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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第109話 蓮の花

 
前書き
 第109話を更新します。

 次回更新は、
 2月18日。『蒼き夢の果てに』第110話。
 タイトルは、『おでん……温めますか?』です。 

 
 ゆっくりと視線を上げる俺。
 普段よりもずっと明るい月夜で有った。原初この惑星に衝突した小惑星に因って誕生した衛星。一般に月と呼ばれる衛星と、何処か位相の違う――おそらく、異世界の地球の姿を映している幻の月が存在する夜空は非常に明るく、目前に墨絵の豪邸を浮かび上がらせていた。
 左右対称に広がる三階層から成る西洋風白亜の豪邸。家の規模で言うのなら俺の通って居た高校の校舎よりも大きく、かつて、この屋敷の主が誇った権勢を感じさせずには居られない、そう言う建物であった。

 しかし――

 しかし、何故か今では流れる雲がふたつの月を隠す度に、世界を……そして、目の前の白亜の豪邸を包んだ影が一段と深みを増して行くかのように感じられる。
 当然、屋敷自体が荒れている訳でもない。まして無人……誰も住む者が居なくなった空き家と言う訳でもない。
 しかし、この屋敷からは何故か、死と滅びの香を嗅ぐ事が出来たのだった。

 そう。前当主が狩場での不審死をして以来三年。領地の管理は王都リュティスより派遣された者等が行い、大公が死した後に願い出されている夫人に対しての死亡した大公位の相続が未だ認められない家の現状が、この家に掛かる影の色を濃くしているのだろう。
 そう考えながら、蒼き盾の中に白きレイブルと三本のアヤメを象った紋章。オルレアン大公家の紋章を見つめる俺。

 その瞬間、初夏の爽やかな風が蒼き髪の毛を優しく弄り、再び、ふたりの女神の花の容貌(かんばせ)を雲に隠した。

 ラグドリアン湖の向こう岸――トリステイン側では来月にマリアンヌ太后の誕生日を祝う園遊会が開かれるらしいのですが、今回も俺に取ってソレは別世界の出来事。何故か貴族の世嗣たる俺の御披露目は未だ行われず、ねえちゃんの方のみが社交界にデビューする事が決定して居たのみ、ですから。
 もっとも、そんな面倒な事はどうでも良いですかね。
 相変わらず脇道へと逸れて行く思考を、軽く頭を振る事によりリセット。そして、
その後に目指すべき場所。三階の端に存在する部屋のバルコニーを見上げる俺。

 そうして……。

 そうして、その俺が……。蒼い髪の毛の十歳ぐらいの少年の動きを、神の視点で見下ろすもう一人の俺。身軽な――まるで練達の軽業師か、小説や漫画の中に登場する忍者か、と言う身のこなしで目的の地まで昇る俺を見つめる。そして、ぼんやりとこう思った。そう言えば、この頃の俺は未だ重力を操る能力を上手く扱えなかった。能力は発動出来たけど微妙な調整が出来ずに、人間を掴もうとするなんてとてもではなく。
 馬鹿力だけ、なら持って居たのですが。
 更に、この部分に関しては、後にハルヒのトコロで有希を運ぼうとした時に――

 ぼんやりと夢見る者の思考でそう考え続ける俺。
 ……そう、これは多分、夢。そもそも、十歳前後の頃の俺は仙術を習う以前。未だ実家の神職の修業は行って居たけど、それも今ほどの能力を示す事も出来ない、……見鬼の才には恵まれて居たけど、それでも、ごく平凡な術者と成る程度の才能だったはず。俺の視界の中に存在する蒼髪の少年と比べると月とスッポンと言うぐらいの差があったでしょう。
 当然、今現在の俺の記憶にある十歳前後の俺は、黒髪……ではなく、濃い茶系の髪と瞳を持つ、何処にでも居るような一般的な日本人の少年であった事は間違いない。

 豪奢な彫刻に手を掛け、神殿風の柱を蹴り、目的地のバルコニーに降り立つ幼い頃の俺。そして周囲の物音と気配を感じた後に、ゆっくりとガラス窓越し――カーテンにより視界を遮られた室内を覗き込んだ。
 いや、これは別に室内を覗き込んだ訳ではなく、おそらく施錠の有無を確かめただけ。
 確かこの時は――

