乱世の確率事象改変
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彼女の為に、彼の為に
黒の衣服に黒髪黒目。すらりと長い手足と高い身長。瞳の色には陰り無く、ずっと求めていた彼の姿がそこにあった。
されども違う。彼とは違う。だって彼なら……苦笑して、可笑しそうに笑うはずだ。
もしかしたら戻っているかもしれない……僅かにあったそんな希望は、苦しそうに胸を抑えたこの人によって直ぐに消え失せた。
期待してはならなかったのだ。だって彼なら、誰かに無理やり連れられそうになっても、自分の怪我も放っておいて此処に来るはずなのだ。
詠さんや月ちゃん、そして徐晃隊の皆を忘れていたこと、全てを責めて……生死のハザマのようなこの場所に、黄巾の終わりの時のように真っ先に来るはずなのだ。
記憶の喪失という弱さを責めても耐えられたのなら、心に自責の鎖を新たに掛ける為に、人を殺して死なせてきた戦場がよく見える此処に来る……優しくて弱い彼なら、必ずそうする。
これで確信出来た。詠さんは今のこの人が“彼”と同じだと言っていたけれど……やっぱり違う。
あなたは、黒麒麟にはなれません。
だから私はこう紡ごう。今のあなたは……私が愛した“彼”ではないのだから。
「お久しぶりです……“徐晃さん”」
でも、幸せになって欲しいから、私は自然に、笑みを浮かべられた。
静寂に風が一陣流れ行く。彼の背を暖かく照らす橙色の夕日が美しかった。
私を見つめる彼の瞳は自責と後悔に彩られ、何かを話そうと口を開くも声が紡がれなかった。
出会う前から優しかったこの人は、こんな私に対して罪悪感を覚えているんだろう。
どうしようもなく優しい人。私があの時、目の前で泣いてしまったから、この人は自分を責めている。
戻りたいと願って、戻れないことに苦悩して、そうしてまた誰かの為に戦うことを選んでしまった。
……私のせいだ。
さっき詠さんが言っていた。
『あのバカは雛里の為に戻ろうとしてる』
『自分はいらない存在だからって……ずっと苦しんでる』
『それでも笑って笑って、道化師みたいに笑い続けて……意地張ってばっかりなのよ。秋斗と、同じように……』
この人は“彼”とは違うけれど、根本的なところは変わらない。そうなる事を考えていなかった私のせいで、今のこの人すら苦しめてしまった。
自分がいらないなんて……そんなこと言わないで欲しい。
辛い記憶も、悲しい思い出も、縛り付ける自責の鎖も、何もなくなったあなたは自由に生きていいのに。
私なんかに縛り付けられないで、もっともっと沢山の人を幸せにして、自分も幸せになっていいのに。
どうしてあなたはいつも、誰かの為にしか戦えないんですか……。
聡いこの人は、きっと私の思惑に気付いている。黒麒麟に戻したくない事に気付いている。
私の願いを無視してでも、この人は私の幸せを考えている。
――でも、そんなあなただから、私はもう、戻って苦しんで欲しくないんです。
記憶を失っても変わらない在り方が、私の心を歓喜で満たす。ビシリ、と胸が痛んだ。
――私はそんな優しいあなたが……
漸く落ち着いたのか、彼は瞼を閉じ、大きなため息を吐いて、小さく自嘲の苦笑を零した。
その仕草にまた、ズキリ、と胸が痛んだ。表情を動かさないで痛みに耐えた。
心に張った殻が破れてしまいそう。目の前にこの人がいるだけで……こんなに違う。心から溢れ出るのはどうしようもなく抑えがたい感情の渦。瞼から溢れて流れ落ちそうになる。
一挙手一投足が記憶と同じで。
やっぱり誰も憎めない優しくて温かい人。
あなたに会えて嬉しい。
抱きついていいですか。
気持ちを伝えてもいいですか。
沢山お話がしたいです。
子供っぽい笑顔が見たいです。
頭を撫でて欲しいです。
また温もりに埋もれて眠りたいです。
さみしかった。
辛かった。
悲しかった。
会いたかった。
好きです。
大好きです。
愛しています。
もう、泣いても……いいですか。
それでも、と思う。
――でもこの人は私の知ってる“秋斗さん”じゃない。
溢れそうになる想いを止める事には慣れていた。彼には一筋も見せてはならない。気付いたら余計に私の為を考えるだろうから。
どうにか押さえこめた。どうにか涙は出なかった。これで……大丈夫。
しかし、私の予想に反して、彼が向けてくれる微笑みは暖か過ぎた。
「……久しぶり、“鳳統ちゃん”」
言葉が紡がれた瞬間、引き裂かれそうな痛みが胸に走った。
同じ笑みを浮かべてくれる彼の口から、彼の声で、私の真名を呼んでもらえない。それがこんなにも……苦しい。
甘かったかもしれない。甘かったんだろう。一寸だけ、頭が真っ白になった。
誤魔化す為に振り向いた。彼から視線を外し、また外を見やる。
息が乱れていないだろうか。瞳が潤んでないだろうか。このうるさく響く鼓動が、聞こえていないだろうか。
思わず手摺りに手を伸ばして握りしめた。誤魔化す為に。耐える為に。
――何かを話さないと。何を話す? 私は何を話そうとしていた?
