パパ、タバコ。
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パパは入院した。
癌だった。肺に悪性の腫瘍が見つかったのだ。
やはり。私はそうとしか思えなかった。いつかこんな日が来るだろうとずっと思っていて、そんな日は私の予想通りに訪れたのだ。あまりにも突然だったけれど、私は特に動揺する事もなく、その事実を受け入れた。
もう十分に大人になっていたし、人は皆いずれ死ぬものだから、それがパパには少し早く訪れたってだけの事で。いや、少し早いなんて表現は可笑しいかもしれない。だって、タバコなんて一本も吸っていなくたって、死は突然訪れたりするじゃない。
でもパパは、そのタバコ以外の突然訪れる死を交わして、それは最初から約束されていた事のように、タバコが原因で癌になって、そうして死んでいくのだ。パパらしくていい。そうとさえ思える。
入院した初日に、医師にタバコを取り上げられ、パパはしょうがなくタバコをやめた。あれだけ、仲のよかったタバコと強制的に縁を切られてしまった。きっと私よりも仲のいいタバコと。
だけどパパはそんな簡単に諦めはしなかった。医者の目の届かない場所で、静かにタバコとの密会を重ねていた事を私はよく知っている。
たまに医者に見つかって、何度注意されようが、そこの関係を断ち切ることはできないように思えた。だって、自分自身の生を蝕んでいるその事実だってパパ自身は分かっているはずなのに、それでも、離れる事ができなかったのだから。
「タバコがないなら死んだ方がマシだ」
そう言いながら、パパは今日も煙を吐き出していた。私はそれを横で見ながら、昔リビングでタバコを吸っていたパパの情景を頭の中で描いてみたけど、あの時とは違う、今はもう痩せ細って貧弱な体の父がとても哀れに見えて、少し悲しくもなった。
やがて、私は結婚した。
私が結婚したその人は、パパと同じで、いつもタバコを吸っている人だった。
彼が家でタバコを吸っているのを見る度に私はパパを思い出している。既に死んでしまったパパを思い出す事はあまり良いものではなくて、私は少なからず悲しみの念に取り憑かれてしまうのだけれど、彼が、私の中にいるパパの役割を担ってくれているように思えた。そう思うと、私の悲しみも少しは和らいだりもした。
私はタバコ自体が嫌いではなかったし、むしろタバコを吸っている男性にばかり惹かれた。
パパと重ねる訳じゃないけれど、きっとそれは私の無意識の中にあって、もう絶対に変える事ができないくらいにすり込まれてしまっていたみたい。私はまだ一本もタバコを吸っていないけど、タバコの匂いは既に私の一部になってしまっていた。
彼は、毎日けむりをぷかぷか浮かべていた。退屈そうに、天井目指してゆっくりと浮かんでいく煙を見ながら「この人もきっと癌で死ぬ」私はそう思わざるを得なかった。
彼はきっと、いや、間違いなく、癌で死ぬんだ。でも、私は彼にタバコをやめてなんて一言も言った事がないし、たぶん、これからも言う事ができないのだろう。
私たちの間に一つの命が誕生した。まだ喋る事もできない、立つ事もできない、笑っているか、泣いているかのどちらかの選択肢しかない、とても愛おしい命だった。
「子供の前ではタバコを吸わないで」
私が彼にそう言うと、すぐに承諾し、それから外で吸うようになった。
そして私はまた昔の情景を思い出した。夜空に向かって退屈そうに浮かび上がる真っ白な煙は、パパを思い出すには十分過ぎる程の存在だった。
数年がたって、子供は驚くべき早さで成長していた。その頃には彼も家の中に戻ってきていて、どのタイミングで彼が家の中で吸うようになったのか覚えていないのだけれど、割と最近の出来事のように思える。
まだ外で吸っていた時期があっただけ、パパよりは随分とマシだった。
リビングでタバコを吸う自分のパパに向かって、子供は聞いた。
「どうしてパパはタバコを吸っているの?」
”タバコ”という言葉を教えたのは彼だろうか。私はそんな事を教えた覚えはなかった。そして、私はいつから、あれが”タバコ”という存在だと知っていただろうか。そしていつから、あれが体に良くないものだと知っていたのだろうか。
「タバコはお仕事で疲れたパパを元気にしてくれるんだよ」
彼はまだ小さな子供に向かってそう答えた。噓でもなく、テキトーでもないだけパパよりはまともだった。
子供は首を横にかしげていたままだったけど、その煙を嫌がる風は見受けられなかった。
いつかもっとタバコという存在を知るだろう。きっと、それは意識もしない内に、勝手に自分の中の一部となってしまう事だろう。
結局、私の旦那だったその人は癌で死んだ。
肺癌。パパと全く同じ末路を辿った事になる。それでも救いだったのは、娘はもう随分立派な大人になっていて、人生におけるおおよその事はしっかりとやり遂げた後だった事だと思う。
彼の葬式を済ませ、自宅に戻った時に娘は私に向かって言った。
「パパ入院中止められてるのに、隠れてタバコ吸ってたよ」
もちろん、私はそれをよく知っていた。彼がタバコを吸っている事を、あえて知らないように振る舞っていたくらいなのだから。
パパも、彼も、一緒だった。私の中に住むタバコの匂いも、その二人にはよく重なって、娘が家に帰った後、私は彼の写真の前で随分と久しぶりに涙を流した。
パパが死んだ時だって流れる事のなかった涙なのに、彼の写真を見ていると、止めどなく涙は溢れて、私は彼の写真を抱きながら静かに床に就いた。
そんな事ある訳ないのに、彼の遺影からはほんのりとタバコの匂いがしていたような気がする。
......そんな事ある訳ないのに。
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