 微かな記憶を頼りに、この時の次の行動を思い出そうとする俺。但し、本当に思い出して居るのか、それとも妄想……この次の行動がそうだったと思い込み、夢の続きの展開を作り出して居るのかは判らない状態なのですが。
 疑り深い俺に相応しい思考。そんな、イレギュラーな観客が居る事に気付く訳もない幼い俺が、自らの胸のポケットへと手を差し入れる。

 そして……。

 そして、胸のポケットから取り出すカードの束。その中の一枚を掲げ、宙に光の線で印章を描く。

 そう言えば、この時は今の俺よりもずっと多い式神を友と為して居たはず。つまり、今現在の俺の許容量は自分がそう思い込んでいる限界であって、本来はずっと多い式神を友と出来ると言う事なのでしょう。
 現在、目の前で展開して居る事態が、かつて俺であった存在の記憶であったとしたのなら。

 夢見る者の俺の思考が少し脇道に逸れた事に気付く訳もない、もう一人の俺。幼い頃の俺の掲げた右腕の先に浮かび上がる光輝の召喚円。
 ――西洋風の印章。それも、ソロモンの七十二の魔将の特徴を持った印章が宙に描き出された直後、その場所には……。
 背中に白い羽根のある幼児……。髪の毛は金髪。体型は赤ん坊。西洋の宗教画に登場する天使や、ローマ神話にて語られるキューピッドと呼ばれる存在そっくりの幼児が、幼い頃の俺の側に現われて居たのでした。

 召喚円や、存在から感じる波動などから推測出来るソレと、記憶の奥底に深く沈められた思い出との照合。短い時間の後に出した結論。コイツは確かソロモン七十二魔将の一柱。その職能から、後のベレイトの事件……現在のタバサに召喚された俺ではなく、この夢の世界の俺が経験したベレイトの蛇神召喚事件の時にも活躍した魔将ヴァラック。すべての宝箱の罠を解除し、カギを開く職能を有するヴァラックに取って、ハルケギニアのロックの魔法を解除する事など児戯に等しい。まして、この窓の向こう側には悪い魔法使いに封じられた宝物が眠って居るはずですから。
 ゆっくりと開いて行くバルコニーに面した窓を見つめながら、そんな、少しファンタジー小説の読者じみた感想を思い浮かべる俺。

 もっとも、幼い頃の俺は今よりも一層華奢で、更に肌も白い少年。まして、この夢の世界の俺はガリア王家の血筋を引いた女性。王家の血筋を絶えさせない為に作られたスペアの家系の女性を父親が娶った事により、ガリア王家の証……蒼い髪の毛を持つ少年として育って居た。
 どう考えても地球人類には存在しないだろうと言う髪の毛の色と、それに相応しい容姿を持つ少年。そんな人物が実際に目の前に現れて居たとしても実在感は薄く、画面の向こう側を覗き見しているようにしか思えなかった、と言う事。

 そう考えた瞬間、一陣の風が吹き付け、やや伸びすぎた感のある前髪を弄る。
 刹那、移動を開始する俺の視点。月が自らに触れる雲を白く染める氷空から急速降下。淡い月光が輝かせる西洋瓦に覆われた屋根を下り、オルレアン屋敷の三階、西の端に存在する彼女の部屋のバルコニーに降り立ち。
 そして……。

 見慣れた配置。この部屋の属性を決める本棚を埋めた書物の数。部屋には明かりの類はなく蒼い闇。その中心。丁度、俺の背中から差し込んで来る月明かりが届くか、届かないかのギリギリの場所に設えられた天蓋付きの寝台。ただ、今宵は紗のカーテンが閉じられる事はなく――

 耳が痛くなる程の静寂。その静寂の世界の丁度中心。寝台の上に上半身のみを起こした形でこちらを見つめる少女と今、視線が交錯する。
 こちら側。その彼女の蒼き瞳が見つめているのは間違いなく幼い頃の俺の方。しかし、何故か、この夢の主人公たる幼い俺の背後に浮かぶ霊体の如き俺を見つめている。そんな風に感じる瞳。
 すぅっと。まるで透き通ったかの如き鼻梁。薄いくちびるからは貴族として相応しい品の良さを感じさせる。

