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乱世の確率事象改変

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道化師が繋ぐモノ

 じわり……と心に湧き出る感情があった。
 汚泥の如き粘り気を伴って侵食するそれは、瞬く間に彼の心を一色に染め上げる。
 敵意、殺意の類を向けられるのは初めてでは無い。凪との一騎打ちの時、僅かな時間ながらも殺意を受けられた事は幸運と言えよう。
 根本的なモノとして、彼は何処か第三者視点で自分を見る性分であった。この世界に来てからというモノ、自分の知らない自分が嘗て居たと言われ続けたのだからその性分もより強固にして揺るがなくなっている。
 故に、今の自分が……無意識の内に雄叫びを上げた事に驚愕を隠せない。

 開かれた口から出た自分の声は、心をそのまま吐き出すかのように渇望の色に彩られ、見回せば目に入る敵全てを殺したくなった。
 意図して無理矢理抑え込み、次に気付いたモノは……目の前に倒すべき敵が居て、自分が殺してもいい……それが嬉しくて仕方ないという歓喜が心に湧いていた事。
 自身の心を染め上げていたのは、ヒトゴロシへの歓び。
 矢唸りの音が耳を掠めれば、自然と口が引き裂かれていく。朧三日月に輝く白刃の輝きを見れば、緩く熱い呼気が口から漏れ出す。
 自己乖離した自身に気付きつつも、彼は湧き出る渇望を抑える事が出来ない。人を救いたい渇望にしては……溢れ出す歓びは余りに大きすぎた。
 叫びを上げて襲い掛かってくる敵二人に……自分の与り知らぬ条件反射が一つ。脚が縮地の動作を刻み、腕は正確に頸を狙って振り切られた。
 ほんの瞬きの間のような出来事に驚くも、止まっている暇は無い。幾多も敵が寄ってきているのだ。殺さなければ……自分が殺されるだけ。自身の死に対する恐怖は……一度死んでいる身ゆえに欠片も浮かばなかった。
 重い音が二つ、地に落ちる。一瞬だけ見やれば、向かい来た表情をそのままの頸が転がっていた。

 じわり……とまた心に湧き出る感情があった。
 震えそうになる脚、熱いナニカが零れそうな瞼……次第に顰められていく眉は、先程までとは相反する感情を表す。
 気が狂いそうになる程湧き出てくる感情のうねり。ぐちゃぐちゃに心を乱していくその感情は……悲哀であった。

 何故、自分がこんな二つの背反する感情を持つのか分からない。“普通”は禁忌の行いの罪深さに震えるモノではないのか、自らの手で人の命を奪った事に恐怖し、苦悶を刻んで後悔するモノではないのか……だというのに、彼はなんら、そういったモノに心を向けられなかった。
 虐げられ、地獄のような場所に生れ落ちた人間ならば、自身にしか興味の無いモノならば、前者の感情を持つ事も正しいのだろう。
 されども、彼は違う。倫理観が強固に積み上げられた世界で生まれ出でた人間で、他者と共存して生きてきたはずなのだ。故に……自身の異常性を受け入れられるわけが、無かった。
 本当に自分が感じているモノなのか、誰かが感じているモノなのか……ゆっくり見極める暇さえ、もう与えられない。
 彼は内から込み上げるモノを抑え切れず……笑った。

「クク、あはっ、あははははははははっ!」

 からから、からからと大きな声を上げて笑った。
 矢を避け、頸を刎ね、人を蹴り飛ばし、武器を弾き……壊れた人形のように笑い声を上げ続けた。
 目に見えて怯える敵が自分の手でゴミのように死んでいく……

――なんで……?

 返り血の生温さを懐かしく感じて、漏れ出たハラワタを踏み潰す感触も知っているモノで……

――なんでだ……?

 死にたくない、死にたくないと涙を零しながら向かってくるヒトも、見慣れたモノだと分かってしまうも……

――誰か教えてくれよ……。

 笑いながら、自然に、はらはらと零れ落ちる涙の意味は全く分からずに……

――なんでこんなに、嬉しいんだ……。

 無意識の内に震える声で紡いでも、答えてくれる人など側には居らず、

――なんで……こんなに、哀しいんだよ……。

 自分が自分で無いままに、ただ人を殺す事が嬉しくて哀しくて、張り裂けそうな心を理解出来ない。

 白い剣閃は紅華を咲かせていく。その度にジクリと心が疼く。
 真黒いブーツが敵の骨を砕く。その度にビシリと心が痛む。

 罪悪感が感じられない。人を殺す事に怯え続けていたのに、存外呆気ないモノだった。悲哀の感情が罪悪感から来るモノかと思っても、それでは無いと違和感だけがあった。
 自身の心に浮かぶ感情の理由が理解出来ないから、彼はただ、敵を倒すだけの行動を行い続けた。
 しかし同時に……居心地の良さも感じている。
 自分が敵を殺す度に、殺される攻撃を向けられる度に、彼の心には安息に広がっていった。まるで戦場こそが住処であると、そういうように。
 綯い交ぜになった心とは別に、思考は巡る。如何に敵を効率的に殺すか、この戦場を生き抜くか……自分が死んだら、全てが終わる。

 化け物だ、と誰かが叫んだ。ああそうか、と彼は一つだけ理解出来た。
 この戦場を安息の住処として感じてしまう自分は、人としての線引きさえ外れてしまった自分は、きっと化け物に違いない、と。

――なぁ、誰か教えてくれ。

 びしゃり、と頬に掛かった血しぶきを舐めてみた。生温い鉄味の液体を舌に乗せると、自分はこの舌触りを知っていると感じる。けれども何時、何処で、どんな事を考えてコレを知ったのか思い出せない。

――なぁ、誰か思い出させてくれ。

 踏み砕いた頭蓋骨の感触が足の裏から脳天まで響き渡る。ぐちゃり、と飛び出た目玉も脳漿も、既視感を覚えるだけ。誰を、誰と、どうやって、どれだけの人数をこうして殺して来たのかも思い出せない。

――誰か……俺を黒麒麟に戻してくれ!

