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闇物語

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コヨミフェイル
  010

 「乗り心地はいかがだったかい、鬼いちゃん」
 「乗り心地も何も生きている心地すらしなかったけどな」
 無表情で抑揚なく話す斧乃木ちゃんと打って変わって、僕は舞い上がった土煙にむせながら、言葉につまりながら言った。
 「童女に家まで送ってもらえることに感極まって生きている心地すらしなかったって、狂気じみた変態だね」
 「今僕がこんな状態じゃなかったら、突っ込んでいるところだけど、本当にごめん。少し休ませてくれ」
 突っ込む気力どころか、話す気力がぎりぎり残っているほどにノックダウンされていた。
 というのも、移動方法が移動方法だった。
 影縫さんの言う通り、時間は大幅に短縮できたが、短縮できるのも当たり前だった――意識がブラックアウトしかけるほどの速度で移動したのだから。
 僕は斧乃木ちゃんに抱きつ、もといしがみつくように言われてイヤッホーイとか勿論言わずにしがみついてみれば、唐突に腕が引きちぎられるかと思うほどの速さで斧乃木ちゃんが空に向かって跳んだのだ。
 そう、跳んだ、ジャンプしたのである。
 斧乃木ちゃんは『例外の方が多い規則』(アンリミテッドルールブック)で自分の脚の体積を爆発的に増加させたエネルギーで跳んだのである。
 そのときに掛かったGで意識が飛びそうになったのだ。勿論降り立つときも同じ速さだ。多分このとき僕は史上最強の絶叫系を体験したと言える。あまりのGに絶叫する暇がなかったけど。
 着弾地点がちょうど家の前だったことで驚きも一入だった。レーザー誘導顔負けの精度である。少しでもずれていれば、半壊どころか家が全壊するところだった。
 「一度しか来ていないから、場所を大まかにしか覚えていなかったけど、ドンピシャだね。よかった」
 とか言っているのを聞いて今頃背筋に冷たいものを感じていた。
 家に着地しなかったのはよかったけれど、これどうするんだよ。クレーターできてんぞ。補修費払えるのか?
 「休ませたいのは山々なんだけど、できないみたいだ」
 休ませたいとまるで思っていないような棒読みで斧乃木ちゃんが言ったそのとき。
 「お兄ちゃん!!これは何があったの?!なんで家の前にクレーターができてるの!!」
 玄関を破壊せんばかりの勢いで開けた月火が目を白黒させて言った。
 「月火!」
 月火を視認するが早いか、朦朧とする意識がはっきりして気付かぬ間に駆け出していた。
 深さが一メートル、半径が二メートルあるクレーターから飛び出して、門ぴを飛び越えて、月火に飛びついた。
 「大丈夫か!どこか喰われたりしていないか?怪我とかもしてないか?」
 飛びついた勢いのまま玄関に押し込んで、いつかのように押し倒し、浴衣を乱暴に剥いだ。
 このとき、腰まで伸ばされていた漆黒の髪が振り乱れ、少しスカートに見えて、その中を覗いているような感覚を覚えたのは自分だけの秘密にしよう。
 それはさておき、押し倒して半裸に剥いた妹を舐めるように頭から足先まで見てから裏返して同じことをした。
 表現からはわからないだろうが、僕はいたって真剣である。いかがわしい気持ちなんてない。妹なんかにいかがわしい気持ちになったりはしない。だから、僕の影からこれみよがしに大仰そうなため息が聞こえたとしても僕に何等関係ないことである。
 「えっ!何何何何!?新手の性的虐待!?」
 月火はその間更に目を白黒させて、手足をばたかせるもなされるがままになっていた。
 「無傷のようだな」
 月火が無傷だとわかると、立ち上がった。
 頭に上っていた血がすーっと引いた、というよりかは気が抜けた。ほっとしたのもあるかもしれない。
 「無傷じゃないよ!?傷だらけだよ!」
 「何!?傷なんてなかったぞ?」
 ていうか、月火は不死身だから傷があったとしてもすぐに治って、傷も何もあったものではないけれど。
 「お兄ちゃんのせいで女性としての自尊心が見るに無残なほどにずたずただよ!」
 「おいおい、貴様の断崖絶壁を絵に書いたような体のどこに自尊心を抱くほどのものが備わっているのってうおっ!何しやがるんだ!!」
 真実を言っているまでの僕に月火はやり投げの如くどこからとも無く取り出した千枚通しを僕に投擲した。
 喉に刺さる寸前で掴んで事なきを得た。
 バタ子さん顔負けのなかなかの制球力、いや制錐力である。後半裸に剥いたというのに、千枚通しなんかどこに隠していたのだろうか。戦場ヶ原に文房具収納術を伝授されたのか?
