あかつきの少女たち Marionetta in Aurora.
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04
男は悪事を企んでいた。
開放感のある喫茶店のオープンテラスに腰を掛け、秋の陽光を筋骨隆々とした身体に浴びながら、様々な悪事を企んでいた。
明黄に色づいたイチョウ並木をぼんやり眺め、心透く青い空を見上げながら、殺人爆破誘拐密輸、あらゆる悪事を企んでいた。
悪事の計画を次々と脳内で組み立てながら、男はテーブルの上のコーヒーへ、おもむろに手を伸ばす。
と、仕立ての良いスーツの懐から携帯の着信音が鳴る。
コーヒーへ伸びた手を止めて、取り出した赤い携帯電話を耳に当てる。
「もしもし」
電話の向こうの人物は、男のことを『羽柴さん』と呼び、会社の重要案件の指示を乞う。
男は短くいくつか指示を飛ばし、電話を仕舞った。
そしてコーヒーカップに指を掛け、再び携帯の着信音。今度は青い携帯を出した。
「もしもし」
今度の人物は、男のことを『松野さん』と呼び、ある企業の株価が変動したことを告げた。
売って、とだけ伝え、電話を切る。
今度こそコーヒーに口をつけようとしたところに、三度目の着信音。次は緑色の電話だ。
「もしもし」
この電話主は、男のことを『辻野さん』と呼び、彼が所持するビルに大口のテナント依頼が来たことを報告する。
そのまま進めるように告げ、電話を戻した。
「忙しそうだね」
異なる三つの名前を持った男に、声をかける者がいた。
長身痩躯。稲荷キツネのような細く吊り上った眼。十代の若者にも見えるが、三十路を超えた中年にも見える。不思議な容姿を持った男だ。
名前は李明。彼は日本に潜伏する中国共産党の工作員だ。
「そうでもない」
李はウェイトレスにコーヒーを頼み、男の正面に座る。
「立場によって名前を変えているんだろう? もしかして私に名乗った名前も、偽名だったりするのかい?」
それを言うなら李だって偽名だろう、とは男は口に出さない。
スパイが現地の協力者に、一々本名を名乗るなどあり得ないからだ。
まあ別に、本当の名前などどうでもいい。
「それで、何の用だ?」
すると李は唐突に言葉を異言語――ドイツ話に変えて、話を切り出した。
「去年から、うちの工作員が何人か消えている」
李は口元で手を組み、薄い笑みを見せる。が、鋭い切れ長の眼には冷え冷えとした光が灯っていた。
こちらの一挙一動見逃さず、こちらの心内を見透かそうとしているのだ。
「私の仲間もだよ」
隠す必要はないし、むしろ男の方から聞こうと思っていたことだ。
男は正直に、スペイン語で返す。
突然始まった多言語の会話に、周囲の客は一瞬彼らに目を向けた。
だが矢継ぎ早に変わる異言語の会話、その内容を理解できる者は一人もいない。
東京の街では異国の言葉はそれほど珍しい物でもない。二人に集まった注意はすぐ霧散した。
「先週武器の買い付けに向かわせた者が消えた。渋谷デモに潜り込ませた扇動家にも、連絡が取れない」
惜しげなく情報を提示する。知られたところで、困ることでもない。
男のポーランド語に、李は言葉を広東語で応える。
「他の組織でも似たようなことが起こってないか探ってみた。北朝鮮のスパイも行方不明者が出ているらしい。だがアメリカやEUは……」
「何事もない」
男の朝鮮語。
「そうだ。どうやら日本政府の敵性組織だけが狙われているみたいだ」
李のフランス語。
「ようやく日本政府が動き出したか。しかし、警察では無いな。痕跡が無さすぎる。それに、調べてみたらいくつかの現場に弾痕があった。それも大口径の」
男のアラビア語。
「弾痕? まさか自衛隊ではあるまい?」
李のロシア語。
「可能性が無くはないが、失踪の規模から数だと考えにくい。表の組織は動けば必ず何かしら情報が出てくるものだが、それらしい物が一切ない。別の、警察でも自衛隊でも無い組織だ」
男のイタリア語に、李は失笑を漏らした。
