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雨と休日

作者:浜川悠
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雨と休日

 雨の降った休日が、外に僕を誘い出すように、窓を伝っている雨はしきりに耳を叩いていた。

  "早く、早く"

 連れ出す。
 

   僕は雨の手に引かれて、靴を履いた、傘を持った、ドアを開けた。

 右手にバタバタと雨の音を感じながら、傘を打つ雨の音を愛おしいとさえ思う。靴の表面が少しずつ湿っていき、その内靴下はじんわりと水分を感じた。

 水たまりが雨を受け止めては、強く跳ね返って地面を濡らしている。


 何も予定がなかったのは、日曜日の昼下がり。外には雨が降っていて灰色の空。昼だっていうのに、人工的な明かりがないと物事はおぼつかない。行きつけとは言えないくらいの、何度か行った事のある喫茶店に取り付けられた大きな窓から外を流れる雨を眺めていた。さっきより少しだけ勢いを増して降り続けている。バタバタと、でも静かに。一本のタバコに火を付けると、煙はゆらゆらと雨の音に揺られながら天井を目指して舞い上がるけど、こんな天候ではただ、その煙は寂しさだけを纏っているように見えた。僕の穿いている靴下はまだ渇きそうにない。

「……もしもし」

「なにー?」

陽子の気怠そうな声が、電話から聴こえた。

「今、何してるの?」

「今?起きた所だよー」

喫茶店の店内に掛けられた古びた時計は十二時半を指していた。随分と遅い起床に感じられたけど、陽子の日曜日が始まるのは、いつだって十二時より後だという事を僕は既に知っている。

「一緒にお昼でもどうかなと思って」

「えー」

陽子の声は最初に聞いたその気怠さよりも増して聞こえた。「こんなに雨降ってるのに家出たくないよ」

「いいじゃないか。雨だからこそ外に出るんだよ」

「何それ。全然分からない」

「……とにかくさ」

僕はホットコーヒーを口に運び、一息付いてから言葉を続けた。

「出てこようよ」

「ああ、うん……。まだ起きたばっかりだから時間かかるよ?」

「待ってるよ」

陽子はまだ「えー」と言っていて、「考えておくよ」最後にそう付け足して電話を切った。

 雨は、少し勢いを弱め初めていた。

 僕は持って来ていた文庫本を開いて、それを読み始めた。耳にあてたイヤホンから流れていたBersarinQuartettの音楽が、この公共の場で散らばる、たくさんの人が発する無造作の言葉を全部嘘としているように感じられる。全てが作り物のようで、一種の芸術にさえ見える。

 その日常に広がる芸術の風景から目を背けるように一行、また一行とゆっくりと本を読み進めた。一ページを読み終えても物語の進展はさしてない。ただ、登場人物の考え方が少しだけ変わっただけだった。二ページ読み終えると、違う登場人物が現れ、三ページ読み終えるとその他諸々が説明された。十ページ読み終える頃には、物語の虜になっていて、百ページ読み終えると、物語が完結した。本を呼んでいる間、並べられた活字から目を離していない。大きな窓を眺めると雨はまだ降り続いていて、さっき少しだけ休戦状態であった雨も、また活気を取り戻していた。バタバタと雨が打ち付けて、木が風に煽られ少しだけ揺れている。

 陽子からの連絡はない。

 BersarinQuartettはリピート機能のおかげで、まだまだイヤホンから音を流し続けたままだった。しんなり湿った音が耳に届き続けている。


 窓に張り付いた水滴をあても無く眺めていた時に電話が鳴った。

「もしもし、準備できたけど」

「ありがとう。もう、店にいるんだ」

「どこの?」

「いつもと同じ」

「分かった。今から行くわよ」

「気長に待ってるよ」

必要最低限の事だけを並べて無駄を省いた会話は、随分とあっけなく終わってしまった。

 完結してしまった本をもう一度見る気分にはどうにもなれなくて、僕は手持ち無沙汰になった。文庫本はこの一冊しか持って来ていない。音楽は絶え間なく流れ続けているけど、それを主とする気にもなれなかった。ぼーっと大きな窓を眺める。ゆっくりとスライドしていく視線が端の客席から順々に流れて行った。本を読む年寄りの女性。丸い形の眼鏡をたまに持ち上げて、ずれを直している。ペンを片手にノートに何かを書き込む若い女性。ノートの横には随分と分厚い本が置いてある。本を見た後に、すぐにノートに目線を移し何かを書き込む。そして、またすぐに本に視線を移す、ノートに何かを書き込む、本に視線を移す、何かを書き込む……。忙しない動きの合間に、ティーカップを持つ指に輝いてる指輪がとても美しく見えた。地味な色味のウインドパーカーを来た、無精髭を生やした男性がグラタンを口に運んでいる。グラタンからは白い湯気が立ち、外の寒さが際立った。前髪が少しだけ目にかかり、サイドの髪の毛は外に向かって跳ねている。外の明かりが当たると、その髪は少し茶色くも見える色だけど、正真正銘、黒の色と言って間違いないだろう。男性は一口一口ゆっくりとグラタンを口に運んだ。ウインドパーカーに付いた水滴を無視したまま、熱さを味わうように、ただグラタンを食している。年期を感じる焦げ茶色のブーツにカーキ色のミリタリーパンツ。持っていたバーバリーの傘がいやに浮いていて、僕は少し幸せな気持ちになった。

