| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

歪んだ愛

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第2章
  ―6―

時一から呼び出し受けた筈なのに、研究所に居るのは橘だけだった。和臣と加納に気付いた橘は振り向き、ヘッドホンを肩に掛けた。目の前にあるパソコン画面には音声周波数が波の様に打っている。
「何か。」
「時一先生は…?」
「あ、もうそんな時間か。」
腕に回る時計を見た橘は電話を取り出し、素早く文字を打つと又画面に向いた。
数年前迄は開閉式の…所謂ガラケーを使っていた筈なのに、橘のメールを打つ仕草は酷く懐かしく映った。時たま、何かの機会に前に使用していた電話を弄る事あるが、如何やって操作するのか…反応しない画面に無意識に触れた時はゾッとした。
こうして人間は、機械に操作されるのだなと痛感した。
“侑徒ちゃん、メールですよぉ”
何処からとも無く湧き出た菅原の声に和臣は振り向き、加納も又姿を探した。
「十分程で戻るそうです。」
其れだけ云うと橘はヘッドホンを肩から完全に外し、席を立った。無言で二人をすり抜け、研究所を出ると隣にある部屋に入った。此方は硝子のドアーで、中には自販機がある。其の前に楕円形のテーブルがあり、橘は椅子では無くテーブルに腰掛けた。
「何?」
「あ、喫煙所か、此処。」
橘の口角下がる唇に挟まった煙草を見た和臣は同じに中に入り、椅子に座った。精魂尽き果てたボクサーの様に項垂れる橘はぐるぐると首を回し、天井に向いて呻いた。
「きっつい…、寝たい…、頭痛い…」
忙しなく短い間隔で煙を出し入れした橘は消す事もせず灰皿に煙草を置いただけで喫煙所から出た。
「木島さんは?」
「おる。」
廊下から響いた良く通る時一の声に和臣は、半分だけ吸った煙草を消そうとしたが、橘と入れ替わる様に時一が入った。
肉厚な唇に煙草を捩込む時一は、火を点ける前に廊下に顔を出した。
「橘、一時間寝てな。先生、後二時間は戻んないから。」
「大きに、そうさせて貰いますわ…」
聞いている此方が疲労を覚える橘の声、大きな目を剥き、ライターを探す時一の煙草に和臣は火を点けた。
「なぁんで僕のライター、直ぐ家出するんだろう。」
「無くなっても良いって思ってるからじゃないですか?俺も使い捨ての時しょっ中無くしてましたから。」
「いやぁ、どんなライターでも僕無くすんだよねぇ。十万分は無くしてるだろうな。」
「あはは。」
時一の嘆きに笑った所で、又エレベーターの開閉音がした。
「…あ、あれ斎藤さんか。髪解いてるから誰か判んなかった。」
癖なのか、緩くウェーブを掛けているのか、肩甲骨迄伸びる長い髪が横顔を隠しているので判らなかった。肘迄捲り上げる白衣から伸びる手首にはシュシュが掛かっており、其れを歩き乍ら外すと一瞬で髪を結んだ。そんな斎藤の動きを、足元から見上げる純白の猫、丸い口元がヒクヒク動き、笑っているみたいだった。
「斎藤さんの猫か…」
「斎藤さん、変な人でね。」
「うん。」
「虎飼ってるんだよ。」
「は…?」
煙りを吸い上げるファンの音が無駄に聞こえる。
「何で又…」
「本職で中国の田舎に行った時、虐待されてるの見付けたんだって。」
「うん。」
「で、斎藤さんの奥さんの実家、すっ…ごいリッチなの。」
「うん。」
「日本円で三千万、斎藤さんの為に奥さんがぽーんって出したの。其れが換金されてみなよ。田舎だよ?都市じゃないんだよ?大富豪だよ。虎一匹渡すだけで。」
「うん。」
「頭おかしいよね。」
其れと如何、研究所で猫を連れ歩いているか繋がらないが、途轍もなく変人なのは判った。
虎一匹に三千万と云えば高いだろうが、何、金持ちの金銭感覚等無いに等しいのだ、フェラーリ一台買ったと思えば良い。そうで無くとも、喫煙所の外、廊下で暇そうに電話を弄る加納の車は総額二千万なのだから。
「だけど其の斎藤さんの口癖。」
「うん。」
「離婚したい。」
和臣の笑い声に加納は二人を一瞥した。
斎藤は、無理矢理にフェラーリを買わせ、別れ様と云って居るのだ、笑うしかない。ホストでももう少し温情はあるだろうに。
「其の虎って…」
「其の虎を飼う為に一億五千万で豪邸建ててる。勿論奥さんは、ええよええよ、八雲がええならええよぉ。」
「其れで、離婚したい…?」
「離婚したい。」
「何時か刺されるんじゃないのか?」
「いやぁ、刺されないよ。奥さん、斎藤さん引き止めるのに湯水の如く金出してるもん。愛情の油田?見てて可哀想になるんだけど、奥さんが其れで満足なら良いかなって。で、あの白猫ちゃんは、奥さんが拾って来たの。其れを身肌離さず可愛がってんだから、奥さんには嬉しいでしょうね。こういうのをなんて云うか知ってる?」
大きな目に見詰められた和臣は首を振った。
「共依存。」
「共、依存…?」
「東条ゆりかが、其れです。誰かに依存しなければ自分を持たないまどかさんは、生きて行く事が困難です。僕達からしてみれば理解に苦しみますが、まどかさんからしてみても、僕達は奇妙に映ります。極端な話、電車一つ乗るにしても、まどかさんは誰かに“確実に”目的地に着く切符を買って貰わないと乗れません。自分で買った切符、乗った電車で本当に目的地に着くのか……若し着かなくても「あの駅員の指示に従ったのに…私の所為じゃないわ」と思えるからです。依存性人格障害の特徴は、異常な迄に自分を低く見、自己犠牲をして迄相手に合わせる事です。自己犠牲、此れが、東条まどか最大の特徴です。そして、共依存。ゆりかさんは、まどかさんが自分を守っているという気持ちで動いています。病弱なゆりかさんはまどかさんに依存し、依存される事でまどかさんは一層自己犠牲を働かせます。ゆりかを守るのは、私。其れだけの為に存在して居たまどかさんは、夏樹冬馬で変わります。依存性人格障害は、全ての人間に依存します。共依存は一定の人物に依存します。」
其れだけ云うと時一は椅子から立ち上がり、喫煙所を出た。
心理学に詳しくない和臣は全く意味が判らず、真意を探る可く喫煙所を出た。
此れでは、東条ゆりかが依存性人格で、東条まどかが共依存になる。
和臣が自分の後を追う事を判って居た様に、時一は休憩室にあるホワイトボードに背を向けて居た。何かに取り憑かれた様にホワイトボードに文字を走らす時一に声を掛けれず、白猫を抱いた斎藤が、時一さんが本気出しよるわ、と滑らかな毛並みを手の平に教えた侭答えた。
「滅ぇ多な事無いと、時一さん、本気出しよらんからな。武者震い起きるわ…、今回わいの出番は無いけど、橘さんも本気出しよるし、先生ぇもせや。ええなぁ、活気あるわ。」
くつくつと斎藤は笑い、くるくると、腕の中に居る猫が喉を鳴らした。
白いボードが黒くなった時、東条まどかとゆりかの相互関係を記したボードの横に新しく二重式のボードを出し、又一心不乱に時一は黒く染めていった。
「依存性人格障害は、八つの項目の内五つ、当て嵌まると認定されます。」

