野原で
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5部分:第五章
第五章
「ただ。今は耐えるのじゃ」
「耐えるのですか」
「そうじゃ。それしかなかろう」
彼の言葉は達観しそれと共に諦めを含んだものになっていた。
「ただな」
「ただ?」
「何でしょうか、今度は」
「耐えていればいいこともあるじゃろう」
不意に二人にこんなことを言ってきたのだった。
「耐えればな」
「耐えれば、ですか」
「耐えられればともいうがのう」
こうも言うのであった。
「それでいいこともあるぞ」
「そうでしょうか」
「今辛いのはわかる」
飢饉が辛くなくて何が辛いというのか。世の中において最も辛いことは空腹と餓えであるとされている。ならばまさに今がそれであった。
「しかしじゃ。それでも」
「生きていればですか」
「戦の世も終わっておるな」
「はい、それは」
「その通りです」
これはその通りだ。戦の世なぞ二人は全く知らない。話には聞いているがそれはもう百五十年以上も、それこそ誰も覚えていないような話でしかない。
「飢饉も。終わるものじゃよ」
信義はこの言葉を繰り返すのだった。
「何時か絶対な」
「はあ」
「では。今は」
「まだ食べるものがあればじゃ」
「それを食べてですか」
「生き続けていけと」
「うむ。それしかない」
選択肢はないと。こうも言うのであった。
「それしかな」
「そう言われましたらおら達も」
「そうしますだ」
「しかし。まことに人の世はわからんものじゃ」
ここでは話を変えてきた。
「戦が終わってそれで終わりではないのだからな」
「それはそうですね」
「戦がなくても。まだ辛いことがあります」
「何度も言うがわしの生きておった頃にも飢饉はあったのじゃ」
このこともまた再び言うのであった。
「それでもここまではなかったからのう。戦がない世の中が一番幸せかというとそうでもないものじゃ。このことは生きておる間は全くわからんかったわ」
「左様ですか」
「しかしじゃ。それがわかった」
言葉がしみじみとしたものになっていた。
「これでな。ところでじゃ」
「はい?」
「今度は何でしょうか」
「わしをこのまま埋めてくれ」
今度はこう言ったのだった。
「土の中にな」
「土の中にですか」
「このまま」
「うむ、そうじゃ」
彼は静かな声でまた二人に告げた。
「そうしてくれれば成仏するからな。わしもいい加減野原でいるのは厭きたわい」
「そうですね。それでは」
「これでお別れですね」
「達者でな」
信義の声は今度は温かいものになった。
「ただ。わしの言葉を忘れないでくれよ」
「辛いことは何時か終わるということですか」
「それですか」
「うむ。それでな」
その声がここでさらに温かいものになった。
「達者でな」
こうして二人は信義に土をかけそれで埋めたのだった。それで信義は成仏したのだった。ささやかだがそれでも彼を供養し終えた二人はゆっくりと立ち上がった。そしてそのうえで顔を見合わせて言葉を交えさせたのであった。
「世の中わからないものだべな」
「そうだべな」
まずはこう言い合った。
「戦がなくても辛いことがあって」
「こんな飢饉があって」
「そうだべ。辛いことはあるだ」
またこのことを話した。
「それでも。辛いことは終わって」
「んだ」
二人で信義の言葉を反芻もした。
「そだな。我慢してればそれが終わって」
「生きていけばいいって」
「じゃあ。そうすっか」
唐兵衛はおゆりに対して言った。
「今どんだけ辛くてもな」
「諦めないで」
「できれば弱音も吐かないで」
「それは難しいけんどもな」
今のおゆりの言葉には少し苦笑いになったおゆりだった。
「んだども。頑張ってな」
「やってくだ。我慢して」
「そうすっか」
「わかったら。戻るだ」
唐兵衛の声はこれまでより僅かだが明るくなってきていた。
「そして。まずは寝て」
「明日食べ物を手に入れて」
「まずは明日を生きるだべ」
「そうだべな」
二人の言葉は互いの心に入るだけではなかった。それぞれの心にも入っていた。そうしてそれが自乗されて絡み合い深くなっていって。それが心を覆っていくのだった。
二人はその心を確かめ合いつつ立ち上がってそのまま家に帰った。そうしてまずはゆっくりと寝てそれから次の日を生きた。暫くそうして生きているうちに飢饉は終わり彼等は何とか生き延びることができた。天明の飢饉の中であった小さな、だが確かな話である。
野原で 完
2009・1・4
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