 …………恐らく、そうだろうな。
 余計な事ばかり吹き込みやがって何のつもりなんだ!
 「二度も裸見ておいて言うことじゃないでしょ!」
 「…………きっと大きくなるさ」
 「そんな薄っぺらな同情はなんていらなっいー!」
 「他人もまた同じ悲しみに悩んでいると思えば、心の傷は癒されなくても気は楽になる」
 「尤もらしいこと言ってごまかそうとしないでっ!」
 尤もらしいも何もシェークスピアの言葉だからそう聞こえて当たり前だけれど。
 「それよりも、何で羽川は僕にメールを送ったんだ?」
 月火が無事ということはまだ襲われていないということなのだろうか。それで襲われる前に僕を護衛に付かせたということか。
 「お兄ちゃん、こっち」
 ヒステリックから復帰した月火が乱れに乱れた浴衣を直して憮然たる顔で僕を先導した。
 月火の台詞が字面だけを見ると、『お兄ちゃん、エッチ』にも見えなくはないと思うのは僕だけだろうか。
 うん、まあ、気のせいだな。
 「おい――」
 振り返って斧乃木ちゃんに声を掛けた――つもりだったが、予想に反して斧乃木ちゃんはそこにいなかった。忽然とという表現がしっくりくる感じでいなかった。人っ子一人ならぬ僕っ子一人いなかった。いや、僕っ子と共に道路を深々とえぐったようにできたクレーたーさえも消えていた。きっと僕っ子の仕業だろう。
 ちょっとの間というのが僕を家まで送り届けることしか含まれないのであれば、消えたって責められることでは無論ないが、もう少しいたっていいんじゃないかと心中で少し悪態をついていると、
 「何してるの、お兄ちゃん!?こっち!」
 階段を上り切ったところで腰に手を当てて立っている月火の金切り声に意識を逸らされた。
 月火の台詞が字面だけを見ると、『何してるの、お兄ちゃん!?エッチ!』にも見えなくはないと思うのは僕だけだろうか。
 …………気のせいだ。気のせいに違いない。気のせいでないわけがない。
 頭を振って馬鹿な思考を追い出して階段を上がった。月火が先導した先は僕の部屋だった。中に入り、見回すと、ベッドを心配そうに眺める千石が目に入り、千石の視線を追うと、ベッドに寝かされている神原が目に入った。顔には悲痛の色が見えていて、首から下に掛けられている布団の下にどんな痛々しい後継があるのかを窺わせていた。
 「神原っ!!」
 その瞬間に僕はベッドのそばに駆け寄っていた。
 「阿良々木先輩か。先程の地響きは先輩の仕業だとすぐにわかったぞ、ふふっ。相変わらずだな、阿良々木先輩は」
 僕の声に反応して、神原が目をおもむろに開けて、体をゆっくりと起こした。
 体を起こしたことで布団がずれ落ちると、ぼろぼろのジャージがあらわになった。所々引きちぎれたり、穴が空いていて、その穴から覗く痣が生々しく見るに堪えなかった。
 「じっとしてろ!」
 「だめだ、阿良々木先輩。私は阿良々木先輩に謝らなければならないことがあるのだ」
 「謝ることは後ででもできるだろ!今は寝てろ!」
 押さえ付けようと手を伸ばしたが、
 「だめなんだ、今じゃないとだめなんだ」
 神原はやんわりと腕を捕んで押し返した。だが、その押し返す力の弱さにさらに不安を募らせるだけだった。押し返されたというより、僕が神原の押し返している意志を汲み取って手を引いたという方が正しいぐらいだったのだ。あれだけ溌剌とした神原がまるで生気を失ったように見えることは異常事態以外の何ものでもなかった。
 「今じゃないとだめってどういう事なんだよ……」
 それに加え、神原の言葉が最悪の事態を言外に示唆していた。
 「そのままの意味だ、阿良々木先輩」
 「そのままって、どのままなんだよ!」
 力任せに拳を床に打ち下ろした。
