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乱世の確率事象改変

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明け方の少女の心に

『ふふ、また桂花の負け』
『な、なんで!? コレ死石だったじゃない!?』
『あっちゃー、死んだ碁石を生かすなんて、やっぱ夕は凄いねー』
『もう一回! もう一回やったら負けないわ!』
『ふっ、無様』
『無様ー♪』
『あんたは私に負けたでしょ!?』

 他愛ない思い出。友達との至福の時間。壊されるなんて思わなかった平穏の時間の一つ。

『何よ?』
『なんでもない』
『なんでもなーい♪』
『はぁ? じゃあ見てるんじゃないわよ』
『お茶がおいしい』
『だねー♪』
『無視すんなーっ!』

 柔らかな午後。陽当りの日常。楽しくて仕方なかった昔の出来事達。

『あの街の太守は欲が深いからこうすべき』
『だ、か、ら! 始めっから利用するんじゃなくて徐々に懐柔する事も大事じゃない!』
『あー、確かに懐柔してから絶望に叩き落とす方がいいね♪』
『む、そういうこと? 桂花も中々悪どくなった』
『なんであんた達はそっちに持ってくのよ!?』
『『楽しいから』』
『我欲優先すんなバカっ!』

 いつも怒っているのに怒って無くて。心の中には喜びと信頼があった。

『夕……曹操様って、どう?』
『……桂花好みの人物だと思う。経歴も、思想も、在り方も』
『お? 曹操のとこ行くの?』
『ま、まだ決めたわけじゃないわ』
『ん、分かった。調べておく』
『あーあ。桂花居ないと寂しくなっちゃうなー』
『まだ決めたわけじゃないってば……そんなの私だって……』
『なんか言った?』
『にやにやすんな淫乱! 夕も!』

 あっと言う間に過ぎ去った泡沫のまほろば。それでも思い出は輝いて見えて。

『桂花、そろそろ此処から出て行くべき』
『え? まだ決めかねてるのよ。もうちょっとだけ……』
『あー、無理。そろそろおしまい。時間も勿体無いしー』
『な、何よ? なんでそんないきなり……』
『出て行くべき』
『……もうちょっと待ってって言ってるじゃない』
『違うよ? 桂花はもういらないって言ってんのー。子猫ちゃんには分かんないのかなー?』
『なっ……何よその言い方……』
『足手まといだから消えてってこと』

 その時は余りの衝撃で気付けずに、

『あんた達なんかっ……っ……大っ嫌い!』
『こっちもせいせいするってば。じゃあねー♪』
『精々足掻けばいい。どうせ私に負けるけど』
『バカ! 死ね! ヒトデナシ! 見てなさいよ! 絶対に見返してやるんだからっ!』

 彼女達の内側なんか読もうともしなかった。
 後で調べて気付いても、後悔は先に立つ事は無く。
 救い出すには闇が深過ぎて、自分一人の力では絶望しかなかった。

『ねぇ、二人とも』
『何?』
『何ー?』
『もし、あんた達に鎖が無くて曹操様のとこに行けたら――――』
『もし、なんて言葉は聞きたくないねー。今ある事象が全てだよー』
『ん、その通り。人は与えられた時間で過ごすからこそ。だからそういうのは好きじゃない』
『……ちょっとくらい考えてもいいじゃない』
『まあ、そうだけどさ』
『……じゃあそうなったら、きっと大陸全てを掌握出来ると思う』
『……』

 でも諦めきれなくて、精一杯抗って抗って、醜くても、初めて出来た友達の為にと、恥を承知であの方に頼み込んだ。
 そんなもしものカタチを……私が必ず掴み取ってやろうと、心に決めた。
 彼女の大切を奪ってでも、彼女を助けたかった。
 明は、大バカで、人として壊れていて、夕が居ないと生きていけない人形のよう。
 でも、明が欠けた夕を考えられないから、二人共を助けないとダメなのだ。
 彼女達は二人で一つ。私の求めた友達で、幸せのカタチ。
 この戦が終わったら、また三人で……ううん、もっと大勢で、笑い合おう。






 †






 どちらも思い描いていた絵図の通りに戦が進み、局所的戦場は残す所あと四つ……と互いの軍師は考えていた。
 白馬を放棄した袁紹軍。余りに呆気ない、戦闘さえ行われないという事態に白馬義従の澱みは抑えられるわけも無く、曹操軍の兵士千人を街の慰撫と防衛に当て、雛里は進撃を選んだ。
 桂花は既に一つの目的の為に、雛里とは別行動を取っていた。
 烏巣の兵数、夕の思考、拠点の数……そして袁家の本拠地南皮での動き。全てを並べてみれば、桂花は夕がどんな状況でどんな策を打つかある程度分かる。