衣擦れの音が小さく薄く、耳を擽るように鳴った。
後ろで彼の気配が離れていく。私に近づいてくることはしないらしい。
寂しい気持ちが湧いてきた。こんなに近くに居るのに……こんなに“遠い”。心の距離が、遠すぎる。あんなに近付けたあなたと私の距離は、手を伸ばせば届く距離でも届くことは無い。
話そうと思っていたことを思い出せない。彼が傍にいるだけで思考が乱れて纏まらない。
ダメだ。我慢しないと。振り向いたらダメ。今振り向いたら……
「綺麗な夕空だなぁ……」
のんびりと紡がれた声。彼は遠くの夕日を眺めているようだ。
戦場とは真逆の場所を眺めて、何を想ってるんだろうか。
ふっと懐かしい記憶が頭を掠めた。
城壁の上、たった一人で自分が散らせた命を確認していた大きいけど小さな背中。曖昧で朧げな夕暮れの世界に溶けて消えてしまいそうな彼。
思い出して不安が胸を襲う。
ゆっくりと、私は抑えられなくて振り向いてしまった。
大きくて、でも小さく見える背中が印象的だった。胸が締め付けられる。
一歩踏み出した。二歩目で、脚が止まった。止められた。
ダメだ。ダメなんだ。これ以上は……。
無理やり振り向いて、また藍色の空を眺める。少しだけぼやけて見えた。それでも、彼と見上げた時と変わらない綺麗な空。
「夕暮れの空は綺麗過ぎて……寂しくなります」
どうにか紡いだ声は震えていなかった。言葉に乗せるのは“彼”への想い。
短い時間しか現れない藍と橙の空。儚く闇に溶けてしまう空は、何処か彼と同じだと思える。
空のような人になりたい、と彼は言っていた。乱世でしか生きられなかった彼は……きっと日輪にも真月にもなれなくて、宵や黎明が切り取った一重の瞬刻に現れる藍橙の空。
「……直ぐに消えちまうもんなぁ」
「……はい」
今の彼には、そんな人になって欲しくない。日輪が弱った時、代わりに世を照らす真月に……月ちゃんとあなたの二人ならなれる。あなたも月ちゃんも、もう華琳様と同じです。だから、全てを包み込む空にはならなくていい。
幾分の沈黙。どちらも背を向けたままで言葉を発さず、濃くなる藍に染められていく。
聞いておかないとダメなことがある。言っておかないとダメな事がある。話そうと思っていた事柄を思い出した。
「一つ質問をよろしいでしょうか?」
「……なんなりと」
緩い声は彼のモノ。冷たさの見当たらない、普段通りだった彼のモノ。違うはずなのに同じだから、また私の胸が痛んだ。
「あなたは……どうして其処までして戦うんですか? 救える可能性は低く、自分の命さえ散らしてしまうと分かっていたはずです。結果を見れば確かにあなたは生きていますが……一歩間違えばどうなっていたことか……分からないあなたではないはずです」
まるで洛陽の焼き増し。私が止めても利を優先して行ってしまったあの時と……同じ。否、もっと酷い。
光の差さない暗闇の中で欲しいモノを探すように、彼は一分にも満たない可能性に賭けたのだ。
それがどれだけ異常な事か、分からない彼でもないはず。
私の為に、戻る為に黒麒麟の真似事を? 違う、それだけじゃない。間違いなくその程度の事だけじゃない。この人は……一つの目的だけではなく、他にも欲しい結果を求めて動く人なのだから。
「……まあ、ちょっとばかり無茶したよなぁ。皆にも怒られたし」
あっけらかんと言い放つ彼。これは質問に答える気がない時の話し方。誤魔化し、曖昧、ぼかしは彼の常套手段だ。
悲しくて泣きそうになった。ぎゅうと手すりを握った手が震える。
「質問の答えとしては、俺がそうしたいから……かな」
「答えになってません」
「なってるさ」
「なってません。詠さんがどれだけ心配してたか、皆にどれだけ心配を掛けたか……それを理解した上で動いた理由を聞いているんです」
撥ね退けると、彼は大きくため息を宙に溶かした。答えを選んで話す時の彼の癖。でも、敵わないなと苦笑を零してくれたはずが……今の彼は言わなかった。
「……明と夕を助けたかったってのはホント。軍としての利を考えれば優秀な人材は多いに越したことがない。可能性が僅かにでもあるなら、誰が反対しようと俺はそれに賭ける……ってのが一つ。まあ、明と約束したからでもあるけど」
一つ目は彼らしい答えだった。自分の命を秤に乗せて、そうして彼は戦を計算する人。次の戦、その次の戦まで考えて人材という宝を求める人。そして……助けを求められたら救いたくなる人。
「我慢してられなかったってのもホント。戦でどんどん人が死んでいくのに見てるだけとか……そんなの嫌だったんだ。俺が誰かを救いたかった」
誰も救えなかったけどな……と落ちた言葉は寂寥と懺悔に溢れていた。
二つ目。目の前で誰かが人が死んでいくのに耐えられなくて、強い力を持ってるのに動かない自分が嫌で仕方なくて、戦いたいと願ったということ。
黒麒麟に関わった彼らと同じく、洛陽で無茶を通した彼と同じく、救済の渇望を心に宿してしまった。自分の命を度外視するという、黒の在り方に染まった上で。
「……逆に聞こうか。君の知ってる黒麒麟なら、俺と同じことしたんじゃないか?」
切り返す言葉は鋭く、私の心に一筋の切り傷を付けた。
考えてみれば自然と思い浮かぶ。秋斗さんが彼の立場にあったなら……間違いなく助けに向かう。そんなこと、分かり切っている。
張コウさんと田豊さんとは既知の仲。真名を交換もしていた。助けて、と洛陽で求められても居た。逆手に取られて嵌められても、彼は敵を追い詰めた上で、味方にする為に救いに行くに違いない。
詠さんがこの人の事を秋斗さんと同じだというのも頷ける。行動も言動も、ほとんど変わらない。
「……そうですね。間違いなくあなたのように無茶をしたでしょう」
「そうか」
確認するような短い一言が宙に浮いた。緩い吐息を吐き出して、彼は言葉を紡いでいった。
「俺も聞きたい。聞いてみたい事があるんだ。黒麒麟を誰よりも知っている君に」
衣擦れの音がまた聴こえた。
