その魂に祝福を
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魔石の時代
第五章
そして、いくつかの世界の終わり5
前書き
説明編。あるいはネタばれ編
※ソウルサクリファイスの重大なネタばれがあります。これからプレイする予定の方はご注意ください
1
誰かが犠牲となるような世界を変えたい。そう願いながら、結局のところ自分にはそれを果たす事が出来ない。それを思い知ったのはいつだったか。随分と昔の事のように思えるし、つい最近の事のようにも思える。あるいはまだ思い知っていないのか。だから、今もまだ足掻いていられるのかもしれない。
だが、一つだけ言える事がある。あの日世界を救った代償として、自分は人間とは言えなくなった。不死の怪物に人の世界の未来など作っていける訳もない。自分にできるのは、目の前に立ちはだかる不条理を――その脅威を払いのける事くらいなものだった。滅びに曝された現在を守ることなら出来る。だが、その先に続く未来は他の誰かに託さなければならない。自分が使命を果たすためには、それを認める事から始めなければならなかった。それを認めるためにも、随分と時間を費やす羽目になったが。
ただ、認めてしまえば、それは別に大げさな事でも何でもなかった。それは敗北の証ではない。無力の証明でもない。誰にだって出来ることとできない事がある。自分が出来る事を果たし、出来ない事は出来るであろう誰かに託していけばいい。ただそれだけの事だ。それ以上でもそれ以下でもなかった。それを認めるまでに時間が必要だったのは――結局のところ、力への誘惑を振り切れていなかったのだろう。
認める頃には、自分は『奴ら』の力を――少なくともその一部を――自分のモノとする術を見出していた。その気になれば、『聖杯』の真似ごとも出来る。その確信を得られる程度には。というより、その領域に至って初めて気付いた。自分が望むままに世界を組み替えられる力を得て初めて。
結局のところ――それをやってしまえば自分は『奴ら』と何ら変わりないのだと。
それがその『力』の限界だった。我ながら間が抜けている。いや、そこで気付けただけまだマシだったのか。ともあれ、未来を誰かに託す術を求め始めたのはそれからの事だ。自分が最も長く戦場から離れたのは、その『術』が完成するまでの期間だったように思える。もっとも、それが完成してしまえば再び戦場に戻る羽目になったのだから、我ながら業が深いと言わざるを得まい。
未来を託すための術――そのために自分が作りだしたのは、一冊の魔術書だった。過去を伝え、叡智を伝え、誰かが生きた証を伝える。それが未来への希望となるように。その手段として、それ以外のものが思いつかなかった。
打ちひしがれ、それでも未来を求める者達に、自分が伝えられる限りのものを伝える。その為に生み出したその魔術書に自分は『写本リブロム』と名付けた。自らの半身であり相棒である魔術書『偽典リブロム』の写本。自分が受け継ぎさらに加筆を加えた魔法大全や、『神』の知恵の全てが――そして、歴代の読み手の生き様がそこには記されている。その魔術書の力を得れば、世界を作り直す事もまた不可能ではなかった。それこそが、自分が世界に打ち込んだもう一つの『楔』なのだから。だから、使い方次第では『聖杯』のようにも振舞う事は出来る。自分がそうであるように。
その写本が未来の担い手として誰を選ぶか、それは書き手の自分にも分からない。だから、読み手が世界をやり直すという選択をするのであれば、それはおそらく止められない。だが――その気難しい魔術書が選んだ人間であれば、何をすべきかは自ずと分かるはずだ。かつての自分が知りえる限りでも、何人かの読み手が誕生し――その誰もが世界をやり直す事は選ばなかった。だから、かつての自分は未来を誰かに託す事が出来たのだろう。そう言っていいはずだ。
未来を目指す者がいる限り、その写本は今も世界のどこかにある。誰にも名前を知られることなく、それでもただ静かに待ち続けているはずだ。
いや――名前を知られていないというのは間違いか。その写本……その魔術書は、長い歴史の中で聖典とも呼ばれる様になった。最初の読み手となった魔法使いの名と共に。
自分の持ちうるすべての魔法を――自分に連なる全ての名もなき人達が……無数の魔法使い達が積み上げてきた叡智全てを記したその魔術書は、今も世界のどこかで静かに眠っているはずだ。
誰かが犠牲になるような世界を変えたい。そう願う誰かを。その覚悟を持った誰かを。未来を託すに相応しい読み手がその手を伸ばすまで。
おそらくはそのための希望となるであろう、何人もの読み手の生きた証を記して。
2
「母親、ね……」
呻いたのは、プレシアだった。確かに、我が身を省みて状況と照らし合わせれば当然だろう。ついでに言えば……残念ながら、それは的外れでも何でもない。
「でも何故?」
問いかけてきたのは、リンディだった。
「それには彼女……ニミュエの出生が関わってくる」
さて。ここで一つ厄介な話をしなければならない。もう失われた代物だが――管理局の興味を引きかねない、あらゆる願いを叶えるとされる伝説の杯……聖杯が関わってくるのだから。慎重に言葉を選び――話を多少改訂しながら続ける。
「まず彼女の『母親』についてだが、言うまでも無く魔法使い……それも、強大な魔力を持つ魔女だった。彼女には相棒……というより、伴侶と言うべきかな。つまり、最愛の男性がいた。もちろん、その男も魔法使いだった」
「その二人の間に生まれた子どもがニミュエさん?」
フェイトの問いかけに首を振る。そうであれば、殺戮衝動は生まれなかっただろう。
「残念だが、少し違う。まず彼女の相棒について少し話しておこう。おそらくモルガン――『母親』の名前だが――と出会った時には……遅くても彼女と旅をしている頃には彼はすでに記憶を混濁させつつあった」
「記憶を混濁?」
呟いたのはクロノだ。軽く頷いてから、もう少し詳しく説明をする。
「右腕に魂を取り込む際、相手の生前の記憶や感情まで取り込む事がある。言うまでもないがそれはその人間が最期まで強く思っていた記憶であり感情だ。その強い遺志に飲まれると、まるで自分のものだと錯覚を起こす。感情であればそれを受け継ぎ、記憶であれば自分の記憶と置き換わる事すらある。これも代償の一つ……いや、いっそ呪いと言ってもいいだろう。そうして自分と何人もの他人の記憶や感情が入り混じり、区別がつかなくなる。継ぎ接ぎされた記憶によって彼女の相棒は徐々に別人になりつつあった。いや、違うな。本当に別人になってしまったんだ」
