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歪んだ愛

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第2章
  ―4―

タオルで髪の毛の水気を切る和臣は、ベッドの上で光る電話を凝視した。丁度風呂に入った時間に不在着信が入っており、登録していない番号に首を傾げた。着信時間は二十五秒…留守番電話サービスに接続する迄と長い。其れだけ長く掛けた側なら又掛けて来るだろうとドライヤーを手にした。中途半端に乾いた時、又鳴った。
「はい。」
「あ、出た。長谷川だけど。」
「はい?何方の長谷川さん?」
「科捜研の長谷川。」
あー、と和臣は頷き、然し番号教えてただろうかと電話をスピーカーにした。時間も時間、夜中の一時前に掛けて来るとは余程急用だろう、そうなれば家を出なければならないかも知れない。
「なんか用か。」
コォーーーとドライヤーを弱く流し、秀一の声を聞いた。
「おいおい、御前、今日誕生日だろ?」
「は…?」
ドライヤーを止め、電話に表示される日付を見た。確かに自分の誕生日が其処にはある。完全に忘れていた和臣は複雑な気持になった。
一番最初に云ったのが秀一、出来れば其れは妹に譲って貰いたいたかった。其の妹は寝ている。
「良く覚えてたな。」
「俺の記憶力を舐めるな。」
「ま、有難う。」
「今から出て来ないか?」
「何処に。」
秀一が指定した場所は自宅から車で三十分程の距離にあるバーだった。今の時間なら二十分以内で着くだろう。
「直ぐに帰して呉れるか?」
「ワイン一杯で帰すよ。」
四時迄に帰宅すれば良いだろうと和臣は家を出た。タクシーはあっさり捕まり、一時少し過ぎに着いた。
小さなバーで、十人入れば埋まってしまう程の広さ、密度は既にあった。
秀一、課長、そして菅原が居た。カウンター内に居るのは女で、和臣を見留めると看板を中に仕舞った。
「何が記憶力だ。」
カウンターに座る菅原を見る様に秀一と課長は狭いテーブル席に座っている。疑問は解凍し、課長が云ったのだ、秀一に和臣の誕生日を。
「何の事。」
ゆるゆるとグラスを傾ける秀一はシニカルに笑い、ポケットから箱を出すと和臣に投げて寄越した。
其れは和臣の愛煙する煙草で、秀一は煙草を吸わない、一応此れがプレゼントなのだろうと受け取った。
「良く判ったな、銘柄。」
「此れは推理。俺が記憶するに和臣は“赤”が大好き、で、几帳面。赤が好きで几帳面…、赤マルのボックス、だろ?」
「正解だよ。」
ジャケットから吸い掛けの煙草を出し、渡された物と一致する事に菅原はおおと歓声を上げた。
「因みに先生は、赤ラークだって云った。」
「負けた、ほら。気ぃ向いたら吸って。」
菅原から投げたられた煙草、其の菅原の手元にある煙草はハイライトだった。態々自分の為に買って呉れたのかと、嬉しくなる。
「課長は?」
片眉上げ聞いて来た和臣に女がグラスを渡した。
「ワイン。」
「ワインは課長の好みじゃん。」
「…雪子(ゆきこ)、グラス引け。」
雪子と呼ばれた女は猫みたく素早い動きでグラスを引いた。目尻から跳ねたアイラインと長い付け睫毛が一層雪子を猫に見せる。暗い店内でもはっきりと判るキラキラした瞳、赤いマニキュアが塗られる爪は手入れ仕立ての様に尖っていた。
じっと自分を見る和臣に雪子は小首傾げ、ゆるりと微笑むとグラスを渡した。
男三人の目が和臣に集中した。
「ほらな、言った通りだろう。」