どうして、そんな寂しそうな声を出すんですか。抑えようとしているのが……私には、バレバレです。
記憶を失っても相変わらず、嘘が下手になる時がある……同じ部分を感じる度に、私の心が締め付けられる。
「戯れな質問だけど、黒麒麟なら、さ……夕と明を救えたかな?」
一陣の風が吹き抜けた。まるで彼と私の心の中を表すように。
自分じゃなかったなら誰かを救えたのではないか……そう聞いている。結果として起こった事は変わらないから、愚問だと前置きして。
まるで、昔の私みたい。
『秋斗さんが桃香様の立場なら何を支払いますか』
そう聞いたあの時の私みたいに、彼は後悔と自責の傷を心に負ってしまった。
救えない無力に打ちひしがれて、答えが出ない問題に心を擦り減らす。そうして救いたいと願い続けて、黒麒麟のマガイモノになろうとしているんだろう。
「……いや、いい。無意味な質問だった。俺が此処にいて、俺が選んだ選択肢があって、俺が救えなかった結果が全てだわな」
答えられずにいると、彼が苦笑と共に答えを出した。
後悔はあれど、もしもを求めず。次は必ずと前を向いて進むしかない。そうやっていつも、秋斗さんもこの生死のハザマのような場所で前を向いて来た。
――違う所は一つだけ。この人が黒麒麟と同じになれない理由は、一つだけ。
少なくとも、私の望みは……一つ叶えられている。この人はもう自責の鎖に縛られない。傷は負っても乗り越えて行ける。他者の想いの重責を背負う事は、無い。
安堵があった。心を擦り減らして乱世を越えて行く事が無いから。
悲哀があった。“彼ら”の求めていた優しすぎる彼は、もう居ないから。
「そうですね……きっと彼も、そう言って結論付けたと思います」
じわりと湧く嬉しさと、吹き抜けるような寂しさ。背反する二つの感情が心の中身を満たしていく。
彼がこれから、一番大きな自責の鎖を受けないように……私は勇気を出して振り向いた。
ほとんど同時に、彼が振り向き私と目を合わせた。
暴れそうな心は、もう抑えられた。今の彼が乱世を進んで行っても壊れないと分かった為に。
ただ、彼は冷たい瞳で私を見ていた。
「そうかい……黒麒麟の事が少しでも分かっただけで満足だ」
渦巻く黒が闇色に輝く。まるで自分の敵を見るように。
ズキリ、と心が悲鳴を上げる。
どうして私にそんな目を向けるか分からない。憎しみとは違う。怨みとも違う。ただそこにあるのは……敵意の眼差し。
急に切り替わった。私はその切り替わりをしっていたはずなのに、着いて行けずに茫然と見つめた。
「……で? 俺に何をさせるつもりかな? 黒麒麟と並び立っていた軍師さま」
引き裂かれる口は見た事のある不敵さ。敵を追い詰める時に浮かべていた冷酷な黒麒麟の昏い笑み。
脳髄が冷えていく。私の思考が研ぎ澄まされていく。皮肉にも、軍師としての私は、一番守りたいモノを敵として認識し、警鐘を鳴らして頭を回しだした。
きっとこの人は私が何をさせるつもりなのかを読んでいる。曹操軍の軍師達と関わってきたのだ。同じ答えに辿り着いていてもおかしくない。
否、否だ。曹操軍は、華琳様は……袁家を根絶するつもりだ。元から“黒き大徳”徐公明として確立させる為に、袁紹さんの頸を落とさせるつもりでいた……彼もそのつもりでいる、そういう事。
――でも、どうして私を敵として見るの? 私がさせようとしている事を理解しているのなら……黒麒麟になりたいあなたは間違いなく同意するはずなのに……。
また胸が痛い。私を見てくれなかった昏い瞳よりは……マシだ。それでも、苦しい。
――乗り越えないと。憎まれてもいいって決めたのだから。敵意を向けられても……他人のように、接しないと。
微笑みは浮かべない。ただ冷たく在れるよう、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。疑問を聞くよりも此れからの話をしよう。
あなたは黒麒麟にはなれない。私が……あなたの代わりに黒を背負います。
「幽州の大地の異質さについてはご存じですか?」
「ある程度だが……歌が止まない、民も兵士も単純には従わない、一人の主だけを求め続けて……それ以外の誰かが治めるのに一苦労な大地になったって聞いてる」
「そうです。古くから幽州に居る地方の有力な豪族でさえ民衆の心に……民の一斉蜂起や白馬義従の反発に怯えてしまっている為、黄巾の乱の二の舞になる可能性も十分にあります」
あの大地は狂気に堕ちた。黄巾よりも濃厚にして真っ直ぐな狂気に。おかしい、危ういと感じるモノが居ても恐れから目立った行動は出来ず、周りに合わせるしかない脆い場所になってしまった。
白蓮さんの為だけの大地……彼女が居れば暖かい場所でも、私達には暖かくは無い。彼女が居なければ成り立たない土地など他の権力者からすれば扱い難く、大陸の改革を齎すには問題が多すぎる。
「言い方を変えれば、民によって支配されている大地ってわけだ」
「……そうとも言えますね」
少し驚く。そんな考え方はしていなかった。相変わらずこの人は少し違う視点からモノを見ている。
「……政治体制が整ってない状態での民衆による統治は時間を置けば無法地帯になるだけ。権力者が末端に強く出られない土地の未来は先細りの崩壊に向かいやすい。袁家が……いや、張勲がどうにか上手く回してるから持ってるだけだわな」
「その張勲さんと話をしてきましたが、あの大地はもはや膨れ上がった期待と渇望が大きすぎて手が付けられないそうです」
「公孫賛を引き摺って連れてきたところで、警戒するべき大地としてしか機能せずに曹操殿の脚を引っ張る……ってとこか。万が一公孫賛が服従しても、民の声が大きくなり過ぎて本人ですら止められなくなる……そんな可能性も大きいんじゃないか?」
「その通りです。華琳様がこれから他勢力への侵攻を開始した時に、反発勢力としての意識が大きすぎるんです。矜持と義によって、まず間違いなく白蓮さんは矢面に立って抗わなければならず……結果的に、幽州の大地を焦土と化すしかなくなるでしょう」