それが、恩師の相棒である『マーリン』なのだが――今はそれに触れる必要もあるまい。今はニミュエの出生の秘密に触れるだけでいい。いや、その前にこれだけは言っておかなければなるまい。
「誤解を招かないように、これだけは言っておくが。別にそれは死人が蘇ってきた訳じゃあない。『自分』を失った結果、その空白に『誰か』が住み着いただけだ。それに完全に『自分』が消えてしまった訳ではない。あくまで境界線を見失っただけだからな。簡単に言えば、矛盾する記憶や感情に何とか整合性をつけようとした結果の産物だ。だから、そこに生じるのは少なくとも二人以上の人格や記憶が入り混じった全くの別人に過ぎない」
つまり、今の自分のように。かつて■■■■■■■■■■■と呼ばれていた『自分』と、■■■■と呼ばれていた『自分』。今の自分――つまり、御神光とはその二人の人格が融合した結果生まれたものだ。リブロムによる追体験により■■■■■■■■■■■の記憶をいくら取り戻したとしても……その遺志を受け継いだとしても■■■■が消えてなくなる事はない。例え表出してくる事はなくとも、必ずどこかに存在している。だから、自分は御神光なのだ。フェイトがアリシアにならなかったように、自分も■■■■■■■■■■には――あるいは■■■■には戻れない。
「さて、話を戻そう。別人になった彼は、モルガン……つまり、自分の相棒の事も忘れてしまった。それこそ試験やら掟やらの影響もあって仲間意識が希薄な魔法使いにとって、相棒とは重要な意味を持つ。そこに男女の仲が追加されればなおさらだな。だからこそ、取り残された彼女は深い孤独に陥り、その果てにとある禁術に手を出した」
「禁術……。あの炎の巨人や剣と同じですか?」
ユーノの言葉に頷く。
「ああ。彼女は禁術を用いて自分の複製を生み出したんだ。詳しくは分からないが……おそらく術の目的から考えて代償は子宮か何かだろうな」
正しく言えば、彼女が縋ったのは禁術ではなく聖杯だが――差し出した代償はおそらく変わらない。
「それが、ニミュエさん?」
少しだけ震えが宿ったフェイトの言葉に頷く。
「そうだ。モルガンはその複製を娘とする事で孤独から解放された訳だが……今度は娘、ニミュエの方が孤独に囚われる事になった。普通ではない方法で生み出された誰かの複製。それを知った時から。普通の世界全てに対する恨み、妬み、憎悪……そして、その身勝手さに対する自己嫌悪。それらが混ざり合い、やがて殺戮衝動となっていった。とはいえ、彼女の母親は優れた魔法使いだった。当時の彼女が殺せるような相手じゃあない。今となっては確かめる術もないが、アヴァロンへの加入を求めた理由として力を欲していたという面が全くなかったとは思えないな」
ともあれ、その殺戮衝動はいずれ恩師に受け継がれ――どうやら、俺にも受け継がれていたらしい。例え、ほんの僅かな残滓に過ぎないとしても。
「その後、恩師は殺戮衝動を鎮める術を求めて各地を旅しながら、右腕の彼女と対話を続け、その果てに答えを見つけ出した。もっとも、出くわした時にはすでにモルガンは魔物に堕ちていた訳だが。……そして、全てが終わり、その魂を取り込んで初めて全ての真相を理解する事になった」
ニミュエの出生にまつわる真相。それを知る事が新たな悲劇の――世界の終わりの始まりとなる訳だが、それは今触れるべき事ではない。
「つまり、恩師の右腕には彼女の母親の魂も宿っていた。どうやら、恩師の全てを受け継いだ俺にもそれが受け継がれていたらしいな。だからこそ、あんなにも急激に殺戮衝動の侵蝕が進んだんだろう」
「どういうことかしら?」
「だから、自分とよく似た境遇のフェイトと出会った事で、まずニミュエの魂が目覚めたんだろう。それと同時、モルガンもまた自分とよく似た事をしながら『娘』に愛されている存在を知ったんだ。しかも、その『母親』はそうでありながら、『娘』に暴行を加えているとなれば、それはさぞかし不満だっただろう。それこそ、その『母親』に対する恨み、妬み、憎悪……そして、その身勝手さに対する自己嫌悪ってところか。元々魔物化していた事も併せれば、その怨念はニミュエにも負けないだろうさ」
もっとも、目覚めた真相――本当のきっかけは、おそらくもっと素っ気ないものだろうが。いや、むしろ奇跡的なのか。まったく、俺が言うのも何だがもう少しマシな方法があっただろうに。
(まぁ、いいか。俺もニミュエ達のお節介だと思っておくさ)
実際のところ、彼女達の『意思』が干渉してきたのは紛れもない事実だろう。そうでもなければ、今さら殺戮衝動が蘇る訳もない。そして、ニミュエ一人だったなら恩師と同じく一〇年程度は持ったはずだ。だが今回は、単純に考えて二倍。二人の関係を考えれば、相乗効果も大幅に見込めそうだ。そんなものを抱えていれば、半月足らずで堕ちそうにもなる。むしろ、我ながらよく持ったものだ。
「……そんな危険な状況でありながら、何故私を殺さなかったの?」
静かに問いかけてきたのは、プレシアだった。しかし、何故殺さなかったのかとは。なかなか難しい事を訊いてくれる。
(ま、理由を挙げろと言われれば、挙げられない事はないが……)
救済するか生贄にするか。それとも運命に委ねるか。その決断の理由を訊いてくる魔法使いはあまりいない。所属する結社を見れば一目瞭然なのだから。また、それにあえて逆らった場合でも、黙認するのであれば詮索はしないというのが魔法使い同士の暗黙の了解だった。それでも、全くない訳ではない。今までであれば、自分の被った代償を――つまり、生贄にすればするだけ若返っていってしまう身体だからと言えば良かった。
しかし、今回はそうはいかない。それを言えば、どうせ何故そうなったかも説明しなければならなくなるだろう。それは……正直なところ、かなり不都合がある。かと言って、安易に誤魔化していいような問いかけでもない。
「世界は不条理に作られている。世界が人間に優しかったためしなど一度もない。その最たるものが『死』である」
しばらく考え、思い浮かんだのはその言葉だった。
「ペンドラゴンの爺さん……秘密結社アヴァロンの最高指導者である第十三代ペンドラゴンの言葉らしい。……俺の恩師は驚くほど顔が広くてね。面識があったそうだ」