課長の声に和臣はテーブル席に寄り、ワインが注がれるのを見た。
「木島さんて、こんなんが趣味なんか。」
「うん?」
「こんなん、とは失礼だわ、菅原さん。」
「あはは、堪忍。」
菅原のグラスを下げ様とする雪子に菅原は慌てて謝罪し、和臣にグラスを向けた。
「なんぼなったか、何て聞かんぞ?おめでとさん。」
「有難う、忘れてました。」
近付いたグラスに自分のグラスを寄せ、続けて秀一に向けた。そして課長にきちんと向けた。
「有難う御座いますね、課長。」
「いや、本当はな、一時間前に思い出しただけなんだよ。携帯見て、十四日?木島の誕生日じゃないか、って。で、其れを二人に云ったら呼べ呼べと煩い。」
「だから空いてたんですね、ワイン。」
「飲んだ後に気付いてな。そしたら宗一が、煙草あげようって。」
「で、俺は赤マルって云ったの。」
「俺もなぁ、木島さん見た時、此の人赤マルっぽい!て思たんやけど、同じモン送んのもやぁやし、違ごたら敵わんやん。でぇ、コンビニ行って、赤い煙草なんかあるかなぁて見てたら赤ラークがあったんよ。」
そんな無駄な推理せずに、毎日自分を見る課長に聞けば良いじゃないかと思うのだが、趣向品は本当に人の気持ちが大きく表れる。
喫煙者の人間は他人の煙草でもあっさり覚えられるが、課長達非喫煙者、加納の様な嫌煙家には全て同じに見える。喫煙者から云わせて貰えば全く違うのだが、非喫煙者には無差別にサリンを振り撒いているのも同じなのだ。
金出し何を有毒摂取してるかと思われるが、此ればかりは仕方が無い。税金納め死に急いでる、としか答え様が無い。
時たま一般人から「俺達の税金で生きてる癖に!」と公務員は云われるが、公務員だって一応は住民税やら保険料やら年金は納めている。警察や役人だけが何故そんな事云われるのか判らない、だったら、国公立大学附属病院に勤務する医者(菅原)も、大学院の研究所で働く学者(秀一)も、皆税金泥棒ではないか。私立大学の研究施設とて国からの助成金があるではないか。
大体、月三十万も貰っていないのに此の扱いは幾ら何でも酷い。公務員というだけで目の敵にされる。公務員に親でも殺されたのかと聞きたい。
生活保護受給者に暴言吐かれた時は絞め殺し、其の税金を自分に回そうかとさえ思った事がある。
一度本郷が、不正受給では無く本当に病気で働きに出れない受給者に向かって「クソしか量産出来んのに何故生きてるんだ、御前が無駄に生きてるから税金が掛かるじゃないか、働かない人間に生きる資格は無い、働けないとは即ち人間の資格を失ってる、牛豚以下の存在だ、そんなに鬱病が酷いなら膨大な入院費を納めて生きろ」と言い放ち、何十枚にも及ぶ始末書を書かされた事がある。相棒の井上から、人権団体に訴えられるぞ、と云われたが、そんな場所に訴えるまともな精神があるなら働ける、其れが罷り通るなら資本主義の意味が無い、と最もな事を云った。流石に其処迄は云わないが、働かない人間に云々は賛同した。聞いた課長は腹を抱え笑って居た。牛豚はそうだよな、クソ垂れ流すがきちんと存在する理由があるよな、と。
公務員の給料云々で難癖付ける輩は社会主義国家に移住すれば良いのではないか、と最近和臣は思う。