 使うとすれば二つの計略。調虎離山……敵を本拠地から誘き出して戦う兵法三十六計の一つと……桂花と仲のいい関係を利用した反間計。
 普通なら、現在の袁紹軍のように、優勢で於いて使う策では無いかもしれない。特に決戦主体のこの世界では。
 しかし、桂花はその策を有効手だと感じた。そして自身の主も既に気付いているだろう、とも。
 実力への信頼は誰より高い。ずっとずっと見てきた主だ。自分に予測出来た事を、同じような思考能力を持つ軍師を幾人も並べておいて、予測出来ないわけが無いのだ。否……黒麒麟を追い詰めた過去を鑑みれば……一人でも辿り着いているだろう。
 ただ、今回は桂花が居なければならない。如何に覇王でも……覇王だからこそ、相手が悪い。曹操軍の被害や勝利確率の話では無く、夕と明に関してである。
 夕、もしくは明を本当の意味で見極められるのは彼女だけだから……というわけでも無かった。

――夕のバカ……本当にバカなんだからっ! なんで……なんで予想も立ってるはずなのに逃げないのよっ

 速く着けと願い、脚を苛立ちから揺らしながらの馬車の中、桂花は歯を噛みしめて拳を握る。
 官渡の戦いは軍師達によって描かれる“連環計の戦場”になっている。互いに欲しい結果を得る為に膨大な予測を立てて駒を進めてきて、今から本当の計略が始まるのだ。
 桂花個人にとっても“此処まではいい”、問題は“此処から”。

――あんたは袁家の眼を欺く為に、一番やっちゃいけない事をやる。本当なら絶対にしない選択を取る。それに気付いてないんでしょう?

 ワガママだ。桂花も分かっていた。
 袁家が、否、袁紹が勝つにはこの策しか無い。
 例え兵数が多くとも、白馬義従が動いた時点で補給路の確保は絶望的になった。
 神速と白馬義従の二つの機動特化部隊を使えば輜重隊の襲撃は容易になり得る。烏巣、陽武に多くの糧食を集めているとしても、あらゆる状況の為に対応しなければならないが故に追加を求めるのは当然。互いに物資強奪狙いの動きが増えるだろうが……白馬を取られている時点で袁家側は長期戦略を取るには不利。早期の戦終結は確定的となった。
 曹操軍の軍師達、そして桂花と雛里が選んだ狙いは物資補給路の断絶による戦場の短期化。それによる袁紹軍の思考束縛と行動の限定。その為に、敢えて白馬も延津も取らせて、袁紹軍の本隊を官渡付近の陽武まで引き摺り込んだ。
 結果は見ての通り、簡略的な袁紹包囲網が出来上がりつつある。朔夜が蜘蛛の巣と言ったのも頷ける。河を越えた時点で、網に掛かっていたのだから。

――外部政略によって袁紹は引くことが出来ない。袁家大本は、勝てなければ袁紹をこの戦で切り捨てる。華琳様にしても、袁紹だけは殺さなければならない。だから夕は……袁紹を助ける為に明を使う……使ってしまう。

 桂花は両手で顔を覆った。泣きそうになるのを必死に堪えて、震える身体を抑えようともせず、思考を廻し続けていた。

――ダメ、ダメなの。それじゃ……届かない。この大陸に覇王の器と誇りと矜持を世に示すには、華琳様は夕の誘いに乗らざるを得ない。けど……

 喉が渇いた。お茶が欲しい、と思っても馬車にはもう無い。横で鞄の中に仕舞われている魔法瓶は……既に中身が空だった。
 早鐘を打つ鼓動は胸を押さえても静まらない。失ってしまうかもしれない恐怖が、心身を覆い尽くしていた。

――明をあんたの元から離すんじゃなくて……“あんたも一緒に出て来なくちゃならなかったのに”!

