蜃気楼
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3部分:第三章
第三章
宴が一段落ついてから。店の親父は上機嫌で彼に声をかけるのであった。
「それではですね」
「うむ」
「お勘定を」
「ないぞ」
ところが彼の返事はこうであった。
「えっ、今何と」
「だからないのじゃ」
彼は平然としてこう答えるのであった。
「銀も金も何も持っておらんぞ」
「あの、それではですね」
彼のその言葉と平然とした様子に唖然としながらまた問うのであった。
「どうして支払って頂けるのでしょうか」
「だからじゃ。筆と硯があるな」
「はい」
さっき出させて用意してあるものだ。それは彼もわかっている。何故なら今目の前にその墨と硯がちゃんと置かれているからである。
「これを使うのじゃ」
「絵でも描かれるのですか?」
「絵もいいがわしは違う」
彼は酒で真っ赤になった顔で機嫌よく答えてきた。
「詩を書かせてもらおう」
「詩をですか」
「そうじゃ。楽しませてもらったし」
話しながら早速筆と硯を手に取った。それから店の壁に詩を書きはじめたのである。
まるで流れるように書いていく。忽ちのうちに一作出来上がる。彼は書き終えたところで号もちゃんと書いた。それを見て客の一人が思わず声をあげた。
「おい、水蓮っていえば」
「知っているのかよ」
「都にいた李白じゃないのか?」
彼はそう言うのであった。
「あの有名な」
「えっ、李白!?」
「まさか」
他の客達も李白と聞いて思わず声をあげた。李白と言えばこの唐において屈指の詩人の一人だ。酒と侠を愛し流れるままに生きている。仙人にも例えられている人物なのだ。最早伝説であると言っていい。その彼が目の前で今詩を書いているとなれば驚かずにはいられなかった。
「隠してはおらんぞ」
一作書き終えたところで本人から返事が来た。
「別にな」
「それではやはり」
「貴方は」
「如何にもじゃ」
本人からそれを認めてきた。
「わしがその李白じゃ。ここの風景がいいと聞いたので来たのじゃがな」
「そうだったのですか」
「ではやっぱり」
「同時に料理と酒のことも聞いておった」
それもちゃんと聞いているのであった。
「かなり美味いとな。それも楽しみで来たのじゃがこれが中々」
「有り難うございます」
店の親父は今の彼の言葉ににこりと笑って答えた。
「そう言って頂けると何よりです」
「いやいや、こちらもかなり楽しませてもらった」
筆を手にしたまま笑顔でいる。
「それでじゃ」
「はい」
「よかったらもう一つか二つ書いておくが」
「まだ書かれるのですか」
これは親父にとっては予想外のことだった。李白が来て店に詩を書いていくだけでも信じられないというのにまだ書くとは。夢でも見ているのではないかと自分で思うのだった。
「何、幾らでも書けるぞ」
李白の返事はここでも平然としたものであった。
「わしはそれこそ酒があればな」
「そうなのですか」
「わしの詩が書かれているとあればよい宣伝になるじゃろ」
それが彼の言葉であった。
「それを代金にしておいてもよいな」
「ええ、どうぞ」
親父としても下手に金を払ってもらうよりもそちらの方がずっと価値のあるものだ。断わる筈もなかった。
「では。あと二つ書いておくぞ」
「はい」
こうして李白は酒と燕の代金に詩を三つ書いておいたのであった。それが終わってからゆうるりと店を出る。その彼に客達が声をかけた。
「あの、李白さん」
「何じゃ?」
まだ酒に酔った赤い顔でその客達に応えるのだった。
「そっち言ったら危ないですよ」
「そうですよ」
「朱雀橋の方がか」
李白は客達の言葉にこう言葉を返した。
「わかってるじゃないですか」
「じゃあ余計に」
「それじゃ」
しかし彼はここで言うのだった。
「だからこそ行くのじゃよ」
「だからって」
「まさかそれは」
「左様、そのまさか」
声はにこりとしたものだが同時に強いものになった。
「蜃気楼のことは聞いておるのじゃ。それを解決してみせよう」
「全部御存知なのですか」
「しかしあれは」
「あれがどうして出るのかはわかっておる」
李白はもうそれを知っているようであった。だからこそ落ち着いているようである。
「だから安心しておれ」
「退治できるのですね」
「退治というかな」
だがここで李白は少し考える顔になるのだった。
「上に昇ってもらうのじゃ」
「上にですか」
「何ならついてきてもよいぞ」
周りにいる客達にまた声をかけた。
「滅多に見られないものが見られるからのう」
「滅多にって」
「どうする?」
客達は李白の言葉を聞いて顔を見合わせる。そうして彼等だけで話に入るのだった。
「いいんじゃないのか?」
「そうだよな」
とりあえず行くことで話が決まった。
「何か危険でもないようだし」
「それなら」
「さて」
李白は彼等を引き連れて橋に向かう。そこでまた言うのだった。
「既にものは揃っておる」
「ものですか」
「これじゃ」
彼は客達の前にあるものを出してきた。見ればそれは店から持って来た筆と硯である。
「これさえあればいいのじゃ」
「妖かしの相手でもですか」
「何、一向に構わん」
また平気な顔で一同に告げる。
「わしはこれで何でもできるからな」
「何でもですか」
「確かに剣も使える」
これは本当のことである。李白は侠を愛しており若き日は武芸を愛していた。それで喧嘩をしてその相手を斬り殺したこともある。だから彼は剣にはそれなりの自信があるのだ。
「しかしわしはやはりこれじゃ」
「詩ですか」
「まあ見ておれ」
また言う。
「これですぐに解決しようぞ」
「そこまで仰るのなら」
「御願いします」
客達も彼がそこまで言うのなら反論はなかった。李白は一人で橋に向かうが客達は彼を見に行った。そこには店の親父もいた。店を女房に任せて見物に出たのである。
彼が橋のところまで来るとすぐに蜃気楼が出て来た。赤と金で彩られた豪奢な楼閣の中で美しい芸妓や着飾った貴人達が酒や馳走を楽しんでいた。人々はそれを見てやはりといった様子で顔を顰めるのだった。
「やはり出て来たか」
「あの幻が」
「ふむ、やはりな」
皆は怪訝な顔をしていたが李白だけは違っていた。その幻を見ても相変わらず平然とした様子であった。
「これは間違いない」
「では李白様」
「どうされるのですか?」
「それはもう決まっておる」
彼等の声にはこれまで通りの返事であった。そうして橋の中央まで来るとまずは懐から紙を取り出しそこに筆で書きはじめた。見ればそれは詩であった。
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