1・自分の生活の主要領域を、他人に決めて貰う。……起床時刻、食事内容、趣向。←東条ゆりか、夏樹冬馬の趣向
2・支持又は是認を失う事を極端に恐れる為、他人の意見に反対意見を出せない。……勤務態度。
3・自分自身の考えで計画を始めたり、物事を行う事が困難。……過剰な迄の病院付き添い。
4・自分の面倒を見る事が出来ないという誇張された恐怖の為、一人になると不安或いは無力感を感じる。……友人の多さ、連絡のマメさ。
5・自分一人が残され自分で自分の面倒を見る事になるという恐怖に、非現実的な迄に捕らわれている。……助言者が居ない事への恐怖。
6・日常の事を決めるにも他人の助言と保証が必要。←東条まどかの趣味や趣向を第三者に聞いた時、誰も思い浮かばない。

白いボードが黒くなった所で時一は二重式のボードの余白を下げ、赤ペンを持った。

7・他人(母親、周り)からの愛育及び支持を得る為に、不快な事(ゆりかの面倒見、過剰な活発さ)迄、自ら進んでする。
8・一つの親密な関係(ゆりかの喘息)が終わった時、自分を支えてくれる別の関係を必死で求める。……夏樹冬馬。

「以上が、依存性人格障害を診断するに当たっての項目です。」
文字であるのに、東条まどかが目の前で息をしている錯覚を覚える程だった。此の短期間の少ない情報で、良く此処迄分析出来たと思う。
靄がかった様に曖昧だった東条まどかの姿、其れが濃く見えた気がした。
「東条まどかは、東条ゆりかで居なければなかったのと同時に、対局出なければならなかった。唯一つ、僕に判らない事があります。」
何方がまどかで、何方がゆりかなのか。
東条まどかが濃く見えたのは錯覚なのか、二人を深く追うごとに出口の見えない迷路を進んでいる気分だった。 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