 夕なら、きっとそういった選択をすると思っていた。明だけに任せずに、麗羽と二枚看板を切り捨てる事も視野に置きつつ、確実な勝利の為に覇王と相対するであろうと思っていた。

――これじゃ……あなたのこと……

 ぽたり、と涙が落ちた。震えつづける両の手の隙間、誰にも見せない涙が零れた。

「……っ……まだ、まだ諦めない。あのバカを、捻くれ者の大バカ女を……」

 諦めるにはまだ早い。自分が欲しいと願い、彼女の大切を奪い去ってでも手に入れたかった平穏は、まだ可能性を捨てずともよい。どれだけ、絶望的な状況であろうとも。
 ずずっと鼻を啜った。グイと袖で目元を拭った。自分がするべき事が何か、桂花は間違わなかった。

「あんたは分かってないわ、夕。華琳様はね、明如きじゃ騙せないし……黒麒麟と同じで追い詰められるだけよ」

 自身の不甲斐無さに、またぎゅうと拳を握る。
 如何に覇王たらんと世に示すとは言っても、華琳がそれだけで終わるわけが無い。主に向ける信頼から、桂花は最悪の事態……一番起こり得る事態を見極めていた。

――明を追い詰めるのは私と華琳様で、夕を助け出すのは……

 自分では無いから、それが悔しくて哀しくて……桂花は唇を噛みしめた。
 遠い昔、三人で笑い合っていたあの頃を思い出しながら。




 †




 前の戦闘と同じく、官渡の砦にはバリスタによる攻撃が行われた。
 三つの門を焼き、焼き切った頃合いを見計らって袁紹軍の兵士が殺到する。その数、総勢三万。
 慌ただしく蠢くその戦場で、前とは違う点があった。
 バリスタの数が倍であったのだ。小型投石器対策だと容易に想像がつくそれは、官渡の城壁の上に並ぶ曹操軍の兵器を半数まで減らした所で全て壊された。
 被害が抑えられた事によって、攻城戦は幾分かマシになったと言える。

「とっつげきぃー!」

 楽しげに、心の底から歓喜を浮かべて、紅揚羽が声を上げる。
 恐れ慄く東西の二面と違い、北門だけは彼女が天塩に掛けて育てて来た精兵達であるが故、士気は間違いなく高かった。
 バツン……と異質な音が鳴り、門の内側から槍が飛ぶ。幾多の竹槍が真っ直ぐに飛ぶ様は、通常の兵ならば恐怖を覚えずにはいられない。
 しかし相対するは大きな鉄の盾を持って二人で防ぐ張コウ隊。怪我もせず、被害を一人も出さずに、徐々に、徐々に城門へと歩みを進めて行く。
 矢の雨が降り注ぐも、木盾を以って固まればすれば防げるモノであり、被害はそう多くない。左右から機を見て踊りだす兵士達も、上からの矢を抜けきったモノから殺到していった。
 そして……紅揚羽はただ一人先頭を切って……鎖大鎌を振り抜いて兵器の破壊に成功する。

「よっしゃー! 群がれバカ共! このまま入り込めっ!」

 面攻撃さえなければ被害は減る。口を歪めた張コウ隊が城壁外から続々と突撃を始めた。
 明は城門の外で、器用に矢を弾き飛ばしながら指示を出すのみ。自分が捕えられる可能性を最大限に警戒していた。
 少しでも敵の数を減らす事が最善。例え自分が此処で捕えられるつもりだとしても、である。
 その城壁の上で、黒が一人……華琳の隣で口を引き裂いているとも知らずに……彼女は悠々と兵とは逸脱した暴力を振るい続ける。



「さて……あなたの作った蜘蛛の巣の効果を見せて貰いましょうか」

 楽しげな声が耳によく響く。華琳の笑みから分かるのは、信頼。
 彼の隣でむすっと口を尖らせる朔夜がジト目で睨むも、華琳の表情は毛筋ほども揺らがない。
 到着してからというもの軍議続きではあったが、彼と華琳が仲好さげに話している様はとある二人の心を掻き乱して居た。
 一人が春蘭。
 愛しい主が、まるで旧来の友と語り合うかのような空気を醸し出していれば、心穏やかでいられるわけがない。その度に秋斗に突っかかっては、秋蘭に窘められていたのは言うまでも無い。
 もう一人が朔夜。
 たった一人の大切である彼が、覇王に認められているのは当然と思っていたが……華琳が秋斗を苛め続けるのだから不満も溜まる。それを苦とも思わず楽しげな彼であるから、何も言えないのだが。

「ははっ……まあ、見とけ」

 返す声は楽しげで、これから人を殺すとは思えぬ悪戯好きな子供の笑み。まだ彼は、黒麒麟のようにその行いの罪深さを実感していない。
 華琳は見抜いていても、何も言わない。その時が来なければ何も出来ないのだから。
 大きく息を吸った彼は……たっぷりと間を置いて、口に咥えた笛を高らかに鳴らした。
 一度、二度、三度、四度……鳴らせば即座に、城壁の下からも同じように音が鳴る。鳴らしているのは……真桜であった。