 見た目は十歳程度。ここまでは俺……ハルケギニアに召喚された武神忍と言う偽名を名乗る少年が知っている彼女の幼い頃と同じ容姿。
 しかし、ここから先が違う点。何も遮る物の存在しない瞳。俺の知っている彼女の容貌を語る上で重要なアイテム。紅いアンダーリムの存在しない蒼の瞳。ロング……と言うほど長くはない。セミロングと言うぐらいの長さの蒼の髪の毛。

 最後に、何より今の彼女から俺が感じている雰囲気が違う。
 俺の知っている彼女は静謐な。かなり落ち着いた雰囲気の中に、凛とした強さを感じさせる少女でした。
 しかし、今、寝台の上から俺を見つめる少女から感じるのは……。

 虚無――

 そう考えた正に、その刹那。それまでと違う何かが彼女より発せられた。
 何とは表現し難い雰囲気。懐かしい。とても懐かしい、良い思い出。これは感傷……なのか?
 彼女の瞳が示す物は相変わらず無。更に、表情も動く事はなく、心も平静。ただ、最初に一目見た瞬間に感じた虚ろな洞に等しい無などではなく、静謐と言う雰囲気。
 但し、表面上ではなく、心の奥深くから発せられて居るのは――心の奥深くが、何かに因って動かされているのは間違いなく判る状態。

 短い。時間にしては非常に短い視線の交換。そして、それはおそらく魂の交感。
 その後、

「あなたは誰?」


☆★☆★☆


 真新しい畳の香りに混じる懐かしい……。本当に懐かしい彼女の香り。
 この香りは花の香り。甘い匂いでありながら、しつこくはない。女性に似合う……とは思うけど、男性が発して居たとしてもそう不快ではない。但し、有希が発して居るシャンプーやリンスなどの外的な要因から発生する香りなどではなく、彼女自身が発して居る香り。

 この香りは――この香りは多分、(はす)

 ゆっくりと覚醒して行く過程。未だ目さえ開けていない段階で、何故か傍に居るのが有希ではなく、彼女の方だと確信している俺。
 目蓋の裏側には淡く光を感じる。この感覚なら、今の時刻は普段の朝の目覚めと同じぐらいの時間帯だと思う。

 尚、普段は施していない簡易の施錠を行う術式を行使してから寝た以上、現在のこの部屋に侵入出来るのはある一定以上の術者のみ。……と言うか、ハルヒにさえ侵入されなかったら、その他の連中は寝て居る俺にイタズラをしようとするとも思えないので……。

 何と言うか、面倒なのだが、それでも不快ではない思考を回らせながらも、わざと勿体を付けるように目蓋を開ける俺。
 香りと音。それに、気を感じる事により得て居た情報の他に、その瞬間から視覚による情報が加わる。
 薄い光に支配された室内。
 カーテンの向こう側から差し込んで来る冬の陽。落ち着いた雰囲気の和室。見慣れた天井。未だ灯される事のない蛍光灯。
 間違いなく彼女が存在して居るはずなのに、何故か未だ灯されていない蛍光灯……。

「おはよう」

 俺が目覚めた事に気付いた――いや、そんな事は目を開ける前から彼女なら気付いていたでしょう。おそらく、俺が目を開けるタイミングを待って、先に自分の方から声を掛けて来たのだと思います。
 現実の中でも。夢の中でも変わらない淡々とした透明な声で……。

「おはようさん」

 上半身だけを起こし、彼女の整い過ぎた容貌を一度、ゆっくりと見つめた後に、そう答えを返す俺。
 薄い光の中に膝を揃えた形で正座する彼女。木の地肌を模した柱と天井板。装飾品の欠片すら存在しない室内の中心に存在する彼女の姿が、既に一枚の絵の如き雰囲気がある。
 そう、整い過ぎた容貌。可愛いと言う表現よりは美人と言う表現が似合う少女。長いまつ毛。形の良い……書道の名人が一筆ですぅっと引いたような形の良い鼻梁。あごから首筋に流れるようなライン。確かに、日なたで大輪の花を咲かせる艶やかさはない。しかし、日蔭でひっそりと咲く花の美しさはある。そう言う少女。
 ……もっとも、今は野暮ったい学校指定の体操服を着ている状態なのですが。