 切望の声は上げられるはずも無く、誰に怒りをぶつける事も出来はしない。
 全ては自分の責任。記憶を失ったのも、この戦場を作り出したのも……そして雛里を泣かせたのも。
 現実感が薄すぎた。過去に、嘗ての自分に、黒麒麟の幻影に追い縋り過ぎたからか、彼は記憶と自己認識が入り乱れてこの戦いが現実のモノに思えない。
 浮世の出来事として、傍観者の視点で、“人”を外れた心でコロシアイに身を投じるだけ……自分の命さえ、駒のように扱って。

「クク、ひひっ、あはははっ! あははははははははっ!」

 心の奥底からの叫びに反して、口から漏れ出る笑いは狂人のモノ。
 戦いが、ヒトゴロシが、血が、臓腑が、脳漿が……目の前に作り上げる醜悪な現実が、嬉しくて嬉しくて。
 一つ、二つと動く度に散る涙の雫の意味は……哀しいという感情だけで、何故そう思うのかが抜け落ちている。

 ただ、一番大切な事は忘れていない。そのたった一つだけは、彼の中でブレる事は無かった。

――剣を振ればいい、それだけでいい、俺はあの子を……笑顔にする為に。

 目を覚ました時、“彼女”は少し怯えていた。
 自分が怖かったのか、別のナニカかは分からない。
 けれども彼女は後に笑ったのだ。嬉しい、と弾けんばかりの感情を広げて。
 頭を撫でた時、恥ずかしそうに照れながらはにかんでいたのだ。淡い想いを瞳に浮かべて。

――なのに……俺が絶望に落とした。

 あの瞬間を秋斗は一生忘れない。
 一瞬で光が抜け落ちる瞳も、歓喜が悲壮に堕ちる表情も、ボロボロと零れ落ち始める涙の雫も……。

 想ってくれていた少女の心を救いたくて、せめて何か一つでも返したくて、そしてもう一度……華開くような笑顔が見たいから、
 彼はたった一人の為に剣を振る。
 自己乖離で狂いそうになるギリギリのハザマで、心と思考を繋ぎ止めているのは笑顔と泣き顔。

 ヒトゴロシという究極の理不尽を行っても戻れないという現実に打ちのめされても、彼は諦める事は無い。
 道化師は一人、舞台で舞い踊る。狂ったように笑いながら、人の命を奪いながら、自身の心を分かちながら……黒麒麟に戻れない絶望を心に、あの子を救えない絶望を心に。

――剣を振ればいい。そうすれば俺は近付ける。戻るまでの間でも、俺は黒麒麟になりてぇんだ。

 彼だけの想いはもう一つ。
 兵士達が憧れる英雄の幻影。誰かの為に涙を流して、誰かの為に心を砕いて、誰かの為に戦って、誰かの為に命を賭ける。
 自分もなりたいと思うそんな姿。自分が救われたいのではなく、自分以外の多くを救えるような人になりたいのだ。
 これはただの欲。子供が勇者に憧れるように、ヒーローに憧れるように、彼は黒に憧れている。ソレが生き残る人しか幸せにしない歪んだ悪人だと知っていても、自分が確かに生きていた頃のような平穏な国を世界に作りたいから、彼は黒き大徳を追い掛ける。
 成り立ちが違う為に、戦う理由が違う為に、決してなれないと理解していながら……それでも、“そうあれかし”、と。

 少し先、赤い髪が揺れていた。前々なら燃え上がっていた憎しみは、もう欠片も無い。
 せめて一緒に戦えば何か分かるのではないかと、秋斗は敵を蹴り飛ばして手助けを一つ。
 ただ、彼女は何も言わず、こちらを見もせずにより広い場所へと跳ねて行った。
 また一人になった。
 殺しても殺しても、敵の数は減ったように思えない。赤の少女の絶望はまだ終わらない。
 彼女を救えるなら、あの子を救えるのではないか……そんな希望をすら込めている自分に嫌悪感が浮かび上がる。
 一振りで力任せに、来る矢を二本切り捨てた。背後に迫る敵二人を回し蹴りで吹き飛ばし、右斜めに転げて矢を避け、膝を抜いた縮地と同時、真一文字に敵を割る。

 どれだけ戦ったか分からないほど、敵の攻勢は重厚だった。
 初めに見せていた怯えの心も、時間が経てば薄くなるは必至。戦い続ける自分達を見て、息を弾ませる秋斗や明を見て、敵は次第に狩る側の心を取り戻し余裕を持っていた。
 向かい来る敵が居る限り彼の士気は下がらない。心に浮かぶ安息がある為に。
 しかして、静かに、自身の心の温度が下がって行った。空が白み始めた事によって狂気が薄れ、感情が凍りついた。
 今、何をすべきか。それだけに意識を尖らせよう……冷えた頭は目の前の敵を効率的に殺すだけの為に戦っていた先程までと違い、現状の把握を求めた。

