Holly Night
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第1章・一年前
―5―
やっちまった、とひしゃげたボンネットを見た拓也は目元を隠した。
後三ヶ月で車検だぞ…
前々から上司の木島に車を変えろ変えろと口喧しく云われ、車検で買い直そうと考えていた時の事故だった。
「おいこらクソ野郎、出て来いよ!」
真横に衝突された運転手は、車の中で呆然とする拓也に息巻き、興奮を表す様に窓硝子を叩いた。
「悪かったって。保険入ってるだろう、其処迄怒るなよ、死んだ訳じゃねぇのに。」
「此の車幾らしたと思ってんだよ!」
「精々五百万だろうが。俺のX6の方が高いわ。」
値段の問題では無いが、先方が金額を持ち出したので云った迄、然しそんな事は如何でも良い、新車で返せと云われたら返す財力は持ち合わせている。
洒落になんねぇ…。
刑事が交通事故…其れも加害者とは洒落にならない。其れで無くとも年明けに一度、取り調べ中の被疑者への暴行で謹慎処分を受けているのに。一年に二回も問題を起こしたとなれば、流石のあの課長でも庇えないだろう。
「頼む、落ち着いてくれないか…?」
「落ち着けるか!」
「だよな…、本当悪かったよ…」
集まる野次馬、全く本当に、平日の昼間だというのに暇人も居る。
携帯電話を取り出した拓也は興奮する男の罵声と野次馬の視線を全身で感じ乍ら電話を掛けた。
「課長、如何しよう。」
「何だ、如何した。」
全てがゆったりとした人、人が目の前で死んでも堂々としているかも知れない。
「事故を起こしてしまいました。僕、如何なりますか?」
「馬鹿じゃないのか、御前。で、死んだ?」
「生きてます…、物凄く怒鳴ってます。」
「あっはっは。」
被害者男の罵声が課長に聞こえるのか、矢張り動じず笑い倒した。
「おいあんた!」
「何だ。」
「あんた此奴の上司か!?」
「嗚呼、嫌だけど。」
「如何してくれんだよ!」
何故課長に云うのか、電話を奪われた拓也は、突っ込んだ車と自分の車を見比べ、車って案外丈夫だな、等と関心した。男の乗る車がワゴンタイプだったから良かった、此れが軽自動車であったら目も当てられない。
点滅信号の交差点で、拓也は黄色側だった、だからまあ、一時停止をしなかった男が悪いのだが、ワゴンで良かったと本当に思う。打つかった瞬間車は止まった、此れは突っ込まれた方も大きかったからであり、此れが軽自動車や小型車だったら飛ばされただろう。そうなったら交差点付近の建物に車が激突し、被害が大きくなる。
「如何にかしてよ!」
「判ったから。さっき交通課やったから。五分位で着くんじゃないのか?後は彼奴に従え。いい加減、変わってくれないか?」
男の愚痴を嫌と聞いた課長は其の鬱憤を拓也で晴らした。
「俺を困らせて、御前はそんなに俺が好きか?そんなに構って貰いたいのか?え?」
「済みません課長…、謹慎明け一ヶ月掃除係で良いです…」
「謹慎はせんで良い、其の代わり、今日から一ヶ月、家には返さん。」
「ワァオ…、あざーっす…、課長だぁい好き…」
此れで年明け迄、夜勤と無休が決定された。
電話を切った拓也は溜息を吐き、ダッシュボードから誘導棒を取り出すと野次馬に向かって振り回した。
「ほら、散れ。公務執行妨害でしょっ引くぞ。緊急車両の進入妨害は公務執行妨害に値すんだよ。」
「あんた、警察かよ…」
「交通課じゃねぇけどな。」
ほら、と男に手帳を見せ、散った散った、パトカー入んねぇだろ、と野次馬に威嚇を続けた。
そうこう威嚇を続けて居ると、課長の寄越した交通課のパトカーが停まり、又派手にしたねイノさん、と年配の刑事が笑った。
「イノさんが事故とか初めてじゃない?」
双方から免許証を受け取り、記帳する刑事は云う。
「折角のゴールドだったのに。可哀想。」
「木島がうるせぇから、車検で買い換える予定だったのによ。」
拓也の言葉に車検ステッカーを確認し、又笑った。
「二月が車検か…。何、修理すんの?後三ヶ月もねぇじゃねぇか。」
「迷ってんだけど。」
「修理しねぇで売ってもなぁ、だからって云って修理も馬鹿らしいしなぁ…」
「マジ如何したら良いんだよ…、こんな事故車、何処が引き取ってくれんだよ…」
「まあ…」