軽く笑って見せるが――リンディ達は何とも言えない顔をした。どうせ彼女達の中ではアヴァロンは狂人ばかりが揃った極悪非道な組織になっている事だろう。
「だから、人間は生きている間に何かを残そうとする。自分が死んだ後も、自分が生きた証となるものを。たった一言でも、ただ残せばいい。あの爺さんはそう言っていた」
そのボスがそんな哲学じみた事を口にするのは、さぞかし意外だったに違いない。
「彼女が……アリシア・テスタロッサが残した言葉、彼女の願い。彼女の生きた証。それを本当の意味で受け継ぐのはお前しかいないと思ったんだ」
お前を殺せばそれすら永遠に失われる。だから殺さなかった――最初は言い訳のつもりだったが、いざ言葉にすればそうでもないように思えた。だが、言い訳と言う事にしておこう。そもそも、こういう説法じみた真似は本来別の――例えばエレインのような人間の役目だ。少なくとも、俺の役目ではない。
「あの子が、生きた証……」
「そうだ。彼女の生きた痕跡は、きっと誰かの希望になる。俺の右腕なんかに閉じ込めておいていいものじゃあない。そう思ったのさ」
部の悪い賭けなのは分かっていた。それでもあの瞬間、救済する以外の選択肢など思いつきもしなかった。……あるいは、それこそが彼女達の本心だったのかもしれない。
「それに、お前を殺してしまえばフェイトの願いだって永遠に叶わなくなる。理由としてはそれだけでも充分すぎるくらいだ」
何であれ柄ではない事を言った。それを誤魔化すように付け加える。だが、これは俺自身の本心でもある。結局のところ、殺すなんて選択は初めからなかった。
「……きっとあなたに救われた直後だったんでしょうけど」
幸い彼女達も一発ぶん殴ったらそれで満足したらしいしな――右腕を軽く振りながら笑って見せると、プレシアが小さく呟いた。
「あの子は……アリシアはずっと妹を欲しがっていたのよ」
魔力もジュエルシードも失い、自分の望みは全て断たれた。あとに待つのは死しかない――そう思って意識を手放す直前にその約束を思い出した。プレシアはそう言った。その声は震えていた。それ以上は言葉にならないのだろう。
「あの子の残した願いは……あの子が生きた証は、私の希望になってずっと傍にいてくれたのね。それから目を逸らしていたのは私の方」
嗚咽にも似た吐息を吐きだしてから、彼女は凛とした声で言った。
「もう目を逸らさない。逃げもしない。今度こそ私はあの子の願いを受け継ぐ」
静かにフェイトに右手を差し出した。そして、問いかける。
「信じてもらえるかしら?」
「うん!」
フェイトがその右腕をしっかりと握り返す。
「……ありがとう」
そのままフェイトの身体を抱き寄せ、プレシアは言った。その声は少しだけ震えていた。フェイトの頬にも涙が伝う。その姿を見届けて――右腕が軽くなった。ほんの微かに燻ぶっていた衝動の残り火が完全に消え去り……その代わりに別の感情が伝わってきたように思えた。それは嫉妬であり、羨望であり、そして――新たな始まりを迎えた親子に対する、不器用な祝福でもあった。
3
今度こそ一通りの説明を終え、ようやく解散の雰囲気が漂い始めた頃の事である。
「そう言えば、もう一つ訊きたい事があるのだけれど」
またもそんな事を言い出したリンディに思わず、舌打ちをしそうになった。
「そんなに嫌そうな顔しないでもいいんじゃないかしら」
どうやら表情に出ていたらしい。俺もまだ未熟と言う事か。ともあれ、
「これ以上何を絞りだそうって言うんだ?」
いい加減ネタ切れだと思うが。これ以上は、少々都合が悪い。
「だからそんな大げさな事じゃないわ。ちょっとした疑問よ」
そんな前置きをしてから、リンディは言った。
「何でリブロムさんは、なのはさんの事をそんなに苦手にしているの?」
その言葉になのはも全力で頷いている。フェイトまでもが興味ありそうな顔でこちらを見ていた。……まぁ、実際のところ、それくらいなら確かに大した事ではない。
「ま、多分びっくりしたんだろうけど……」
ただ、何と説明したものか――自分でもよく分からないまま、取りあえず話し始める。
「昔なのはと二人で留守番してた時の事だ。夏だったから窓を開けっぱなしにしておいたんだが……うっかり網戸も開けちまってたらしくてな。俺が部屋を空けている間に蛾が迷い込んできたらしいんだ。確か夕暮れ時だったから風呂の用意か何かをしに行ったんだと思ったが……」
はぁ――と、困ったような顔でこちらを見てくる一同の視線を持て余しながら続ける。そんな顔をされても、俺も困る。
「ともかく、ちょうど部屋を開けていた時に宿題を終えたなのはがお菓子とかジュースとかお盆に載せて俺の部屋にやってきたらしくてな。部屋に入って電気をつけた途端――」
『……ソイツの顔にそのデカい蛾が飛びかかったんだ。で、床にジュースとか全部ぶちまけやがった』
リブロムが呻いた。いや、それくらいで済んでくれればいくらか楽だったのだが。
「それくらい驚いたはなのはは、悲鳴を上げながらとっさに払いのけようとしたらしいんだが……」
ため息と共に続ける。
「その時にちょうど掴んだのがリブロムだったんだ」
そんなに長い事離れるつもりもなかったから、ベッドの上に出しっぱなしだったのが不味かったな――そんな事を今さらながらに反省しつつ、
「それで、リブロムを見てさらに驚いて――」
『手当たり次第に無茶苦茶に振り回しやがったんだ』
それはもう随分と大暴れしたらしい。ちなみに、迷い込んだ蛾はその隙に逃げていったようだ。俺が部屋に戻った時は影も形もなければ潰された痕跡もなかった。その代わり、
「ちなみに俺が部屋に戻った時には、何を思ったか知らんが泣きながら零れたオレンジジュースに向かってリブロムを叩き付けていた」
鬼気迫るというか何と言うか――もはや我を忘れていたとしか言いようがない。俺も思わずたじろいだくらいだ。
『しかも表表紙だぞ! ジュースは目に沁みるし、顔は痛てえし、ふやけるし……』
と、まぁ事の顛末は大体その程度の事なのだが――
「ええっと……。それだけ?」
困惑した様子のリンディに向かって呻く。
「それだけってお前な……。こっちは大変だったんだからな。なのははそのまま熱出して寝込むし、リブロムは完全にへそ曲げやがるし、部屋は荒れ果ててるし、絨毯の染み抜きもしなけりゃならなかったし――」
正直なところ、あの時ほど誰でもいいから早く帰って来いと思った時はない。
「わ、私そんなことした覚えないよ?!」
「そりゃそうだろ。翌朝熱が下がって起きてきた頃には、全部悪い夢って事で自己解決してたからな」