「どっちかってーと蟻の巣なんだけどな」

 言葉が聴こえるか否かという時分を持って、戦場が変化を遂げる。
 ボコリ……と大地が穿たれた。誰も何もしていないというのに、遠くから順繰りに、大地が陥没していく。
 立ててあった杭の回りから一つずつ。突撃を仕掛けていた兵士が急な落下に戸惑いながら穴に落ちた。
 一つ、一つ、また一つ。戦場が穴ぼこだらけになって行く。足場を失った兵士が次々に落ちて行く。絶叫を上げる間もなく、人が五人程並べる直径の穴に落ちて行く。
 杭は走るのには邪魔であろう。当然、その上に人が群がる事は少ない。障害物を避けて通るのが生物の性。彼と真桜は、官渡の城壁外を“地面の中から”崩していたのだ。普通に掘れば大地の色の違いでバレるから、と。
 掘り抜いて出た土は竹槍に詰めるなり、袋に詰めて攻城戦の対策に使うなり……使いようは多々あった。官渡の内部に迷路のような順路を作る事すら出来るのだ。
 真桜の螺旋槍があってこそ出来る策である。大まかに掘り進めば、後は兵士が整えるだけなのだから。

「うっそ!? なにあれぇ!?」

 城壁の外では、明が驚愕から声を張り上げていた。余りに予想外。こんな罠を用意しているなど、予想出来るはずが無い。
 穴だらけでは隊列はもはや体を為さない。突撃に戸惑いが生まれれば、多くの兵士が矢や小型投石器の餌食となって行く。
 さすがに東西の二面までは準備出来ていないが、正面のこの場所に秋斗が居座れば、誰かしら将が釣れるのは必然。落とし穴の策を使えば十分の成果が得られる。
 東西に関しては問題ない。内側で待ち受ける小型投石器と曹操軍の兵士、そして霞や凪、沙和等の将が相手取れば一万の兵がごり押しで突破しきるには不足であった。
 逃げるか否か、通常ならば逃げる所であろう。明は即座に撤退の指示を出したのか、走り行く伝令の兵士が幾人か見えた。
 しかし城門が開き、突撃を仕掛けている状態で全ての軍を撤退させては後背を突かれて甚大な被害を被る。官渡に三万程度の兵数で攻め入った時点で……完全な敗北を喫する。

「ふふ、中々面白い。受け手でしか出来ない策ね」
「一回キリしか使えねぇよ。こんな奇策は」
「その一回を成功させてしまえばいい。そうでしょう?」
「違いない。ま、これで……」

 城壁の上から見下ろし、彼はにやりと勝利の笑みを浮かべた。

「紅揚羽は予定通り捕えられるわけだ」

 鎌を振り、城門から出撃する曹操軍の兵士を薙ぎ払う明が其処にいる。張コウ隊が近づこうとするも、上から矢を射られてどんどんと数が減って行く。
 人が寄って立つモノは大地。いつ崩れるか分からないとなれば、焦りと不安が行きかうモノ。乱戦に等しいこの状況では、練度が高く、制空権を得ている曹操軍に敵は居ない。
 ならばこの機で出るのは誰がいいか。決まっている。彼女を捕えられる実力のモノが出ればいい。

「ふむ……そろそろ出しましょう。夏候惇に伝令。紅揚羽を捕えよ、と」

 御意、と声を残して走って行った伝令を見送って、彼はまた、城壁の外を覗き込んだ。
 じ……と見やれば幾多の兵が彼女の刃で命を散らしていく。頸が一つ舞う度に、彼の心が僅かに軋む。

――斧が欲しい。

 ふと、彼はそう思った。あの赤い髪を宙に舞わせたいと、乖離した脳髄が叫びを上げる。
 誰の記憶か、誰の心か、誰の想いか、既に理解してはいた。
 自分と友達であったと聞く白馬の片腕の怨嗟の記憶。曖昧にノイズが入る絶望の思い出は、紅揚羽への殺意に塗れている。
 大きく息を吸い、自分の背にぶら下げている長剣を握った。そうする事で、自分が誰かを実感出来る。他人の記憶等に引き摺られてやるものか。