――どっちを取る? 笛の音が聴こえた方か……それとも明の支援か……。

 幸いな事にイカレた戦い方をしていたおかげで敵兵はこちらの方が少ない。明の方に大量に向かっているだろう。
 なら、彼が無理矢理割っていけば夕の元へ行く事も出来るかもしれない。黒の外套を翻して彼が向かった先は……

「……っ」

 白み始めた空で見えるようになった遠くの光景を目に居れた途端に、考えるよりも先に身体が動いた。
 敵、敵、敵が見える。間に合うはずなのだ。自分なら、きっと間に合うはず。彼は願いと共に剣を持つ手に力を込めた。

「ク、ソがぁぁぁぁぁぁっ!」

 夜明けの頃に、煌く長剣が黒の手からするりと放たれ……少女を殺さんとする敵を横合いから真っ直ぐ貫いた。




 †




 吹き出る血しぶき、力が抜け落ち膝から崩れ落ちて行く。
 振り向いて確認した敵は、長い剣によって貫かれて絶命している。
 前に跳んだことと秋兄が助けてくれたおかげであたしの背中は深くは切り裂かれず、どうにか命を繋ぐ事が出来た。
 瞬時に回す思考はただ一人の為に。
 真名を許したという事は、夕は兵士に命を預けているという事で、それならバカ共がきっと命を賭けて守っている事だろう。だからまだ間に合う。
 ズプリ……と敵に刺さっていた剣を抜き放った。見もせずに真横に放り投げ、また来る敵を鎌で切り裂く。
 背中がジクジクと熱い……が、あの時の感覚を思い出したおかげで冷静にもなれるのだから少し笑える。

――武器が無くても戦えるのは知ってるけど、剣が無いと秋兄に向かう敵が勢いづいちゃうよね。

 悲鳴が大きくなったから、秋兄は無事に武器を受け取ったらしい。
 また鎌を振るい、鎖を舞わせ、分銅を投げて戦いを維持する作業に戻る。ただ……どうやら秋兄はあたしと合わせてくれるらしく、近づいて来てくれた。
 狂ったように笑ってたけど、はたして歪まなかったか否か。
 あたしは知らないが、初戦場は只でさえ心に来るモノがあるらしい。武力が高いモノなら尚の事、心にブレが出て何がしかの変化を伴うだろう。彼がそのままならいいけど、暴走してたなら抑えないと拙い。

「ありがと、秋兄」
「バーカ。貸し一つな」

 軽い声音は日常会話のよう。透き通った瞳は昏く落ち込んでいたが、其処まで重大なブレは無い。
 秋兄は……戦う前からイカレてたって事だ。初めてヒトゴロシをしてこんな普通に話せるわけが無いのだから。

――そっか、記憶を失って前の秋兄よりもイカレちゃったのか。それもあたしにより近く。

 互いに武器を振るいながらの短い会話。
 上がった名声から、置かれた状況から、彼は乱世から逃げられない。過去の自分と何時でも比べられ、向けられる期待も視線も願いも他者のモノで、其処には“自分が居ない”。
 元々他人の為にしか生きられない人だったけど、一人を救いたいと願ってしまったから昔の自分と微妙なズレが出る。
 故に、秋兄はあたしと同じになってしまった。
 でもあたしは……今の秋兄も嫌いじゃない。どちらにしろ根本的な異常性は変わらないのだから。
 背中から流れる血を気にも留めず、気遣う事もしてこない。心の距離感があたしにとっては絶妙で、それが凄く、居心地がいい。
 こういう信頼はいいモノだ。誰かと一緒に、自分達の願いの為だけに戦うなんて今までしてこなかったからか、この共同作業も楽しく感じた。
 血も、臓物も、脳漿も……変わりないモノなのに。あたしの心に浮かぶ感情だけが、今までとは全く違うモノ。
 曖昧でもやもやしててやぼったいくせに、なんとなくあったかい。

――ねぇ、秋兄。あたしは……変わっちゃったのかな?

 聞いても前までのあたしなんか知らないから無意味。心の中でだけ尋ねてみた。
 夕の為、それだけはそのまま変わらない。けれども、別のモノがいろいろと増えた気がする。

――悲しい戦い方するなとか、誰かが泣くから簡単に命を捨てるなとか……そんなありきたりで綺麗な事を全く言わないあなたの隣は、凄く居やすいよ?