ちなみに、なのはが目を覚ますまでの間、帰って来た士郎と桃子と顔を突き合わせてどこまでの事を話すか、かなり真剣に話し合っていたのだが――それも取りあえずお蔵入りになった。それが良かったのか悪かったのかは分からないが。
「あううううう……」
頭を抱えてしまったなのはに、ため息をつく。
「ま、まぁまぁ。その頃のなのはは魔法とか知らなかったんだから。それはびっくりするよ。ね、アルフ」
「そ、そうだよ。大体その本人相悪いしさ!」
フェイトとアルフの慰めの言葉を聞いていると、クロノが呻いた。
「本当にそれだけなのか?」
「俺は今、今までで一番正直に話しているんだが」
この一件に関して言えば、誤魔化さなければならないような事など何もない。
「……そうか」
「ごめんね、リブロム君! 本当にごめんなさい!」
取りあえず立ち直ったらしいなのはが、全力でリブロムに頭を下げ――勢い余ってテーブルに頭をぶつけていた。それを見ながら告げる。
「大体、あの子がそれ以上の因縁を用意できると思うか?」
「……いいや」
納得してくれたようで何よりである。
4
それから数日が経ち、次元震とやらの影響も落ち着いた頃――ついでに言えば、暇を見つけては追体験を繰り返し、『雫』を貯めてようやく右目を『取り戻した』頃の事である。
「じゃあ、なのは。桃子によろしく」
海鳴市に――家に帰るなのはと、何やら同伴する事になったらしいユーノを見送る。家に帰ったら可能な限り桃子のご機嫌をとっておいてもらえると非常に助かる。というか、切実にお願いしたい。普段穏やかな人間ほど怒ると怖いという話は良く聞くが……桃子はその見本のような女性なのだから。いや、もちろん怒鳴り散らし暴れ回るとかそういう怖さではない。というより、言動がいつもと大きく変わる事はない。だが、奇妙な凄味があるのだ。有無を言わさぬ凄味が。それでいて、恐怖よりも罪悪感を刺激するのだからたまったものではない。
「うん。光お兄ちゃんも頑張ってね」
ちなみに、だが。テスタロッサ親子は見送りには来ていない。と言うより、来れないというべきか。それも仕方がない事だ。仮にも犯罪者である以上、そう自由に出歩ける訳もない。一応挨拶はできたようだが――それでも、名残惜しさは隠しきれていない。
もっとも、フェイトと面会できないのは何も犯罪者だからと言うだけではない。プレシアが従えたジュエルシードを強引に封印しようとした代償はあの子の身体にまだ刻まれていたらしく、ここ数日体調を崩していた。緊張の糸が切れた事で、今までの疲労も一気に表出したという事もあるだろう。面会謝絶と言うとさすがに大げさだが、元々本調子ではなかった事もあり、あと数日はゆっくり過ごさせるようにと指示があった。
さらに加えて言えば。フェイトの不調の最大の要因は、ジュエルシードがばら撒いた超高濃度の魔力を浴びた影響だという。……どうやらアリシアの直接の死因もそれに近い状態だったらしい。もちろん、フェイトは命に関わるような重篤な状態ではないのだが、それを知った途端にプレシアは明らかに情緒不安定になった。仕方がない事とはいえ、魔物化が再発する危険は多少ならず高まったと言わざるを得まい。
「ああ。やれるだけの事はやるさ」
プレシアが情緒不安定になっている以上、被った代償に対する鎮静も念入りに行わなければならない。もちろん、経過の観察も必要だった。もっとも、ジュエルシードによってもたらされる『魔物化』は後遺症も残さず快癒する事が実証されている。何故そうなるのかについても興味深いが、今は置いておくとして……プレシアの場合も基本的にはジュエルシードによるものである事に変わりはない。今までの例から考えて、鎮静どころか完治を目指せるはずなのだが、
(ほんの一瞬とはいえ『奴ら』の力が介入した可能性があるからな)
プレシアが世界を引き裂こうとした瞬間、確かに『奴ら』の気配を感じた。かつてジュエルシードを作りだした民族が何を思ってそれを作成したかについては、ユーノにも分らないそうだが……ともあれ、あの力は聖杯もしくは『楔』に近似する。少なくとも世界を引き裂こうとしたあの瞬間には、あの魔石は限りなく聖杯に近づいていた。だからこそ、プレシアにだけ代償が残ったとも考えられる。それなら用心しておくに越した事はない。
(あるいは、彼女の資質がなせる技かもしれないな)
彼女の力は凡百の魔導師とは一線を画す。今回はそれが裏目に出ただけという可能性も否定はしきれない。ともあれ、
「さて、頑張ってと言われてもな……」
なのは達を見送ってからため息をつく。
『ま、どう頑張っても今のところ経過観察くらいしかやる事ねえよな』
プレシアにはすでにエレイン――二代目ゴルロイスが遺した鎮静魔法を施してあった。つまり、ここしばらくの間俺が使っていた物と同じ包帯がその右腕に巻かれている。もちろん、それで魔物化を完全に防げる訳ではない。しかし、その封印を破ってまで魔物化するほどの強い要因もなかった。文明や文化の違いというのもあるだろうが、リンディ達も『魔物化した』という事実に対して特別な偏見を抱いている様子はない。もちろん、有耶無耶になったとはいえ犯罪者である。そういう意味ではある程度以上の警戒はしているだろうが、その半面で――実際に反映されるかどうかは別としても――情状酌量の余地もまた認めていると考えていい。周囲の理解はあるとみていいだろう。
フェイトの不調がきっかけで情緒不安定になった以上、関係修繕の意思はあるものと考えられる。実際に彼女は一日中付きっ切りで娘の傍にいる。……もっとも、本人も本調子ではないため、最終的には医者に止められたようだが。その間、フェイトも満更でもなさそうだった。もちろん、そう簡単に解決するような問題でもないのだろうが……それでも本人達に歩み寄る意思がある限り、あとは時間が解決してくれるはずだ。
「それはそれで構わないんだがな」
本人に贖罪の意思があり、かつ周囲の理解を得られているというなら、魔物化が再発する危険は随分と下がる。それは過去の傾向からして明らかだった。フェイトの不調もあくまで一時的なものであり、実際すでに回復の兆しも見えている。ならば、俺が出る幕はない。となると、現時点では特にこれ以上やる事がなかった。結局のところ、俺がここに残った理由は万が一に対する備えである。……少なくとも表向きは。
「それで、これ以上俺に何を訊きたいんだ?」
