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歪んだ愛

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第2章
  ―10―

八時開店だけど、どうせ貸切でしょう?早く来れるなら早く来て、と雪子から連絡受けたのは五時過ぎで、其の時和臣は会議室で、作戦を練っていた。
「如何やって切り出すの?客全員警察とか、流石に勘付かれるんじゃないの。」
「良いんだよ、知れて。其れで逃げるなら、もう烏だ。」
烏……黒。課長独特の言い回しで、白の場合は白鳥になる。
「啼いた烏は撃ち落とせ。」
今回の作戦は、武力に加納と本郷、心理頭脳に和臣を配置した。入り口を加納と本郷で固め、加納の寝技をも振り払い逃亡した場合、本郷が追い掛け、其の間に本部に連絡、の計画だ。
夏樹の足の速さは判らないが、本気を出した本郷から逃げ切れる一般人は先ず居ないと云って良い。
飢えた狼から逃げ切れる人間が、果たして何人居るか。足でも、書類上でも。
本郷から目を付けられ、逃げ切れた犯人を和臣は見た事が無い。此の逮捕力、本庁だと異例の速さで昇進して行くだろう。唯、本郷は従順では無い。絶対に自分の信念を曲げないのだ。上から押さえ付ければ付ける程本郷は反発し、牙を剥く。加えて短気、其の一言に尽きる。
何とも無い事で直ぐに癇癪玉を破裂させ、其れを止めるのが井上。
本郷の事情聴取は、御前聞く気無いだろ、と言いたい程、本郷が怒鳴って居るだけだ。結局何が言いたいんだ、もっとハキハキ話せと恫喝に近い。女でも容赦無く、本郷の態度に泣き出そうものなら、泣く前に話せ、泣いて解決するなら枯れる迄泣いてろ、と云う。
なので極力事情聴取を任せない様するのだが、井上が聞いて居ても、何故か横に立つ本郷が、遅い、と怒鳴り出す。
凶悪犯相手になら本郷程適材人物は居ないが、被害者相手には向かない、何とも扱い難い男だった。
唯、殺人を繰り返す奴は滅多に居ないが、強盗や猥褻行為を繰り返す犯罪者達には相当恐れられて居る。取調室に本郷が姿現そうものならがたがた震え出し、悲鳴を発する。中には己のマゾヒスト欲を満たしたいが為、本郷に怒鳴られたいが為、猥褻行為を繰り返す変態も居る。被害者も、其れに付き纏われる本郷も堪ったものでは無い。罵声されるのが快感の変態なのだから無視すれば、と指摘してみたのだが、端正な其の顔が無言で睨み付ける行為も変態には充分な興奮要素だった。勃起した其れを見た瞬間癇癪玉は弾け、手を挙げる事が出来無い本郷は壁を蹴り乍ら罵声と奇声を繰り返した。
相手にしたく無い、と一度本郷の代わりに和臣が取り調べたが、刑事さんじゃ興奮しない、と拗ねられた。其れを聞いた本郷が、汚物を見る目で部屋を覗いたのだから此の変態は歓喜した。
御前は一度、死んだ方が良いと思う、俺の為に…。
刑事の云う言葉で無いのは判って居たが、本郷の云う通りだった。
もう逸その事、暴力団を相手にする、捜査四課或いは本庁の組織犯罪対策部にでも行けば良いのに。そう、和臣は思って居る。
此の真逆の性質を持つのが井上。女と子供に優しく、犯人に対してもゆったりした口調で話す。上から云われた事にハイハイと頷き、上の命令通りに動く。だから気分屋の本郷にずっと付いていけるのだ、或いは、そんな本郷にずっと付いて来たからそんな性格になったのか。基本的に“人を嫌う”と云う事をしない。人間、どんなクズでもせめて一つは褒められる場所がある、井上は其処を大事にする。
