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猫の憂鬱

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第2章
  ―1―

「担当刑事さんて、誰?」
課長憤死寸前事件から一夜、翌日の昼前に八雲が署に顔を出した。自分達だ、と龍太郎と井上は立ち上がり、会議室に八雲を通すと、手帳と名刺を見せた。名刺を受け取った八雲は、俺のも要る?と聞いたので、名刺は要らないから連絡先が欲しいと云った。
「連絡先、なあ。」
「番号だけで良いんですけど。」
「番号しかないんですけど。」
友人と本職の人間にしか教えない、と八雲は云うが、其処をなんとかなりませんか?と頼んだが結局無理だった。八雲に何か用事がある時は宗一に電話しなければならないらしい。然も其の宗一も、八雲に連絡を取る場合、八雲の妻に連絡しなければならない。
其処迄警戒しなくと、御前の番号なんざ悪用しないから教えても良いだろうと思う。
八雲の警戒心は猫以上、虎並みと云う所だろう。
「所で、今日は如何云ったご用件で?」
龍太郎の問いに八雲はiPadを取り出し、画面を見せた。
「此の…何て言うんかな…被害者?は、ちゃうな…ええと、兎に角此の女。此れを書いて死んだ女、利き手、どっち?」
「さあ。」
「普通に考えたら右じゃね?」
「右…なぁ…」
「何か。」
「いや…」
画面を見た侭八雲は呟き、利き手をはっきりして貰えないだろうかと云う。
「判りました、夕方迄に調べておきます。」
「刑事さんはさあ。」
「はい。」
「此れ、どっちで考えてんの?」
「どっち、とは。」
「自殺か他殺。どっち?」
八雲の何とも云えない感情を宿す目に龍太郎は息を呑み、一応自殺で調べていると云う事を伝えた。
「何か引っ掛かる?」
井上の言葉に八雲は画面から目を離し、利き手をはっきりさせたら教えるとiPadを鞄に仕舞った。
たった其れだけの為に来たのか。
警視庁のある場所から来たとしても時間は掛かる、地下鉄で一駅二駅の距離ではないのだ。八雲の自宅が何処にあるかも判らないが、もし真逆であったら…?
龍太郎が八雲なら面倒でそんな事はしない。
「又、いらっしゃるんですか?」
「何?あかん?」
「いえ。駄目と云う事はありませんが、面倒じゃありませんか?私達は構いませんが。」
「ええよ、別に。わいの家、此処の管轄内にあるもん。」
「マジかよ。」
「わいが殺されたら、担当してね。犯人は嫁や。彼奴しか居てへん。」
茶目っ気たっぷりに答え、井上は、マジで、と八雲を見た。
「既婚者なんだ。」
「そよ。…早よ離婚したい。如何やったら離婚出来るか…其れしか考えてへん。」
「ひっでぇの。」
井上は笑い、煙草に火を点け、流れるように龍太郎も八雲も火を点けた。
「此れって詐欺よな?知らん間にわいのマンションに住み着いてん。ほんで、御前何してん、て聞いたら、家出て来たて…。阿保か!早よ帰れ!云うより先に、彼奴の実家の人間がなだれ込んで来た…。そっから、人生諦めたなぁ…」
離婚出来ないのなら逸そ死んでしまおうか、そう何度も考えた。
「其れなのに何?なんで?何でわいが悪いの?わい、加害者やろ!?誰が結婚する言うた?御前等が勝手に進めたんとちゃうんか?此れってあんまりやろ。」
「何があったんだよ。」
八雲の興奮加減に井上は一旦立ち上がり、珈琲の入るカップを三つテーブルに置いた。
「行政から警告受けたんよ。」
「何の?」
「ドメスティックヴァイオレンス。」
「は…?」
「何で!?わしが何をした!言うてみぃ!」
「言うてみぃ、って云われても…」