 同じような理由で戦ってるし、似たような性格してると思うけど、それだけじゃない気がする。
 力付くで奪って、力付くで与えて、何も言わずに寄り添って、何も言わずに合わせてくれる。そんな冷たくて優しいあなたは、きっと戦場じゃなくてもそんな人だと思うんだ。
 楽しくて、暖かくて、下らなくて、でも大切で……そんな日常が出来上がると思うんだ。

――だから、さ。この戦いが終わったら……あなたのしたい事、手伝ってあげる。

 そんな日常こそ、夕が求めて止まないモノなんだから。否、否……これは……“あたしがしたい事”みたい。

――ならあたしも……その輪の中に居れてくれると嬉しいな。

 嘗て、桂花と夕と三人で過ごしていた日常、それをもっともっと楽しくした平穏が欲しい。今なら、張遼とか夏侯淵とかの話もイラつかないで聞けそうな気がする。

「ふふっ」

 いつもとは全く違う笑みが零れた事に自分でも驚く。戦場だというのに心は穏やかで、思考もこれまでに無い程に冴えている。
 怪我の痛みも全く感じず、動きも格段に良い気がした。
 一つ二つと命を刈り取れば、三つ四つと彼が命を刎ねてくれる。
 まだ、まだまだ戦える。他にも欲しいモノが出来たから、欲張りなあたしはまだまだ戦える。速く夕を助けて、沢山、沢山手に入れよう。
 あたしは夕みたいに変わってしまった。欲張りでわがままになってしまった。夕とお揃いだから、それでいい。
 間違いか正解か……分からないけど、なんとなく嬉しいしめんどくさいからこのままでいいや。




 気が付けば剣戟の音はもうすぐ其処で、見慣れた顔が緩い傾斜の先にちらほらと。
 必死な表情と鈍った動き、そして圧倒的な敵の死体の山から、あいつらがどれだけ厳しい戦いをしていたか直ぐ分かる。

 これが終わったら褒めてあげよう。いつもなら当然の仕事だからと絶対にしないけど、今回ばかりは感謝も伝えよう。

 しかし……あたしを見て、彼らの表情は歓喜や安堵を浮かべると思っていたのに……絶望に堕ち込んだ。

 泣いてる奴が居た。
 震えてる奴が居た。
 悲しんでる奴が居た。
 怖がってる奴も居た。
 なのに誰も叫ばないで、自分達に来る敵を殺し続けていた。
 あたしの部下達は確かに命令に忠実だけど……戦場で感情を表に出すようには教えていないはずなのに。あたしの為の言う事には絶対遵守で、戦場ではヒトゴロシのロクデナシになるだけのバカ共のはずなのに。

――なん、で?

 幾本もの矢に貫かれて蹲る一人の兵士が円陣の中心に居た。その大きな背中は、一番強いバカのモノ。あの矢の数では助からない。間違いなく絶命している。
 さらさらと流れる黒髪が、その兵士の下から見えた。小さな身体が、ソレに守られているんだろう。そうなのだ。そうに違いない。
 だって……バカ共はずっと守ってるのだから。大切な大切な夕を守って戦っているのだから。

「おい」

 剣を振りながら掛けられたモノは冷たい冷たい黒の声。答えることなんか、してやんない。
 無事なのだから、しっかりと敵を殺さないと。目の前のモノをクソ袋に変えないと。そして逃げて……あの子と二人で、あたしと同じ秋兄のとこで欲張りな人生を過ごすんだ。そうして死ぬまで生きるんだ。
 異質な音が聴こえて首を傾けると、額を狙った矢が通り過ぎる。見やると、愉悦と達成感に満ちていた敵の表情が驚愕に変わる。これくらい避けれるに決まってるだろうに。
 あんな木の上に敵が居たのか。それなら、一番強いバカが殺されるのも頷ける。夕を守り抜いて死ぬのも、頷ける。

「あはっ……死ね」

 引き裂かれた口のカタチはきっと三日月型。思いっ切り手を振り抜いて投げた分銅が木の上の敵にぶち当たる。落ちる寸前で枝にぶら下がった敵は、落ちまいと必死に足掻いて無様だった。
 秋兄も、落ちていた敵の槍を投げてもう一人を落とした。即座に、後列のバカ共がそいつを串刺しにしていた。何度も、何度も、憎しみを込めて槍で突き刺していた。
 あたしはバカ共に、今回ばかりは連携重視だと、言っておいたはずなのに。

「おい。なんであの状況で……他の奴等が田豊を守ってやがらねぇんだ? 近づいてすらいやがらねぇんだ?」

 一閃……振り抜かれた秋兄の長剣は一人の敵の腕を切り捨てた。
 知らない。聞こえない。
 バカ共はあたしを信じているから、真名を預けられた大バカ野郎を信じてるから動かないだけなんだ。
 秋兄のそんな声なんか聴きたくもない。そんな……昏い変な感情が混ざり込んだ声なんか。あたしにナニカを教えようとする声なんか。

「……くひっ……野郎共! 御頭の復讐は果たしたぞ! ああ、ああ、満足だぁ! もう俺は死ぬしかねぇからよ、置いて逃げてくれて構わねえ!」

 ぶら下がってた奴が下卑た声を張り上げた。
 何を言ってる? お前らはただの敵なんだ。口を閉じて、そのまま死ねばいい。
 秋兄に倣って槍を投げれば……

「ぐがっ!」
「大当たりーってね♪」

 見事に口に命中。口は閉じられなくなったけど、これでもうあいつは喋れない。ああ、死んだから喋れないのは当然か。

 何故か、敵が一目散に逃げ出した。まだ、お前らは仕事を終えてないだろうに。
 何故か、バカ共の多くがその背を追って行った。あたしが目の前に居るというのに、命令を待たずに、涙を零しながら追っていった。

――なんで?

