乱世の確率事象改変
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道化と知りつつ踊るモノ
官渡での第一戦闘による被害は……袁紹軍の攻める気概を根こそぎ奪い取ったことであろう。
それというのも、曹操軍の兵器によって絶命したモノは少なく、怪我人ばかりが増やされたこと。その上、攻城戦に向かう心をへし折られ、士気はどん底。これで攻めようなどと言う方が異常である。
新たな兵器は恐怖を生む。自分達を鼓舞するはずの新兵器すら敵には効かないとなれば……より確実に。
どれだけの物資を貯蔵していて、どれだけの被害が出るのか。予測を立てられないというのはそれだけで不安になるモノである。
「それで? 田豊さんはどういった方針でこの戦の勝利を得るつもりですの?」
軍議の席。烏巣の陣を準備中の猪々子以外が顔を並べていた。
椅子に腰かけ脚を組む麗羽は、優雅に指を顎に当てて瑞々しい唇を震わせる。
最近は王の所作が板についてきた彼女。自信と勇気の表れであろう、と夕は内心で微笑んだ。
郭図は机の上に広げられた地図を見つめているだけで、夕と同じ筆頭軍師である自分にに意見を聞こうとしなくとも口を挟まず。
「曹操がもうすぐ官渡に到着する」
ギクリ、と身体を跳ねさせたのは麗羽と斗詩の二人。敵がより強大になるのだ。緊張しないはずがない。
情報では洛陽から本拠地に移動したとのこと。其処から合流するのだろうと誰もが予測出来た。
「あと……白馬に向けて幽州の白馬義従を引き連れた曹操軍が進行中。数は……一万八千とのこと」
「なっ……そんなに集めてきたなんて……」
「そう、予想を遥かに超えた数。曹操軍が三千に騎馬隊が一万五千ほどらしい。この騎馬は白馬義従で間違いない。多分、公孫賛が異民族防衛の為に最後に残した兵の全てが来た」
「それほどあの歌が……」
――彼らに力を与えたということですの……
言い掛けて、麗羽は続きを呑み込んだ。
寒気が背筋を這い回る。自分が脚を踏み入れたあの街にの狂気を思い出して。そして憧れを感じて。
自分の治める地の民達はあれほど心を向けてくれるか……そう考えれば、白馬の王に対して劣等感を感じずにはいられない。
華琳が仕掛けた策の事を知らない麗羽は、白蓮の治めた地に憧憬の念を覚えている。
悪の限りを尽くして虐げ、従わせようとする事も出来たのだが、例えこの戦で勝てるとしても麗羽はそうしたくなかった。
芽生え、育まれ始めた王才の資質が悪を許さなかった……わけではない。ただ純粋に、上に立つモノとしての感覚で惹かれてしまったが故、そして先人を敬う心を忘れないが故に。
民から王への愛の歌。
皇帝に仕える自分が持つべき心の歌。
被支配欲を擽るその歌は、上に立ったモノでも根幹を揺るがされる程の威力を秘めている。
根が善人な麗羽にとっては、これ以上なく罪悪感と自責を煽られる。そも、名家名家と謳うのだから、先人達の行いに敬意を感じないわけが無い。
「幽州の歌がどうであれ、今は結果だけを見るべき」
「そうです、わね」
ブレそうな芯を見抜いた夕が聡く気付き、感情の挟まれない声で軽く促す。
集ってしまったモノは仕方がない。此れからの事に目を向けるべき時である。もはや袁家は……否、麗羽は覇道を行くしかないのだから。
「それにどうせ……白馬義従がどれだけ多くても、外部勢力がどう動こうと、この戦は始めから予定通りに進んでる」
ぽかん、と口を開けたのは二人。麗羽と斗詩であった。
二万近く、さらには後背を抑えられるというのに……それすら予定の内だと言われては驚かないモノの方が異質であろう。
そんな二人を見て、郭図は呆れの吐息を漏らした。
――所詮その程度かよ。戦ってのは敵の王を取ってしまえば終わり。どれだけ兵を犠牲にしようと、どれだけ将を失おうと、だ。其処を忘れる奴が多過ぎる……くっだらねぇ。
その為の思考を積み上げて行けば、自然と道筋は見えてくるモノ。
処理能力の違いで答えが出るかどうかが決まる、というわけでも無い。考えて考えて、情報を集めて読み解いて行けば誰でも思いつくモノなのだ。