「あなたも出してあげましょうか?」

 背中に掛かった声に振り向くと、測る眼差しと王の視線。その横では、泣きそうな顔で朔夜が見ていた。

「……いや、いい。俺は出ない。元譲に全て任せるさ」

 一寸だけ目を瞑って心を落ち着かせれば、乖離した心が薄れて溶けて行く。ゆっくりと目を開いて、彼は二人に優しく微笑んだ。

「そう……ならしっかりと目に焼き付けなさい。あなたは戦争の醜悪さを傍観者さながらに見ているようだけれど……現場に立って思い返すと全く違うモノになるわよ」

 華琳が秋斗の現在の状態を読み取れないわけが無い。ぴたりと言い当てられて、彼は大きなため息を吐いた。

「……りょーかい」
「朔夜、あなたもよ」
「ふぇ……ぅあっ」

 いきなり話を振られて困惑する朔夜に、華琳は彼のようにでこぴんを一つ落とした。

「戦争と日常を割り切っているのは分かる。しかし……あの死んでいく兵が、店長や給仕たちだったら……あなたはどう思うのかしら?」
「……」

 首を傾げる朔夜には、想像して見るも答えは出ない。
 いつでも世界を斜めに見ている彼女では仕方ない事ではあった。

「幾多の男共に蹂躙される娘娘の給仕。力任せに抑え付けられて服を破られ……身体の隅々まで犯される。慈悲も無く、泣き叫んでも、助けなど来ない」

 続けて声を出した華琳は、彼女の想像力を間違わずに波紋を齎していく。
 不快気に顔を歪めた朔夜は、華琳を睨みつけた。さもありなん。妄想が大好きな少女は、胸糞悪い状況を想像させられれば苛立つに決まっている。
 秋斗が意図に気付き、朔夜を抱き上げて城壁の端で戦場に目を向けさせた。
 気にせず、華琳は同じように並んで、言葉を続けて行った。

「店長が刃に掛かった。見て見なさい。あの男、背丈が店長と同じくらいじゃないかしら?」
「……っ」

 目を背けようとしても、彼の抱きしめ方ではそれも出来なかった。精々が目を瞑ってやり過ごそうとするくらいである。
 しかし……もう鮮血を見てしまった。引き裂かれる肉、漏れ出る臓物、頸が飛ぶ所も見てしまった。
 妄想力豊な彼女には、脳髄に溢れる映像を掻き消せない。

「あら、あっちでは徐晃と同じくらいの背格好の男が死んだわね。切りつけられて絶命したのに、戦場の狂気に堕ちた兵が何度も何度も身体を切りつけて……ふふ、原型が分からなくなってる」
「や……やめて……」

 か細い声が口から洩れた。みるみる内に、朔夜の顔は色を失っていく。
 秋斗は……命の灯が消えていく戦場から目を離すことなく、雄叫びや断末魔の全てを受け止めて、嘗ての自分が何を感じていたのかと、眉を顰めていた。

「止めてなんかあげない。あそこでは臓腑が抜け落ちているモノがいるけれど、腸を引き摺りながら這ってる兵なんて――」
「やめて、やめてっ!」

 フルフルと首を振り、なんとか彼の腕から抜け出ようとするも、力の無い朔夜では出来ない。
 醜悪さを日常に置き換えられると、経験の浅すぎる朔夜では耐えきれなかった。
 甘えるように、彼の腕をぎゅうと握った。彼も何も言わず、朔夜を抱き上げなおして、抱きついて来た彼女の背中をぽんぽんと叩いてあやす。

「……っ……ぅ……」

 小さな軍師は、泣いていた。

「現実は醜悪よ、朔夜。自分の行いを知りなさい。策を出して人を殺している。策を出して味方を死なせている。私達は等しく殺し合いのただ中に立っている」

 物憂げな瞳は何を思うか。合わされたアイスブルーは冷たい輝きを持たず、ゆらゆらと揺れている。
 彼に測りかねる悲哀の色が、見て取れた。

「ねぇ徐晃? 教え方を間違えてはダメよ。この子はあなたとは違うの。あなたの在り方は……言うならば偽悪だけど、この子の在り方はそうじゃない」
「……偽悪か」
「そうよ。あなたの在り方は私とも違う偽悪。他の者や自分自身から見れば偽善。泡沫の夢に憑りつかれた大嘘つき。私の行く覇道を理解しているのならだけれど」
「なら、朔夜は?」
「それは主であり兄であるあなたが見つけてあげるべきでしょう? この子に世界がガラクタじゃないと示したいのなら、ね」