 空席が続いた。空席。空席。空席。

 空席に置かれた、伝票立てと、灰皿が寂しそうに佇んでいて、きちんと整頓された椅子が人を待ち侘びている。髪ナプキンがストックされて、メニューは横に立てかけられたままだった。天井から下るオレンジ色の明かりが、やわらかに二人掛けの空席を照らしていた。

 BersarinQuartettは流れ続けている。さっきも聞いた曲だと思った。時間的な計算をすれば、その曲はもう三回目であるはずだけど、僕の記憶の中では二回目だった。多分、文庫本を読んでいたその時の一回を飛ばしているのだろう。あの時は耳のすぐ側で鳴る音だって聴こえないくらい、意識がその活字の中に溶け込んでいたのだろう。

 また、視線を窓に映す。

「ごめん。ごめん。遅くなっちゃった」

陽子が大きなポンチョ型の雨合羽を来て現れた。ピンク色の派手なやつで、僕の趣味とはどうしても交わる事がなさそうな代物だった。

「いや、いいんだ。急に誘って悪かったよ」

「それはいいんだけどね。外、雨すごいね」

バタバタと、窓に雨が打ち付けている。

「それより、合羽まで着てきたの?」

陽子が手に持った傘からは水滴が溢れていた。

「別に着てこなくてもよかったんだけど、これ最近買ったのよ。だから着たくなったの」

「じゃあ、こんな雨の日に君を呼び出した僕に感謝の念でいっぱいだと言う訳だ」

一瞬僕の方にちらっと目をやった後、雨合羽を脱ぎながら言った。

「……どうかしらね」

「そのはずだろう?」

「分からないわ。少なくとも、今日私はあなたの電話で起こされて、その時は不満が溢れんばかりだったけど」

「いつまでも寝ているなんてもったないよ。休日こそ早くに目を覚まして、外に繰り出すべきだ」

「それでも私は寝ていたいのよ。あなたの言う外に繰り出すって事が私にとっては寝ていると言う事なの。だから今私はあなたに付き合ってあげてるのよ?分かるかな?」

「ああ……」

年寄りの女性は変わらず本に目を傾けていた。

「これでも僕は分かっているつもりだよ。わざわざこんな雨の中出て来てくれた君に感謝してる」

「分かってるならいいのよ」

陽子は少し笑ってからメニューを開いた。もう、昼食時間なんてとっくに過ぎている。

「お腹空いたわ。朝から何も食べていないから」

「君に日曜日の朝なんてないだろう?」

「確かにそうね。……何食べようかしら」

陽子の視線がメニューの上で踊った。そう言えば、僕もホットコーヒーを頼んだきり何も頼んでいない。陽子と同じようにテーブルの上でメニューを広げた。

 若い女性はタバコを吸っていた。ペンはテーブルの上に置かれ、分厚い本はいつの間にか閉じられている。

「最近、ダイエットしてるのよ。だからサラダにするわ」

「君は全然太っていないじゃないか」

「太っているとか太っていないではないのよ。ダイエットする事と、ダイエットという言葉を人に言う事に意味があるの」

「よく分からないな」

「分からなくていいのよ。あなたには」

「分かりたいけどな」

「いいの、分からなくて。大体、分かったって何の意味もないんだもの」

「意味のない事柄なんてあるのかい?」

「ごくたまにあるのよ」

「……まあいい。僕はハンバーグを食べるよ。君と違ってダイエットをしていないから」

「ええ、あなたは好きなものを食べたらいいわ」

ボタンを押すと、店員がやってきて僕たちから注文を取った。僕はハンバーグとライスを注文して、陽子は小さなサラダとホットコーヒーを注文した。

 地味な色のウインドパーカーを着た男性はもういなかった。変わりにその席に座っていたのは老夫婦で、向かい合って何かを喋っている。

「雨、止まないわね」

椅子の背に掛けられたド派手なピンク色の雨合羽はまだ、十分に水分を保っている。

「そうだね、今日は一日雨だって言ってたよ」

「誰が?」

「テレビが」

「あなた、テレビなんて見ない人じゃなかった?」

「見たんだ。今日はね」

「なんで?」

「別にいいじゃないか。たまにテレビを見るくらい」

「ええ、別にいいんだけど、普段見ない人だから」

「天気予報が見たかったんだ。それだけ見てすぐに消してしまったよ」