従わないなら、民が全て抗うというのなら……力で滅ぼさざるを得ない。それほどまでに狂信という毒があの大地には染み渡っている。
そうなれば侵略を認めない幽州の大地は、覇王への怨嗟の象徴として、長き平穏を作る上での禍根を残す事になる。
乱世の間、もうあの大地に白蓮さんが居てはダメなのだ。彼女には……華琳様と戦い、力を認められた上で従って貰わなければならない。そうすれば、狂信に染まったあの大地を丸ごと華琳様に従わせられる。
先に従わせるのは却下だ。裏切りだけはさせてはならない。彼女が義を謳うと言うのなら。
「なるほどな。だから幽州の狂信を捻じ曲げる為に、白馬長史の友として有名な黒麒麟の名を使おうってわけだ。白の大地に黒を混ぜ込む……灰色になれば単純な反発は抑えられるし、怨嗟の矛先を、公孫賛を幽州の大地に帰さない劉備一人に向けられる。
その為には処刑の様子を公開して、俺が断罪者としてその場に立ち、“白馬義従達の目の前で”袁紹を殺せばいい……それが君の出した答えか」
予想通りだ、というように彼が笑った。
此処までは彼も考えていたんだろう。他の軍師達も、華琳様もきっと考えているはず。
しかし“秋斗さん”ならもう一手打つ。大切な想い出を持つ彼なら、白馬義従の想いを理解出来る彼なら……間違いなく、人の心を捻じ曲げる為に、偽りでも死人の想いの代弁者になろうとするだろう。
胸が痛い。
思い出そうとしても秋斗さんの笑顔を思い出せない。彼の想いを穢している気がした。
――違うわけない。彼は全てを利用する人だから、大嘘つきだと理解しながらこうするはずなんだ。
心を決めて、じっと彼の瞳を射抜いた。昏い黒が渦巻いていた。ほんの少し悲哀の感情が見て取れたが……構わずに私は言葉を流した。
「……いいえ、もう一つあります。袁本初の頸を、幽州の白馬長史が一の忠臣――関靖の斧を使ってあなたが落としてください」
彼が頸を刎ねるだけでは足りない。彼女の恨みを晴らしたという確かな認識が欲しいのだ。
怨嗟に染まった者達は復讐劇を求めている。生きている人が前に踏み出す為には、復讐というのは大きな意味を持つのだから。
彼が関靖さんの想いと溶け合っていると示してこそ、幽州の狂信者達に心からの信仰を向けられる。
『やはり黒麒麟は白馬の王の為に戦った。忠義を果たした片腕と共に、彼女の大地を取り返したのだ』
こんな噂が流れるだろう。証人は白蓮さんと共に戦い、白蓮さんを誰よりも求めている兵士達だ。民の隅々まで人心掌握を齎せる。
そして、さすがに関靖さんの話を出されると、劉備さんの所に居る白蓮さんは動かざるを得なくなる。
直接会いに来て怒るだろう。そういう人だ。彼が復讐に走るなんて望まない人だ。関靖さんの願いでも無いと、あの街の長老さんのように語りかけるだろう。
来なくてもこちらから呼び出せばいい。彼は幽州の仮の主として白蓮さんを呼び出すことくらいするだろう。
そうして秋斗さんなら、関靖さんの斧一つで、白蓮さんとの敵対関係を構築する。元々劉備軍から離れるつもりはないだろうし、変わってしまった彼を止めようと、余計に白蓮さんは曹操軍に来ないのだから。
白馬義従と同じく復讐に走ったと大嘘をついて、彼は幽州の民からの信頼を得るのだ。怨嗟の心が癒された白馬義従が噂を流して、仮の主として黒麒麟を認める事になる。
袁家から幽州を取り返したのに帰って来ない白蓮さんは、語られる義の在り方から名が傷つかなくとも疑念を抱かれる。
其処に、そっと噂を流せばいい。
『劉玄徳の画策によって白馬の王は幽州に戻れず。例え劉備が友であろうと、同じく友である黒麒麟が取り戻した大地に戻らないはずがあろうか。黒麒麟が劉玄徳の元に戻らないのが何よりの証明。夜天の願いは……劉玄徳の我欲によって引き裂かれたのだ』
前々に仕込んでおいた噂が此処でも機能する。劉備さんはもう、華琳様の領内では偽りの大徳として認識されつつある為に。
だから白蓮さんと秋斗さんは被害者として語られ、劉備さんは幽州の大地からの恨みを買う事になり、他にも生活が安定している華琳様の領内の民達は哀しい友情の話に惹きつけられるだろう。
もう劉備さんを大徳などとは呼ばせない。劉備さんの力は民からの信頼と声だ。広く浅く繋がる絆が、黄巾と似たような変化を起こさせるから乱世を越えられる。末端から向けられる期待が無ければ、彼女は優しいだけの人でしかない。だから、彼女の力になるモノを華琳様の領内から排除しきる。髪の毛一筋たりとも劉備さんが入り込める隙間を無くし、劉の名への、漢への希望を……根絶する。
“秋斗さん”ならきっと、此処まで考えたはず。
その為には、やはり白蓮さんとの敵対は必須なのだ。だからこそ関靖さんの斧は必要不可欠。白蓮さんが戻ってくる可能性を作ってはならない。
思考に潜っているのか、彼は目を細めただけで何も言わない。直ぐに理由を聞く事はせず自分で考えて答えを出そうとする人だから、そうすればどうなるかを読み解いているんだろう。
痛いほどの静寂が場を包んでいた。少し肌寒い風が吹き抜ける。私の心も、冷えていた。
これなら、私はずっとこのままで行ける。想いを伝えずに、冷たい軍師として居れる。
ただ、彼の敵意溢れる視線だけが、私の心に棘を埋めていく。
「……白馬の片腕である関靖の復讐を俺が果たしたとして白馬義従の信頼を得て、幽州掌握の布石と為す、か。繋がるイトは公孫賛との敵対によって劉備への不信感を煽動、漢の再興の芽を叩き潰す……そんなとこだな」
彼が呆れたようにため息を吐いた。
後に浮かべた楽しげな笑みを見て、また、私は呆気に取られる。
「は……足りねぇな」
「え……?」
一瞬、何を言っているか分からなかった。
間の抜けた声が口から洩れた。慌てて噤むと、彼がふるふると頸を振る。
「足りないんだよ、それじゃ。俺にはさ……黒麒麟がそれを選ぶとは思えない」
「……っ」
秋斗さんが、選ばない?