「俺を起こしに来てくれたんやろう?」

 起こしに来た、と言う割には不自然な行動……。その紅玉の瞳に俺を真っ直ぐに映す彼女の手の中には、俺が読み掛けて居た小説が存在して居たのですが、それでも一応、そう問い掛ける俺。

 窓の向こうから差し込んで来る朝日がカーテンを照らす。
 明るい……とは言えない。しかし、暗いとも言えない室内。ふたりの距離は一メートル程度。その向こう側から静かに俺を見つめていた彼女が……微かに首肯いた。
 矢張り、まったく変わる事のない透明な表情。その感情の動きさえ感じさせる事のない紅玉の瞳に、ただただ俺を映し出すのみ。
 その様子も有希やタバサに……。
 いや、俺が知っている無機質な反応を示す少女で、最初に絆を結んだ相手と言うのは彼女の魂を持った人物の可能性も有りますか。つまり、似ているのは有希やタバサの方であって、オリジナルは彼女の方。

 まして、タバサは無機質で独特のペシミズムを持った少女を演じて居る少女。彼女がそう言う少女を演じようと思った最初が、前世の記憶に残って居た万結の可能性も……。
 あの時の彼女は確かにこう言いましたから。私もメガネを掛けてみようかな、と……。

 もっともあの頃の彼女……今生でタバサと名乗っている少女が掛けていたのは、記憶が確かならば度の入って居ないフィンチ型メガネ。鼻の先に軽く固定するだけの、ファッションとしてだけ使用するメガネだったハズなのですが。
 今の彼女とは外見年齢的に四歳は違う、しかし、その面影のある少女の事を思い浮かべる俺。

 そして、もうひとつ。

「なぁ、万結」

 軽い郷愁を誘うかのような懐かしい思い出から、もう少し重い内容に思考をシフトする俺。但し、これも内容的に言うと、微かな郷愁を誘う思い出と成る物。
 ……いや、むしろ彼女に取ってそれは、良い思い出と成る物だったのかも知れない。

 複雑な俺の想い。そんな俺に対して、素直に首肯いて答えを返してくれる万結。普段通りの動いたとは思えない微かな気配のみで。

「何で名前を変えなかった?」

 新しい。今生での親……造物主がくれた本当の名前は真名に関係する可能性が高いので名乗れないかも知れない。しかし、同時に呼び名を与えられる可能性は高い。
 そもそも、今の彼女の名前。神代万結と言う名前は……。

「この名前は貴方から貰った大切な名前。この名前以外を名乗る心算はない」

 それに、この名前を名乗らなければ貴方に出会えないような気がした。
 この場所に彼女が居ると言う事は、今生の彼女はかなり名の有る仙人の手による人工生命体那托(なた)。そのような存在が偶然、前世で俺と縁のあった魂を自ら造り出した人工生命体に宿す訳はない。彼女がここに現れたのは必然。
 そして、彼女が言うように、今彼女が名乗っている神代万結と言う名前は俺が付けてやった名前。

 俺が初めて彼女に出会った時の彼女は、個体番号のみで呼ばれて居た存在。蓮の花の精の四体目。それが彼女を示す名前だった。其処から連れ出した……ぶっちゃけて言って仕舞えば強奪した後に呼び名が必要と成った為に俺が適当に付けた偽名が、今の彼女が名乗っている神代万結と言う名前であった。
 その時の――。彼女を救い出した時の俺は、残念ながら魔法とは縁遠い存在。当然、名前を付けると言う行いの()()()意味を知らなかった。故に、簡単に名前を与えるなどと言う事が出来た。

 そう、これは所謂、名付けの魔法。俺がウカツにも彼女に名前を与えるような真似を行った為に、彼女の転生に影響を与えた可能性もゼロではない。その時の彼女は人工生命体に宿った幼い魂。その魂に最初に道を与えたのが俺だったのですから。
 少しの後悔にも似た感情。ただ……。

「そうか。すまなんだな、こんなくだらない質問をして仕舞って」

 ただ、多少の方向性を与えたとしても、その道を拒否する自由は彼女にも与えられていたはず。それを拒否する事もなく、俺に近い道を歩む事を選んだのは彼女自身。その彼女の考えを俺が否定する事は出来ない。
 カーテン越しの弱い光を背負った彼女が、僅かに首を上下させた。そして、まるでその余韻を確かめるかのように俺を真っ直ぐに見つめ返した。
 夢の世界の彼女とは違う紅玉の瞳が……。

