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歪んだ愛

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第3章
  ―1―

翌日の世谷署捜査一課は重苦しい空気に沈黙していた。誰かが殉職した、と聞かされたら納得する陰鬱さだった。
昨晩、九時半過ぎに姿を現した夏樹、今晩は、遅くなりました……たった其の一言が、翌日の此の空気を生み出した。いや、昨晩から引き継いだ、と云って良い。
夏樹を見た侭和臣は挨拶し、橘に向く背中が緊張した。
そして、課長の口から出た言葉。

――御前、“白鳥”って見た事あるか?本物だよ、本物。湖に居る――

其の言葉で、分析した音声と夏樹の声が不一致だと判った。
和臣に向けられた言葉では無いので、横に居る菅原が、何、見たいん?と言葉を繋ぐ。用の終わった橘は着信が着た演技で慌ただしくパソコンをリュックに仕舞い、電話を耳に当て乍ら店を出た。
複雑だった。
夏樹であって欲しくないと云う情と同時に、早くゆりかを不安から解放させたいと云う思い…夏樹が犯人であれば良かったのに、と落胆する感情。
腕時計に目は向くが何処も見て居ない加納は「もう二度とワタクシの車に忘れ物しないで下さいね、木島さん」と挨拶し、ローザに足を向けた。

――夏樹冬馬は白鳥です――

聞いた井上達は、振り出しに戻った事を悲観した。
感情の所為か、今のヘネシーは嫌に食道を刺激する。何時もなら食道を愛撫する心地良い刺激なのに、今ばかりは矢鱈に熱いだけだった。
「いらっしゃいませ。」
雪子の笑顔に、少しだけ救われた。渡されたお絞りで指先を拭く夏樹は、酒が並ぶ棚を眺め、ディタフィズ下さい、そう云った。
「洒落た物飲むな。」
「僕、ライチ好きなんですよ。」
「ディタってライチなのか。カクテルは判らないな、本当。」
「今、何飲まれてるんですか?」
「ブランデー。」
「へぇ、格好良い。」
「格好良いかな。」
苦虫噛み潰した顔でピスタチオの殻を向く和臣は、まったりとしたピスタチオの味をブランデーで払拭した。
「チョコ食べたい、チョコ。」
「チョコ好きなんですか?」
「大好き。日本に生まれて良かったって思う位チョコ好き。」
「何で?チョコの聖地はベルギーじゃない?」
馴染みの動き、頭を下げ乍ら左手でコースター、右手でディタフィズの入る細長いグラスを差し出す雪子は聞いた。
ナッツ類の入る小皿を夏樹に、トリュフの入る小皿を和臣に向けた。突き刺さるピックの先は猫の形をし、可愛い、とチョコレートを口に含んだ和臣は云った。
「毎日ヴァレンタインだったら良いのに、って思う。」
「あ、そういう事ですか。」
「良いぞ、もっと世界と真逆の文化を生み出せ。日本最高。」
ヴァレンタインの基本は、男性が女性に…親子間でも夫婦間でも恋人同士でも花を贈る。日本は逆で、何故か女性が男性に物を贈る。其れもチョコレートを。
菓子会社の陰謀に喜ぶのは和臣位だろう。
全く有難いでは無いか、チョコレートの廃棄を恐れた菓子会社決死の策に、日本女が踊らされたのだから。
なので和臣、誕生日よりもヴァレンタインが好きで、二月十四日、署に着いた瞬間婦警に群がられるのが好きだったりする。其れと、和臣が事件で関わった女性達迄も署に集まる。十年前の事件関係者さえも、毎年毎年律儀にチョコレートを渡す。
チョコレート以外のプレゼントは、誕生日でも無いので興味無く、速攻で廃棄する。
最も此れは、“女に持て”“チョコレート好き”の和臣だから嬉しい日であり、全く関係無い世の男性諸君からしてみれば速攻廃止して貰いたい文化だろう。
「夏樹さん、ヴァレンタイン好き?」
「んー…、普通かな…。有難いんですけどね、如何せん僕は恋人居てましたし、御返しとか面倒だったので受け取りません。」
御返し…。
そう云えば和臣、毎年、其れこそ幼稚園時代から此の歳迄途切れる事無く貰って居るが、一ヶ月後に何かした記憶は無い。