振り返り、問いかける。相手はもちろんリンディだった。そもそも、ユーノが今もなお海鳴市――ウチに留まる理由は、彼女達の本拠地へと帰るための道がまだ閉ざされているからであるらしい。つまり、アースラもしばらく動けないという事になる。アースラがこの空間に留まるというなら、プレシアに異変が生じてから呼びだしたところで別に問題はない。いくら情緒不安定とはいえ、何の前触れもなく再び魔物化するほどには今の彼女は不安定ではないのだから。だと言うのに、
「あら、何の事かしら?」
この女狐が。白々とよく言ったものだ。
「用がないなら帰るぞ」
ジュエルシードが手元にない以上、再度魔物化する可能性は低い――と、多少脚色はしているが……ともあれ、魔物化の兆候がない事はすでに説明してある。プレシアにもリンディにも――フェイトにもアルフにもクロノにもだ。それを理解できない訳でもないだろうし、その程度では安心できないなどと言い出すほど肝が細い訳でもあるまい。
「ごめんなさい。足止めをした事については申し訳なく思っているわ」
取りあえず、その言葉には誠意が感じられた。だからこそ、黙って先を促す。
「実は報告を上げる時に、どうしてもあなたの事に触れない訳には行かなくてね。第九七管理外世界――つまり、地球には魔法文明がないものとされてきたのに、魔導師が存在した、しかも未知の術式を使うとなると、どうしても情報収集をしないといけないのよ」
「宮仕えも大変だな」
取りあえず笑ってやる。リンディの返事は大体予想通りだった。
「そう思うならもう少し協力してもらえるかしら?」
「禁術や代償、生贄と救済、各組織について。俺としてはもう随分と話したつもりでいるんだがな」
正直、少し喋りすぎたと思う程度には。おおよその概要には全て触れたはずだ。
「もう少し詳しく……具体的な技術について訊きたいのよ」
どうせそんな事だろうとは思っていたが。だが、
「……そんなもの、教えろと言われて教えると本気で思っているのか?」
別に全てが全て秘匿とされている訳ではないが、近代の――つまり、新世界において普及した新型供物の製造には色々と機密事項が多い。もちろん、刻印の技術も同様だ。各組織の秘奥がそこには秘められている。それらは無数の魔法使い達が文字通り命を賭して磨き上げてきたものだ。それを横から掻っ攫われるのは良い気分ではない。それに、俺自身が手を加えた供物は――あるいは切り札と呼べる供物は、どれもかなり特殊なものだった。例外もあるが、基本的には根源にあるのは『奴ら』の力や知恵だ。それを如何に人の身で使えるようにするか。俺の魔法の基本的な発想はそこに集約すると言って過言ではない。それを教えれば……まぁ、どれほど控えめに言ったところで、ロクでもない事になるのは疑いない。
「そう言われると思っていたわ」
それは何よりだ――肩を落とし、ため息をつくリンディに笑って見せると、彼女はさらに深々とため息をついた。
「まぁ、それはともかくとして。報告と言う意味では、禁術については少しぼかしておいた方がいいと思うのよ。いくら多用できないとはいえ、複数のロストロギアを強引にねじ伏せられる力を一個人が持っているとなると色々と面倒な事になるわ」
抜け目のない事だ――今度は俺がため息をつく番だった。『禁術をぼかすため』と言う名目で、あとどれだけ情報を絞り取られる事やら。だが、
「……まぁ、いいだろう。ここでプレシア達の引き渡しを餌にしてこなかった誠意を買って、もう少しだけ付き合おう」
言うと、リンディは少しばかり顔をひきつらせた。次の餌がそれだったのか、
「……まずはあなたとの関係改善をした方がいいみたいね」
それとも、それが本音だったのか。ともあれ、こちらも管理局について多少は情報を得ておかなければならない。この機会に絞り出してみるとしよう。
(しかし、関係改善と来たか)
どうやら私達はとことん嫌われているみたいだし――と、ため息をつくリンディを見て、声にせず呻く。
あの魔石――ジュエルシードにまつわる事件は一通りの解決を見た。だが、実はまだ謎が残されていた。関係するのは俺だけだが――未だに答えが分からない。
(殺戮衝動は間違いなく消えた。なら何故、俺はまだ管理局に対してここまで悪感情を抱いている?)
右腕に由来する衝動は確かに消えた。それは間違いない。だというのに、管理局と言う存在に対しては、それこそ殺戮衝動にも似た感情が消えない。
(と、なるとやはり――)
管理局を敵視していたのは、殺戮衝動の影響ではなくて――
(俺自身が殺したかったんじゃないか?)
今思い返せば不自然なほどの敵意。衝動に呑まれていない時にも続いたそれは、やはり自分自身を説得するためのものではなかったか?――それこそ、こと管理局に対しては殺戮衝動さえもその言い訳でしかなかったのではないか。いよいよそんな疑念が強まる。
(だが、いくら何でもそんな事がありえるか?)
いくら組織にロクな印象がないとはいえ、そこまで嫌悪している訳でもない。そもそも自分の生き方とは折り合いが悪いというだけで、組織そのものの有用性を否定する気などないのだ。それに相手は仮にも司法組織である。それを壊滅させた場合、その先にあるのは大きな混乱だ。しかも、組織の性質上その混乱は複数の世界に及ぶ。そんなものは俺自身も望む所ではない。
それに自分とて組織に救われた事がない訳ではないのだ。例えば、サンクチュアリやグリム、アヴァロンと言った組織に。彼らがいなければ、自分は今ここにはいない。自分ひとりで世界を守ってきたなどと自惚れられるほど、自分は傲慢でない。しかし、それなら一体何故?
(時空管理局……。記憶にはないはずだ。そんな組織とは接点がない)
冷静になった今思い返してみても、やはり心当たりはない。それともまだ思い出していない記憶で、接点があったのか。……その可能性は決して否定はできない。あの時からこの『器』に収まるまでの記憶は今も酷く曖昧だ。そして、全てを鮮明に思い出す事は不可能である。その曖昧な記憶の中で、管理局と何かがあったと考えても別段不自然ではない。それに、
(あの時から考えて二〇〇年経ったかどうか、か……)
組織が淘汰されるまでには充分な期間だが、淘汰が困難な規模になるためにも充分な期間だ。だとすれば――管理局が事実複数の『世界』を統治していると言うのであれば、連中とも接点がある可能性は考慮してしかるべきだ。
だからこそ、管理局に対しても警戒を緩めないでいる。
(それならまぁ、矛盾はないか?)