なので、息子からもクズと罵られ、死を歓喜された夏樹の父親を褒めてみて、と先程一寸聞いた。
井上は暫く考え、流石の井上でも保護出来ないか!?とワクワクしたのだが、子供に手を上げてねぇから上等だ、と言い切った。
夏樹の父親は、母親に手を挙げる事はあっても夏樹自身が手を挙げられた事は無い。そう考えると、クズはクズなりにクズ程の愛情があったのかな?とも思う。
和臣が最も嫌う犯罪が強姦であれば、井上の最も嫌う犯罪は子供への虐待だった。特に修学以下の幼児虐待になると人が変わる。酒でとろんとした濁った目が釣り上がり、普段全くと云って良い程感情を見せない井上が感情を爆発させる。
一度、母親の彼氏…如何にもな事件の時、理性が完全に消えた井上が、犯人の顔面に煙草を押し付けた事があった。其の場に居た本郷も、別室で見ていた和臣も、一瞬何が起きたのか判らず、一番に理解出来て居なかったのは煙草を押し付けられた男だった。一秒の、途轍も無く長い沈黙の一秒の後、男は椅子から転げ落ちのたうち回り、悲鳴を撒き散らした。
呆然と、眺める事しか出来なかった。
本郷に押さえられる犯人を見て、井上は、いひ、いひひ、と笑って居た。そして、判った?と、濁った黒目と長い髪を揺らした。
其れだけでも気分悪い和臣だったが、真横…同じに見ていた課長迄も引き付け起こした様に笑い出し、良いぞ井上もっとやれ、俺が許す、そんなクズに人権は無い、と煽った。
当然上に報告され、三ヶ月の減給、二ヶ月謹慎を井上は食らった。抑に、そんな卑劣な事をする男を保護する団体も人間も居ない、居たら居たで見ものだが。ニュースにならないだけマシだった。
そんな男に対しても、何か一つ良い所、を聞いてみた、答えは、女を垂らしこむ能力、だった。
加納は取り調べをしない。と云うのも、所轄で取り扱う犯人の頭脳は程度が知れている。高度頭脳を持つ犯人が居た場合、其れはこんな所轄で取り合える程生易しい犯罪では無い。詰まり、所轄で賄える犯罪の犯人の知能と、加納の知能が釣り合い切れず、犯人が加納の言葉を理解出来ないのだ。
そう難しい言葉でも何でも無いのだが、天才の言葉を凡人が理解出来ない。そして、最近の言葉使いを加納が理解出来ないのだ。
流行り言葉、とでも言うのだろうか、変に略したり、意味を履き違え言葉を使ったり、兎に角言葉が乱暴であったり、加納の知能にも限界があるのだ。
彼が何を云ってるのか判りません…日本語ですか…?と、涙目になる。中国語や韓国語の方が未だ理解出来る、と加納は云う。
世谷署一傑作な取り調べがある。
二ヶ月前、加納が配属され少し経った頃其の“事件”は起きた。事件自体は窃盗だったのだが、取り調べが“事件其のもの”になった。
余りにも犯人の言葉が判らず、本気でコリアンだと思った加納は韓国語で返したのだが、実は此れジャパニーズで、反日反日!と犯人が喚き出した。
其れだけは聞き取れた。
横に居た和臣も、中国語であれば先ず理解出来る、其れが出来なかったので、語調から韓国かと思って居ただけに驚愕した。
ぽかーんと加納は犯人を眺め、首を傾げると和臣を見たが、和臣でさえも日本人じゃないと思う程の言葉、井上に変わって貰っても、御宅、何処で日本語覚えたの?と聞き、本郷にも理解出来ない。其の時、一課に居た全員に犯人と向き合わせたが、誰一人として言葉を理解出来なかった。
そして此の犯人の言葉を理解出来たのが、少年課の刑事だった。すると不思議な事に、少年課の刑事は全員、此の犯人の言葉を日本語と認識し、理解出来たのだ。
初めてだった、同じ日本人、同じ日本語で通訳を用いったのは。
