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Holly Night

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第1章・一年前
  ―9―

「呼ばはった?」
「…呼んだ記憶は無いが。」
全員出払った一課の部屋に馬顔の眼鏡を掛けた男が現れ、ドアーの縁を掴んで微笑んでいた。
「うわぁ、見事誰も居らぁん。広いなぁ。」
「何しに来た。」
「あれ、呼ばはったんと違うの。」
「何の妄想で来たんだよ。」
課長は立った侭書類整理していた動きを止め、電気ポットのスウィッチを入れるとフィルターに珈琲粉を入れた。
「何しに来たか知らんが座れば。」
「御前、一個も変わってないな。何し来た、早よ帰れ…其れ以外言わんやないか。」
「何の話だよ。妄想の話か?」
男はケラケラ笑い、課長の席から一番近い木島の椅子に座ったが、其処には座るな!と怒鳴られたので、課長の椅子に座った。
課長は一瞥するだけで何も云わず、ゆっくりとフィルターにお湯を入れた。
「本当、何しに来たんだ。遠路遥々京都から。」
「赤ん坊の白骨死体。」
「…何で御前が知ってるだ。」
「だって俺、今東京居るもの。」
「は…?」
「科捜研。あれの法医。来年度から。十月の採用で受かったんよ。住居探しで彷徨いてんの、東京を。」
「死ね…」
「うっわ、物騒。」
珈琲の入ったカップを男に向けたが、男が取る前に上に上げた。
「目的を云え。」
「なぁんも無いわな。何で何時もそうけんけん、けんけん。煩いな。」
「御前が現れると碌な事が無い。」
「座らはったら。」
「御前が座ってるじゃないか。」
デスクにカップを二つ置いたのを確認した男は課長の腕を引き、嫌がる課長をしっかりと膝の上に乗せた。
「離せ!誰か!痴漢だ!誰か居ないのか!」
「温ぅい…」
「俺で暖を取るな!離せ、離せ…ってば…」
喚く課長の顎を下から掴んだ男は噛み付くように課長の口を塞ぎ、乾いた音が静かな部屋に響いた。
「痛った…」
「出て行け!」
「何も叩かんでも…」
「強制猥褻で捕まえるぞ!」
「捕まえられるもんなら、捕まえてみ。」
垂れた目を一時も逸らさず、課長の手首を掴んだ侭男は立ち上がった。そしてデスクの引き出しを開けると手錠を取り出し、目の前にぶら下げた。
「ほれ、手錠。御前のだぁい好きな手錠。よぅ使ったよな?」
男の挑発に課長は手錠を奪おうとしたが、其れよりも早く男が課長の片方の手首に下ろした。
「な…」
呆然と手首に嵌った手錠を眺め、キキキキ、と男は笑い、珈琲を飲んだ。
「ばぁか、俺の方が小さい分リーチ早いのん。」
垂れた髪を課長は耳に掛け、鍵で手錠を外した。そして、珈琲を飲む男の両手にしっかり掛けた。
「おい、痴漢だ。誰も居ないから助けてくれ。」
三課の内線を押した課長に男は、其れずっこい!と喚いたが、課長は優雅に珈琲を飲んだ。暫くすると三課の課長が姿を現し、痴漢って?、男と見ると足早に近付いた。
「又貴方ですか。」
「流石番犬…、はっやいなぁ…」
「此の方に近付かないで頂きたい。」
「何もしてないわな。」
「した。キスして来た。後触った。」
「何で言わはんの!」
「書類、書いて頂いて良いですか?」
「うわぁ、あかぁん。断る!」
三課の課長は息を抜き、ばちん、男にデコピンすると、課長にキスをして帰って云った。
「額が、陥没した…、ほんま痛い…」
「彼奴のデコピン、本当に痛いからな。林檎が凹む。」
「傷害やないか!」
「痴漢よりマシだろ。」
額を押さえ床に蹲る男を蹴り、ゆったりと椅子に座った課長は、デスクに肘を置くと指先で頭を支え、微笑んだ。
「早く帰れよ。」
「うわぁ、出たよ、デヴィルスマイル。むっちゃ嬉しそぉ…」
「俺の機嫌が良い内に帰れよ。」
「白骨の検死、したろ思たのに。」
「いいや要らん。貴様に借りは作らん。」
「いやでもま。」
男は立ち上がると煙草を咥え、ゆったりと煙を吐いた。
「幸せそやないの。」
男が微笑むと課長は指を組み、視線を逸らした。
「早く、出て行け。」
「な、ほら。俺と居ると何時もそんな顔するもの。」
「早く出て行ってくれ。」
歪む課長の表情に男は頭に触れたが振り払われた。
「俺、一回でも、御前を笑顔にした事、あるんかな。」
男の言葉に課長は大きく目を開き、床に向かって視線を漂わせた。男は煙草を消すとドアーに向かった。
「宗。」
廊下の色を、床の色を、二人は見詰めた。其れを通して、過去を見た。
「御前が捨てたんだぞ。」
「……笑かすな。」
男は低く吐き捨てるとドアーから出、入ろうとした木島の足が止まった。
「え?誰…?」
只管床を睨む課長に、木島は言葉が出なかった。


*****


亜由美の持ち物…教科書や筆談少女に文字を教えていたであろうノートを眺めていた本郷は、菅原に呼ばれ、ソファで寝る拓也を指した。其の顔をじっと筆談少女が眺めている。
「貴方にも、問題ありますね。」
「いきなり手厳しい。」
「井上さんの空想世界を助長させてるのは貴方ですよ。」
咥えていた煙草を真っ直ぐに灰皿に突き刺した本郷は菅原の胸倉を白衣ごと掴んだ。
「此れが貴様の権力か。」
「一寸、離して下さいよ…」
「此の白衣が拓也の神領を侵すのか、何時も。」
「本郷さんだって、気付いてらっしゃるんじゃないですか…」
「拓也は此れで良いんだよ!」
強く菅原を突き放し、一回噎せると歪んだタイを直した。拓也の歪んだ世界を治す様に。
「良い訳、無いじゃないですか…!歪みが生じてるんですよ!?」
「そうじゃなきゃ彼奴は生きる事さえ出来ないんだ!」
本郷の声に少女がビクっと身体を揺らし、本郷は慌てて声を落とした。
「拓也だって気付いてるさ、だけどな、そうでもしなきゃ、彼奴は生きる事が出来ないんだ。俺迄否定したら如何なる。本業なら判ってらっしゃるでしょう、世界が崩壊した、先にあるものが。」
「僕は何も、否定はして居ません。」
本郷の三白眼と菅原の黒目を主張する目が、宙で歪な空間を作り上げた。
古い建物を、現状の侭果てるのを待つか、補正して保つのかの違い。
「本当に、良いと思ってるんですか?」
「拓也が生きてら、何でも良い。」
例え脳死状態でも。
本郷の鋭い目に菅原は頷き、出過ぎました、と拓也の事を書いた紙を捨てた。
「うるせぇんだけど…」
むっくりと起き上がった拓也は頭を抱え、数回振った。
「ぼーぉっとすんだけど…」
「嗚呼、安定剤ですよ。暫くしたら戻りますよ。」
「おー、御前、未だ居るのか。節子と行ったんじゃねぇの。」
頭を撫でられた少女はきゃふきゃふ笑い、ノートを見せた。
――お早う――
笑ったが、目眩に拓也は又ソファに倒れた。 
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