気が抜けない理由としては充分だ。だが、それだけでこれほどの敵意を覚えるかと言われると、やはり疑問が残る。ただ、それはひとまず置いておくとして――
「ハラオウン艦長。一つ訊きたい事がある」
ふと気付いた事がある。文字通り『世界』を股に掛ける彼女なら、ひょっとして行方を知っているのではないか。それなら――
「何かしら?」
リンディを見ながら、そんな欲望にかられる。
「や――」
だが、それが言葉になる前に思いとどまる。訊いてどうなる?――彼女が本当に情報を持っているとも限らない。いや、持っていたとしても……突かなくていい藪を突けば何が飛び出してくるかわからない。
「いや、何でもない。忘れてくれ」
それに、あの世界で自分が目覚めた以上、必ずあの世界のどこかにいるはずだ。下手な事を言って介入された方が厄介だった。それに、もう一つの可能性を思い到った。あれから何年経ったかはっきりしないが……あるいは――
「そう? ならいいけれど……。ところで、私にも一つ訊かせてくれる?」
ともあれ。一瞬だけ怪訝そうな顔をしてから、リンディが言った。
「何だ?」
「リブロム君には何が書かれているの?」
要するに見せろと言いたいのだろう。だが、それこそ論外だ。
「あれは日記だよ。いわば個人情報の塊だ。他人の日記を読むのはマナー違反だろう?」
相棒が記憶しているのは、必ずしも魔法の叡智だけではない。青臭くて不器用な思い出や苦い過ち。……そんなものも記されているのだから。
4
それから数日が過ぎた頃である。アースラで過ごした日々は――予想に反して概ね平穏が続いていた。時折リンディやクロノと腹の探り合いをする羽目になったが……それについては向こうも仕事だと割り切るより他にない。幸い、管理局に対する得体の知れない敵意は治まった。いや、意識の奥底に沈められただけか。少なくともリンディやクロノ達にはもう当初ほどの悪感情は抱いていなかった。
フェイトはすでにほぼ回復しており、時々は病室から出てアースラ内を散歩している。もちろん、低下した体力を回復させる治療の一環に過ぎないが。
フェイトの回復に伴い、プレシアの精神状態も落ち着いてきた。経過は良好だと言える。今後の大きな問題は魔物化ではなく、『魔法』同士の干渉だろう。代償として残った俺達の『魔法』と彼女が本来有していた『魔法』は今も干渉しあっている。このままではどちらの魔法も使えそうになかった。もっとも、それについては彼女達が海鳴市に越してきてから対応を考えればよさそうだった。
「今魔力を取り戻してもどうせ封印されるだけよ。それなら、使えない今の状況の方を維持した方が後々楽なんじゃないかしら。こちらとしても封印解除の手続きが省けるし」
とはリンディの言葉ではあったが――まぁ、それならそれで構いはしない。どうせ一昼夜で対応できるような問題でもない。ある程度の情報も収集した事だ。あとは急がずに研究していく事としよう。
プレシアの経過と言えば、フェイトとの関係にはまだ課題は多そうだ。基本的にはお互いに歩み寄ろうという意思はあるのだが、プレシアがフェイトに負い目を感じているのは明らかであった。フェイトが寝込んで以来ずっと付き添っているが、『親子』だと言えるほど深い部分にまでは踏み込めていない。一方のフェイトも、自分から触れようとする分にはさほど問題ないのだが、プレシアから急に触れられると身体を強張らせてしまう。その根底には、やはり長年の虐待に対する恐怖があるのだろう。というより、ない方がどうかしている。実際のところ、自分から触れるにも相応の覚悟が必要なのではないかと睨んでいる。ついでに言えば、アルフはまだまだプレシアを敵視していた。これは露骨過ぎてどうにもならない。いや、陰湿な対応でないだけまだマシか。
だからだろう。リンディからこんな提案があった。
「減刑を目的とした管理局への協力、ね。どうやらよほど人手不足と見えるな」
ロストロギアに取り憑かれたからだとしても、世界を滅ぼしかけた事には変わりない。そんな相手に対して表向きは更生の証として――本当の目的は減刑のための取引として、管理局直下の研究所で働かないかという提案をしてくるとは、向こうの人手不足はなかなか深刻であるらしい。
「それは否定しないわ。でも、プレシアさんにとってもフェイトさんにとってもアルフさんにとっても、もう少しカウンセリングが必要になるわ。地球でも受けられない事はないでしょうけど……彼女達の抱える事情全てを話すのは無理でしょう?」
その点でミッドチルダ――つまり、彼女達の本拠地なら別に問題にはならない。リンディの主張はそうだった。
「なるほど。良い餌を見つけたな」
住居が海鳴市になる事を考えれば、史上稀にみる長距離通勤になりそうだが、それはともかくとして。条件としては悪くない。……お互いに、だ。
「……ええ。そう言われると思ったわ」
プレシア達に対する心理的な支援は間違いなく必要だった。それを受けるにはリンディ達の協力がいる。危ない橋を渡らずとも減刑が受けられるなら、それに越した事もあるまい。それもまた、否定できない事実であり、リンディの提案は渡りに船だ……が、管理局という『組織』からの提案だとするなら、少しばかり話は変わってくる。
減刑という餌をちらつかせることでプレシアとフェイトという有能な魔法使いを抱え込めると同時に、俺との――というより、向こうにとって未知の『魔法』との接点も間接的に保てるという訳だ。さらには彼女達を籠絡するあるいは拘束する事で情報を絞り取ることも不可能ではなくなる。……それなら、何か俺にも恩恵が欲しいところだが。
ともあれ、それで一番得をするのは管理局だという事は何ら変わらない。やれやれ、欲深い事だ。もっとも、そうでなくては他の世界まで支配する事なんて出来る訳もないか。
「彼女達の身柄だけじゃなくて、俺達の身柄の解放も条件に入れておくべきだったな」
やはり詰めが甘かったらしい。これは生贄にした恩師の呪いに違いない。永い人生の中で何度もした言い訳を再びしておく。それで何が解決する訳でもないが。
「そこまで嫌わなくてもいいんじゃない?」
「嫌わない理由もないだろう?」
当初ほどの悪感情はないとはいえ――それでも、少なくとも俺には友好的な関係を築こうと思うだけの理由などない。プレシア達の身柄を素直に引き渡してもらうために、ある程度の譲歩を必要とされているだけだ。……やはり管理局そのものへの敵意は消えていないのだと改めて自覚する。だが、
「というより、そっちの不始末……世界を滅ぼせるような危険物を他人様の庭にばら撒くなんて深刻な不始末のケリをつけてやったのに、まだそれ以上を要求されているんだ。俺じゃなくたって嫌うだろうさ」
今も燻ぶる正体不明の憎悪を差し引いたとして――この状況を喜ぶ奴がいるなら、そいつはどこぞの変態騎士か亀野郎の同類だろう。いっそ生まれ変わりを信じてもいい。
「別に全部が全部アンタの思惑だとは思わないが」
ため息をついてから――念のためいつでも動けるように重心を整えてから、告げる。
「もしもそちらがこれ以上難癖をつけて俺や彼女達を支配しようとするなら、その時は覚悟してもらうぞ。契約を反故した報いは必ず受けてもらう」
もっとも、今の自分にどこまでの事が出来るかと言われると――いささか心許ないが。
それにこうして出会ってしまった以上、それ以前の状態に戻す事はできない。これから先、嫌でも管理局の影響は受けざるを得まい。向こうが滅びるか、こちらが滅びるか。束縛から抜け出せる時が来るとすればそのどちらかだ。