 分からない。分からない。この戦場は夕を殺す為に仕組まれたモノで、終わりはまだ迎えていない。だってほら、あのバカが守ってるもん。
 もしかしたら油断を誘う行動かもしれない。いや、そうに違いない。敵は逃げる振りをして襲ってくるんだ。
 なら、此処は秋兄に任せてあたしが行って確かめないと。夕ならきっとそういう指示をするはず――――

「……明」

 走り出そうとした途端に、秋兄に腕を掴まれる。

「敵がこれからだまし討ちしてくるんだから殺さなきゃダメだよ?」

 当然、こんなとこで待ってる時間は無い。直ぐに敵に備えて動かないと。
 目を合わせたくなかったから、振り向くことなんかしてやんない。

「もう、来ないだろ」
「んなわけないじゃん、夕を狙ってるんだからさ」

 秋兄が守ってくれるから大丈夫。
 背中越しに掛かる声は感情が余り挟まれない……そう思わせてよ。なんであたしの事心配してんのさ。

「じゃあお前の兵士達に任せとけ」
「ダメダメ、甘いってば。夕なら確実に見切る為にあたしを行かせるもん。だから――」

 振り向き、笑いを返して、言い聞かす。頭のいい秋兄なら、それくらいの判断してくれると思った。
 なのに、途中で言葉が止まった。喉から声が出なかった。
 真っ直ぐに合わせられた目が……愛しいあの子と同じ黒い瞳だったから。

「……お前さ……自分が泣いてるの、気付いてるか?」

 感情を隠しながらの声を流して、彼はあたしの目尻をそっと拭った。血がべっとりと付いているのは片方だけだからか、綺麗なままの片方を拭った。
 指に乗せられてる雫は透き通っていて、血の色には染まっていなかった。

「え……? あ……」

 俯けば、地面に落ちた枯葉に円形のシミが一つ広がる。
 ポタリポタリとナニカが落ちた。あたしの心から抜け落ちて行くように、口から熱いナニカが吐き出された。

「う……ぁっ……」

 ぼやける視界でもう一度、置き去りにされたバカの死体を見やる。
 信じられなくて、信じたくなんか、ないのに。確認しても、動かなかった。戦場の音が一つも無くなったというのに……“何も動かなかった”。

――嫌だイヤダいやだイヤだ嫌ダ

 目頭が熱かった。吐きそうな嗚咽が喉を突く。息が荒くなり、胸が苦しくなった。膝から力が抜けて、ペタリと大地に座り込む。
 動きたくないから、理解したくないから、信じたくないから、知りたくなんか無いから。真っ先に向かっているはずのあたしは、ずっと、夕の側に行こうとしていない。

――嘘だ、違う。そんなわけない

 バカ共は命令に忠実に……“あたしを救うため”に叫ばなかった。あたしと、秋兄と、同じ思考が出来る夕は……あたしが無理やり来ると分かってたから叫ばせなかったのだ。
 脳髄にねじ込まれる事実を理解出来るのは、一重に夕の事を信じている為に。
 彼女があたしを助ける為にそうしたんだと
――――分かってしまった。

「ゆ、ぅ……っ……ゆうっ……夕っ!」

 拒絶していた頭が溶けだして、涙など抑えられるはずもない。
 あたしが救いたい少女は……たった一人。
 だからこの目で見るまでは、見たとしても、絶対に認めない。認めてなんかやらない。
 だって……彼女が居ない世界になど……価値なんか……無い。




 †




 だらん、と垂らした腕。秋斗は剣を引き摺って、ゆっくり、ゆっくりと其処に歩み寄る。
 茫然自失は戦の後だからか……否、彼に至ってそれは有り得ない。ただ……無力感から脚に力が入らなかった。
 大丈夫だから、と掛ける声音は優しく甘く、愛しい人にだけ向ける声。最愛のモノを慈しむ母のよう。
 蹲る兵士を力付くで引き剥がした明は、小さな黒髪の少女を宝物だというように大切に扱う。優しく寝かせた後、笑みを浮かべながら明は泣いていた。
 少女の肩には矢が一つ、二つ。他に目立った外傷は全く見られないのに……顔は死人のように蒼白で、苦しそうに弾んだ呼吸を繰り返していた。
 夕は生きていた。張コウ隊の兵士は確かに守れた……敵が真っ直ぐに戦うモノであるならば。

「大丈夫。直ぐによくなるからね? ちょっとだけ、我慢して――」
「もう……無理、なの。明」

 夕の唇から消え入りそうな声が紡がれた。小さく首を振りながら。自分はもう助からないと伝えるように。
 その声も聞かずに、明は彼女の傷口を診ようと肩をはだけさせ……思わず眉を顰めた。

 蒼黒く染まった傷の周辺。普通の矢傷なら有り得ないモノ。彼が曹操軍の負傷兵で見てきたどんな矢傷とも一致しない異質なモノ。毒矢で、間違いないのだ。
 グイ、と涙を拭った明は、無理やり笑顔を作って話し掛ける。

「だぁいじょうぶ! あたしが直してあげる。夕が怪我した時の為に勉強したんだから」
「……泣いてるの?」

 嗚呼、と心が悲哀と絶望に染まる。
 彼女は明の動きも分からなかったのだ。もう……目さえまともに見えていないのだ。

「そ、そりゃあ心配した、もん。夕が死んじゃうん、じゃないかって」

 次第に震え始める声は幾多の涙と共に紡がれ、それでも明は笑顔を崩さない。
 ポタリポタリと涙が落ちる。震える吐息と嗚咽が漏れ出て、それでも明は笑ったまま。
 夕は答えない。ただ微笑みを浮かべて、弱々しい息を漏らしているだけだった。