軍師は思考能力が速く、利害を見極められる知識と知恵が広く深い、そして細かい事を見逃さない。しかし……本来は真っ直ぐ結果を為したいだけであり、それが出来ないから策で彩るのだ。
ただ、他にも理由はあるのだが。
――こればかりは仕方ない。優しい彼女達では辿り着けないモノだから。
心の内で割り切る夕は、明を見やった。
彼女は同じ予測を立てていたのだろうと、緩く浮かべている笑みから直ぐ分かる。
麗羽や斗詩がこれは無いと切り捨てる道を、郭図や夕、明は選べる。他人への悪意を持てるかどうか、其処が大きな差でもあった。
――でも、曹操軍も同じような道筋を立てているからこうなった。
その上で、夕達が選ぶ道筋を読み切れない敵ではないと知っている……いや、夕や郭図のような選択が出来る軍だと言ってもいい。
――秋兄が居るからだけじゃない。覇王の為の軍だから私が描く戦絵図を読んで来る。でも桂花と鳳統は……一歩届かない。白馬義従を使う策は読めていた。多いけど、数に重点を置くなんて……相変わらず綺麗過ぎる。やっぱり私の敵は曹操と秋兄で間違いない。
結局は官渡だけが問題点なのだと、内心でほくそ笑んだ。
そのまま、首をふるふると小さく振って思考を打ち切った夕は、地図の一点を差して口を開いた。
「白馬は“取らせる”。ただし烏巣には向かわせない。延津には向かわせてもいいけど……動いてきた場合、攻城弩と野戦用の兵器を使用して蹂躙する」
夕の考えを聞いた郭図は、漸く笑みを浮かべた。
「クカカッ、いいねいいねぇ! あいつらが後生大事に育てた馬を……ククッ、最高だなぁおい!」
「ん、白馬義従は騎射が基本戦術。突撃も強いし同じ騎馬兵にも強いけど、烏丸からの服従者を使えば対抗出来る」
「はっ、結局世の中金だわな」
強い兵器も、人材も、そうやって袁家は作り上げてきた。金とは、何時の時代でも文明を持つ人々にとって正しく力である。
言い方に眉を顰める斗詩ではあったが口を挟むはずも無く。麗羽は自分の家の力であるが故に目を伏せて肯定の意を示す。
「言い方が下劣」
「真実だろうが。自分は清廉潔白ですぅってか?」
「どうして私? クズらしい言い方って言っただけなのに。分からなかったの? 無様」
「ちっ……口の減らねぇクソアマが……」
途端に不機嫌になるのはいつも通り。夕の煽りに、明は満足そうに頷いた。
夕と郭図の二人はもう目すら合わせようとせず、このまま共に居るのも嫌だと思ったのか、軍議を進めて行く。
「兵を割いて対応する以上、官渡の攻略は難しい」
「……このまま膠着すれば互いに睨み合える。だが、曹操は帝からこっちの征伐依頼を受けてるだろうからな……時間なんざ使ってられねぇはずだ」
「ん、戦の連続で兵糧の消費も大きい。白馬義従を連れて来た事で時間を使えば使う程に苦しくなる。孫策を都に留め続ける事もあまりしたくない、と思う」
「こっちは数が多いんだ。別に他の街を攻めて強引に奪ってもいい。輜重隊を奪っちまう事だって出来る。神速が厄介だが……四六時中走り回るなんて出来ねぇだろよ」
「でも長くなればこちらの有利、とも言いきれない。数が多いから被害での余剰分も裏返る。出来れば此処からは短期決着させてしまいたい」
「ああ、兵数を減らし過ぎちまうと曹操の領内の制圧がめんどくさくなるしな。力をそのまま持つなら、曹操本人に敗北の屈辱を突き付けて従わせるのが一番最善だ」
自分達が口を挟めるか、と聞かれても麗羽と斗詩には出来ない。二人のやり取りを頭で思い浮かべてどうにかついていくのがやっとであった。
「その為には官渡から曹操を引き出すか、官渡内部に居る兵数の多くを引き出して無理やり攻略して捕まえるしかない。だから……」
チラ、と明を横目で見やる夕。天幕の回りに耳は無いか、と。
一寸だけ目を瞑った彼女は、大丈夫だと頷いた。
にやりと口を引き裂いたのは……夕と郭図のどちらも同じく。
「……明……ううん、張コウを……“袁家の勝利”の為に、身命全て曹孟徳に捧げる。それが勝利出来る一番有力な策」