あの魔石は確かに世界を滅ぼしたのだ。あの子が――なのはが魔法とは無縁で過ごせる世界はすでに消え去った。あの魔石となのはが関わった時からすでに。そんな事は分かっていた。これからできる事はその脅威をどれだけ取り除けるか。ただそれだけだ。
「ええ。分かっているわ」
我ながら安い恫喝だったが――それでも向こうが曖昧にし、かつ浸蝕しようとした境界線をもう一度明確にする程度の効果はあったらしい。具体的にどうという訳ではないが、リンディが一歩引いた事くらいは分かった。信頼を築く事と慣れ合う事は違う。少なくとも、彼女はその違いが分からないほど愚かではない。だから、言っておく。
「宮仕えは大変だな」
リンディがいくらをそれを分かっていたとしても、彼女の上官が――ひいては管理局とやらの『総意』がそれを理解しているかと言われれば、それは怪しいところだ。そんな事は、おそらくリンディの方がよく分かっているだろう。
「ええ、本当にね」
何度目かの交渉――あるいは脅迫か――の失敗を悟って、リンディはため息をつく。もっとも、ため息の理由がそれだけだとは思わないが。
「でも、私個人としてもこれだけは伝えておきたいのだけれど――」
抹茶を――例によって角砂糖入りだ。おそらく彼女達の世界ではそれが一般的なのだろう。そう思う事にした――啜ってから、リンディは言った。
「私達の仕事は世界の平和を守る事よ。でも、あなたも知っての通り、お世辞にも人手が豊富とは言えない。だから、あなたの……あなた達の力を借りたい。世界を守るために」
その言葉には誠意があった。今までで最も、と言っていいだろう。つまり、これは間違いなくリンディの本心だった。
「なのはが……あるいはフェイト達が本当に自分の意思でその選択をするなら、それは止められないだろう。特にフェイト達にとっては管理局に勤めるというのは魅力的な提案なのかもしれないしな」
それでも、反対はするだろうな――そんなこと思いながら、ため息と共にその言葉に応じる。こちらも相応に腹を割って話す必要があるだろう。
「だが、今は駄目だ。まだあの子達は幼いし、学ぶべき事は多い。だが、お前達の影響力は強すぎる。それはあの子達が他の生き方を知り、自分の生き様を自分で選ぶための道を閉ざすだろう。だからこれ以上関わらせるつもりはない。少なくともお前達の存在がただの選択肢の一つにならないうちは……魔法使いになるという道が、自分にとって単なる選択肢の一つに過ぎないのだと理解できるまでは」
魔法とは――戦いとは無縁の生活をして欲しいというのは、所詮俺自身の勝手な望みに過ぎないが……彼女達には自由に生き方を選んで欲しいと言うのは、間違いなく俺の本心だった。そして、
「プレシアだって今はようやく母親になったばかりだ。と言うより、あの親子はまだ生まれたばかりだからな。それ以上の重責はまだ背負えないだろう」
世界を守ろうというなら――彼女達がようやく取り戻したその小さな世界も守られなければならない。なのはもフェイト達も世界を救うための生贄になどさせない。
しかし、こんなものは所詮、当事者達を無視した身勝手な連中の身勝手な会話に過ぎない。それにも関わらず、下手をすれば彼女達の脅威になりかねないのだから性質が悪い。
そして、何より最悪なのは――自分とリンディのどちらが脅威であるのかが分からない事だ。あるいは両方ともが脅威なのか。
答えなどでそうにもないその疑問を首を振って追い払う。自分が断言できる事は、結局のところ自分の事だけなのだ。
「俺にも目的がある。それを果たすまで、お前達に関わっている暇はない」
いや、あるいは関わらざるを得なくなるのかもしれないが。もっとも、それはおそらく
リンディが望む様な形にはならないだろう。自分達の道が交わらないであろう事は想像に難くなかった。それでも成し遂げる。その覚悟がある。
例えそれが彼女の言う『世界』に混乱をもたらすとしても、だ。
だから、これは結局身勝手な連中の身勝手なやり取り以外の何ものでもないだ。
5
そして、ついに光が家に帰って来れる日がきた。それはとっても嬉しい事だけれど、今日は手放しには喜べそうにない。光が帰ってくるという事は、あの子達が遠い別世界に行ってしまうという事だから。もちろん、すぐに帰ってくるという約束ではあるのだけれど……。
「……これからしばらくお別れ、なんだよね?」
分かっている事だったけれど、思わず訊いてしまった。話したい事はいくらでもあるのに、言葉にならない。喉の奥で話したい事が全部絡まっているようでとてももどかしい。
「うん。……少し、長くなるかもしれない」
でも――と、彼女は少しだけ笑った。
「でも、必ず帰ってくるよ。それは全部、光とあなたのおかげ」
たくさんの人に迷惑をかけた事には変わりないけれど――その言葉を、首を振って言葉を止める。そうかもしれない。けれど、本当の意味で何かが終わってしまった訳ではない。きっとまだやり直せる。嫌な事も辛い事も沢山あるけれど……世界はきっとそれだけじゃない。今は――今ならそう思う。大きく深呼吸してから、
「私、なのは。高町なのは。私立聖祥大付属小学校三年生」
あのね――と、私は改めて言った。お互いにもう名前は知っている。そんな事は分かっていた。けれど、
「あなたは?」
それでも、自分で訊く事に――自分の言葉で伝える事には、きっと意味がある。驚いたような、困ったような顔をする彼女を見つめて、返事を待つ。
「私は、フェイト。フェイト・テスタロッサ。……よろしくね、なのは」
「うん! よろしくね、フェイトちゃん」
ようやく。ようやく、本当の意味で名前を呼ぶ事が出来た。思わず抱き付いていた。きっと、これが始まり。私達の物語は今始まったのだ。そう思う。
「あのね、なのは」
しばらくして、フェイトが少しだけ躊躇ったように言った。
「海でジュエルシードを封印した時に、なのはが言ってくれたこと。友達になりたいって言ってくれたこと」
うん――と、頷いて待つ。そうだ。その返事も貰わないと。
「私でよかったら……私はなのはの友達になりたい。でも、どうしたらいいのか分からなくて……」
困ったように。戸惑ったように。……少しだけ怯えたように。フェイトは言った。彼女の物語も、きっとまだ始まったばかりなのだ。だから、
「友達だよ」
少しずつ。色んな事を分け合っていけたらいいと思う。
「名前を呼んでくれて、友達になりたいって思ってくれるなら。……私達はもう友達なんだよ」
その手を握って、そっと笑う。
「フェイトちゃんが帰ってくるの、ずっと待ってるよ」
きっとこれから、楽しい事だってたくさんあるはず。
「うん。絶対に帰ってくるよ。約束する」
フェイトの笑みが滲む。ああ、もったいない。せっかくフェイトが笑ってくれているのによく見えない。でも、涙が止まらない。
「絶対。絶対帰ってきてね」
「うん。絶対に帰ってくる」
その時は、みんなに紹介するから――きっとこれから楽しい事だってたくさんあるよ。 だから、みんなで始めよう。私達の物語を。
7
「そろそろ時間か?」
別れを惜しむなのはとフェイトを遠くから見守っていると、傍らのクロノが僅かに動いた。もちろん、今までも直立不動だった訳ではないが――それでも、何となく分かった。
「ああ。残念だが……」
そろそろ旅立ちの時らしい。もっとも、
『別に大げさな事じゃねえだろ。オマエ達が約束を破らねえ限りはな』
そう言う事だ。別に永遠の別れなどではない。
「それはそうだが……。彼女達にとっては長い別れだろう」