 もう既に、悲哀の色は見えなかった。在るのはただ、楽しげな試すような視線だけ。

――ああそうかい。お前さんはそうやって、たった一人で自分を高めてきたってのか。道を踏み外しそうなモノに、人を説いて聞かせながら。

 戦という限られた状況で、華琳のそういった部分を知れたのは秋斗にとって僥倖だった。
 悲哀の意味も、僅かにだが理解出来た。覇王は、誰よりも人であり、誰よりも人を外れているのだと読み取る。誰よりも人を愛し、誰よりも世を変えたいと願っているように見える。
 彼女はそれを外に決して出さないだけではなかろうか、とも。

「曹操殿には敵わねぇな……」

 予測して見れば、自然と口からいつもの言葉が零れるのは彼には当然で、嘗ての自分が同じモノを目指していたのも頷けた。

「今更過ぎ。そう思うならもう少し敬意というモノを持ちなさい」
「……元譲が出たぞ。朔夜、しっかり見てようか。……尊敬してるってだけ言っておくよ、曹操殿。いつもありがと」

 するりと躱した彼は、常套手段のぼかしを使う。
 呆れのため息を付く華琳ではあるが、素直ではないやり取りにはもう慣れた。まだ戦場故に、意識をそればかりには向けられない。
 例えこの戦場が、両軍の思惑が乗せられた結果必定のモノだとしても、この場所では人が死んでいる。名も知らない彼らが生きた証を心に刻まずして、華琳がそう在らんとしている覇王には足りえない。

 背中を優しく叩かれた朔夜は、ぐ……と唇を引き結んで彼の腕の中、恐る恐る戦場を見やった。
 親しい誰かが死んでしまう妄想、凄惨な悲劇の想像……大切になり始めたモノ達を失うのは恐ろしくて、それを他人に押し付けたくないのが普通の人。

――人を殺すとは、誰かの大切を奪うという事。それを恐ろしいと怯えても嘆いても突き進むのが秋兄様で、それを悪と理解しながら必要な事と割り切っているのが華琳様。誰彼の別無く貫き通すからあなた達の二律背反は偽善で偽悪。辿り着けないとしてもあなた達のようになりたい、です。

 二人の作る世界は暖かくて、殺してしまう人達には冷たくて、どちらも責任を忘れない。
 人として既に壊れている秋斗は自分の命を対価として投げ捨てるようになる……朔夜は行く先を読み取れた。
 人の枠から外れかけている華琳は自身の平穏を、人生の全てを世の為に捧げる……朔夜は辿る先を想像できる。
 名前も知らない誰かの事など放っておけばいいのに、そう言えてしまう朔夜は、二人のようになれないとも分かっていた。
 自分の望みは箱庭の平穏で、其処に居て欲しい人が世の平穏を望むから、それを共有出来るだけなのだ。

――追いかけてみて、いいですか?

 少しだけ、他人の痛みを知ってみようと、小さな軍師は決意を固めて、醜悪な戦場に目を向けた。
 ただ、彼女は軍師。主と王の為に何かする事も忘れない。

「お二人に、言っておきます。この戦場……次の一手に繋がる連環の計略、です」

 冷たさを宿しながらも目を逸らさない彼女を見て、満足した表情で華琳は頬を吊り上げる。
 兄とまで慕ってくれる少女の変化を感じながら、目を細めた彼は小さく鼻を鳴らした。
 あなたが言うべき、と無言で示すのは華琳で、答え合わせはしてくれなさそうだとため息を付くのは秋斗であった。

「官渡に張られている残りの罠を確かめる意図を含めて、わざと紅揚羽を捕えさせる為の戦場……ってとこか。主だった罠も兵器も壊れたから、曹操殿がどう動こうとも次に行われる官渡の第三戦闘で全てが終わる。袁家の頭の中では、な」
「どちらにしろ桂花……荀彧が此処に着いてからにしましょうか。あの子こそ、この戦の最後を飾るに相応しいのだから」

 秋斗は敵の計を話し、華琳は味方の計を話す。
 これで先は繋がった、と……朔夜は彼が無茶をしなくていい事にほっと安堵を落とし、戦場にだけ意識を落としていく。
 秋斗も華琳も、城壁の上で二人の女の戦いを眺めていた。

 大剣と大鎌が舞う、戦場には似つかわしくない舞台を。



 †




 夏候惇を相手取るには両手でもやっとだっていうのに、さすがに無茶をしてると思う。
 一歩間違えば死ぬ。それほど敵の剣戟は鋭く速い。
 見据えてくる瞳には憎しみの欠片も無く、侮蔑と嫌悪の感情が色濃く浮かんでいた。