あんぐりと口を開け放ったまま、麗羽と斗詩は何も言えず……されども明は口を引き裂き、
――あなたの描く幸せの為になるなら……覇王の慰み者であろうと、下卑た賊徒のおもちゃであろうと、袁家を殺す裏切り者であろうと……どんな存在にでも堕ちてみせよう。
「あはっ♪」
心の底から、楽しみを浮かべて笑った。昏く、暗く。
――大丈夫。これでいい。こうすればこの子は絶対に助かるから。
†
暗闇の天幕の内、上気する呼気を弾ませるは黒と赤。
疲れを余り感じさせないように、怪我をした腕を気遣いながら、夕から求めた情事の後。
バタリ、と寝台に倒れ込み、そのまま明はぎゅうと愛しい少女を抱き締めていた。汗に濡れた身体も気にせず、温もりを確かめ合えば……心に来るのは充足と安息。
「……不安?」
胸の前から声がした。愛しい愛しい彼女の声音。救いたくて仕方ない少女から送られる優しい思いやり。
「んー、不安は無いねー。ほら、あたしって曹操軍にもてもてだから♪ 殺される事はないんじゃないかな?」
「でも……官渡の要塞は秋兄が作った。張コウ隊で一度強引に攻める事になるけど、どんな罠が待ち受けてるか分からない」
見上げる瞳がうるうると滲んで、彼女の方が不安が大きいのは直ぐに分かった。
ふっと口を綻ばせ、明は赤い舌をぺろりと突き出す。緩んだ目元で、歓喜に揺れる黄金の瞳で、安心しろと示すだけ。
「だーいじょうぶっ! だって罠仕掛けた秋兄があたしの事欲しいって言ってたもん♪ それならあたしだけは絶対殺さないでしょ♪」
「それは……そう、だけど……」
釈然としない返答が悲哀を伝え、明は抱きしめる腕に少し力を込めた。
ゆっくり、ゆっくり背中を叩く。白絹の如き肌は、汗が乾いたのかすべすべと心地いい。
このまま宥めても、きっと不安は取れないのだろう……明には夕の心の内が読み取れる。
それなら話を変えよう。決めれば早く、小さく鼻を鳴らして口を尖らせた。
「でもさ、よくよく思い出してみるとなーんか変なんだよね」
「変? 何が?」
「秋兄が、だよ。真名も呼んでくれなかったし、憎んでるみたいだし。何より自分を抑えてでも劉備を育ててたでしょ? それなのに離反して、でも壊れても歪んでもいないなんて……わけわかんない」
思い出せば、明を見る目は昔とは全く違った。華雄を殺した後の濁った眼差しとも、洛陽を終えての不敵な輝きとも。
「……公孫賛達を切り捨てたのに、敵討ちの為に離反するのも変」
「矛盾だらけなのはいつも通りだけど……やっぱり引っかかるよねー」
「秋兄が官渡に籠ってたのとも関係があるかもしれない。あの人を使えば白馬と延津での戦闘ももっと上手く回せたはず」
「官渡に罠張ってただけじゃなくて?」
「それは発案だけすれば李典の工作部隊に任せれるモノ。帰ってから確認すればいいだけ。だから……きっと何か秘密がある」
うんうんと唸って考えてみても答えは出ない。首を何度か捻っても、やはり何も分からなかった。
夕に聞いてみるのが速い。黒髪を撫でながら、明は問いかけを返した。
「例えば?」
「戦闘に支障が出た、とか。徐州での戦闘で化け物に身を落とした対価?」
「それだと歪んでない理由にならないと思う……あ、でも身体の支障も含めて何かがあるのかも」
「ん、そうかもしれない。新しく所属した軍で戦って力を示さないのは異常。秋兄は戦えないという確率が五割……ダメ、徐晃隊を指揮するくらいは出来るはずだから、やっぱり違う」
肯定するもやはり否定。二人で考えても分からないなら、これ以上頭を悩ませてもしょうがない。
「ぐぬぬ……ただ戦わないだけで此処まで悩ませるなんて……秋兄恐るべしっ」
「ふふっ、私を策に嵌めれる程の相手。やっぱり秋兄は欲しい」
おどけてみせると、夕は小さく笑った。その愛らしい声が、明の心に何よりの平穏を齎す。
このまま彼女の想い人の話を続けてもいいが……明は夕に聞いてみたい事があった。
「ね……桂花は、どうする?」
「……」
沈黙。