「其れに、僕男子校でしたし、学生時代は…、はは。」
「え?」
約三十年、一度としてヴァレンタインデーから迫害された事のない和臣だが、夏樹の言葉に矛盾する記憶を思い出した。
夏樹の言葉が正しいなら、和臣にも空白の時間が存在する。
今の一度も、チョコレートの事しか考えていなかったので考えた事無かったが、良く良く考えるとおかしい。
「俺さ…、中高一貫の男子校だったんだけど…」
「え?」
「あれ?あの六年間、何で毎年貰ってたんだ…?」
夏樹が言う迄疑問等持った事無かった。和臣の中でヴァレンタインは“チョコレートの日”であり、“告白の日”では無い。
抑に和臣、幼稚園時代に貰ったチョコレートが発端で、二月十四日は大好物のチョコレートが貰える日だとずっと思って居た。
中学時代も良く判っておらず、え?呉れるの?有難う!と意味も判らず笑顔で受け取った。
「え…?」
「中学時代が一番多い気がする。何でだ。俺、男子校だったよ…」
高校時代になると、合コンした他校の女子生徒から大量に貰った。なので高校時代の学校で貰うチョコレートの記憶は薄い。
唯、一貫校、高校三年の最上級生になった年のヴァレンタインは凄かった。卒業を控えている事と、生徒会長だった事が重なり、高等部の後輩は当然、中等部の後輩迄もが、高等部の生徒会室に犇き、大量のチョコレートを置いていった。生徒会室が甘ったるいチョコレートの匂いで占領され、いやぁ人徳って凄いなぁ、と和臣は上機嫌で、然し全く無縁の役員からはボコボコにされた。
ライチの甘さをゆったり舌全体に覚える夏樹は、首筋を掻いた。
此処迄間の抜けた天然が珍しかった。警戒心が低いのかも知れない。
「卒業の時、凄かったですか?」
「あー、そうだ、そう。凄かったなぁ。卒業証書以外全部強奪されたなぁ。寒かったぁ。ジャケット迄取るんだもん。ボタンの無いジャケットなんか貰って如何するんだろうな。」
トリュフの様に柔らかい思い出を、ブランデーで楽しんだ。
「良く、御無事でしたね…」
「ん?何が?」
目の前で聞く雪子も、テーブル席の本物達も、夏樹の言葉を理解するのだが、此の天然間抜けの和臣は、何故自分が同情されて居るのか判って居ない。
「処女で良かったな、くふ…」
「あはははは!」
和臣の鈍さに我慢出来なくなった課長は吹き出し、菅原はテーブル叩いて迄笑った。
「あかーん、此処迄鈍い男は如何にも出来ん。」
「告白しても、首傾げた侭、俺も好きだよ、とか云いそうだ、あー傑作だ。」
「木島さん、そんなんで良く六年間無事でしたね…」
夏樹の言葉を漸く理解出来た和臣は、今更身震い起こした。
「女子校には明治から脈々と受け継がれるエス習慣があるけど、男子校に其の習慣は流石に無いだろう。」
「エス習慣…?」
「お姉様!宗お姉様!」
「おお妹よ!……此れがエス習慣や。」
菅原に抱き着いた侭課長は云う。
「女はくっ付く事で安心感を覚える生き物だ。」
「此れは生物反応で、犬でも猫でも、子供を抱っこするのは雌や。母親は抱っこする事で安心感を覚える。雄が雌に甘えるのは、母親を思い出すから。だから、男同士は余りくっ付かない。人間も動物も、雄は子育てをしないから、雄同士くっ付くと違和感を覚える。最近矢鱈ホモやバイが増えとるんは、父親が育児を始め、雄に触られる事に雄が抵抗を見せなくなったから。」
「因みに俺、今物凄く不愉快だ。」
「自分から引っ付いといて何云うか。」
「俺はベタベタするのが嫌いなんだ。不愉快だ。」
「だったら早よ離れぇ。こっちも気色悪いわ。」
二人のやり取りに夏樹は笑い、まどか達も云われてみればずっとくっ付いてた気がする、とストローを咥えた。
「そうなのか?」
「僕でも、どっちがどっちか判んない時あったもんなぁ。」
カラン。
時一の飲み干したスクリュードライバーが鳴いた。
「そう云えば、夏樹さんとまどかって、如何やって知り合ったんだ?ゆりかから、自分が紹介した、って聞いたんだけど。」
カシューナッツを食べる夏樹は、そうだったかな、と記憶を辿る。