生活保護受給者に厳しい本郷だが、批判はして居ない。健康で働く意欲があるにも関わらず全く仕事が見付からない、そんな受給者に対しては優しい。だから本郷、年寄りや資本主義から迫害された誠の弱者には、仏の如く優しい。本郷が交番勤務時代、勤務する交番に老人が集まるという奇怪な現象が起きた。宅老所じゃないんだけどな、と云いつつ相手する。又、家族も場所が場所なだけに安心すると云う。書類整理しかしない本郷にも、時間しかない老人にも良い暇潰しだった。五時になると本郷が一人づつ老人を家に送り、其の侭帰宅する。何時も早口で話す癖に、老人相手だとゆっくりだ。痴呆入った老人をすんなり家に送り届けた時は驚いた。本郷の管轄内の老人網は、行政以上に凄い。老人専用の携帯電話を持つ程だ。此の電話が鳴ると本郷は、今度は誰が徘徊してるんだ、とうんざりする。
抑、老人の徘徊等は生活安全課の仕事、其の途中事故があれば交通課で一課の仕事では無い。刺されたりしたら受け持ちだが。
こういう公務員も居るのだから、給料泥棒等と腐さないで頂きたい。
何故そんな本郷を思い出したかと云うと、雪子が大変世話になったと云ったからだ。なんでも雪子の父親は徘徊癖が酷く、亡くなる迄糞尿垂れ流し徘徊していたらしい。
「ねえ、課長さん。今度本郷さん呼んでよ。」
身を乗り出し聞く雪子に課長は首を振る。
痩せこけた野良猫みたいな貧相な身体付き、イブニングドレスの胸元はスカスカで胸の膨らみ依り胸骨ばかりが目立つ。長いスカートの下は見えないが、枯れ枝の様な細さを持つ足が想像出来る。
其れに知れず、和臣は欲情した。
「彼奴は若い女と酒嫌いで有名なんだ。」
「まあ、残念。」
キラキラした雪子の目が和臣に向いた。
「其方の刑事さんは?お好き?」
向いた笑顔、慌てて笑い返した。
「酒も女もだぁい好き。」
「あっはは。」
真っ白な歯を大きな口から見せる姿は、猫が欠伸している様に見える。
此処迄細いと、大概笑顔は皺だらけで見るに耐えないのだが、雪子は、元が細いのだと判る。と云うのも、笑うと頬がぷっくりと膨れるのだ。
頬っぺた、可愛い…。
未だ一口しか飲んで居ないのに酔った気分だ。
「あたしもだぁい好き。特にお酒はね。」
「此奴、此れで焼酎一本空けてるからな。」
「え!?」
「なんで云うの?」
「一本て!?」
「なぁに、本の一リットルさ。消毒にもならねぇやい。」
「嗚呼、吃驚した、一升かと思った。」
雪子の大きな口は益々開き、笑うだけ笑うと真顔で和臣を見た。
「良いよ、後八百、飲めるよ。未だ未だ素面よ。」
大きな目を開き、挑発する様に雪子は首を傾げた。
「一日何リットル飲んでるんだよ。」
「…二リットル位かしら。」
「木島、此奴、本当に底無しなんだ。一回俺と井上と此奴で飲み比べしたんだけど、俺が一番最初に潰れた。」
「井上さん!そう井上さん!彼の人凄いわよね!全然酔わないの。あたし吃驚しちゃって。一升空けてもケロっとしてんのよ。」
「井上はなぁ、彼奴、体液という体液、細胞という細胞、酒で出来てるからな。クラックベイビィならぬ、アルコールベイビィだ。アルコールの羊水で育ったんだろう。」
「俺、酒好きだけど、日本酒一リットル飲んだら流石に酔うよ?」
「なんでそんなに飲めるんだ?」
減ったか如何かも判らないグラスを傾ける秀一は、三人の話を不思議そうな目で見た。
「此奴下戸なんよ。」
菅原の指摘に、飲めるのはワイン一杯位と云う。
「斎藤も飲めん。本当つまらん。」
「ドライバーに徹底する。」
「御前、今飲んでるじゃん。」
「え?此れ、ワインに見えるの?」
「フルボディによぉく似せた紛いもんよ。」
詰まりノンアルコール。
和臣の咥えた煙草に火を点ける雪子の目に、視線が固まった。雪子が瞬きする度、心拍数が上がる。酔った様な不安定な足元、世界に二人居ないんじゃ無いかと錯覚させる様な雰囲気、現に和臣の視界は、雪子しか捉えて居なかった。