「そうしたら――」

 カーテンに時折映る鳥の影。感じる風の気により、外界は平凡な土曜の始まりが営まれている事は理解出来る。しかし、同時に、魔法と科学の力によって外界から隔離されたこの部屋は、通常の世界とは違った時間の流れの中に存在している事が理解出来た。
 そう。それはまるで薄い膜で覆われたかのような静寂の空間。本来なら決して出会う事のなかった二人の逢瀬の時。その中で微かに感じる彼女の吐息と、少し早くなった俺の鼓動が緩やかに流れて行く時間を感じさせていた。

「ただいま、万結」


☆★☆★☆


 高く響く金属音。
 地を這うような鋭い打球が、三遊間の丁度真ん中辺りへと奔る。

 その打球に素早く反応するショート。流れるような身のこなし。身体の正面では取らず、バックハンドで(さば)いた打球を踏ん張ってセカンドへと送球。邪魔にならないように束ねた長い髪の毛が跳ね、強く踏ん張った右脚の膝が僅かに土で汚れる。
 しかし、この娘の身体能力も並みの女子高せーじゃないでしょうが。

 普通の女子高校生ではヒット性の当たりを三遊間の真ん中辺り、バックハンドで捌き、二塁ベースを確認せずに、それもある程度以上のスピードボールを投げるような真似は出来ませんよ。

 心の中でのみ悪態を吐き、こちらも動きを停滞させる事もなくベース上に投じられたボールをグラブに納め、その勢いを利用してファーストに送球。
 そして次の瞬間、小気味良い音を響かせて真新しいファーストミットへと吸い込まれる白球。

 常人には考えられない運動能力を可能とする人工生命体那托や、龍種の俺が関わっている以上、下手な高校球児よりも流麗な動きで完成させられた6-4-3のダブルプレイ。
 実際、内野手をやって居て一番気持ちが良いのが、これが決まった瞬間。

「上手いじゃないの、涼子!」

 妙に小柄で華奢な体型のキャッチャーから新しいボールを受け取りながら、監督兼エースのハルヒが彼女にしては珍しい――。
 そう考えてから、しかし、その考えが的外れである事に直ぐに気付く俺。
 確かに、ハルヒのようなタイプの人間が他人を誉める事はあまり多くはないでしょう。一般的な例から考えるのなら。但し、俺がこの世界にやって来てから関わるようになった涼宮ハルヒと言う少女の台詞を思い出すと、結構、自らの周りに居る人間を誉めて居るような記憶が有ります。
 ……と言うか、むしろ貶されているのは俺だけ。

 もっとも、大雑把でいい加減。面倒臭がりで、ついでに何時も一言多い俺ですから、色々と言いやすい相手。更に普段の言動、及び行動にツッコミ所が多いのも事実。おそらくそう言う部分が、彼女の言動を助長しているのだと思いますが。



 色々と有った誕生日の十二月六日が終了。こちらの世界に来てから初めて有希以外の人物……神代万結に起こされるトコロから始まった十二月七日。
 ここは西宮の某所にある河川敷のグラウンド。月曜から始まる球技大会の練習用に学校が借りて置いてくれた場所で練習する事と成ったのですが……。

「次。ノーアウトランナー一塁。カウントワンストライク、ワンボール。セカンドゴロ」

 くだらない。本当に今、考えても仕方がない事を考えながらも身体は素直にボールの動きに反応。セカンドベース寄りに転がって来たゴロを素早く処理。
 その瞬間、未だセカンドベースに入っていない朝倉さんとアイコンタクト。
 そのままの勢いを持ってベース上へとグラブトス。

 そのゆっくりとしたトスをグラブで正確に受け取った朝倉さんが、今度はベースを蹴って軽くジャンプを行いながらのファーストへの送球。これはおそらくランナーが突っ込んで来る事を想定しての動き――
 ――なのでしょうが。
 高が進学校の、それも甲子園を目指す高校球児などではなく、期末テストの採点及び、二学期の成績を付ける合間に行われる球技大会程度で、そんな高度な動きの予行演習が必要なのでしょうか?