「最初に会ったのはゆりかの方、其れは覚えてます。」
「何処で会ったんだ?」
「事務所ですよ。」
法律事務所…ストーカーの事で相談しに来たのかな、と思ったが、ゆりかは法学部の学生で、就職活動を始める三回生の頃から、夏樹の勤務する事務所で事務員のアルバイトをしていた。
「て事は、東条ゆりかも弁護士なのか?」
「まさか…、今無職ですよ?彼女。法学部出ただけで弁護士にはなれませんよ。」
「そうなのか…」
「一応、国家資格ですからね…、弁護士は…」
「医者と一緒ぉ。」
菅原の言葉に夏樹は向いた。
「俺等医者も国家資格やろ、此れにはすんごい時間と頭が要る。生臭い話するなら金もな。」
「そうなんです、時間が要るんです。国家資格を適応さすには。」
「医学部が何で六年間か知ってるか?木島さん。」
「いや…」
「大学は基本、四年や。其れが医学部は六年間。此の二年は、研修医として病院に勤務する実践期間や。四年で、全ての過程は修了し、国家試験を受ける資格が出来る。次の二年間で、自分が何科医になりたいかを決め、其れに必要な国家試験を受ける。其れに合格すれば、晴れてお医者様となるのだよ。内科医が、解剖検証出来るか?外科医が、風邪治せるか?麻酔科医が、骨折治せるか?整形外科医が、鬱病治せるか?そういう事。因みに俺、風邪は治せへん!心の風邪も治せへん!断言出来るわ、わはは。骨折なら辛うじて治せるわ。何となく治せるかな。治った感じに、治せるかな。治ったと思い込ませよ。」
「癌患者が、僕の所に来ても治りませんしね。治ったら僕、其れで宗教でも設立します。僕の話を聞けば病気は治ります!とか何とか云って。」
「弁護士は一寸違いますけど、似た感じです。」
弁護士を名乗るには、先ず国家資格である法曹資格が要るのは常識だろう。
法学部を出たからと云って自動的に弁護士になる訳では無く、法曹資格を持たない場合は、法学部卒業の学歴しか残らない。
ゆりかが此れに該当すると云う。
「で、弁護士って云うのは、名乗れる迄に幾つか過程があります。僕が一番判り易いですので、其れで説明しますと、先ず法学部を出ました。そして次に、二年、法科大学院に進みます。」
此の過程が医学部で云う六年間になる。
「そして、大学院で課程修了後、司法試験を受けます。此れに合格した場合、法曹資格を手に入れますが、此の時点で、何の問題も無く進んだ場合の年齢は二十四歳です。」
運が良かった、いや本当に…、と夏樹は過去の苦労を形にする、向日葵と天秤をぎゅっと握った。
そんな夏樹を見る菅原は、俺達医者もなんか欲しいな、メスとか注射器の形したバッチ、と時一に云った。云われた時一は、精神科医は何になるの、と苦笑う。
「そして。」
「未だあるのか…」
「未だ御座いますよ。資格を持ってから一年、司法修習と云う、研修期間があります。此の一年が終わって漸く、弁護士は弁護士と名乗れる様になります。此の研修期間の一年がない場合、其の人物は“法曹資格を持った一般人”であり、弁護士協会に登録されて居ないので弁護士では無いんです。弁護士、検事、裁判官、勿論医者も、此れ等国家資格には全て登録番号があります。研修期間が終わった時初めて登録されます。其の時の年齢が、二十六歳です。」
舐めていた、弁護士への道程を。
何処からとも無く湧く拍手、――菅原だった。
「凄いやろ、弁護士。医者も凄い。国家資格保有者を、もっと崇めなさい。僕達はそんな苦労して、此の地位を築いてるんです。金を持ってるんです。十代の青春を全て勉強に捧げたのだよ。」
菅原の言葉に、国家資格を持つ二人は目元を隠し、項垂れると重苦しい溜息を吐いた。
「遊びたかった、もっと遊びたかった…。医者になれば遊べる…医者になれば遊べる…十年後は明るいんだ…、そう思って居た時期、僕にもありましたよ…」
「なったはええけど…、遊ぶ暇が無い…、辛い…、何でわし弁護士なんかなったんやろ…」
「夏樹さん!?」