「あなたの部屋にある三十二インチのテレビが泣いてるわね。たまにつけて貰えたと思ったら、すぐに消されちゃうなんて」

「たくさん、休ませてあげてるんだよ」

「なんとでも言えるわよ。……ねえ、それよりもうすぐあなたの誕生日じゃない?」

「そうだよ」

「何か欲しいもの、ある?」

「そうだな。……今すぐには思い付きそうにない」

「何かあるはずよ。考えてみて」

「もし何か欲しい物が見つかったら、君が買ってくれるの?」

「お財布と相談しながらね」

そう言う陽子の首元には、先月僕が彼女の誕生日に贈ったネックレスが輝いていた。

「欲しいもの……というより、行きたい所がある」

「行きたい所?」

会話の途中で、サラダが運ばれて来た。僕のハンバーグもその後すぐにテーブルの上に並ぶ。

「……で、どこに行きたいの?」

「京都に行きたいんだ」

「京都?なんでまた」

「宇治に行きたいんだ」

「宇治?」

「抹茶のおいしいところだよ」

「あ、宇治抹茶!」

陽子は目を大きくして、一回だけ瞬きをした。

「でも、なんでまた宇治なの?」

「昔、一度だけ行った事があってね。すごくよかったんだ」

「何がよかったの?」

「なんだろう……静かだった」

「静か?それだけ?」

「それだけ。あと抹茶アイスは美味しかったよ」

「そう。じゃあその宇治に行く?誕生日は平日だから無理だけど、その次の週末とかに」

「連れてってくれるの?」

「いいわよ」

 皿はすっからかんになって、その内に下げられた。

 若い女性はコートを着ている最中で、席を立つ所だった。ペンもノートも分厚い本もバッグに身を隠しているようだ。

「どうせ京都に行くなら、他の所も回りたいわね」

「そうだね」

「京都って何があるのかしら?」

「お寺じゃないかな?」

「そんな事は知ってるわよ」

「後は、お店もあるよ」

「どんなお店?」

「ここら辺にもあるようなお店」

「そんなの、京都に行く意味ないじゃない。あなたが以前行った時はどこに行ったの?」

「随分と昔だからな。もう覚えていないよ」

「しっかり調べてから行かないとだめね」

「これから、本屋でも行って見てみようか?」

「この雨の中、本屋まで歩くの?」

「いや、きっともうすぐ止むよ」

「そんな事、なんであなたに分かるのよ?」

「テレビがそう言っていたんだよ」

僕たちは会計を済ますために、席を立った。陽子は雨合羽と傘を手に持ち、僕は傘を手に持った。

 年寄りの女性はまだ、本を読んでいる。

 外は、まだ雲が大きく広がっているままだけど雨は止んでいた。

「本当に雨止んだわね」

「そうだね。傘が邪魔になっちゃうな」

「私なんて合羽もあるのよ」

「しかし、なんでまたその合羽はそんなに派手なんだ?」

「知らないわよ。合羽に聞いてよ」

僕が合羽に向かって「なんで?」と聞くと、「知らない」と陽子が答えた。

 僕たちは手を繋いで、近くの書店まで歩いた。大きな水たまりをよけながら、ちょっとずつ歩いた。

「京都楽しみね」

「たぶん、君よりも僕の方が楽しみだ」

「ふーん、そう言ってくれると連れてく甲斐があるわ」

雨に濡れた冷たい空気が僕たちを包んでいたけど、繋がれた手はとても暖かかった。

「言っておくけど、京都に行ったら、日曜日は君を朝に起こすから」

「えー」

「その日くらいしっかり起きてくれよ」

「えー」

「誕生日プレゼント。それにしよう」

「それ?」

「陽子が僕のために早起きをするんだ」

「えー。まあでもそれならしょうがないわね。久しぶりの日曜日の朝だわ」

大きな水たまりの上を陽子が飛んだ。僕もそれに続いて飛んでみる。

「それにしても、あなたは誕生日プレゼントを二つもねだるなんて。なんて欲張りな人間なんだろう」

そう言って、陽子が笑う。

「そう、僕は欲張りなんだ。その点で君と僕はよく似ている」

「そうね」

僕たちの休日が静かに終わっていくのを、陽子と一緒に眺めている。



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