そして北京語で言う。
「なるほど、なるほどな。日本め、とうとう『そういう組織』を作ったか。……分かった、その筋で情報を集めてみよう」
運ばれてきたコーヒーを一口飲み、李は言葉を日本語に戻した。
「それで、そっちの計画の進行具合はどうだい?」
「人がいなくなったり、一緒に物資が消えたりする以外は、まあ順調だ。資金も必要な人材も、着々と集まっているよ」
「それは良かった。君たちが活躍してくれたら、私たちとしてはとても働きやすくなるからね。何か支援が必要になったら言ってくれ」
二口目でコーヒーを飲み終え、李は席を立つ。
「なら格闘訓練の教官が足りないんだ。すまないがブルース・リーを呼んできてもらえないか」
「さすがに死人を甦らせるのは無理だなぁ。あ、だが一つ面白いものがある。今度持ってきてあげよう」
「新しいオモチャか。嬉しいね」
男は椅子に深々と座ったまま、冷めたコーヒーを呷った。
「これからどうするんだい、御堂?」
「そうだな……」
御堂。四つ目の名前で呼ばれ、男は顎に指を当てて思案する。
「釣りに行く」
「そうか。何か釣れたら私にも御馳走してくれよ」
李は手を掲げて、喫茶店から去って行った。
残された男は、再び悪事について考え始めた。
李に教えた名前は本名だ。
男の名前は御堂文昭。
日本国家の転覆を目論むテロリストである。
国立児童社会復帰センターの運動場。
野球とサッカーを並んで同時に出来そうなほど広さを持つ、その一角。
「あんたら何やってんの?」
「何って、柔軟だ」
センターの職員である石室夕子は、大股開きで前屈しているモモの背に腰掛けて煙草を吹かしている蔵馬を発見した。美少女を椅子にして吸う煙草はさぞ美味かろう。
蔵馬は迷彩シャツにOD色カーゴパンツという、色気という色気を一切排除した服飾で身を包む石室を見上げ、
「格闘技教えてやろうとしたんだが、見ろ。こいつ身体硬すぎる」
「うぎぎ……」
苦しげに呻くモモの身体は、柔軟というにはあまりに傾く角度が浅い。
「確かにそうだけど、開脚で無茶しすぎると処女膜破れるよ」
「毎日柔軟しろと言ったのに、サボりやがった罰だ。ていうかモモ、お前なんて処女膜あるのか」
「うぎぎぎ……有りますよぉ、クラマさんの為に大事に取っておいた……うぎぎぎぎぎ! 痛い! クラマさん痛い! 破けちゃううう!」
「義体もサボったりするのねえ」
じゃれ合う二人を見て、夕子はぽつりと呟く。
「他の子達は?」
「アザミとタンポポはキリングハウスでCQB訓練やってる。他は知らん」
モモの背中にほとんど全体重を預けながら、蔵馬は運動場と隣接した近接戦闘訓練場の方を指差した。
時折指した方向から銃声に混じって「ゴラアアアアア!」だの「ボケエエエエエ!」だの大よそ人の物とは思えない吠え声が聞こえてくる。
「初瀬か……元気ねえ」
「あのバカと訓練で被るとは。常盤……運のない奴」
「そういや常盤が先週捕まえた扇動屋いたでしょ」
「ああ、俺らが救急隊員に化けて回収しに行った奴か。あいつがどうかしたか」
「いや、別にどうもしてないんだけどね。結局雇い主の情報、全然出てこなかったみたいだわ」
「常盤が先に持って帰った携帯も空だったし、これで手詰まりだな」
「実は常盤君が携帯の中身を先に消したりしてたりして」
「敵が送り込んだスパイでしたって展開か。今度尋問してやろう」
ケラケラ笑い合う二人。
すると、石室の迷彩シャツが後ろから引っ張られた。
「……夕子」
「ん、ああ」
石室の陰に隠れていた、義体のムラサキだ。彼女の担当義体である。
「今日石室は非番じゃ無いのか?」
「そうだよ。狩猟期間になったし、これから鹿狩り。鹿がセンター内の赤外
線センサーに引っかかって鬱陶しいから、数減らしてこいって部長がさ」
石室は背中のガンケースを背負い直した。ムラサキの背にも、夕子とお揃いの物がある。