答えるでもなく目を逸らした夕は明の胸に顔を埋めた。すりすりと頬をすり寄せ、甘える姿は子供のよう。
「予定通りならあたしと一緒に烏巣に向かうでしょ? 相手は監視の意味も込めてあたしの隣に並ばせるのが一番だろうし――――」
「連れ出さなくていい」
冷たい声が響いた。一瞬で軍師に切り替わった夕は、昏さ渦巻く黒を明に向けている。
「今回の策が成功すればどれだけの将や軍師が死ぬか分からない。でも、不用意な行動はそれだけで郭図が気付く。出来るだけ桂花とは離れている方がいい。あなたが地獄を作り出す、私達が曹操を捕える、それが勝利への道筋」
例え親しい友であろうと、欲しいモノの為には生贄に捧げる。感情を切って捨てた軍師の論理に、明はゾクゾクと背筋に快感が上る。
――やっぱりこの子はこうでなくちゃ。それでこそ、あたしの愛しいたった一人のお姫様。
「りょーかい。あたしは桂花に離れるように言えばいいんだね」
「ん、それでいい。私の護衛の張コウ隊は二百で十分」
「分かった。且授様の頃から居る奴等を残してくよー」
目を合わせて笑うと、夕も小さく微笑んだ。明の大好きな笑顔だった。
「じゃあ……おやすみ」
「おやすみ」
額に優しく口付けを落として、きゅっと小さな身体を抱き締めた。
温もりが伝わり、鼓動を感じる。
とくんとくんと鳴り響くソレは、彼女と自分が生きている証。
大切な大切な少女をその手の中に、明は微笑んで目を瞑った。
これから行うは一か八かの大一番。自分が彼女を信じる事でこそ、全てが上手く行くのだと心を固めて。
――もし……明が出て行った後に一つの情報が入ったなら……私は此処を離れる事になる。麗羽達は優しいから、そうする事で士気が上がる。任せても問題は無い。郭図も……こうすれば油断が生じて隙が出来る。
ごめんね、明。麗羽達を見捨てるなんて……私にはもう出来ないみたい。
赤か黒かに賭けるなら、自分は優しい人に賭けようと……黒の少女は淡い願いを込めた。
――どうか、この戦に勝ってから会えるその時は、私を抱き締めて。きっと……絶望の底を覗いてしまってると思うから……
†
二つ並べた馬の上、二房の螺旋が揺れる黄金は……隣で何処か呆けている黒に構うことなく前だけを見ていた。
追随するは護衛の親衛隊五百。残りは全て街の守護に置いて来た。
久しぶりに邂逅したが、どちらもの変わりようには口を出さず。
秋斗から見て、華琳はより大きくなったように感じた。劉表を呑み込めたのだろうと直ぐに把握した。
華琳から見て、秋斗はより昏くなったように感じた。自分の乖離が進んだのだろうと直ぐに理解出来た。
別段、何も言わない。其処まで親しい間柄でもないし、褒めるのも心配するのも互いの為にならない。
任せた仕事を熟したなら華琳にとって問題は無く、自分の思惑の予想通りにこの戦の行く末を導いてくれたなら秋斗にとっても問題は無い。
目に見えて落ち込んでいる秋斗は月光の上で一人であった。月は居ない。華琳が乗せてやれと一撫でして、月光は秋斗を頭突いてから背に乗せていた。
華琳の命であれば、どうやら月光は秋斗一人でも乗せてやる気になったらしい。
「徐晃隊には何か言ってきたのかしら?」
凛、と鈴の音のような声が響いた。何処か楽しげにも思える。彼は覇王の狙いを理解していたが故、噛みつく事もない。
ぼんやりと見ていた遠くから目を切って、秋斗は華琳の横顔をぼんやりと見据える。
「……腫物を扱うように接するのが嫌だからってあの部隊を纏めていた男から言われたよ。酒屋を一儲けさせて来るって……哀しそうに笑って去って行った」
強すぎる想いを感じて、秋斗は彼らにあれ以上何も言えなかった。
泣き叫ぶ声がまだ頭に残っている。どれだけ慕ってくれていたか、彼らを見れば否応にも突き付けられた。
――やはり今の自分を示さなかったか。
秋斗が今の自分にもついて来てくれと頼み、彼らが着いて行こうとするのなら、鳳統隊を試験的に徐晃隊に戻してもいいと華琳は考えていた。
これは予想の範囲内。元より低い確率だった。道化師のままでは徐晃隊を扱うには不安が残るのも一つ。