「嫌いな人間に冷たく当たって何が悪いん!?存在を否定して何が悪いねん!ほんなら聞くけど、御宅等ゴキブリ愛でますか?蛆虫ペットにしますか?そう言う事やろ?唯其れが人間の形しとるだっきゃないか、違うか?」
状況は良く判った。
八雲は其の妻と結婚する気は無く、無い、と云うか、八雲が云うには付き合っても居なかった、唯の幼馴染で、勝手に妻側が籍を入れたか周りを固めたかで、八雲の逃げ道を塞いだ。そんな状態で一緒に居れば八雲の精神状態が悪くなるのは当然で、被害が妻に及んだ。其れを近所の住人か何かが行政に通報し…と云う、幼児虐待の流れと似ているだろう。
「奥さん、如何なってるんだ?今。」
龍太郎は聞いた。
八雲は煙草を消すと珈琲を一口飲み、家に居てるよ、とうんざりした。
「二度と出てくんなぁ言うたのに…、何で出て来んねん…」
「何処から…?」
「精神病院。」
龍太郎は額を押さえ、井上は引き攣った顔で他所を向いた。
「大変だな…」
「彼奴、ほんま死なんかな。離婚出来んのなら、死んでくれ。帰ったら死んでないかな、て毎日思ってるんやんけど、何ぁ故か、笑顔で玄関先に出て来んねん…、何時死ぬねん、如何やったら死ぬねん、彼奴が死なんのなら誰かわいを殺してくれ。彼奴の所為でわい、女と別れたんぞ。結婚する筈やったのに。」
彼奴が目の前に現れなかったら、俺は幸せな結婚生活をしてたのに…。
何時結婚したかは知らないが、相当妻に対して怒りがあると見える。
八雲の愚痴は止まらず、テーブルに灰を散らし喚く。自分達に云われても困るが、口が挟めず聞くしかない。結局何が云いたいのか判らないが、一度口を開くと閉じないのだけはしっかり判った。
「なんで彼奴は、わいに執着するんやろ。わい以外にも男一杯居てるでしょ、世の中。」
なあ、よぅ言うわな。男も女も星の数程あるて。でもな。
「月は、一つしかないねん。せやろ?愛する女は、月やろ?太陽は、自分やろ?なんでわいは、其の月を、輝かす事も出来へんの?如何やったら、其のお月さんに、綺麗ですね、て云えるの?月が綺麗なんは、太陽があるからやろ?」
八雲の言葉に井上は頻りに顔を触り、息苦しさ迄覚え始めた。
何だ、此の感情。
八雲の目に井上は頭を押さえ、龍太郎が心配そうに横目で見た。
「なぁんて。」
八雲は痛々しい表情を一変させ、ニタニタと笑うと煙草を咥え、天井に向かって煙を吐いた。
「言うたけどぉ、わい、其の女、囲ってるんよな。いっひっひ。如何?如何?しんみりした?わはは。」
八雲さん策士、と八雲は自画自賛し天井に向かい指を鳴らした。
「わいの人生全て策!悪い事も全て策に変える!なぁんで、離婚せんか。彼奴が金持ってるからやないか。わい程策士な男、そう居てないよぉ?」
珈琲を飲み干すと八雲は立ち上がり、魔物でも見るように自分を見上げる龍太郎にウィンクした。ジーパンのポケットからインカムを取り出し、耳に掛けると電話を発信させた。
「ほんなら、本郷さん、井上さん。事件終わる迄、盛大わいの策で楽しんでな。……老師(せんせい)、僕です、八雲ですぅ。今から其方行きますよって。え?やー、ほんま老師意地悪なぁ。わいの本職考古学でしょう、貴方の弟子やないですか。」
夕方又来ます、と八雲は会議室から姿を消した。
此の事件が終わる迄、あの男を相手にするのかと思うと、龍太郎は疲労を覚えた。井上は完全に八雲の言葉に叩きのめされた。
女は月で、男は太陽。
「月が綺麗ですね、とは、良く云ったものだな。」
「良い言葉じゃねぇか。」
宗一の触手が伸びる其処で、唯一宗一の触手に収まらない八雲。
何だか段々と面白く感じて来た。
「恐ろしい男だ。」
「さくっと策に溺れてやろうぜ。」
八雲が望んだ情報、其れを知る為、龍太郎は夫の雪村凛太朗に電話を掛けた。 
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