何故理解出来たのか聞くと、中学生とかもっと酷いよ、と教えられた。
なので後日暇な時、ちょろっと少年課の取り調べを見学させて貰ったのだが、まあ酷い。義務教育位受けてるだろう?幼稚園で何を習ったんだ、と劣悪な知識と言葉使い、態度に聞きたかった。
呆然とする一課刑事に少年課刑事はゲラゲラ笑い、中学生で此処の世話になる奴がまともな親、まともな教育受けてる訳ねぇじゃん、と世の中の仕組みを教えて呉れた。引き取りに来る親もまあ見事なもので、金髪少年を、ジャージ健康サンダル咥え煙草の父親が、矢鱈ゴテゴテした軽自動車に殴り乍ら罵倒し、乗せた情景を見た時は、日本終わったな、と痛感した。帰りドンキ行くぜ絶対、と後ろから云われた時は一課全員で笑い倒した。
抱腹絶倒とは正に此の事で、一課は世の中の劣化を笑い、少年課刑事の笑いは一課に向けられた嘲笑である。
「ふ、ふふ…」
聞いた雪子はグラスを回し乍ら肩を揺らした。
午後七時半、バー“ミッドナイト キャット”に足を運んだ和臣は、課長達が来る八時迄暇なので時勢の劣化の話を雪子に聞かせた。
カラン。
ドアーに垂れるカウベルが心地良い音を出し、もう来たのか、と視線を流した。然し其処に居たのは仲間では無く、月光を彷彿させるプラチナブロンドを、正に月の道筋の様に腰迄伸ばす男だった。
「ユキコー、オハヨー、今日もお互いガンバローね。」
「お早うヘンリー、頑張ろうね。」
少年の様な溌剌とした笑顔、成人で此処迄見事なブロンドを保っているのが珍しく、和臣は惚けた。
「一瞬女かと思った…」
「よねぇ、私も女だと思った。横の、ローザっていうバーのマスターよ。」
「ふうん。」
「何年か前迄、モデルさんだったらしいの。…レディースの…」
「……へえ…」
「なんか、最近そういう、性別無視したモデルが多いわね。」
「だな。」
云って和臣はミッドナイト キャットから出、本の数歩歩いた場所にあるローザを見た。雪子も釣られて覗き、開店前だから好きに覗いて良いよ、と店の前の掃除を始めた。
「あ、オレ、ヘンリーって云うの。」
「和臣だよ。」
「カズオミかー。」
チン。
エレベーターの停止音がし、ガゴンと鈍い音を出し開いたドアー、瞬間、あのヘンリーとやらの絶叫が聞こえた。
何だ!?暴漢か!?冗談じゃない…管轄外だよ…
うんざりと見た和臣だが、何、暴漢被害に遭って居るのは井上だった。
エレベーターを出た筈なのにヘンリーに抱き着かれる井上は其の侭又エレベーターに逆戻りし、ガゴン、虚しくドアーが閉まった。
其の半畳の箱から、拓也拓也会いたかった…、と熱烈な英語が聞こえた。
エレベーターは運良く動いておらず、ボタンを押した和臣は、半畳の密室で行われる暴行行為を眺めた。
「いや、見てねぇで助けろよ。」
「やっぱ御前もホモじゃん…」
「ゲイはヘンリーだけだよ…」
「そ、オレ男ダーイスキ。タクヤはもーっとスキ。」
「へいへい…判ったよ…、聞き飽きてるわ…」
ガゴンと又閉まるドアー。
「締めんな!」
「え?何で?」
「御前と密室に居ると、尻の警戒レヴェルが並大抵じゃねぇんだよ。」
「やだなぁ、拓也…」
流石に処女は強姦しないよ…。
薔薇色の唇が、井上の真後ろで歪に形を変えた。
英語が理解出来る自分を呪った。
和臣や雪子と話す時は片言の日本語だが、井上の場合だと双方英語だった。其れでヘンリーとやらゲイ男の国籍が判った。
イギリス人、納得してしまった。
ロンドンでは、良い男を見たらゲイだと思え、と迄云われる国だ。イギリス人は、ゲイであるセクシャルを隠す習慣が余り無い。ゲイですか?と聞けば、大抵の場合うんと答える。