 ジャンプしながらの送球。普通に考えるのならばそれはあまりにも難易度の高い行為。しかし、朝倉さんの送球は乱れる事もなく、万結が差し出したファーストミットに納められた。
 どう言う初期設定をハルヒに伝えて居るのか判りませんが、朝倉さんの動きは野球をまったく知らない素人と言うには問題の有り過ぎる動きだとは思いますが。

 ただ……。

 成るほど。この感じなら守備から崩れての大敗と言う可能性は低いですか。
 万結から有希に還って来たボールを受け取り、今度はサードに声を掛けるハルヒを見つめる俺。

 サードと言うのは強くて速い打球が来る守備位置。故にホットコーナーと呼ばれるのですが。
 素人に捌かせるにはあまりにも難易度の高い三塁ベース上を抜けて行くような強い当たりを逆シングルで捌く黒髪ロングの少女。そしてそのまま右脚を軸に回転。その回転の最中にグラブから右手に持ち替えたボールをセカンド。つまり、俺に向けて矢のような送球を行う。

 女の子。それも、ここに集まったメンバーの中で言うのなら明らかに一番、一般人に近い立ち位置の彼女……弓月桜がこれだけの動きを魅せてくれたのなら、俺もそれに相応しい動きで答えるしかないでしょう。
 軽いステップでセカンドに入り、右足でベースを踏む。そのまま捻りを加えたジャンピングスロー。これは最早、魅せる為だけの派手なプレイ。

 当然、送球がぶれる事もなく一塁ベース上の位置で微動だにしていない万結のミットに吸い込まれる硬式球。
 そう、この球技大会は何故か硬式球を使用しての試合を行います。
 何度目に成るのか判らない疑問が頭の中に浮かぶ俺。本当にこの球技大会は学校の一行事なのでしょうか。

 しかし、

「こら、セカンド。そんな見た目ばかり派手なプレイなんかしないで、もっと堅実にワンプレイワンプレイを熟しなさい!」

 もしも一塁に悪送球なんかしたらどうするのよ。ツーアウトランナーなしの場面が、ワンナウト二塁のピンチの状況に成って仕舞うじゃないの。
 何故か、俺に対しては真っ当な野球の指導者の口調でそう文句を言うハルヒ。確かに御説御もっとも。俺がノックをしていても、こんなプレイを連発するようなセカンドならば同じ事を言う可能性も有ります。
 当然、それで失敗を連発する相手ならば、なのですが。

 但し……。

「へいへい。仰せのままに」

 かなり気のない答えを返しながら、犬を追い払うかのような仕草をして見せる俺。本当に面倒臭げで、やる気を微塵も感じさせない仕草。
 ただ、俺は百回同じ動きを行って、百回同じように成功し続ける自信は有るのですが。そのぐらいの自信がなければ、刀を握って、戦いの最前線で生命のやり取りが出来る訳が有りませんから。
 頭で思い描いた動きを、身体が完全にトレース出来る。これぐらいに成って居ないと生命が幾つ有っても足りません。

 もっとも、そんな事を実際に言葉にして反論しても意味のない事。まして、ハルヒは俺の運動能力が通常の人間のレベルで計る事が出来ない存在だと知らないのだから、いくら言葉を費やして説明したとしても信用しないでしょう。

「そうしたら、最後はキャッチャーフライを打ち上げてシートノックは終わり。次はフリーバッティングをやるから――」

 そう言ってから、右手にボール。左手にバットを持ったままグラウンド内を見渡すハルヒ。そうして、俺の顔をもう一度見つめ直し、

「バッティングピッチャーはあんたがやりなさい」

 ……と何時も通りの命令口調でそう言って来る。
 ただ……。

「そりゃ、バッティングピッチャーだろうが、なんだろうがヤルのは構わないが……」

 俺もハルヒに倣って、狭い……視界的に言うと見晴らしの良い河原。三塁側に平行するように走る堤防の上には道路が。外野の更に向こう側には河が存在する練習用のこのグラウンドを見渡す俺。
 バッターボックスにはハルヒ。キャッチャーの位置には完全防備の有希の姿が。
 ファーストには万結。セカンドには俺。ショートには朝倉さん。サードは弓月さん。これで内野の布陣は完璧。