嘘だ。そんなわけない。彼ならこうする。彼なら、誰かに憎まれても他人を利用する。嘘つきになって乱世を動かす。
私は、彼をずっと見てきた。彼とずっと話してきた。彼の隣で、ずっと策を読みとってきた。
初めからだ。彼が乱世に立つ初めから、私は彼の隣に居た……だから、私だけが……
目の前の不敵な笑みが秋斗さんと被った。
私だけが彼の代わりになれるはずなのに、成り立ちも違うこの人では、黒麒麟のマガイモノにしかなれないはずなのに……“彼”が私を否定する。
「そんな、はず……ないですよ? だって、私はずっとあの人と一緒に……居たんですから……」
自然と寄る眉は、心の中の不安を表に出して。
そうしてまた……私は彼の掌の上で踊らされていると気付かなかった。
「やっぱり引っかかったか。関靖の斧を使うってのはさ、お前さんが黒麒麟の代わりに出した策ってわけだ。軍師が他人の思考に捉われ過ぎちゃいけないなぁ」
思考が止まった。
悪戯っぽい笑みも、思い出の中の彼と被って見えて、私の心が乱れて行く。
私にしか通用しないカマ賭け。私が何になろうとしているかを見極める為に行われた言交。
あの人の声で、あの人の笑みで、あの人の……。
ズキリ、と胸が痛んだ。
違う、違う、違う、違う、違う……この人は彼じゃない。
なのにどうしても……胸が痛い。
「クク、黒麒麟がこの戦で欲しがるモノってなんだと思う?」
質問は突然に。“秋斗さん”がこの官渡の戦いで戦っていたなら、そんな可能性の話。
――この人は……私と自分、どちらが彼に近いのかを示そうとしているんだ。
答え合わせをしよう。
それぞれで考え抜いて、最後に答え合わせをしよう。そう言ったのは彼だったはずで。
その時の楽しげな声と、この人の声は一緒だった。
――私はあの時、秋斗さんに届かなかった。
鼓動が跳ねた。恐怖と羨望が綯い交ぜになった心が渦巻く。
私には出せない答えを、秋斗さんは導き出す事が出来たのだ。
渦巻いた心に、一筋の期待の色が湧いていた。
私が代わりになる事を望んでいるのに……これじゃまるで……。
答え合わせをしよう……と、彼の声が聴こえた気がした。
「……次の戦に向けて幾多もの先手と、友である白蓮さんの地に安定を。そのため、袁家の一族郎党を処分する事で敵対勢力全てに覇王の名を知らしめて危機感を煽り、乱世収束への行動を早めさせます。黒麒麟なら全ての糸を一段階引き上げようと、自分が袁紹の頸を落とす事を求めるかと……復讐ではないのに、復讐だと嘘をついて。彼は、うそつきでしたから」
私の中の答えを軽く話した。全てを話さずとも、この人なら読み取っているだろう。
言いながら、自分の中では違う気がして仕方なかった。彼ならもっとうまく捻じ曲げるのではないか、彼ならもっと違う手段を取るのではないか……そんな気がするのは、どうしてだろう。
瞳がじわりと熱くなる。泣きそうだった。
目の前のこの人は黒麒麟じゃない。なのに、期待してしまう。求めてしまう。
――この人は黒麒麟を求めて欲しくなんか、ないはずなのに。
誰からも黒麒麟を被せられて、今のこの人をちゃんと見る人は居ないのだ。
違う自分が存在したなど……そんなモノを良く思う人間などいない。誰だって自分を見て欲しくて、自分を認識して欲しいはずなのだ。
だから私だけは、そんな目で見たくない。求めたくない。
他人の願いを器に入れるだけの……哀しい存在になんか、ならないで欲しい。
――それでもやっぱりこの人が……私よりも彼に近しいのなら……。
瞬刻の平穏を思い出させる優しい笑みと、覚悟が宿った眼差し。
一歩、二歩と彼が近づいて、私の頭から帽子を外して、ゆっくりと屈んで、目線を合わせて……大きな手から温もりを分けてくれた。
「嘘つき、か。じゃあ今それを俺が選んだとして、嘘つきになるのは……誰だ?」
揺れる瞳が、泣きそうな声が……思いやりだけを浮かべていた。
「命じたのは自分だから気にしないでいいってか? 過去のしがらみを利用した酷い奴は自分だから傷つくなってか? 黒麒麟と同じ策を出せる自分が居るから、俺に好きに生きろってか? お前さんが俺を操るから、憎んでくれってか?」
黒の瞳が揺れていた。哀しみに、口惜しさに。
ダメだ。誤魔化されたらダメだ。例え、私のしようとしている事を見透かされていたとしても。
「でも私と同じ答えを、彼なら――――」
「違うさ。君は黒麒麟のマガイモノだ。俺もマガイモノだが……それでも黒麒麟を演じられるのは、俺だけなんだよ」
「どういう、こと、ですか……?」
声が掠れて、彼を見つめる視線がブレる。
心を引き裂かれそうな重責を背負って尚、戦う事を選び続ける黒き大徳。知っているからなれると思っても、嘘つきの対価が心を擦り減らして崩していく。
この人はどうして彼が戦っていたかを、きっと知っている。だから、私よりも……。
「だって黒麒麟も俺も……君に出会う前から、本当の始めっから大嘘つきなんだ」
静かに響くその言葉の意味が分からずに彼を見つめる。
ぐしぐしと頭を撫でられて視界が遮られ、そっと耳元に寄せられた唇から……世界を捻じ曲げる黒き大徳の答えが紡がれた。
「いいか? “黒麒麟”が官渡の戦いで欲するのは――――」
それは一番幸せだったあの日と同じように。マガイモノのはずの彼が容易く私の想像を超えて行く。
震えるのは恐怖から。この大陸で誰も考えないような事を平然と口にするこの人は……間違いなく彼と同じモノ。
一つ一つと繋がるイト。黒麒麟の辿ってきた道筋を知っている私だから分かる……彼の考え得る策があった。
「――――それでさ、死人の想いは使わない。黒麒麟が黒麒麟として乱世を生きないと意味が無いんだ。そんな黒麒麟に……徐晃隊は付いて行ったんじゃないのか?」
最後に諭されて、思い出すのは彼らの事。
彼が壊れる事を恐れていた彼らは、死者にまで想いを向けてしまう彼を慕って付いて来た。
彼が彼のままで、好きなように生き抜いてくれたらそれでいい……そうして徐晃隊は死ぬときに笑顔を浮かべてきた。