二人切りだったら、其の唇に自身の唇を重ねて居た。
出会って三十分も満たない、何も相手の事は知らない、だのに和臣の心ははっきりと雪子に囚われた。
カウンター席に座る菅原は、其の熱い和臣の視線に気付き、課長と秀一に笑い掛ける。
「俺達は如何やら御邪魔の様だ。」
菅原の声に和臣はハッとし、雪子から視線を離した。
「お気に召して頂けたか?俺のプレゼント。」
ワインを流し込む肉厚に唇、何時に無く笑う。
「一寸本当に、駄目、課長。」
照れを隠す様に和臣は一気にグラスを空にし、自分で注ぎ足した。
「此れだから酒って怖いな。下戸で良かった。」
キリキリとノンアルコールを流す秀一は、まるで思春期に近い和臣をからかう。
「娼婦が御入用なら、あたしは如何?」
「生憎日本は売春が禁止されててな。無料で良いなら喜んで。」
「あっはは。」
課長は笑う。
「御前の悪業教えてやれ。」
「殺人以外ならしたわね。」
細い鼻梁、雪子は細い人差し指で撫でた。
「…薬と売春の前科持ちか。」
「飲み屋をやってて、先ず売春をしない女は居ないわね。金持ちの愛人だって、結局は金銭が絡んでるんだから売春よ。あたしは一寸其の前に悪い事しちゃってただけ。」
「ヘロインか?LSD?MDMA?マリファナなんて生温い事云うなよ?其の鼻を撫でる仕草はコカインかな?」
「流石ね、お見事よ。五年前迄コカイン大好き人間だったわ。今じゃ立派なアル中よ。二十三なのに。」
「自覚あるだけアル中じゃない。」
「木島、忘れてる様だが云うが、今日は非番だぞ?」
四時迄に帰れば良い、は車の運転に関係する。アルコールを摂取して八時間以内は車の運転は出来ない、と云う事だ。勿論、此れでは法律に反する、出勤はタクシーを使うにしろ、和臣の起床は七時だ。四時半に帰宅出来たとして二時間半は眠れる。
秀一から呼び出し受けた時、一番に確認したのは其の時間だった。
刑事と云う生き物は、事件が起きると二三時間睡眠はザラ、丸二日寝ない時もある。ブラックと云われる民間の会社等、刑事に云わせてみれば、家に帰れるだけマシじゃないかと思う。二時間半眠れれば和臣には良かった。
然し、非番と聞くとなると、和臣の喉は鳴る。
「日本酒、頂けるだろうか?」
「木島も強いからな。」
「ほんに?ほんなら飲もや!俺も休みなんや。」
菅原の言葉に秀一は大きく唸り、やだ本当に勘弁して、と眼鏡を外した。
「酔った先生、本当面倒臭いんだよ。変に絡んで来るし、然も重い!」
貴方だけは素面で居て、と秀一に見られた課長はゆったりとグラスを傾けた。
課長の動きは、一つ一つがゆったりとし、ライオンの様に見える。顔もライオンに似る。全体を見ると綺麗なのだが、パーツ全てが大きくだからと云って其々の主張は無い。
大きな身体と云い、王者の風格をする。
秀一は蛇。眼光が矢鱈に鋭く、犬歯が無駄に尖っている。スルスルと動いている様だが、蛇は案外動きが素早い。グラス一つ動かすにしてもかなり切れがある。
「甘口と辛口何方が良い?熱燗?冷?」
「俺、日本酒は甘口が好き。」
「あ、だったら良いのがあるわ。スパークリング日本酒。物凄く甘いの。」
菅原の好みは知るのか、菅原の酒を作った雪子はグラスを渡し、一旦しゃがんだ。
「澪…?」
「凄ぉい、良く判ったわね。」
立ち上がった雪子の手には青い瓶が握られ、しなやかな手付きでフルートグラスを取った。
「あたしね、辛口が好きなのよ。で、今日お客さんから貰ったんだけど。」
「一瞬で機嫌悪くなりよったわ。」