「直ぐに治療、しなきゃ。秋兄、笛でバカ共を呼んで――」

 絶対に助けてみせる。一筋の希望に縋る彼女は秋斗に声を掛けるも、

「……明」

 大切なモノから発された声で途切れ、聞かなければと、身体も頭も停止する。

――これ以上聞いたらダメだ。耳を塞げ、彼女の声を聞くな……そうしないと、夕が居なくなってしまう。

 そう思っても、どうして愛しい彼女の声を聞かない事など出来よう。
 塞げるわけがない。ずっとずっと彼女の言葉と願いに耳を傾けてきたというのに。

「秋兄……居るの?」
「……ああ」

 次いで、見えない視線を彷徨わせる夕を、明は緩く抱き起こして彼の方に向けた。
 一歩、二歩……三歩で秋斗は前まで来てしゃがむ。黒瞳が合わされる。自然と……ポン、と頭に手を置いた。
 ふっと緩めた表情は優しく、先程までの戦いが嘘のよう。血を拭う事もせずに、彼は無言のままで夕の黒髪を手で梳いて整える。

「……明、いつもみたいに、普通に話がしたい。秋兄も混ぜて、話してみたい」

 心地よさそうに目を細めた夕は、ただ平穏を願った。
 彼女の願いを聞かない事が、明に出来ようか。

――やめて……

 那由多の彼方の希望であろうと縋るから救わせてくれと泣き叫ぶ心は、もう助からないと理解している脳髄が抑え込もうとして乱れる。

――救わせて……

 泣いて縋って喚いて叫んで、そうすれば彼女が助かるなど、有り得ない、と。せめて自分がするべき事は、なんであるのか、と。

――あなたを……救わせて。お願い、だから……

 零れ落ち続ける涙を抑える術を、明は知らない。
 グシグシと拭って、また泣いて、また拭って……
 見えなくとも笑顔を見せたいと思っても、出来なかった。
 叶う事の無い平穏の時間がさらに遠のいていくと分かっているのに。

「あの……ね……秋兄は、さ。き、記憶を、失ったんだって。劉備軍に居た、時のこと、覚えてない、んだって」

 せめて、と。明は言葉だけでも紡いでいく。荒い息で、叫びそうになる喉を無理矢理に叱咤して。
 一寸だけ目を見開いた夕の視線が彷徨う。しかして、直ぐに思惑を読み取れたようで、口の端を緩めた。

「……だから、さ。夕は、まだまだ、一番になれるん、だよ?」
「そう……じゃあ、こう言おう」

 不思議な視線、光が強まったような、幾多の感情が渦巻く黒の瞳が秋斗に向けられる。見えない視界でも、確と彼の瞳を射抜いた。

「私の名前は、夕。初めまして、優しい人」

 姓も名も字も無い、ただ一つの存在証明である真名を、彼女は名前として彼に届けた。

「……初めまして、優しい女の子。俺の名前は秋斗」
「ん、秋兄って、呼ばせて?」
「構わんよ。明にもそう呼ばれてるし」

 苦笑交じりの、他者を慈しむ低い声。平穏を楽しく過ごす彼の声。さらさらと黒髪を撫でつけて、ニッと彼は笑ってみせた。

「秋兄、私は、優しくないよ? ただわがままで、欲張りなだけ」
「クク、ならさ、俺と同じだ。俺も優しくなんかないからな」
「ふふ……じゃあそれで、いい」

 穏やかな日向に居るように、二人は他愛ない会話を続けて行く。
 自分は? と明は必死に涙を抑えようとして……それでも笑えなかった。

「……あたしね、夕と同じで欲張りに、なったよ?」
「明も、一緒?」
「そだよ。あたしは、夕と一緒に、下らなくて、でも楽しい平穏な、世界で生きてたい。いっぱい、幸せが欲しい」

 掠れた声、しゃくりあげながら、嗚咽を漏らしながら、涙を流しながら。ただ彼女が生きていればそれでいいと願った明の願いは変化を伴うも、やはり夕が居なければ叶わない。
 しかし違うのは、自分も幸せになりたい、そう願う心があるかないか。
 震える唇は、そんな自分になったから、夕が望んだ通りの自分になれたからとだけ伝えて、話を変えた。

「……秋兄ってば、さいてーなんだよ? 女の子泣かして、ばっかりなんだって」

 せめて、下らなくも愛おしい平穏を、少しでもこの場に作りたくて。

「む……他の子は知らないけど、明を泣かすのは、許さない」
「……おい夕、なんで俺が明を泣かすって言いやがんだよ」
「秋兄は、女たらしだから、きっと明も落ちる」

 なんでもない事のように言って退ける夕の言に、明は驚愕を隠しきれず……漸く涙が止まった。

「あたしが? んなわけない、もん」
「まだ、その程度だと思う。でもきっと……変わるよ?」
「……そう、かな?」
「きっと、そうだよ」

 あれほど変化を嫌っていたというのに、少し変わった自分を自覚したからか、明は自然とそんな可能性もあるのではないかと思えた。
 笑えるほど呆気ない。そして、下らなくて面白くて楽しい会話だと思った。故に……明はグイと涙を拭って……悪戯好きな少女の笑みを浮かべた。