例え嘘だとしても復讐をする彼など、彼では無い。
徐晃隊は止めるだろう。怒るだろう。許さないだろう。だから……彼は止まる。私の考えた策は、頭に思い浮かんでも使わない。
「俺は黒麒麟に憧れている。徐晃隊みたいに目指してる。だから頭のマガイモノにしかなれない……そうあれかしと願って戦ってるやつらみたいに」
黒麒麟は秋斗さん一人を表すモノじゃない……黒麒麟の身体と呼ばれる彼らを含めて黒麒麟。私はそれさえ、忘れていた。
失われた右腕なら、精強な一番と二番隊の者達なら、今の部隊長達なら……否、彼に着いて行くと決めた人達なら、例え殺されようとも歯向かう。
止められると知っているから彼も言わず、他の策を考え抜いて実行する。
それに気付かなかった私は……黒麒麟のマガイモノにしか、なれない。
「……どうして……」
ぽつりと漏れたのは認められないが故に。
黒麒麟を演じる彼を認めないのではなく、あの人に戻ろうとする事が……私は認められない。
身体を離したこの人と目を合わせても、視界がぼやけていた。
「……あなたはもう、嘘つきにならなくて、いいのに……」
この人の示した策の方が彼らしくて、でもどうしても、壊れて欲しくなんてなくて……言葉を紡ぐ。
「私が代わりに、嘘つきになるはずだったのに」
優しい色が浮かぶ瞳を直視していられなくて、自然と顔が俯いた。
涙を零さないように、瞼をぎゅっと閉じて蓋をする。
「どうして……あなたは、あの人になろうと、するんですかっ……」
ひくつく喉から声が漏れた。
この人が行く道は秋斗さんの影に沈んでいる。
ズレてしまった歯車は噛み合わなくて、誰かに期待を込めて求められ続ける。他者の願いを詰め込んで詰め込んで……そうやってまた、自分を生贄に捧げようとするしかない。
「記憶が戻ったら、今の自分は消えてしまうかも、しれないのに。
せっかく戻っても、彼が壊れてしまうかも、しれないのに。
引き連れた想いの重責に潰されて、生きることすら、やめてしまうのにっ……もう……いいじゃないですかっ」
縋り付くように手を伸ばす。戻ってほしくないから、私はそれを望んでなんかいない……から。
「あなたは、あなたとして生きて……? それがあなたの望む平穏の為なら、演じてもいいです……でも……」
頬に両手を差し込んで、彼の瞳をじっと見据えた。
「……もうあの人に戻ろうなんて、しないで……?」
それでも優しい微笑みは変わらずに、私の心がビシリと痛んだ。
思い出の中にあったはずの笑顔が、この人の笑顔と被ってしまった。
「お前さんは優しいなぁ。こんな俺の為に、そんな必死になってくれるなんてさ」
頭を撫でる手は初めて出会った時のような暖かさ。
そんなことしなくていいんだ、なんて私の想いを否定しない。
ありがとう、なんて感謝を述べて、私の想いを肯定もしない。
――人の心を読み解く彼は、曖昧にしたまま温もりを与えてくれて、その上で……。
「なぁ……黒麒麟を愛してくれた女の子」
目の前に居る人は、確かに秋斗さんとほとんど変わらない。違うと示すのは、只々……誰かの為に。
「俺は俺として好きなように生きてるよ。世界で一番救いたいのは、笑顔が見たいのは……君だけなんだから」
嘘だ、なんて言えなかった。
ずっと求めていた温もりが、カタチを変えて此処にあったが故に。
変わらない彼の在り方に貫かれて、心の殻にヒビが入った。
「欲を出せばいいさ。意地っ張りは嫌いじゃないけど、俺は君に心の底から笑って欲しい」
あったかくて優しい声が耳に響く。いつでも私を癒して導いてくれた話し方。
「今の俺を想ってくれてさ……幸せを願ってくれるのは嬉しいよ。でも、君の幸せが俺の幸せなんだ。願ってくれた君の為に、そして……俺の為に、一緒に幸せを探してくれないか?」
震える身体と共に、あの時の約束が頭に響き、じわりと心の中から抑えられない想いが湧いた。
――私があなたの羽になります。そうすれば多くの幸せを探せますから――
――じゃあ俺はお前の脚になろう。羽を休めている時も、いつだって幸せを探せるように――
二人の記憶にだけある約束を、私は破っていたと漸く気付く。
「大切な思い出を嘘にしてしまわない為に、
寂しい夜を涙で染めない為に、
生きている幸せを謳歌する為に、
そして何よりも……明日も明後日も、ずうっと笑って過ごせるように……君の欲しいモノを教えてくれ」
耐えられるはずなんか、無かった。
この人は、いつも自分勝手に皆の事を想ってる。
変わらない温もりを与えてくれるから、私の望みを零さずにはいられない。
「あ……あぁ……」
この人は記憶が消えても彼のまま。
それなら、私を想ってくれるのも……当たり前の事だった。
じわ……と瞼に熱が灯った。閉じても意味が無いと分かっていても、零さないようにと蓋をした。
そうしたら――――
―――――彼が何も言わずに緩く抱きしめてくれる、それさえ忘れていたなんて。
「……っ……ぅぁっ……」
目を見開くと、頬を熱い雫が一つ二つ。
三つ四つと続いて行けば、喉を込み上げる震えは抑えられない。
「秋斗……さん……」
二度と口に出して呼ばないと決めていた彼の名が、心の殻を引き裂いて“私”を連れ出した。
「秋斗さんが……“好きでした”」
今の彼ではない彼に向けて、届くことの無い想いの欠片をそっと渡す。
「秋斗さんのこと……“愛してました”」
積み重ねた思い出はゼロになってしまったから、過去を想って言葉を零す。
「どうして……? 一緒に、幸せを探そうって……約束、したのに……」
どれだけ求めても彼は此処に居ない。
「敵わないなぁ……って……また、言って欲しいです……」
正直に言葉を並べると、漸く思い出の中の彼が、笑顔を浮かべて私に言ってくれるように思えた。
「寂しい、です……辛い、です……」
抑え付けない本心の叫びが、私の心から溢れ出た。
トン……トン……とあやすように背中を叩いてくれる手が優しすぎて、
「私は……“秋斗さん”に……会いたいですっ」
