからないのでそれでだ。今はだった。
 
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