戦場の報告は聞いたが、彼が戻らないなら戻らないで他の手がある。
新たな徐晃隊を発足して、黒麒麟とは別に黒き大徳を確立させること。雛里の思惑の通りだが、華琳の中ではそれもまた良しであった。
「ゆえゆえ残してきたけど……いいのか?」
いつまでも落ち込んでいては話が進まない。思い遣って落ち込む事は美徳かもしれないが、それを晒し続けるのが嫌だった。月に対してと違い、特にこの覇王の前でだけは見せたくなかった。
故に……秋斗は自分から話を切り替えた。
「いいのよ。あの子にはあの子の仕事が出来たのだから」
「帝の心情操作、だな?」
「その通り。あの子は覇の思想を是と出来るようになった。私のやり方に同調してもいるでしょう。私が言うよりもあの子がこれからの事を話した方が帝を引き込みやすい」
優しい二人には酷な事だ、とは思うが華琳も口には出さない。
「……なんで俺を帝に合わせなかった?」
「自分で答えが出ている事を二度も私に聞くの?」
即座に返される。試しているのか……否、その程度読み切れないお前ではないだろう、と図れているだけ。
ぐ……と言葉に詰まった秋斗はため息を一つ。相変わらず厳しい人だ、と零してから自嘲気味に笑った。
「黒麒麟への憧れ」
「ふふ、そうね」
「記憶を失った俺では人々の思い描いている偶像をぶち壊す懼れがある。
……お前さんが遣る事に一枚噛ませろってんだから余計に、な。だから帝に対しての直接嘆願をさせなかった……ってとこか。袁家の処断は覇王の指先一つだし、黒麒麟の意向も組み入れられるから曹操殿は余計な不和を与えたくないわけだ」
口が引き裂かれた。華琳の心は歓喜に染まる。何も言わずとも自分のしたい事を読み取っていた事が、ただ嬉しかった。
「じゃあ聞きましょう。この戦で私が欲しいモノは何?」
クイ、と首を彼に向ける。獰猛な光が宿るアイスブルーに、秋斗は震える……こと無く昏い黒を返して、薄く笑った。
「答えが出ている事を聞くべきじゃあないんだろ?」
「あなたの口から聞きたい、と言ったら?」
意趣返ししてみても、するりと躱して逃げ場を塞がれる。苦手な華琳に勝てるはずも無い。彼はやれやれと左右に首を振って俯いた。
「……劉備に楔を一つ。孫家に楔を一つ。西涼に楔を一つ。幽州に楔を一つ。そしてこの大陸全ての既成概念をぶち壊して作り変える……だろ?」
――正解。やはりお前は……黒麒麟でなくとも私と同じ未来を描ける男なのね。
口には出さずに、華琳は笑みを深めて前を向く。ぼかした言い方ではあったが、彼が何を言いたいのかは分かっていた。
ただ、彼が華琳の予想通りだけで収まるかと言われれば……否。
「この戦を蜘蛛の巣にしておいた」
「知ってる」
「白馬義従は予定通りに白馬を奪うだろう」
「予定通り」
「荀彧殿は先にこっちに合流するみたいだ」
「当然の行動ね」
「張コウが……多分裏切るぞ」
「私を試して来るのなら、田豊の方針上はその策が最善でしょう」
つらつらと現状報告と予想を並べても、全てが彼女の掌の上であるかのよう。大きなため息を吐いたのは彼。
――化け物だな、あんたは。外部にいてなんで其処まで組み上げてやがるんだよ……。
やはり“この世界の覇王”は恐ろしい、と。
彼には朔夜が居てやっと積み上げられた戦場の証明式。答えが先に出ているから、そして朔夜という希代の天才が隣にいたから、その道筋を組み立てられる。
黄巾から思考を積み上げ続けた黒麒麟ならば一人で辿り着けるやもしれないが、今の彼には不可能。
ただ、答えの先……自分がしたい事までは読めないだろうと希望を込めて口を開く。
「策を呑み込んだ上で踏み潰す、ね。曹操殿らしいよ」
「あら、てっきり反対するかと思っていたのだけれど?」
「……危険を冒すな、なんざ言えねぇよ。被害を減らせってのも口に出してやるもんかよ。どれだけの兵士が死のうと、誰か将が死のうと……曹操殿には必要な事で、それをするだけの意味がある。そうだろ?」
「……含んだ言い方ね? 何か別の考えでもあるのかしら?」