イギリスに行った時、信号待ちして居るといきなり目の前の男二人組みがぶちゅっとした。何が起きたか判らず和臣は二人を凝視したのだが、周りのイギリス人は何事も無く、二人がキスしている事さえ知らない感じだった。
又別の場所で、此れはカフェだった、レジ待ちして居ると、前の女四人組の内二人が、イッチャイチャいやんあはんと、注文する友人を待ち、又此処でもぶっちゅぶっちゅして居た。
もう何なんだ、イギリスは…
イギリス人は暇だとキスする事が、二週間の旅行で判った。異性も同性も、多分、一日に十回は他人のキスシーンを見たのでは無いか。
唯、もう二度とロンドンには行かない。
此の身長、女顔、細さ、然も日本人…厳ついお兄様方に狙われた。本当は一ヶ月の滞在予定だったが、エレベーターで尻を触られ、振り向くと良い男がウィンクを呉れた事で、此れは確実にヤられるな、と痴漢に遭った翌日帰国した。
其れを話すと、ヘンリーは盛大に笑い、井上は同じ被害者意識で初めて同調した。
ミッドナイト キャットのドアーを開こうとする井上にヘンリーは、え?こっちじゃないの!?と本気で驚いた緑の目を向けた。
「本当はそっち行きてぇんだけど、今日仕事なんだわ。」
「…ユキコ、又クスリとウリやっちゃったの…?」
「失礼ね…、もう…して無いわよ…」
「御前もかよ…」
と井上は雪子に呆れ、雪子に対し「御前もか」と云った、という事は詰まり、此のイギリス人も薬物の前科持ちだと判った。
ゲイで薬物前科持ち…、侭イギリス人道を歩いて居る。流石は、水道水、紙幣、大学の手摺、果てはオムツ交換台にでも高確率でコカイン反応を叩き出す国だ。
不審の目を向けられる事に気付いたヘンリーは、日本ではしてない、と慌てて首を振った。
「因みに今迄何をした?」
「ニードル以外は全部したね。コカイン手に入れる為にプッシャーを恋人にした、マリファナ吸う為にディック吸った、もう、何でもありだったよ…、御蔭で身体はボロボロだ。」
ヘンリーは即答し、過去を嘲笑う顔で店に入った。
「あ、俺、良い事考え付いた。」
雪子から日本酒の入るグラスを受け取った井上は時計に目をやり、八時五分前、ガゴンとエレベーターの開く音にグラスを傾けた。
「流石課長、五分前きっかり。」
「…本郷は?」
「あれ?下居ませんでした?」
「え?…あのうろうろしてたの、やっぱり本郷か。本郷っぽいなーとは思ったけど、御前と一緒だと思って他人の空似だと思った。」
「其処迄似てんなら、声掛けて下さいよ…」
すると、矢張り課長でしたか、と、漸く辿り着けた本郷の声がした。
本郷、刑事の癖に重度の方向音痴で、ナビ操作でも迷うレベルだ。機械が大の苦手で、ナビに向かって癇癪玉を破裂させる。
店が入るビルの前で井上を一旦下ろし、駐車場に車を置いたのだが、少し離れ過ぎた所為でビル其の物が判らなくなった。困り果てていると、あの特徴的な三つ編みを見付け、いや然し目が合ったのだが三つ編みは一人で浮上した。
あれが課長で無ければ一体誰なんだ。
慌ててエレベーターに乗り込んだが、目当てのミッドナイト キャットは六階、課長が下りた後エレベーターは四階で停まり、だから四階だと四階で下りたが唯のフロアで酔った若者が踊って居た。
絶対違う、ともう一度一階迄下り、ビルにある看板を見て六階だと気付いた。
そして今に至る、という事だ。
「お疲れさん…」
「大体御前が一人で行くからだろう!」
「悪かったって…、つーか其の方向音痴、病院で診て貰えよ…」
「病院で治るのか!?なら明日行く。」
「…脳神経外科…、いや、認知症科かな…」
「俺は耄碌してない!」