「じゃあ秋兄、ちゅーしよっか?」
「はあ? 却下だバーカ」
「なら私と、する?」
「それも却下。ってなんでこんな話になってんだ……」

 自分に出来るのは心をそのまま言葉を零すだけだと分かっているから、彼は呆れたようにため息を一つ。
 彼の気遣いを間違うことなく、彼女達もこの場が崩れないようにと続けた。

「夕ぅ、振られちゃった……うう、泣きそう」
「ほら泣かせた。秋兄はさいてー」
「おいこら明、嘘泣きすんな」
「ふーんだ。もういいよ。夕とするからいいもーん」

 いつも通りの自分で、いつも通りの平穏を。さすれば明が夕に想いを向けるのは当然で……締め付けられる胸を抑え付けながら、

「ん……」

 愛しい少女に口づけを落とす。

――いかないで……

 はらり、と一筋だけ零れた涙は、絶望の一滴。
 もう、彼女が助からないのは、自分が救えないのは分かっていた。だからせめてと、明は夕の心の安息を願い、自身のわがままを全て零さない。想いを残せるように。彼女が死の間際でも自分達の生きた時間を感じられるように、と。
 離れた唇から零れる吐息は熱っぽく、夕は穏やかに微笑んだ。返す笑いは舌を出して、明の食べたいモノは、此処には無かった。

「そろそろ、ダメ、みたい」

 ずっと続くはずの無い瞬刻の平穏は、黒の少女の口から終わりを告げられる。
 ズクリ、と明の鼓動が跳ね……それでも涙を零さなかった。例え見えなくとも、彼女に笑顔を見せていたかったから。

「明……」
「うん」
「愛しいあなたに、願いを掛けよう」
「うん」

 紡がれる声は弱く優しく、思わず抱く腕に力を込めた。

「生きて、生きて、生き抜いて……そうして幸せを、掴んで欲しい」

――――私はあなたが幸せになってくれたら、それでいい。

 まるで入れ替わったような願い。欲張りになった赤と、ただ彼女の幸せを願う黒。本当なら自分がそう言うはずなのにと……明の心が悲鳴を上げた。しかし彼女は自分を出さない。

――あなたが死んだら、あたしは生きてる意味が無い。なのに……あたしに生きろって……言うの?

 答える事が、出来なかった。絶望に暮れる表情で明は夕を見つめていた。

「秋兄……恋しいあなたに、想いを託そう」

 黒瞳に灯る光は大きく強く、彼を求めるかのように上げられた震える腕を、優しく握った。

「明を……よろしく。この子を助けられるのは、あなただけだから」
「……ああ、分かった」

 自分が居なくなれば持たない少女が生きられるように。そう聞こえる願いが一つ、彼にそっと届けられた。
 初めて託された想いを胸に、救えなかった絶望を胸に……彼の目から……すっと、涙が流れた。
 満足したのか、夕は晴れやかな笑みを浮かべた。

 夕は、弱々しい声を聞きとろうと顔を近づけていた秋斗の額に、口づけを一つ。

「おまじない……あなたが強く、有れますように」

 彼も彼女も、そのまま看取るだけだと……思い込んでいた。夕が明のこれからを、予想出来ないはずがないのに。

「優しい人。あなたが想いを繋ぐなら……してほしい事が、一つある」

 穏やかな場に疑問が一つ。人の心を操る少女は、赤の救い方を間違えない。

「私を……殺して。敵じゃなくて、あなたの手で、殺されたい」

 眠るように死を迎えるよりも、彼の手で殺される事を夕は望んだ。
 バキリ、と何かが壊れる音が響いた気がした。聞いたのは明で、もう……自分を抑えることなど、出来なかった。




 †




「や、だ……ヤダ! ヤダよ、夕っ!」

 殺してくれと紡がれた死に際の願い。余りに異常なその発言が、笑顔を作っていた明の心を打ち砕いた。
 目の前で大切な人が殺されるなど……耐えられるはずがない。
 また止まる事の無い涙を零して、明は夕の身体に縋りつく。大切な宝だというように、ぎゅっと強く抱きしめて。
 夕は自分がこのまま死んでは、明が耐えられないと悟ったのだ。漸く自分が作られたのに、自分を抑え込んだ上で大切なモノを消失してしまっては、また振り出しに戻るだけだと。否、もっと酷い事になると、一番近くに居たから気付いているのだ。
 なんて、残酷な救い方。自分に向けられる心を無視して、明がこれから人として生きていけるように……そんな、救い方。
 一人のこれからを救うために自分を殺せと、夕はそう言っている。

「死なないでっ! いかないでっ! 一人にしないでっ!」

 泣き縋る明を退けて無理矢理殺せば、俺に少しでも憎しみを向けてこれから生きる活力が出来るかもしれない……そんな希望も込めているんだろう。
 確かにお前は優しくなくて、黒麒麟の同類だ。こんな……こんな救い方があるかよ。こんな救えない終わりが、あってたまるかよ。明を絶望させて救うなんて……そんな救い方ってあるかよ!
 このまま俺が何もせずに夕が死ねば、明は張り裂ける心に耐えきれず壊れるだろう。もう、生きていけないくらいに。夕から生きてと言われたからと、本物の人形になってしまう。