違和感を感じ取った華琳の楽しげな瞳が黒瞳を穿つ。
答え合わせをしましょう。思い描いている先が同じでも、手を加えるなら先に生み出されるモノが増えるかもしれない。それを判断してあげましょう、と。
やっぱり苦手だ……心の中で呟いて、彼はいつものように苦笑を一つ落とした。
「最後に俺と曹操殿でする“共同作業”、不可測の事態が無ければ俺が先に示したいんだが……いいかな? 舞台の観客は多い方がいいだろ?」
急に跳んだ話に、雷鳴の如く華琳の思考が巡る。
自分で描いている戦絵図はあった。軍師達がそういった戦の組み立て方をする事も分かっていた。
そして最後に、黒き大徳と覇王で行うモノも、決めている。
――お前はそういう立ち位置を作り上げるつもりなのか……。確かにその方が自然で分かり易い……劉備達に不可測を投げ入れる為には。
彼の思惑でより良い方向にねじ曲がると気付く。もう一つ、気付いたモノがあった。
――ふふ……いいわね。記憶が戻らない間、使いたいモノがあるから欲しい。そういう事、か。
楽しい、と感じた。最後のモノだけは、朔夜と共に描いたモノでは無いと分かったが故に。
その為にわざわざ秋斗自身が、華琳の出迎えに来たのだろうと読み取れたが故に。
「……間違わなかったようで何よりだわ」
「記憶があってもきっとこうしただろうからさ」
細められた目。浮かぶは憔悴と悲哀と憂い。
黒麒麟ならどうしただろうか。そう考え続けた彼には、誰かを傷つける道しか思い浮かばなかった。
いつも誰かを泣かせる事しか出来ない。それでも作りたい世界があって笑って欲しい人が居るから……正解と信じて進むだけ。
「泥濘にのた打ち回らせ、汚物と屈辱と怨嗟に塗れさせ……袁家には絶望を与えよう」
すらすらと口から出た彼の言葉には少しだけ憎しみの色が混ざっていた。
何か思い出したのか、とは自分から言わないのなら聞くつもりも無く、もはやこの戦の事は語るまい……そう決めて、華琳は前に向きなおした。そっと、微笑みを浮かべて。
「あなたは黒ね」
「……ゆえゆえにも言われたよ。お前さんとあの子の為の黒だってな」
「なら黒き大徳、と呼ばれるに相応しい。でも……やっぱり大嘘つきよ」
流し目は鋭く妖艶に。獰猛なアイスブルーの輝きに、彼は目を奪われた。
黒麒麟ならどう返すだろうか……など考える間もなく、桜色の唇が吊り上る。
「戻らないなら大嘘つきの最初の演目を特等席で見物させて貰うわ」
「戻ったら?」
「私の愛する臣下達や雛里達、そして黒麒麟の身体を騙し切って耐える事など、あなたや黒麒麟には出来ないでしょう?」
浮かぶのは信用と自信。逃がすつもりもなく、逃げるとも思っていない。
黒麒麟の身体は仁徳の君に怨嗟を宿した。これで彼を支えていた全てが敵になってしまうのだから、黒麒麟が戻って裏切ろうとしても、嘗ての強さは得られない。
言われて自嘲気味に喉を鳴らす彼を見て、華琳は前に目を向ける。
「頭の中がイカレてたら分からんさ」
「安心なさい。最悪の場合は私がこの手で――――」
――殺してあげる。
殺意の欠片も含まずに紡がれた言の葉。彼にとっての一番の救いで望みなのだろうと理解しているから。
人としても、王としても、華琳は彼の心の汲み方を間違わなかった。
安堵した表情になった秋斗は優しく微笑んだ。
「ははっ、やっぱり怖ぇな。覇王様」
「怖いと感じるなら大人しく跪きなさいな」
冗談交じりに挑戦的な眼差しを向ければ、彼は悪戯っぽく舌を出す。
子供のようなその笑みは、先程まで暗く落ち込んでいたのが嘘のよう。相対するに相応しかった古き龍と被り、華琳の胸が僅かに弾む。
「やなこった。跪いてちゃあ出来ない事があるんでね。何より……守られてなんかやるもんかよ」
同時に苛立つ。対等になろうとしているわけでは無いが、守るべきモノとして見ている秋斗の在り方に。
これは意地だ。守る側、守らせる側の譲れない矜持。どちらも引く事は無く、
「春蘭に叩き斬って貰えば意地っ張りも直るかしら?」
「あいにく死んでも直らんだろうよ。諦めてくれ」