 その一撃で床が僅かに軋んで、拳から腕にかけて電気が走ったように激痛が巡ったが、どうでもよかった。
 神原が瀕死の状態であることだけで僕が取り乱すには十分だった。
 こんなところで死んでいい奴ではないのだ。僕なんかより比べものにならないほどに生きる価値のある奴なんだ。運動神経において右に出るものはいない。勉強もできる。そして、分け隔てない竹を割ったような性格で誰からも慕われている。
 どの点においても僕より優れているというのに僕がのうのうと生きて、神原が死ぬ道理はない。
 それに二十歳になれば腕も元通りになって、ちゃんとした人間として人生を全うできたはずなのだ。
 「神原に電話してなかったら」
 僕のせいなのだ。
 思慮に欠けすぎていたのだ。
 神原に頼るばかりに怪異に関わらせてしまった。本来怪異からは遠ざけなければならないにも拘わらずだ。
 死ぬべきは僕なのだ。
 「そんな顔をしないでくれ、阿良々木先輩」
 神原が俯いて奥歯を噛み締めている僕の頬に手を添えた。
 「神原……」
 まるでどこぞの悲劇のようである――が、それは違う。
 死を間近に迎えた末期の患者を家族が見守っているような構図だが、まるでこれは悲劇ではない。
 神原が死んでしまうことが悲劇ではないということではない。もし、そうであったなら、それは今世紀最も悲劇な悲劇だろう。
 だが、忘れてはいけない。
 神原は変態なのだ。
 「興奮するじゃないか」
 「へっ?」
 神原はばふっとベッドに背中から倒れ込むと、自分を抱きしめるように、胸の前で腕が交差させて肩を掴んだ。
 「阿良々木先輩の寝台で阿良々木先輩のニオイに興奮していたばかりだというのに、これ以上興奮させられたら尊敬して止まない阿良々木先輩にさえも言うのも憚れるぐらいの淫事の限りを尽くし兼ねないではないか」
 しまいに神原は欣幸の至りといった風な顔で小刻みに身体を震えさせた。
 「お、お前平気なのか?」
 状況を飲み込めなかった。
 この神原がいつも通りの神原だということははなはだ残念なことだが、いつも通りの神原である。しかし、神原に生気がないのもまたその通りだった。負と正が同居してるという感じだ。
 「平気でもあるし、兵器でもある。実は私は最終兵器後輩なのだ!」
 「大胆不敵にモロパクリしてんじゃねえよ!というか、その通りだと前世どころか現世でもサイボーグじゃねえか!」
 平気っていうか、元気そのものの神原後輩だった。
 「何を言う、阿良々木先輩。最終兵器彼女はサイボーグじゃないぞ」
 「…………そうなのか。ていうか、それより、体は本当に大丈夫なのか?」
 「う~ん、擦過傷十ヵ所、打撲二十ヵ所ぐらいだ。あっ、それと、骨折が三ヵ所だ。つまり、どうってことはない」
 神原は体を見回してから腰に手を当てて、胸を張るようにして言った。
 骨が三本折れているならその動作ひとつひとつに激痛を伴うはずだが、まるでそんなことは無いようで、ケロっとしている。
 「それを重傷って言うんじゃないのか?」
 「む?確かにフロイトの後継者を自任しているが、それほど変態であるつもりはない」
 「そっちに関する重傷じゃねえし、そのことなら心配せずともお前は十分致命傷だよ!意識不明の重体だよ!」
 フロイトの後継者を自任している時点で致命的だろ!
 「褒めてくれるのか、阿良々木先輩」
 「褒めてねえよ!」
 「ベッドに阿良々木先輩を押し倒してあんなことやこんなことをする想像を膨らませていたことを謝らなければならないと思っていたが、まさか褒められるとは。どう謝ろうとずっと考えていたが、取り越し苦労だったか」
 「何してんだよ!普通に青ざめるわ!褒めるわけないだろ!後ジャージの破れたところから肌が見えるっていうことはその下には何も着てないだろ!」
 今気付いたけど!