ここ数日で、クロノに対する認識はいくら変わっている。思った以上に融通が利かない訳ではないらしい。単純に不器用で……加えて素直ではないだけだ。青臭い若造だ――と笑うのは簡単だが、
(俺だってそう変わりはしないか)
今の自分の未熟さはこの一ヶ月そこそこで嫌と言うほど思い知ったところだ。クロノの事を未熟で青臭いと笑うなら、自分の事も笑わなければなるまい。
「そう思うなら早く帰らせてやれよ」
言うと、クロノは頷いた。
「分かってる。一年以内に決着をつけて見せるさ」
『そいつは大きく出たな』
それは違いない。仮にも世界を滅ぼしかけた人間を一年以内に自由にするとは、随分と大きく出たものだ。
「そうかな。僕は単身で管理局に喧嘩を売った人間と出くわした事があるぞ」
そいつに比べれば大した事じゃない――と、珍しくクロノが冗談を言った。いや、あながち冗談ではなかったのかもしれないが。だが、
「似たり寄ったりだろ?」
そんなものは、喧嘩の売り方が違うだけだ。
「違いない。今や立派な共犯者だよ」
『そいつは災難だったな』
「全くだ」
「……お前が言うな」
益体もないやり取りをかわしていると、リンディとプレシア、さらに号泣したままのアルフが近づいてきた。どうやら本当に時間らしい。
「それじゃ、なのはさん。元気でね。……ユーノ君と光君とはまた会うかと思うけれど」
ひとまずの取引は成立している。次に管理局がこの世界に近づくのはフェイト達を届けに来る時であり……それが最後になる予定だ。もっとも、プレシアが『長距離出勤』する事になればその限りではない――いや、そうでなくとも何かしらの接点は残される事になるのだろうが。ちなみに、ユーノはまだしばらくこの世界に残留するつもりらしい。何でも彼の故郷に向かう『航路』はまだあの魔石の影響で使用不能だという。
「ああ、分かった」
フェイト達の裁判で証言する必要があるかもしれない――俺に関しては、それが理由だった。さらに言えば、そのついでにユーノ連をれていくつもりのようだ。それはいいのだが――
(面倒な事にならなければいいけどな)
リンディの言う通り、証言する事が必要なのは疑いない。それ自体に別の思惑を疑うのは無意味だ。もっとも、その状況を利用されないとも思えないが。
「それでは、そろそろ行きましょうか?」
リンディがプレシア達に呼びかける。ええ――と、プレシアが頷いた。
「……思い出にできるの、こんなものしかないけど」
それを見てから。愛用のリボンを解き、なのはが小さく呟いた。
「ううん。ありがとう。……じゃあ、私も」
フェイトもまた、黒いリボンを解きなのはに渡す。
「ああ、そうだ……」
交換されるリボンを見て、ふと思い出した。俺にも渡さなければならないものがある。
「プレシア女史。これを返しておこう」
法衣の懐からそれを取り出す。
「それは?」
リンディが首を傾げた。空色のリボンが結わえられた金色の宝玉。一見すれば、それはその程度の代物だ。だが、違う。
「これは供物だよ。俺がデバイスの代わりに使っている物と基本は同じだ」
だから、管理局の関係者には何も見なかったし聞かなかった事にしてもらうが――と、その正体を知るプレシアの顔が驚きに染まるのを見ながら告げる。
「でも、何でそんなものを母さんに?」
リンディがため息と共に頷くのを見届けてから、フェイトの疑問に答える。
「魔物には呪部と呼ばれる部位が何ヶ所か存在する。魔力が収束する場所で……お前たちで言うところのリンカーコアに近似する部位だ。そこを破壊すると、飛び散った肉片と魔力が結晶化する事がある。いわばその魔物の象徴――いや、魔物化した人間の心の拠り所だったものとでも言えばいいか。それがこれだ」
「じゃあ、やっぱりこれは……」
フェイトも薄々と分かっていたのだろう。改めてその供物を見ながら呟いた。
「アリシア・テスタロッサの髪飾りと、おそらくは……」
かつてプレシアには使い魔がいたらしい。使い魔はフェイトに魔導師としての教育を施し――そして、役目を果たして消滅したというその使い魔は、元々アリシアが飼っていた猫だったそうだ。まぁ、つまり――
「まさかリニスのデバイス、かい?」
アルフが驚いたように言った。使い捨てた――彼女はそう言っていた。実際のところそうだったのかもしれない。だが、
「どこにもないと思ってたら、アンタが持ち歩いてたんだ……」
後悔は――あるいはそれによく似た感情はあったのだろう。だから、その女性が消え去った後もその形見は手放さなかった。そう考えるのは、別に間違っていないはずだ。
「……あの子が可愛がっていた猫だもの」
うつむき、囁くようにプレシアが言った。
「本当に私が受け取っていいの?」
「お前以外に誰が持つんだ?」
それでもプレシアは躊躇ったらしい。当然か。だが、
「それはアンタが受け取るべきだ」
言ったのはアルフだった。
「それを二人が生きた証だと思うなら。あの子の母親で、リニスのマスターだったアンタが持つべきだろ」
それだけ言うと、アルフはそっぽを向いた。その言葉に、フェイトも頷いた。
「ええ――そうね。その通りだわ。ありがとう」
プレシアもまた二人に頷き返し、それを受け取る。彼女の右手が触れた瞬間、その供物はほんの僅かに魔力を放った。あるべき場所に戻った事を告げるように。
「さて。それじゃ、そろそろ行きましょうか?」
その輝きが収まる頃、リンディが言った。
「ああ。それじゃあ、フェイト、アルフ、プレシア。またな」
『早く帰ってこいよ』
「皆さん、お気をつけて」
再会の約束を交わす――なんて、別に大げさな事ではない。彼女達がここに帰ってくる事を望む限りは。
「いってらっしゃい。フェイトちゃん、アルフさん、プレシアさん。帰ってくるの、待ってるからね」
いってらっしゃい――告げるべきはただそれだけなのだから。
「うん。なのは、光、リブロム、ユーノ。行ってきます」
「ああ。すぐに帰ってくるよ」
「ええ。四人とも、本当にありがとう」
そして、五人の姿が光と共に消える。一瞬の事だ。名残を惜しむ暇もなければ、見送るべきものもない。それでもしばらく、空を見上げてから――
「さ、俺達も帰るか?」
「うん!」
そこに背を向けて、歩き出した。……俺達も帰るべき場所へ向かって。
8
そして。これは家に帰るまでの僅かな道のりでの出来事である。
今日は休日である。その昼下がりとなれば、街は普段より活気づく。いつもより密度を増した雑踏の中を歩く。別に珍しくもない。そこ広がるのは見慣れた街の見慣れた道だ。
そんな中で。俺はとある少女とすれ違った。それ自体は特別珍しい事はない。その少女が――なのはと同い年程度の彼女が車椅子を使っていたとしても。
だが、俺はそこで足を止めていた。他人の流れに逆らって――取り残されて、その場に立ち止まる。振り向いて、彼女の姿を探した。ちょうど彼女は運転手の手助けを得てバスに乗り込むところだった。走り去るバスを呆然と見送る。
「どうしたの、光お兄ちゃん?」
なのはの声が酷く遠くに聞こえた。その時、俺の意識はたった一言で完全に支配されていた。ようやく収まった殺戮衝動よりも鮮明に、完璧に、徹底的に。
見ツケタ――!
――そして、再び世界の終わりが動き出す
後書き
これにて無印編の本編部分は完結、あとはプロローグだけとなりました。
何やら未解決の事案はいくらかありますが……まぁ、それはA's編以降に触れていくことになるかと思います。
さて、そんなわけで次はプロローグとなります。
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