「ねぇ夏候惇、あたしのこと嫌い?」

 避けるくらいは出来るから、他の兵士達の生存率を上げる為に時間を引き延ばしに掛かっている中で問いを投げる。
 中々当たらないから苛立っているらしく、舌打ちと共に彼女はぴたりと止まった。

「ああ、大嫌いだ。お前みたいなやつ」

 苛立たしげに歯を見せて、唸るような声が投げ返される。

「あたしはあんたみたいなバカ嫌いじゃないけどねー」

 直線的な感情の動きが猪々子みたいだから。華雄も似たようなのだったけど、サッパリした性格のこいつらは嫌いじゃない。

「バ、バカっていう奴の方がバカだ!」
「ほらー、そういうとこ可愛いもん♪」
「気持ち悪いからやめろ!」
「やーだねっ! 惇ちゃんはかぁいいねー♪」

 声と共にべーっと舌を出すと、夏候惇は不快が極まったようでぶるりと身を震わせた。

「……霞と徐晃を足して二で割ったような奴だな」
「あれ? 計算とか出来るんだ! すっごーい♪」
「……っ」

 思ったまま挑発の言葉を投げれば、ビシリ、と彼女のこめかみに青筋が立った。
 あたしの周りではバカ共が戦いながら噴き出してクスクスと笑っていた。

――怪我の一つくらいさせたいんだけどなー……

 余程屈辱なようで、わなわなと震えている夏候惇を見ながら何処を狙うか思考を廻す……

「せっかく褒めてあげたのになんで震えてんのー? あ、嬉しくって感極まっちゃった? あんまり褒められ慣れてないんだね……可哀相に……」

 口からつらつらと挑発を投げながら。
 隻眼が怒りに燃えていた。睨み殺されそうな程に。それでも仕掛けてこないって事は、何かを狙ってるらしい。

――やっぱり猪々子とは別種か。降った後にどうするか後で考えないと。

 策が為った後にどうするかも問題だった。曹操軍の周りで安全そうな場所は無く、逃げる時は……秋兄の部隊の撤退戦術を使わせて貰おう。

「……貴様には借りがある」
「借り? 何さ」

 また挑発を投げようとするも、夏候惇が不思議な発言を放った。
 隻眼は相変わらず怒りに燃えている。ただ、ほんの少しだけ、わけの分からない感情が混ざっていた。
 思いつくのは夏侯淵の怪我だが……腕の一本を持っていかれるんだろうか。お互い痛み分けだと思うんだけど。

「……妹の澱みが晴れたようでな。先に一つ、感謝を」

 戦の最中だ。周りでは人が死に、怒号が飛び交っている。だというのに、夏候惇は一寸だけ目を閉じた。
 余りの異常さに、あたしの思考が停止してしまう。あたしの前で、どんな手段も使うあたしのほん目の前で、彼女は隙を見せたのだ。
 愚かしい失態。愚の骨頂。戦場で戦う武人として有り得ない事だ。なのに、動けなかった。もう夏候惇は目を開けてこちらを見ていた。
 その間に、城門の上から声が投げられた。好きに暴れていい、と。

「これですっきりと……」

 細められた隻眼は鋭くて、歪んだ口元は楽しげで、

「貴様の事をぶちのめせる!」

 脳髄の奥が甘く軋んだ。
 心に引っかかった僅かな小骨を、彼女は取り除いたのだろう。今からが全力。楽しい楽しいコロシアイの始まり。
 身を震わせる感情は、自分の心の内をまざまざと見せつける。
 どうやら……あたしはこういう真っ直ぐな輩が大好きで、自分に足りないモノを持ってるから羨ましいらしい。

「あはっ……いいね。大好きだよ、そういうの」

 舌を出した。足りないモノを食べたくて。
 腰が揺れる。甘い痺れを満たしたくて。
 胸が締め付けられた。手に入らないと知っているから。

「お前はわけが分からん……まあいい。私は嫌いだが華琳様が欲しいと言った」
「張遼みたいに?」
「そうだ」
「だからあんたが叩き伏せて跪かせるって?」
「そうだ」

 相変わらずの忠犬っぷり。
 あたしと何が違う? こいつは曹操の為に、あたしは夕の為に。
 夏侯淵は効率の面でも内面的な要素でもあたしと似ていたけど、こいつは全く違うと思う。