――だから俺に殺せと、明のこれからを守る為に遣り切れと……お前はそう言うのか、夕。

「明、聞いて?」
「やだ! やだやだやだやだ! 聞きたくない! 夕が居ないと意味ないもん!」

 子供のようなわがままを言う明は、本当の自分が曝け出されている。
 この子の目の前で殺す事など、出来るわけがないだろうに。でも……俺が黒麒麟になるなら……しなければ、ならない。
 俺が想いを繋ぐなら、死に行く夕の為に、生きていく明の為に……殺さなければならない。そうしなければ……誰も救えない。
 夕は俺に賭けた。俺は……俺に賭けるしかなくなった。
 すらりと剣を抜き立ち上がると、明の身体がビクリと跳ねた。困惑と、悲哀と、絶望と、焦燥と、憎悪とが混ざり合った視線。先ほどまでの平穏な時間など、まるで無かったかのような。

「秋、兄? 殺さないよね? だって秋兄はこの子を一緒に助けてくれるって言ったじゃんか」
「……そうだな。俺はこの子を救わなきゃならん」

 声が揺れた。なんでこんなに救われない?
 膝が震える。なんでこんなに絶望しかない?
 視界がブレる。なんでこんなに……苦しみしかない?

 人は平等に幸せになる事なんざ出来ない。こいつらも人を沢山殺してきた。殺した相手は、関わったモノ達は、不幸になっただろう。
 でも、こいつらも幸せになりたくて、それでずっと足掻いてきたのだ。
 信頼を向ける黒瞳と金色。どちらか選べと、二人は問うているかのよう。誰もを救える未来など、もはや残されていない。

「……だから……どけ、明。夕の心を救いたいなら、願いを叶えたいのなら」

 目を細めて睨みつけた。そうすれば、唇を噛みしめた明は夕を抱き締めた。武器を取ることなく、まるで一緒に死ぬと、そう言うように。

「ヤダ……ヤダよぅ……死なないで、殺さないで、いかないで……」
「あのね、明」

 ぽつりと夕の口から言葉が漏れる。嫌だ、いやだと小さく繰り返している明の耳に入っているかも気にせずに。

「あなたに出会えて、私は幸せだった」
「……」

 穏やかな声は耳に優しく流される。ピタリと、明の呟きが止まった。

「あなたに出会えて、私は楽しかった」

 もう力も入らないだろう震える腕をどうにか上げて、夕はさらりと赤い髪を一つ撫で、

「あなたに出会えたから、私は“生きる”事が出来る」

 滑らせた白磁の掌を、そっと彼女の頬に添える。

「だから、思い出を、無くさないで。嘘にしないで。あなたの心の中で、生きさせて」

 死んでしまっても、ずっと一緒に居た明の中で生きられるからと、

「この世界を嘘にしないで。確かにあった想いを嘘にしないで。あなたの幸せが私の幸せ……あなたの為に、私の為に」

 記憶に残れば想いは生きて、この世界に生きた証が残される。

「そうすれば一人じゃないよ。せめてあなたと共に、生きたいの」

 前を向いて歩けない少女の心に寄り添って、残した想いを生かしてほしい。それが夕の願いで、救い。

「……お願い、私の大切なお姫様」

 最後の言葉の後、ギシリと歯を噛み鳴らして、明はもう一度、夕に口づけを落とした。
 そうして、グイと涙を拭い去ってから……笑った。

「ふふっ……りょうかい、だよっ……あたしの大切な、お姫様」

 優しく地に夕を寝かせた明は立ち上がり、俺の手を取った。

「でも……秋兄だけになんか……させてあげない。あたしも夕の命を食べる」

 一寸だけ呆然とした夕は、ふっとまた笑みを漏らした。

「……ありがと、明……大好き」

 此処には救われない少女が二人。
 俺が救えない少女が一人。救わなければならない少女が一人。
 明と二人で剣を握った。血が出るのも構わずに刃を短く持ち、強く握りしめた。
 浅い息は命の灯が消える寸前を表し、安堵した表情は安息に包まれて。

「秋兄……最期に、あの言葉が……聞きたいな」

 向けられた声は優しく弱く、彼女が慕っていたという男を表すモノで、俺にもそれ在れと願いを込める。

 笑え、笑えよ。

 心の中で呟いて、頬に涙が伝ってくるのも構わずに、俺は口を引き裂いた。

「クク……忘れてたまるか……お前のこと。俺も絶対に忘れてやんねぇよ、夕」
「う、ん……」

 剣を高く持ち上げる。赤の少女の大切に向けて、後は振り下ろすだけ。

「……乱世に、華を……世に……平穏を」

 剣が胸に刺さる直前に、彼女の唇が……ありがとう、と動いた。
 ズブリ、と肉を貫く感触が掌に伝わり、一際目を見開いた夕は、目をゆっくりと瞑って安らかな表情に直ぐ変わった。

「……どう……なた……せか……すように」

 掠れた音は聞き取れず、一つ吹いた風が持ち去って行った。
 痛いくらいの静寂は温もりを齎さず、赤の少女はカタカタと震える。

 大きな、大きな声が張り上がった。絶望に暮れる少女が一人、次第に消えていく温もりに縋るように抱きつき泣き叫ぶ。

 ズキリ、と胸と頭が痛んだ。
 空虚な穴が、心に空いた。

 俺は救えなかった。誰も救えなかった。

 黒麒麟。お前だったら……こいつらを救えたかよ……


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

赤と黒のお話。
主人公はまだ戻れませんでした。
明は最後に夕の予想を超え、夕の命の輝きを喰らって生きる道を自ら選びました。

次話は少し特殊なお話。

ではまた 
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