どちらも誰かに頼るのが嫌で仕方なく、それが大切と分かっていても、
「私は諦める事が一番嫌いなの。大人しく私に守られてなさい」
「はっ、どっちが意地っ張りだよ、まったく」
抗わざるを得ないから、苛立ちと喜びの相反する感情が同居する。
「あなたに決まってるじゃない」
「そういうとこがだなぁ――」
そのまま、華琳がため息をついてやれば、彼は言葉に詰まった。
――また……私はこの男のやり方に巻き込まれて……はぁ……。
呆れのため息を心に一つ。
いつもペースを乱すこの男は、自分にとって一番の敵だと自覚した。
苛立ちがあるから、断じて楽しくなどない会話だと思っていても、無意識的にその流れを自分も作り出していたのだろう……そう気付いてしまえば、自分の変化を受け入れるしかなかった。
「気分が下がったわ。どうせ店長の所で琥珀飴を補充したんでしょう? 献上しなさい」
「お前さんも持ってるだろうに……」
「あなたが献上する事に意味があるのよ」
「ダメだ。頑張ってた奴等に配るんだから一つもやらん」
「却下。自分が食べる分も持ってきてるのは分かってるのよ? 意地っ張りに対する罰」
「意地張ったら罪ならお前さんも――」
他愛ない会話だ。勝ち負けと意地に拘る子供のやり取り。それが随分自然に思えて、心がささくれと平穏の二律背反を描いてしまう。
華琳はもう、この目の前の男を認める事にした。
自分と同じ未来を思い描いているのなら、脚を止めない限り……並べるなら並んでみるがいい、と。
――頼りはしない。預けもしない。寄り掛かりもしない。けど隣に必死で追い縋るくらいは許してあげる。だから……雛里の心を救い出して尚、黒麒麟を求めなさい、道化師。そのまま――――
壊れてくれるな、と願いながら……昔の敵も求めている。
認めているくせに従わない矛盾への否定は……自分を認めろというワガママのカタチだった。
自分が正しいと、捻くれたままで肯定してくれるモノなど今までいなかった。
王と王佐とは違うおかしな関係。さもありなん、彼が求めているのは自分だけの願いで、華琳の為ではないのだ。
黒麒麟と右腕の関係に似ているがそれとも違う。曖昧ではっきりとしない自分達の関係は、立場がどうあれこうなるのだろうと予測に容易く。
――欲しかったモノは手に入らなかった。でも面白いモノが手に入った。イラつくけれど、確かにこの下らないやり取りは楽しい。
矛盾だらけの感情のハザマ、華琳は自分が浮かべている緩い微笑みを抑えようとはしなかった。
――ホント……敵わないなぁ。
そんな彼女と接する事が、憂いに沈む彼の心を明るく照らしているとは、彼以外誰も知らなかった。
†
再び官渡に向かう袁紹軍の数は三万。先陣に立つ武将はただ一人、張コウのみ。他のモノは後陣にて待機する、と軍議では決定が下った。
ただ、一人の男だけは烏丸から引き抜いた兵との連携関係上、烏巣に移動済みであった。
「クカカッ」
一つ離れた陣幕の中。辿り着いたその場所で、男は一人嗤っていた。自分を追い詰めた女達を、絶望の淵に落とせると確信して……。
内に宿す感情は憎悪か、怨嗟か、嫉妬か……どれも、否。
心に湧き上がるのはただ愉悦。
一縷の希望に縋りつき、針の孔を通すようにひた走ってきた彼女達。袁家という泥沼で足掻いて来た彼女達。
やっと抜け出せると思ったその場所で、最期の最期に絶望の海に突き落とされる瞬間……それこそが、その男が好きで好きで仕方ない甘美な果実。
「バカだなぁ……顔良よぉ。助けたいなんて思わなけりゃ……俺にバレなかったのに……クッ、アハハハハ!」
自分が生き残らなければ意味が無い。この戦の敵は、男にとっては自分以外の全てであった。
たった一人で全てを利用して戦っていたその男は、漸く、自分が生き残れる道を掴みとった。
「曹操に勝っても、張コウと田豊が死なねぇと俺が殺されちまう……」
トン……トン……とこめかみを指で軽く叩きながら、男は舌舐めずりを一つ。机の盤上の駒を一つ進めた。
「人形が負けても、張コウと田豊を配下に加えられたら俺が殺されちまう……」