「耄碌してねぇで其の方向音痴なら、御前、後五十年後、本物なった時如何なんだよ…、怖ぇわ…、其れで俺も耄碌してたら、二人で如何なるんだよ。御前は方向音痴で徘徊して、俺は女の尻見て徘徊してんのかよ。」
「拓也、其の前に殉職でもしよう。」
「嗚呼、其れが良い。俺が耄碌したらもう性犯罪で刑務所入るの判ってんだよ。」
「多分俺は、信号とかに向かって怒鳴ってるかもな。」
「変われ!早く変わらんか!とか普通に怒鳴ってそうだわ。」
「怖いなぁ、認知症。」
「なー。因みに御前、昨日の昼、何食べた?」
「………ええと……何食べたっけ…」
「マジかよ龍太、ヤベェな。認知症科行って来い。」
「何食べてたか教えて呉れ、不安になって来た。」
「何で俺が御前の食事内容迄知ってんだよ、確かに目の前で食べてたけどもさ。覚えてねぇよ。」
「駄目だな、拓也ー。」
「流石にさっき食べたヤツは覚えてるぜ。アレだ、ほら、アレ。ええと、アレだよ。」
「嗚呼、アレな。アレ。」
「アレなー、名前出ねぇなぁ。」
「……あ、ニョッキ。」
「あ、そそ、ニョッキだわ、ニョッキ。」
「ニョッキニョッキ。ニョッキを食べたな。俺はカルボナーラソースで、御前はバジルソースだった。」
「そうそうそう、思い出したわ。」
「ニョッキ食べました、課長。」
「良かったな。明後日辺りに今日の夕飯の事聞いてやるよ。」
「拓也、メモしとけ、ニョッキ。明後日聞かれる。」
「オキドーキー、ニョッキ。」
淡々と会話するだけに可笑しさが増す。一番笑うのは雪子で、何故笑ってるのかが、本気で此の二人は判って居ない。
此の二人の会話、今日日の芸人より面白いのだ。
真面目に受け答えする本郷、淡々と強弱無く話す井上、余計に面白い。
因みに本郷並みの方向音痴は病気であり、此れは空間処理能力の問題で、脳を入れ替えるしか無い。
「課長は何食べたんですか?」
「四川料理。」
「課長、本当好きね、中華系。」
「美味しいじゃないか。」
「油多くないですか?」
「イタリアンだって、オリーブオイルドバドバじゃないか。ペペロンチーノとか酷いわ。」
「もこみち。」
「うるせぇよ、龍太、黙ってろ。」
「済まん。」
雪子は黙って笑う。
偶に居るが、客同士で会話を楽しんで居るのに無理矢理入って来るマスター。話を振られ会話に入る、又はずっと会話し続けて居るなら判るが、いきなり会話に入って来られると、一瞬流れが止まる。和臣は其れが余り好きでは無い。
「雪子何食べた。」
「ピーナッツ食べたわ。」
「栗鼠か御前は。」
「ピーナッツ好きなの!」
「はん、流石“ナッツ”。」
「喧しぃわ。」
課長と雪子の会話に井上が一人笑った。
ナッツ、とは“頭のイカれた奴”と云うスラングだ。和臣にスラングは判らず、此れは良く理解出来なかった。
其処に、加納がポッと姿を現した。
八時十分、加納にしては早く来た方だ。
加納、何故か判らないが、約束をすると“約束の時間に家を出る”という変な癖がある。なので、加納にしては珍しい時間だった。
此れ幸いと、早速加納に此の会話を教えたら、ナッツ?と聞き返し、課長がすかさず、精神病院が第二の実家、雪子を指し、聞いた加納は当然笑った。
其処に又、菅原が、橘と時一を連れ姿を現した。時一は井上を見るや否や「カウンセリング受けました?」とニヤつき乍ら聞いた。
「うるせぇよ、時いっちゃん先生。健全な肉体と精神を持ってるわ。」
「セックス依存性は立派な病気なので、早くカウンセリング受けて下さいね。後、アルコール依存性の治療もして下さい。死にますよ、貴方。」