 「阿良々木先輩に喜んでもらえて無上の光栄だ」
 「喜べねえよ!月火!神原に着せる服を持ってこい!」
 と、言うと、了解と言って月火は部屋を飛び出していった。
 出し抜けに聞こえた押し殺したような笑い声に振り向くと、場違いにも馬鹿な掛け合いしていた僕達に千石が忍び笑いをしていた。
 意図もなく言い合っていたことで知らぬ間に場を和ませていたことを知って自然と笑みが零れた。
 だけど、神原は先程のテンションとは打って変わって、じっと僕を見ていた。
 「どうした?」
 と、訊いても
 「何でもない」
 とだけ言って目を逸らした。神原が言葉を濁すことが珍しいだけに気になってしようがなかったけれど、
 「で、本当にその姿はどうしたんだよ、神原」
 すぐに顔を引き締めて声をできる限り落として神原に訊いた。勿論この質問には神原の怪我に怪異が絡んでることを前提にしている。月火に席を外してもらったのも、他でもない、月火の耳に怪異に関することを入れさせないためである。
 事態を考えれば、もうそんなことを言っている余裕はないと言えるのかもしれないが、それでも月火には、いや妹達には怪異には関わってほしくはない。それで再び二人に災難が降り懸かるようなことあってはほしくない。それにこれ以上誰かに神原と同じ目には合わせたくない。
 怪異に一度遭えば、曳かれる。
 と、言うように二人は怪異に曳かれているのだろう。
 これがその結果と言える。
 ならば、ここはこれ以上関わりを持たさないようにして怪異から遠ざけるのは当然で、それは兄であり、吸血鬼もどきの僕の役目なのだ。
 「これは――」
 顔を引き締めた神原が一文字に結んだ口を開いた――その瞬間だった。
 「火憐ちゃんだよ」
 戸口からの声が神原の声を掻き消した。
 神原に着せる服を取りに月火が駆けていった方向からだった。
 そして、聞こえてきた声は月火のものだった。
 「なっ……」
 口を開けたまま絶句した。
 この絶句、というよりかは一時停止、は二つのことから起因していた。
 神原の服選びにしばらく帰ってこないだろうと踏んでいた月火がそこに居たことに驚いたこと。
 それと、月火が口にした言葉の意を悟って驚いたことだった。
 火憐が善人に暴力を振るうなんてことが信じられなかった。ましてや神原にだ。
 正義の味方を名乗って悪と見なしたものを次々とその手に掛けてきたファイヤーシスターズ一味だが、二人が(僕を除く)無関係な人、もしくは善人と見なしたものに危害を加えたことがあることは寡聞にして聞いたことがない。
 聞き間違えかと思った。
 しかし、ファイヤーシスターズの参謀役が口から発した言葉は確かに己が妹、ファイヤーシスターズの実戦役の名だった。
 「どういうことだよ……」
 「だけど、あれは火憐ちゃんじゃなかった。だって無表情の火憐ちゃんなんて火憐ちゃんじゃない」
 「…………無表情?」
 『無表情』というワードが引っ掛かった次の瞬間には北白蛇神社の境内での壮絶な闘争の画が脳裏を過ぎった。
 楽しげな影縫さんと黄泉蛙の子に憑かれた無表情の瑞鳥との闘争。
 このときある憶測が頭に浮かんだ。
 千石に目配せを送ると、千石は小さく頷いた。
 それで憶測が確信に変わった。
 火憐は憑かれていたのだ。あのときにはすでに火憐は黄泉蛙憑かれていたのだ。
 少し考えれば、気付けたようなことだった。
 火憐は真剣な顔をしていたわけではなく、ただ無表情だったことも、石を投げ付けられたにも拘わらず、火憐が僕に襲い掛かってこなかったことも少し考えていれば、不審に思うに違いなかったのである。
 誘拐の可能性のある失踪した思い人を捜しているさなかにそれを妨害するように飛んできた石を打ち返すだけで済ませるだろうか?
 火憐の残念な頭脳でもその石の出所を特定してその人物を捕縛して尋問なりでもしてもおかしくないだろう。
 そのことに気付かず、呑気に火憐を止める算段を立てていた自分が心底憎かった。その所為で火憐が神原をこんな目に遇わせたことに、その所為で火憐の正義を汚してしまったことに自戒の念を抱かざるを得なかった。
 「何があったのか詳しく聞かせてくれないか」
 だが、悔やんでいる場合ではない、到底ないのだ。
 火憐は今も月火を求めて走り回っているのだ。 
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