彼に会いたい気持ちをもう抑え付けずに、叫びを上げた。
ごめんなさいと零しても
優しく受け止めてくれるこの人が居るから……
求めていたモノと同じ温もりが、“彼”と共に生きようとしていいと教えてくれた。
†
闇が彩る夜天の下、秋斗と雛里は二人で手を繋ぎ、とある場所まで脚を運んでいた。
戦が終わった後であっても多くの兵士達が働くその場所は、ゆらゆらと揺らめく篝火に照らされて薄明るく、されども明るい空気など欠片も発されない。
行かなければならない所がある、と雛里が彼に伝えた事によって来ているのだが、理由はまだ教えて貰えず。
泣き止んだ雛里と交わした言葉は少ない。
記憶を失ってからずっと傍に居ればよかった……とは彼女も言わなかった。過去の後悔を求めるより、彼女は未来を選んだのだ。
秋斗もそれを分かっているから何も聞かず、手を引かれたまま、彼女が連れて行ってくれる場所を黙って目指した。
星が煌く空は美しい。ゆっくりと見上げて語らう事は、きっと楽しい時間になるだろう。
しかしながら、漸く着いた“其処”は……楽しさなど欠片も介入出来ない場所であった。
異臭立ち込めるその場所には……戦によって死んだ者達を積み上げた屍の山があったのだ。
息を呑む。死者のあまりの多さに。口と鼻を塞ごうとも脳髄に達する死の匂いに。これだけ人のカタチをしたモノがあるというのに、誰も動かないその事実に。
繋いでいた手を離して、とてとてと雛里が駆けて行く。丁度休憩時に入ったのか、兵士達はその場所を離れて行きながら不思議そうに見やるも何も言わなかった。
二つに括った蒼い髪が揺れる。大仰に手を広げて振り向き、彼女は手を巻いて……まるで道化師のような礼を一つ。
「……徐晃さん。黒麒麟を演じるあなたに、“彼”の事を話しましょう」
何もこんな場所でなくとも、とは言えなかった。
どうしてこの場所に連れて来たのか分からなくて、茫然と見つめるだけであった。
「私とあなたがさっきまで居た場所は、“秋斗さん”がいつも戦の終わりに行っていた場所です。どうしてか、分かりますか?」
質問を向けられ思考に潜る。
されども彼には分からない。戦場を見ても何も感情が動かない彼では、決して分かり得ない。
予想通り、というように雛里は苦笑を零した。昔は自分が教えられた。しかし今は彼に自分が教えようとしている……それが哀しくて、寂しかった。
死体の山の方に片手を広げた彼女は、彼に向けて笑みを向けながら、優しい声を流した。
「これが……私達の作った地獄です。生きていた人も、生きたかった人も、大切なモノがあった人も、譲れないモノがあった人も、欲深かった人も……等しく変わらず、私達が描く未来の為に奪い尽くし、地獄をこの世に作りました」
語る少女の言葉に、彼の頭がズキリと痛んだ。
現実として殺した命は、直接手を下さずとも彼の目的の為に死んでいる。この戦は彼と覇王の思惑が一致した戦い。故に、彼が背負うべき命は……敵味方問わず、失われた全て。
ゆっくり、ゆっくりと彼は死体の山を見渡した。ついこの間まで見てきたはずなのに、自分でも作り出したのに……全く違うモノに感じていた。
「あなたは味方の死だけに心を痛めるのでしょう。でも、秋斗さんは違います。誰かを殺すのが嫌で嫌で、誰かを死なせるのが嫌で嫌で……それでも地獄を私と共に作り出してきました。そういうモノだと割り切れば楽になるのに、割り切る事さえ出来ないままで」
血の匂い。臓物の香り。赤い液体やてらてらと光る肉片。目には生気の欠片も無い。怨みや悲哀、絶望に歪む表情が多すぎる。醜悪な死が、ただそこに、ゴミのように積まれていた。
「それが例え賊徒であろうとも、彼は誰よりも敵の事を想っていました。一人でも多く、敵味方問わず命を繋がせたい人でした。そうした二律背反の矛盾を背負って、彼は戦場で感情を殺しきる術を身に付けたんです……最効率の戦場を生み出す化け物部隊を作り上げたのは、自分の願望を叶えつつ、自分の弱さを抑え込む為でしたから」
今の彼が思い出すのは、夕を救い出す為に駆け抜けた戦場。
何故、自分があの時、歓喜と悲哀に呑み込まれたか……その答えが此処にあった。
心が疼いた。どろどろと湧き出すタールのような粘り気のある感情が広がって行く。
頭が痛かった。思い出すなというように、痛みが彼の思考の邪魔をする。
誰かが責める“うそつき”の言葉。黒麒麟を潰した自責による白昼夢の声が、彼の頭に僅かに響いた。
嗚呼、と吐息を吐き出す。この手で殺した感触が甦り、掌を見ると血まみれにしか見えなかった。
自分の罪過を自覚する。奪った命は戻らない。“自分が敵の側に着く事を選んでいたなら救えた命”は、自身の選択一つで失われてしまった。
彼は未来を知るモノ。運命を捻じ曲げられるモノ。
誰かの未来に介入出来るペテン師で……誰かの未来を切り捨てる大嘘つき。
故に黒麒麟の想いには敵味方の区別なく、せめて選択肢の終着で、乱世の果てに生き残らせる人々の為に戦うしか残されていなかった。
「敵味方、全ての生きたかったという想いを連れて行く。乱世に咲く想いの華を平穏な世に繋げよう……それが彼の始まりです」
二つの言葉が耳に響く。
自分は片方だけ紡いでいたあの言葉。その片方でさえ、今の秋斗が紡ぐには足りえないモノ。
戦う理由を、想いを乗せて、黒麒麟はあの言葉を紡いでいたのだから。
「“乱世に華を、世に平穏を”……どれだけの想いがこの言葉に込められ、繋がれて来たか……分かりますか?」
名前も知らない一人の敵兵であっても、黒麒麟は救えなくて悲しんだ。自分の手で殺して、必ず平穏な世を作るからとあの言葉に想いを乗せてきた。
自分勝手な押し付け、それでも……もうこんな地獄は奪って変えてやると、殺し殺された誰もに約束する為にあの言葉を紡ぎ続けた。
「どれだけ……あの人が世界を変えたかったか、分かりますか?」
震える掌をぎゅうと握りしめて、彼は唇を噛みしめた。