「ほんま、何でこんな苦労しとるんやろ…、マゾなんかな…マゾやろな…マゾとしか思えん…、如何もぉ、マゾヒストでーす。」
「弁護士で良かった事って、なんかあります?精神科医なんてなるもんじゃない。小児科にしときゃ良かった。」
「金がある位かな…、世の中銭やー、銭と女やー、わはは。そうだ、此れ見せてあげます。」
自嘲から一変、真面目な顔になった夏樹は、僕の苦労とマゾヒストリー、と云わんばかりに、鞄から小さめのノートパソコンを出した。
「此れが弁護士の登録場所です。此処に僕の番号を入れれば……」
氷が完全に溶け切ったディタフィズを画面を見た侭夏樹は吸い上げ、一瞬だけグラスを見た。
グラスを奥に押し、パソコンを乗せる。雪子は無言で新しいのと入れ替えた。
画面には登録番号と夏樹の顔写真、勤務先がある。
「ほら、出るでしょう?此れが内の所長です。格好良いでしょう!ナイスミドル!で…此れが、僕の先生かな。早く結婚すれば良いのに。」
置かれたグラス、又ストローで吸い上げた。
「資格無い奴が法律事務所で働けるもんなのか。」
「働けますよ、事務員だったら。まあ、此の事務員が、基本的に研修期間なんですけどね。先生達の雑用し乍ら後ろから付いて回るんです。ゆりかは学生でしたし付いて回る代わりに、書類整理と事務所掃除と接客、僕達忙しいんで、便利でした。無職ならもう一度やってくれないかな…」
「何で辞めたんだ?ゆりかは。」
「何で辞めたのかな…」
ストローでグラスの中身を攪拌する夏樹は、カラカラと鳴る氷の音で記憶を呼ぼうとした。
「何でだろう。ゆりかが辞めた時、釣られる様に弁護士も一人辞めたしなぁ。事務所の空気が一瞬で葬式になったな。所長とかゆりか大好きだったし、暫くショックで仕事しませんでした。もう一回戻ってくれたら所長も喜ぶんだけどなぁ。」
「え?弁護士が一人辞めた?」
「なぁんか暗い男でしたよ、五年前の事なんか覚えてないな。僕も新米で一杯一杯だったし…。あ、そうだ、思い出した。僕がゆりかとまどかを混同させた事件。」
「は?!」
酒とは有り難いもので、忘れていた記憶をポンポンと、ポップコーンの様に弾かせる。
夏樹の思い出した“混同事件”は、五年前の事務所で起こった。
風邪を引き、出勤出来なかったゆりかの代わりにまどかが出勤した、と云うもの。
周りが混乱しない様ゆりかに酷似させた為、皆、まどかをまどかと認識して居たが、余りにも瓜二つなので“ゆりか”とうっかり呼んでしまう、まどかもまどかで、然も当然の様に“ゆりか”と呼ばれても返事をした。
「一週間でゆりかが戻って来たんですけど、入れ替わった時期が判らなかったんですよ。偶然まどかが事務所に来て、動くゆりかに“ゆりか、大丈夫?”て云ったもんだから、全員驚いたんですよ。所長は知ってましたけど。で、まじまじと見て、判んないなぁ、と。で…」
「で?」
「まどかが事務所に来た理由ってのが、僕に会いたかったから、だったんです…。其れでやっと、二人の違いが判ったんです。僕、嫌われてると思ってたんだけどなぁ。」
「何で?」
「いや、僕が背後に立つと、化け物でも見る様な目で僕を見たので…。女の先生には愛想良くて…。で、其れを、まどかと付き合い始めた時、先生達に聞いたら、馬鹿だな夏樹、其れは照れ隠しだよ、なんて云われましたけど…、如何だか…、まどかと付き合い始めたらゆりかが似た様な目で僕を見始めてきつかったなぁ…、取って御免って云ったけど、絶対許さないからぁ!呪ってやるから!って…。あれ、僕が苦労してるのってゆりかの所為じゃないのかな、変な呪い掛けられたかも。」
見付けた…。
全てを混乱させる元凶を。
課長の大きな口元が真横に裂ける。
時一の大きな目が窄まる。
菅原の細長い指が口元を隠す。
和臣の釣り上がる目がぎらりと光ったのを、雪子は見逃さなかった。
五年前の、ストーカー被害。
そういう事かと、ブランデーの芳香に口元を歪めた。 
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