氷を鳴らし乍ら菅原はグラスを傾け、キリキリ笑う。
「何なの?此れ、酷いわ。製造会社に剃刀送ってやろうかしら。何処よ、此れ。如何せ宝さんでしょ?おお、ビンゴだわ。」
青い瓶を上から伸びる光りに当て、製造元を確かめる雪子の大きな口は舌打ちを嚙ます。
「何でそんな貶す酒を飲ませ様とする?」
カシュカシュと蓋を開け、フルートグラスに注ぎ入れた雪子は続けて違うグラスに氷を入れた。
「甘口が好きだって云ったから。飲んでよ、菅原さんも嫌いだって云ったし、課長さんはワインしか飲まない。木島さんだけなのよ、此れ消費出来るの。あたしからのプレゼントよ。お待たせ致しました、澪で御座います。」
左手でコースターを置き、流れる様に右手でグラスを置いた。
全く無駄の無い動き、グラスから離れた手は続けて焼酎の瓶を掴んだ。マドラーを数回回し、グラスを両手で持った。
「お誕生日おめでとう御座います。」
「有難う。」
和臣の持つグラスより下にグラスを向ける雪子だが、いやいや、と和臣は其れより更にグラスを下げ、此れに又雪子が、いやいやいや、とグラスを下げた。二人の腰もグラス同様に下がる。
酒を飲む課長と菅原には其の動きの意味が判るが、接待さえしない秀一には、何してんだ此奴等、としか映らない。
「何してるんです?あれ。」
「日本の悲しぃい、序列風習。」
「客依り上にグラスを置いたらいけないんだよ、…御前、そんな事も知らないのか?良い年こいて。」
「俺、接待とかしないんで。」
空になったグラスを置き、其れを素早く雪子は見取った。
「次は?」
「同じの。」
空になったグラスを菅原に渡し、菅原から雪子に渡る。右手はシンクに、左手は新しいグラスに伸びる。
千手観音みたいだ。
細長い腕が四方に伸びる様は其れに似ていた。だから動きが滑らかなのだなと、グラスに口を付けた。
「うわ…、甘…!吃驚した!」
「でしょ!?甘いでしょ!?」
此れが日本酒か。甘口とは云え、日本酒特有のあの舌触りが無い。何と云うか、日本酒なのか?が感想だった。
「何がこんなに甘いんだ。空気か?白ワインも空気入ったら甘くなるもんな。うわ、何だ此れ。」
云って和臣はあっさりグラスを空にした。唖然と、珍獣を見る目で自分を見る雪子、菅原。辛口派の二人にしてみれば、日本酒への冒頭だと思う代物、然し和臣の口にはすんなり合った。
「洋酒はブランデー派?」
「良く判ったな。ブランデー大好きなんだけど。」
「まったりした柔らかい舌触りが好きなのね?辛口が嫌いなのはウィスキーと同じで、舌に痺れが来るから。」
「一寸凄いな、御前。」
「此れでも一応バーテンダーだからね。」
言葉通り雪子は細長い腕を上げ、銀色のシェイカーを振った。
「え?此処スナックじゃないの?」
「看板に、バー、って書いてあるんだけど、見えなかった?」
狭い店内に佇む看板、はっきりと“BAR”とある。
「…此処って、ゲイバーなのか?」
「は?」
シェイカーから液体を流した雪子は素っ頓狂な声と共にグラスを菅原に渡し、そして秀一に渡る。其の間に雪子は和臣のグラスに酒を注いだ。
全く無駄の無い女だ。
「え?此処、二丁目じゃないんだけど。確かに中ノ目黒二丁目ではあるけど。」
「俺以外ゲイしか居ないんだけど。」
グラスを口に付けた侭三人を見た。又同じに、焼酎の入るグラスを傾ける雪子は秀一に向いた。
「俺以外って、え?長谷川さん、ゲイなの?」
「え?今?今更か?アイ ワズ ゲイ。アンズ ジーニアス。」
雪子は盛大に噎せ、課長さんと菅原さんは知ってたけど、と云う。