斜めに一つ、横にも一つ、幾多の駒が揃う盤上で、一手一手と進めて行く。ピタリ、と止めたその時には、一つの駒だけが生き残っていた。
「なら……曹操に勝った上であの二人を殺せりゃいいんだ。これで全ての状況は整った。後は……お前が踊ってくれるだけでいいぜぇ……張コウよぉ」
下卑た笑い、と誰もが言った。そんなモノは気にもならない。言いたい奴には言わせておけばいい、と。
「甘い蜜を吸って踏ん反り返ってる上の連中も、イカレなくせにあまちゃんなクソアマ共も、お綺麗で生温い女共も……みぃんな、俺が使ってやんよ」
その時を想えば、耐えがたい絶頂の愉悦が身を支配する。
これこそが人生の楽しみだと、引き裂かれた笑みに映し出されていた。
蹴落とす感覚は心地いい。陥れる瞬間は脳髄が蕩けそう。
他者の絶望の瞬間を嗤って、嘲笑って、哂って……足掻く姿に腹が捩れる。
楽しいからいい。面白いからいい。この女優位な世界で見下されてきた郭図にとっては、彼女達の絶望こそが楽しみで生き甲斐であった。
「踊れよ赤い道化。お前に大事なもんは救えねぇ。足掻けよ黒い道化。お前の大事なもんは……クカッ、もう……ねぇよ……アハハハハハッ!」
ひらりと、郭図は楽しげに報告書を手に取った。上層部と共に内密に飼っている影からの報告は、一人の少女が知れば絶望に堕ちるモノ。
其処にはこう書かれていた。
『且授の毒殺完了。面会謝絶の重篤と偽りて情報漏洩の問題無し。袁家よりの指示、戦に勝った上で狂犬二人を始末せよ』
抗おうとも抗おうとも、もはや彼女達には……救いなど一つとして無かった。
回顧録~ヒカリガアタラヌクロノナカ~
深く関わることはしなかった。
彼女が生きるためには自分は邪魔だった。
冷たい関係がずっと続く。
今まであんなに笑って過ごしたのに。
今回は笑い合ったことなど全く無かった。
自分が救われたいとは思わなかった。
自分が死ぬことで
きっとこの世界は変わると信じていたから。
一つだけ、噂を流した。
袁家には乱世を終わらせる救世主がいる、と。
曖昧にぼかした情報は波紋を作り、内部での諍いを増やすことになった。
これでいい
これでいい
こうすれば彼女は救われる。
この世界はきっと歪な等価交換で成り立っている。
誰かが死ねば、誰かが生きれる。
生き残るはずのない彼女たちが死ねば、彼女と自分は生き残れたのだから。
より確実にするにはもう一つ賭ければいい。
彼女の運命は決まっていたのだ。
死ぬしかない運命。抗えぬ宿命。捻じ曲がっているこの世界は、元から狂っていたのだ。
漸く呪われた戦に辿り着いた。
この官途の戦いの最中で自分が死ねば、代わりに彼女は救われるのだろう。
誰も彼もを犠牲にして、彼女だけを救ってみせよう。
戦いの最中で情報が一つ。
有り得ない名前が耳に飛び込んだ。
居るはずのない存在が敵に居た。
まだ出てくるわけがなかったのに
前のループではいなかったのに
その名前は、自分にとって絶望だった。
気付いた時には手遅れだった。
袁家の計画は進んでしまい、止めることなど出来なかった。
敵だ、敵だ、敵だ、敵だ、敵がいた
世界改変の敵が、まだ居た。
彼女を救い出せると勘違いしていた自分はもう、この世界に救いなどないのだと分かってしまった。
自分を殺す方法を世界は正しく強いてきた。
抗えるわけがなかったのだ。
周りは全て敵だらけ
救い出した先にも敵がいる。
この乱世が、自分が過ごしたループよりも長く続く予定調和になったのなら……
あの敵がいるだけで魏は滅ぶ可能性が出てしまった。
もう……無理だ
こんな世界、変えられるわけがない。
呪われし戦、官途の戦い
計画通りにコトが全て終わった。
彼女の命は、確かに今だけは救えた。
そして自分は――――――
後書き
読んで頂きありがとうございます。
此処からが官渡の本番。
少し予定よりも長くなりそうです。
回顧録はもうそろそろ……
ではまた
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