何時も飄々と、のらりくらりと相手を交わす井上を黙らせ、苦汁を味あわせる時一が怖く感じた。笑顔な分、尚更。
「でね、課長。」
「なんだ。」
「俺、良い作戦思い付いたんだけど。」
「なんだ、云ってみろ。」
同じフロアにある、あのローザで、自分と本郷は待機している。
此の店の狭さを少し甘く見ていたかも知れない。密度が凄く、息苦しささえ感じる。
其れに、署で和臣が最初に指摘した警戒心、井上が感じるのだから夏樹は其れ以上感じる筈だ。最悪、カマ掛ける前に逃げ出す可能性があると指摘した。
「相手、弁護士だろう?加納さんが居る時点で不審に思うって。刑事は、コンビ体制。夏樹は其れを良く知ってる。悪いけど御宅等、プライベートでも連む程仲良く見えねぇよ。加納さん。」
「はい。」
「カマ掛け始めたら電話繋いどいて、俺、聞いとくから。」
「あ、そういう事か。」
理解出来た課長は井上の提案を素直に呑んだ。と云うのも、此のビルの構造にある。
此のミッドナイト キャットより、ローザの方がエレベーターに近い。逃亡しようとする夏樹を加納で引き止めるとして十秒、此の黒帯から逃げられるとは思わないが、夏樹が武道を心得ていたら話は違って来る。互いに構え、夏樹の方がコンマ早く技を出したら加納が床に倒される。
此の狭い店内で背負い投げでもやられてみろ、椅子は倒れ、其れで足が止まる。其の隙に逃げた場合、エレベーターはガラ空きで、いや、非常階段を使うだろう。
此処で、井上達が別の場所で待機して居た場合、十秒は時間がある。エレベーターを塞ぐ事は可能で、非常階段、此処に逃げ込めば袋の鼠である。
此の非常階段の一階の扉、セキュリティ上火災報知器が作動しない限り開錠されないのだ。外からは当然、中から開ける事も出来ない。ノブが無く、外からも内からも一見すると唯の壁で、火災報知器が作動すると押すだけで簡単に開く仕組みになっている。
そして此の非常階段とエレベーター、ローザの前を通らなければ絶対に行く事が出来ない。
夏樹が怪しい動きをしたら先ず音声で判り、烏、そう云えば良い。
課長から許可貰った井上は、日本酒の入るグラスを一気に飲み干し、本郷を連れてローザに向かった。
「なんて講釈垂れたけど拓也。」
「正解。木島さんと一緒に居たくねぇだけだよ。ハイ!ヘンリー!来たぜー?」
「ウェルカーム!拓也!リュタもグッド イブニーング!夜は此れからさ!」
「相変わらずテンション高いですね、貴方。今晩は。」
「ハイテンションが俺の取り柄さ!リュタの英語は相変わらず上品だね。」
「其れが取り柄ですから。」


*****


「橘さん、大丈夫ですか?」
何度もイヤフォンで、分析した肉声を聞く橘に和臣は向いた。
「大丈夫です、聞けば一発で判ります。電話でも判りますが、一度電子変換されてしまいますからね、本物を聞きたい。俺の耳を信じて下さい、大丈夫です。夏樹さんが、たった一言でも俺の前で話せば分析出来ます。後、此奴です。」
テーブル席でパソコンを立ち上げ、周波数をじっと見た。
此のパソコンには特殊マイクが内蔵され、分析された音声と一致する周波数があれば即座“一致”と教えて呉れる。こうして皆が其々喋る今、当然反応は無く、目紛しい速さでパソコンは“不一致”を繰り返す。そして、一度“不一致”と認証した音声は拾わない賢い橘の相棒である。
「凄い…」
雪子は目の前で広がる、無縁の状況に興奮して居た。
「凄い、凄い!警察ってこんなハイテクなのね!」
「俺達現場はアナログだよ。橘さん達は科学を相棒にするけど、俺達現場は、直感が相棒だから。」
和臣の言葉に時一は、僕もアナログですよ、と加えた。