「ゲイバーじゃないです、後、あたしもゲイじゃないです。」
「良かった、此れで、ミートゥー、とか云われたら如何しようかと思った…」
ゆるゆると日本酒を流す和臣の薄い唇を雪子は凝視した。薄いグラスから離れる薄い唇、凝視する雪子の目を捕食獣の目で和臣は流し見た。
「木島さんって、歌舞伎役者みたいな目の動きするわね。」
「女形系男子なら内の署に一人居る。」
雪子から其の侭課長に視線を流した。
「止めろよ、何であんな能面思い出させるんだよ…」
「女形系男子って斬新ね。」
「能面…、あ、あの眼鏡の兄ちゃん?エレ・キ・テル氏の攻撃受けた。」
菅原の言葉に秀一が反応した。
「おお!彼奴か!俺彼奴嫌い。」
「加納も嫌いだと思うよ。」
初見であれだけの暴行を受け、好き、と云ったら其れはとんでもないマゾヒストだろう。
「薄ら寒い顔しやがって。」
「だけど彼奴、柔道黒帯だぞ。結構身体が凄い。一七五センチで七十キロあるっつったもん。」
「え?あの兄ちゃん、そんなある?見た目細いけどなぁ。骨密度と筋肉が凄いんか。」
「意外とどっしりしてますよ、あの能面。」
「はあ?何其れ、斎藤以上に胡散臭い。」
「眼鏡掛けてる奴って、胡散臭いんだな。」
和臣の其の言葉に雪子は静かに酒を飲み、しん、とした空気が店内に漂った。
王者の目で和臣を見る課長も、爬虫類の不気味さを宿す秀一も、ゴールデンレトリーバーの様な優しい垂れた菅原も、皆、眼鏡である。
気付いた和臣は三人の、其の六つのレンズから逃げる様に背中を見せ、気泡が浮上するグラスを光に当て、眺めた。
「ガスの気泡って、ダイヤモンドみたいだよな。」
「木島、やっぱり今日、出勤しろ。」
「誰に云われる迄も無い、自分が一番よぅ知ってるわ。」
「ほお、余程エレ・キ・テル氏に会いたいらしいな。」
秀一のジャケットから現れるエレ・キ・テル氏に和臣は噎せ、狩りの始まりだと云わんばかりに、キュウン…と小さな音がした。
「あの能面が気絶したボルトだ。アルコールを摂取した身体は電気が通り難い。アルコールは電気を通さない。」
首に秀一の腕が、蛇の様に巻き付いた。
「即ち、身体から瞬時に放出される電気は、放出時間が遅くなる。人間は、感電物質だ。一方で、アルコールは発火する。電気は?熱だ。電子分子の反発で熱を発し、そして其れが空気中にある物質と化学反応起こし、発火…詰まり光を見せる。白熱灯が其れだ。」
地獄の底から湧き出る様な秀一の声に鼓膜が拒否反応を起こす、ガタガタと身体が揺れ、下手したら失禁するかも知れない、と和臣は思った。
「授業は此れにて終わり。」
カウンターから飛び出た雪子の身体に和臣の身体がすっぽり収まり、秀一は鋭く尖る犬歯を見せた。I'm a genius and Monsieur Ere qu tell is the strongestと。
「エレ・キ・テル氏ってフランス人なんや。」
「正式な発言は、ムッスゥ エンレ・クゥィ・テンレ。意味は繋がりませんけどね。エレ・キ・テルで分けた時、自然とフランス発音になった。キ、が如何やっても、キとクの中間音になったんで。」
「qu、が中に入るからフランスだ。良いな、フレンチ、発音し易い。」
「へえ、俺、ドイツ語専門なんよな。フランスは如何も…舌がも連れるなぁ…、クゥイ?ううん…ドイツ語には無い響きやな…」
「エレ・キ・テル氏最強!」
自分の腕の中で甘く喘ぐ和臣に雪子は苦笑った。 
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