刑事は車の状態を見、双方の車を動かさせた。そしてまじまじとフロントを眺め、あ、こら無理だわ、と写真を撮った。
「こっちのワゴンも開かんな…」
「だろう!?ひでぇよな!?」
「…御前、何キロ出してた。」
「え?」
ノック式のペンを顎下でカチャカチャ鳴らし乍ら刑事は聞いた。じっと道路を見詰め、四十?其れ以上?と首を傾げた。
「ええと…」
「此処、点滅信号、な。」
くるくると、先端にチョークが付く棒を回す刑事は信号を差し、続けて道路に白線を引いた。
「ブレーキ痕、な?」
「え?何?俺が悪いの!?」
「まあ、なぁ。いや、イノも悪いよ。」
「なんで!?俺が突っ込まれたんだぜ!?」
男は一層興奮し、仲間だから助けんだろ!?と唾迄飛ばし始めた。
「いや、内輪だからって訳じゃねぇよ、御宅が不利な状況だって云ってるの。イノ側にブレーキ痕がねぇって事は十キロ出てねぇもん。どっちかってぇと、御宅が突っ込んだ側。」
「御前、教習所で何習った。え?点滅信号、意味判るな?」
交通課二人の刑事に詰め寄られるが、元から頭が悪いのか、男は状況が全く飲み込めて居なかった。
誰だ、何処の教習所だ、こんな阿保に免許交付した阿保は。
最悪な奴に突っ込んだ、と拓也はうんざりした。
「イノさんは黄色なんだよ。御宅は赤。判るな?」
「はあ!?黒じゃん!」
「…いやいやいや、車の色の話じゃねぇよ。そら御宅の車は、漂白に失敗した金魚みたく変な赤けどさ。」
「阿保か御前。信号が赤だっつってんだよ。良いか?点滅信号はな、黄色が減速、赤が一時停止、車があったら黄色が優先なんだよ。教習所で何習ったんだよマジで…」
「っていうか御宅、マフラー改造してるな?一寸、音、出してみろ。」
一時停止無視、速度違反、加えて車検に通らない程の改造、元から頭痛持ちの拓也の頭は痛くなって来た。
「こんな奴に突っ込んだばかりに俺のゴールドが消えんのか…」
「どんまいイノさん…」
「此のダサいウィングへし折れ。ワゴン改造すんなよ、だっせぇな。」
「止めろよ!」
男は漸く状況が飲み込めたらしく、拓也に突っ掛かる事はしなくなった。
レッカー車を呼ぶのは良いが、如何やって署に戻るか、考えて居るとサイレンの音が聞こえ、拓也は怯えた。
パトランプを付けた青いBMW、口笛を鳴らした交通課刑事は其の車の前に拓也を押し出した。
「マジでマジでマジで、誰が呼んだんだよ!」
「俺達の司令塔は課長だ。」
運転席から身を出した本郷は拓也の襟を掴み、後部座席に押し込むとドアーを蹴った。
「俺は刑事で、御前の子守じゃない。」
「御免ね?龍太郎様…?」
「殴られたいのか。黙ってろ。」
「本気で怒ってんだけど…」
交通課刑事に助けを求めるが、拓也でさえ憤慨した本郷を宥める事は出来ず、出来るのは時間しかない。
「当たり前だろう。刑事の癖に事故起こして、謹慎だと?謹慎で良かったな!解雇だったら又木島さんだ!」
雄叫び、バンバンとハンドルを叩き乍ら本郷は怒りを放出した。拓也は黙った侭頷き、潰瘍が悪化しませんように、と願った。
「御前が!問題起こす度に!俺が!せんで良い苦労をする!誰が!面倒!見ると思ってるんだ!此の、一ヶ月!」
今日から一ヶ月自宅に返さないと課長から云われた。当然着替えはなく、取りに行くのは本郷である。着替えた物を自宅に運ぶのも本郷であり、同居する女から嫌味云われるのも本郷なのだ。
「御免…」
「退かせパトカー!車が動かんぞ!一方通行だろうが!」
「本郷、落ち着け…」
「煩い!早く退かせ!」
「誰に口聞いてんだ、小僧!一課だからってでけぇ顔すんな!」
「そうだ!生意気だぞ本郷!」
「嗚呼!?喧しいぞ、うだつの上がらん耄碌爺!二号機に番号入れるぞ!貴様等は切符切って小遣い稼ぎしていろ!」
「誰が耄碌だ!」
「交通課馬鹿にすんなよ!」
「早く退かせ!現場に行くんだよ、女が刺されたんだ。」
「早く云えよ!」
「嗚呼、だから来たのね。」
引き取りで来る程優しいと思っちゃ居なかったが、課長も本郷も。
「胃が痛い。」
本郷の言葉に拓也は項垂れた。
「わあ、本郷さん機嫌悪いですねー。」
現場を荒らす気なのか本郷の足取りは荒く、状況を説明する鑑識は苦笑った。
拓也も、笑う事しか出来なかった。
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