秋斗だけが分かる戦う理由。どうして其処まで……狂っていったのか、秋斗は正しく理解出来た。
救いたいのに救えない。助けたいと思っても幾多も手から零れ落ちて行く命、それが哀しくて哀しくて……しかし味方を一人でも多く救えているのが嬉しくて嬉しくて……人の生き死にを割り切れないまま、壊れる程に追い詰められていった。
――ああ……だから俺は黒麒麟になれない……。
敵は殺すモノ、世界を変える為に。
乖離したような自分の心は悲哀を伝える……けれども彼自身は敵の生き死にには拘れない。作り物のような、傍観者のような感覚で理不尽を行う彼では、違うのだ。
故に、徐晃隊は彼に……ほとんど同じだが違うと言った。
彼らは気付けた。戦場で常に背中を追い掛けてきた為に、その差異は小さく見えて大きかった。
それでも、と思う。
秋斗は演じる道を選んだ。だから引くことは無く、膝をつく事もしない。自責の海に沈む事も無ければ、多くの誰かの為に狂う事もしない。
小さいけれど大きな差異に気付けるのは彼らと雛里くらいなのだ。それなら……やはり大嘘つきになるだけ。
彼の中で、黒麒麟のパズルは完成した。意思に反して湧き立つ自己乖離の感情も理解出来た。
それはまるで一枚の絵を眺めるように……秋斗は心の中を観測し、読み取るしか出来なかった。
「……教えてくれてありがと。俺は道化師だから、黒麒麟の本当の気持ちは分かったつもりにしかなれないなぁ」
ぐるりと一巡、彼は死の山を見渡した。
醜悪な現実にじくじくと苛む真黒い感情の渦。
自分が作り上げた地獄を見つめて、秋斗は笑い、せめてと望む。
「誰の想いも繋いじゃいなかったんだ……俺は。これからでも……遅くないかな?」
とてとてと駆けてくる足音と、きゅっと握ってくれる小さな手があった。分かっていますと、そう言うように。
「あなたが平穏な世を望んで戦う限り。
あの人が戻るまでの間……いえ、戻ってからもずっと、優しい皆さんと一緒に想いの華を繋ぎましょう」
この場所でなら、それが出来るから。
秋斗と想いを同じくする華琳の元で、屍を階として天に上る覇王の元でこそ……その在り方を共有できる。
夜天の元、秋斗は静かに目を閉じた。
背中には生きているモノ達の声が聴こえている。目の前には自分が作り上げた地獄が静かに横たわっている。
生死のハザマで、約束を一つ。
自分が作り上げたい平穏な世に……黒麒麟が望んで、雛里が望んで、秋斗が望んで、皆が望んだ幸せを探せる世にする為に。
今までとは全く違う想いを胸に、するりと言の葉を突き立てた。
「……乱世に華を……世に、平穏を」
継ぎ足した想いは約束のカタチ。彼と皆の想いのカタチ。
紡いだ後に隣の少女を見やって、彼の心は少し満たされた。
向けてくれる微笑みは優しくて、寂寥はあれども翳り無く、幸せになろうとする少女が其処に居た。
†
戦いの幾日後、合流した曹操軍の陣から少し離れた場所に集まる人の群れがあった。
金色の鎧を着こんだ兵士達が武器を与えられずに曹操軍の兵士達に囲まれ、その対面には……白の鎧を来た兵士達が目に怨嗟を込めて並び立っている。
四丈程の間隔の道が二つの間を分け隔て、兵の群れの端、東と西には組み上げられた簡易建造物があった。道にも、兵士達が立つ地にも血と臓物が未だ散らばり、作り上げられた地獄の残滓が横たわっている。
東には、簡易的に作られた十数段の階段で登れる物見台。その頂上では覇気を溢れさせて膝を組む覇王が楽しげな笑みを浮かべていた。
西には……仰々しさの欠片もない武骨な物見台。階段は後ろにしか無く、その頂上には、手首を縄で縛られた王が一人。下には、彼女の両腕であった少女が二人、同じように手を縛られて。
――――お前らのせいでっ!
誰かが叫んだ。
――――俺達の家を帰せっ!
誰かが求めた。
――――ただ死ぬだけじゃ許さねぇぞ!
誰かが喚いた。
幾多も怨嗟の声が浴びせ掛けられても、麗羽は頭を垂れて跪くだけで何も動かない。華琳も、何も言おうとも止めようともしない。
おお……と声が上がった。遠くから近付いてくるその姿に、彼らは期待を向けずにはいられない。
その様子を見て、覇王が手を緩く上げる。
ガツン、と周りを囲む曹操軍の兵士達が一斉に武器を地に突き立てた。
その音を合図に静まり返るその場では動くモノは彼以外に誰も居ない。
ギシリ、ギシリと軋みを上げて階段を上る音がやけに響いて聞こえていた。
ゆっくりと登り、頂上に辿り着いた彼が手に持っていたのは……失われた白馬の片腕の斧、忠義の証。
涙する者が居た。吐息を漏らすモノが居た。叫び出しそうになるモノが居た。それでも、誰も声を発さない。
全ての視線が彼一人に集まり、誰しもが彼が言葉を紡ぐのを待っていた。
ぐるりと一巡見回した彼は、斧を肩に担ぐ。
笑みを浮かべたのは……二人であった。
黒き大徳と、乱世の奸雄。
互いに視線を合わせた後、立ち上がった覇王が場の静寂を打ち破った。
「皆の者、此度の戦、大義であった! 皇帝陛下より袁家の処遇はこの曹孟徳に任せるとの命を受け賜っている! よって此れより、袁家頭目である袁本初への処罰を開始する!」
華琳は笑った。この一時に自身が奪い取るモノを想って。
――嘗ての天によって積み上げられた世界を打ち壊し、新しい世界を切り開こうか。
秋斗は笑った。この一時に捻じ曲げるモノを想って。
――先の天によって定められている世界を捻じ曲げて、誰も知らない世界に変えようか。
官渡の戦の終端、黒の道化師と覇王が戯れる演目は、幕を開けた。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
雛里ちゃんは彼を戻す事を決めました。
黒麒麟のパズルが完成しても、組み上げた彼はその絵を見つめることしか出来ないです。
次話は処刑台でのお話です。彼と華琳様の思惑が明らかに。
官渡での話は多分、次話で終わりです。
ではまた
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