 一塁側のベンチにはやる事もなく手持無沙汰なチアガール姿の朝比奈さん。まぁ、彼女の役割は応援だけですし、あんな肌を露出した姿で野球をして貰う訳にも行かないので、ぼんやりと見ているだけでも十分でしょう。

 しかし……。

 其処から外野に目を向ける俺。
 センターの位置には普段通り、やや不機嫌な表情で胸の前に腕を組んだ姿勢の相馬さつきが仁王立ち。尚、何故か彼女だけはボトムは北高校指定の冬用の体操服姿なのですが、上に関しては夏用の白い体操着を着用。
 吹き晒しの真冬の河川敷で豪気な姿。……なんと言うか、子供は風の子とでも言いたいのでしょうか。

 ここまでは普通の野球の守備位置。
 しかし、ここから先が異常。
 何故ならば、ライトとレフトの位置には乾いた冬の風が吹くばかりで、猫の子一匹存在する事はなかったのですから。

「本格的な練習をするのは、ライトとレフトが来てからでも十分やないのか?」

 ランナー役がいないシートノックと言うのもアレなのですが、その辺りは無視をするとして……。かなり問題はあるけど無視をするとして、もっと問題のあるハルヒの言葉にそう反論を試みてみる俺。但し、その中に存在する一抹の不安。
 それは――
 この場にいないSOS団関係者以外の、球技大会で野球にエントリーしている二人の男子生徒の姿形を思い出して見る俺。
 ふたりともごく普通の男子高校生。多分、何かのスポーツ系の部活動には参加して居ると思う。但し、此の手の学校内行事の常として、それぞれの部活関係者。例えば、バスケット部の部員がバスケにエントリー出来ないと言うルールから判る通り、この二人は野球部員ではない……ハズ。
 一人目は、上調子のただ賑やかなだけの人間。ホームベースのような頬骨の張った顔が特徴。名字で呼ばれる事はなく、クラスメイトからはただ潔と名前で呼ばれている人物。
 もう一人は――蟹。コイツの顔の正面に間違いなく死角が存在しているだろうと言う、目と目の間が異様に広い特徴的な顔を持つヤツ。こいつはどうにも底意地が悪いらしく、クラスメイトからも嫌われている人物。

 何と言うか、他の競技。今回の球技大会では野球の他にサッカー。バスケ。バレー。卓球の中から、好きな競技ひとつだけにエントリー出来るのですが、他の競技のメンバーから嫌われて、同じように敬遠されたハルヒの関係者の所に押し付けられた、と言う曰く付きの二人組。
 こんな連中をハルヒがわざわざ練習に……。

「そんな連中、来ないわよ」

 俺の内心の不安通りの答えを返して来るハルヒ。
 そして、更に続けて、

「そもそも、あいつらに、全員で集まって練習をする、……とは言っていないもの」

 もっとも、本当に練習する心算があるのなら、このグラウンドの使用時間はクラス毎に決められているんだから、わざわざ教えられなくても自分から来る事だって可能なのに、この時間になっても来ていないんだから、変な期待なんかしないで二人とも居ないもの、と考えた方が良いわよ。

 ある意味では正論であろう、と言う内容で押して来るハルヒ。
 確かに、それはそう。学校側が用意したグラウンドですから、一日中、ずっと俺たちが占拠しても良い訳ではない。当然、時間は決められており、そのスケジュールに従って、俺たちは練習する時間を決めたのですから……。
 あのふたりに練習をする心算があるのなら呼ばれる前にやって来るか、もしくは練習をしないのか、と言う問いを発するぐらいなら出来たはず。それをしなかったのはヤツラですから……。

「さぁ、来もしないモブの事を考えている暇はないわよ!」

 そう言った瞬間、手にしていたボールを良く晴れた……雲ひとつ浮かんで居ない氷空に向かって打ち上げるハルヒ。
 ノッカーとしてもっとも難しいと言われるキャッチャーフライ。
 何処までも深い。果ての見えない氷空に昇って行く白いボール。

 但し、俺の心は何故かその氷空ほどに明るい物ではなかった。

 
 

 
後書き
 それでは次回タイトルは『おでん……温めますか?』です。
 
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