「ね……あんたとあたしって何処が違うのかな?」

 尋ねてみた。分からないのがもどかしくて。同じになれるはずなんか無いのに。

「はぁ? 何処って……お前はお前で、私は私だろう? 何もかもが違うじゃないか」

 返答は単純明快で、子供のような答えだった。
 ああそうかと納得が行く。あたしは……

「……そだね。つまんない質問ごめんね。そろそろ戦おっか」

 ふっと笑みを零して、大鎌を構えて突きつける。もう何も、考えたくなかった。

「うむ。もはや言葉は不要だ。己が武器で、語り合うのみ」

 大剣を構える彼女を、やはり羨望の眼差しで見つめている自分が居た。
 そうだ。そうなのだ。あたしはあんた達が羨ましくて仕方ない。綺麗で、純粋で、曲がって無くて……この世界に愛されている。

 大上段からの一振りは鋭く速く、身体を横にして躱すのもギリギリ。

――誰かに似てると、安心する。

 小さく切り上げると、追加の攻撃を警戒してかそのまま直進して懐に入り込んできた。

――誰かと違うと、安息が来る。

 横薙ぎの一閃を返しの刃で受け止めれば、高い金属音がやけに耳に響く。

――誰かが居ないと、カタチを保てない。

 弾けた武器は、力が強い彼女の方が立て直すのが速く、そのまま、自分は反動を利用して距離をとった。

――自分の起源を殺してしまったあの時から、

 追撃の二歩。彼女の踏込みは力強い。横か、縦か、袈裟か……めんどくさくて自分から仕掛けた。

――あたしは“自分”を失った。

 鎖を用いての変則攻撃。驚くことに、彼女は鎖を掴みとった。その手に巻きつくのも意に留めず。

――心身に残っていたのは他者の生への渇望と生物の起源への堕落。

 ぐ……と踏みしめた脚は力強くて、思いっ切り引いても彼女が動くことは無かった。

――人の命の輝きを喰らって、生誕に繋がる行為の真似事に溺れて、

 にやりと笑った表情が板についていた。自分も同じように口を裂いたが……いつもと違う気がした。

――そして夕に自分を映す事で、生きていると感じたかっただけ。

 牽かれる鎖。武器を手放さずに、あたしの方から近付いていく。

――あたしを映してくれるようなあの人ともっと早く出会っていたなら、

 大剣がよく見えた。振られる事は無いだろう。ほら、彼女は手放した。一応、鎌を振ろうと試みるも、さらに強く鎖を牽かれた事で重心を崩した。

――あたしは自分に戻れたかな?

 鈍痛が腹に走り、呼吸も侭ならなくなった。
 途切れかけの意識の中、目に移ったのは不敵な笑みと、哀愁の眼差し。
 同情なんかいらないよ。あたしはもう、夕の為にしか戦えない。
 お前らみたいに、自分を持っていないんだから。
 秋兄みたいに、誰かの為の願いしか、自分の器には入らないんだから。

「敵将張コウ、この夏候元譲が捕えた! 戦闘を即時止めればこやつと貴様らの命は保障しよう! 武器を置き、無駄に命を散らすな!」

 最後に耳に入った言葉に、あたしは笑みを深めて眠りについた。
 起きたらまた、夕の為に戦おう。この命この心、全てを賭けて。













 回顧録~ドウコクヲアゲタアトニ~



「あなたが、天の御使いとかいう詐欺師ですか」

「華琳様……例えどれだけの、才があろうと迎え入れる利が少なすぎます」

「コレは此処で、殺しておくべき、です。袁家が滅びた今、約束した袁家による平穏を作れなかった天の御使いには、なんら価値が無く、怨嗟の指標にしかなり得ません」

「何より……袁家を内部策略で滅ぼしたのは……コレです」


 どうして、お前が官途に居る……司馬仲達

 そうか、自分を殺すために出てきた本当の敵は、お前か。

 大切な彼女が敵の横、冷たい瞳で自分を見ていた。

 蔑む視線。侮蔑の眼差し。裏切り者に向ける、悪意の感情。

 嗚呼、この世界に救いは無い。

 この世界には、絶望しか無い。

 だって、彼女すら、自分の敵になってしまった。

 それでも生きて欲しい。

 どうか、この救われない乱世で生き延びて欲しい。

 これが自分に出来る最善。

 もう一度は、耐えられそうにない。

 気付けば自然と、自分の口が引き裂かれていた。



 これで救われないのなら

 こんな残酷で醜悪な世界……

 彼女を救えない世界なんか

 価値は無い。

 ただ、最期に呪いと願いを残そう。

 壊れてしまった自分は、きっと繰り返し続けても――――


 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

次は少し場面変更。文字数は少ないですが分けます。

回顧録はあと一話で終わりの予定です。次話には無し。

ではまた 
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