「そうでしたね。」
「人の気持ちは、電子では判らないですから。」
そう云った時一だが、橘がふっと、そうとも云えませんよ、と鞄からiPadを取り出した。
機械は苦手だなんだと云い、携帯電話もガラケーの癖に、文明の利器だけはしっかり持っているらしかった。良く見るとパソコンもMacBookだ。
流石は物理担当、“林檎”はお好きな様子だ。…だったらiPhoneにすれば良いのに。
「夏樹さんが来る迄、俺、皆さんで遊んでます。」
普段は、何が悲しいのよ貴方…、と聞きたい程憂い纏う橘の顔だが、今だけは随分と生き生きする。
「俺、ちょーっと暇でしたんで、アプリ作ったんですわ、先生ぇ。」
「へえ、どんな。」
「音声を読み取って、相手がどんな気持ちか、てアプリです。」
市場に出せよ、と其の場に居た全員が思った。
何が、「機械は苦手」だ。そんな人間がプログラミングし、暇潰しでアプリ等作れる筈が無い。
「何やろ、ポリグラフに似てますわ。たぁだ此奴は、声の強弱で感情を分析するだけですから、七割、ですかね、分析率。」
一体誰だ、こんな秀才に林檎等与えたのは。
蛇か?秀一なのか?
パッドを動かし、音声を拾う橘に皆黙った。
抑、何の目的がありそんなアプリを作ったのか。
「先生ぇ、なんか喋って。」
「侑徒ちゃん。」
「うっふっふ。」
キュン…とパッドから音がし、分析されたのは、“第一音声:信頼”“第二音声:歓喜”だった。
第一音声は菅原の“侑徒ちゃん”、偶々拾った橘の“うっふっふ”が第二音声。
「何で宗一で試すの?」
キュン…。第一音声:不信感。
時一の硬い声色をアプリはそう分析し、最悪其のアプリ!と喚いた瞬間、第一音声:憤怒、と出た。
一同に笑い、其れ百パーセントじゃないのか?と云った和臣の声を、第一音声:歓喜、と分析した。
「凄い!」
第一音声:感心。
雪子は益々はしゃいだ。
面白くないのは時一である。橘一般人が暇潰しに作ったアプリ如きに人間の心理状況が判っては、精神科医等不要になって来る。
「お飲物、皆さん何に致しますか?」
第一音声:従順。
橘は一人で其のアプリで遊び、其々から出される言葉を観察していたのだが…。
「宗。」
此の一言に橘の目付きが変わった。
第一音声:愛情。
誰だ、一体誰だ云ったんだ。
画面を見ていた橘には判らない。
「何や。」
第一音声:愛情。
え?と顔を上げると、ワイングラスを菅原に差し出す課長との情景があった。
「やだ、嘘…」
パッドを胸に押し付け、二人を凝視した。
「雪子。」
「なぁに?んふふ、和臣さん今日も格好良い。」
「…何云ってんだか…」
第一音声:愛情、第二音声:愛情、第三音声:羞恥。
画面と周りを交互に見る橘は、面白い程目が輝いた。
こう言う使い方もあるんやなぁ。
「木島さん。」
第一音声:無。
「御前、何飲む。」
第一音声:嫌悪。
無…?無ってなんや…。
すると面白い事に、加納の言葉全てに“無”と云う単語が付いた。
無反応、無関心、無感情。
加納の言葉には何も無かった。
え…?
そんな人間が居るのか、ノンアルコールビールの瓶を傾ける加納を橘は凝視し、時一を一瞬見た。其れに気付いた時一は自然を装い橘の横に座り、パッドを見た。
まさか、嘘だ。
夏樹から和臣へ連絡が来る迄、八時四十分迄の二十分間、加納の言葉に、一度として“無”以外のものは無かった。
何だ、此奴…。
感情を電子で表さない、表せない人種が一つある。
其れは、サイコパス。 
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