「ついでにムラサキに、動く目標を狙撃する経験値を積ませるわ。この前アザミちゃんが湾岸でテロリストの手を打ち抜いたのに、この子対抗意識燃やしちゃって。楽しみねームラサキ。いっぱいお肉食べれるわよ」
「……うち鹿肉きらい」
「ははは、どんなに嫌いでも、食べ物がそれしかなければ嫌でも好きになるわ」
半ベソになるムラサキを引きずり、じゃねーと手を振り石室は運動場から去って行った。
ガサツな女だが、あれでも京都大学出身らしい。人の内側は外面では推し量れないものだ。
「まさに、あの声で蜥蜴食らうかホトトギス」
「……クラマさん……クラマさん……本当に破れます……」
独りごちる蔵馬の尻の下では、全ベソのモモがすすり泣いていた。
小河内ダム。
東京都奥多摩に造られた人工湖である、奥多摩湖を堰き止める巨堤だ。
高さ一四九メートル、幅三五三メートルのダムは山のように大きく、総貯水量は一八九,一〇〇,〇〇〇キロリットル。国内でもそれなりの規模を持っている。
このダムが、テロリストによって占拠された。
犯行グループは日本山林保護戦線を名乗るエコテロリストだ。
昭和のダム建設ラッシュ時に活動していた弱小環境テログループだが、ラッシュの収束と共に存在意義を無くし、とうの昔自然消滅したと思われていた組織である。
故に公安のマークからも完全に外れており、日本政府は不意を突かれた形となった。
犯行グループの要求は、警視庁にのみビデオメッセージという形で送られてきた。
『日本にある全貯水ダムの即時解体及び、全山林開発事業の凍結。
これが呑まれなかった場合、小河内ダムに仕掛けた爆弾を起動させ、ダムを決壊させる。
なおこの事件がマスコミに漏れた場合も、ダムを爆破する』
という要求に加えて、ダムの内部通路と外壁、放水ゲートに仕掛けられた大量の高性能爆薬。
人質として拘束されたダムと発電所の職員たち。
そしてアサルトライフルを携えて、スノーマスクで顔を隠したテロリストたちの映像が添えられていた。
この事件はすぐに警視庁公安部に回され、秘密裏に対策本部が設立される。
そして事件の秘匿性と事態の緊急性から、すぐにSATの突入が決定されたのだった。
奥多摩の山中。
国道411号線を、青色の大型警察車両・特型警護車2型が三台連なって走行していた。
警視庁特殊急襲部隊SATを運ぶ輸送車だ。
彼らはこれから小河内ダムへ向かい、ダムを占拠したテロリストを殲滅する。
SATは犯人逮捕を目的に作られた部隊では無い。
危険分子の速やかな排除。それがSATの行動方針だ。
そのために彼らは毎日常人には耐えがたい訓練を乗り越えてきた。
今日のような状況を想定された訓練も何百何千と繰り返してきた。
いつものように。
訓練通りに。
SAT隊員たちは輸送車の中で、各々が何度も何度も脳内で自分がすべき事を確認する。
車内は自然と、殺気が立ち込めていた。
突然、輸送車が停止した。
「どうした?」
先頭の輸送車。後部席にいた第一班の班長が、運転席に目をやる。
「班長、道が倒木で塞がれています」
「なに? テロリストのバリケードか?」
「いえ、ただ木が一本転がっているだけです。人影はありません」
「そうか。お前ら、木をどかしてこい」
班長は無線で停車の理由を後ろの二台に告げてから、隊員を五人、前方の倒木を撤去させに向かわせた。
車外の空気は山に冷やされ、紺の戦闘服から僅かに露出した肌に刺さる。
日々鍛錬を積むSAT隊員だ。
彼らは道路に寝そべる倒木を苦も無く担ぎ上げ、その時。
小さな火花を散らせる物体が二個、空から降ってきた。
それは、スチール缶にぎっしり黒色火薬と鉄の破片が詰められた、即席手榴弾だった。
倒木を担いで一列に並ぶ隊員の足元にそれらは転がり――爆発。
爆風により殺傷力を持って飛び散る鉄片が、彼らを貫き切り裂いた。
敵の奇襲だ。
混乱に陥るSAT達。
傷付いた仲間を救出せんと、外に飛び出してきた他の隊員たち。
何とか負傷者を輸送車に担ぎ込み、彼らは大慌てでこの場を離れようと、車と飛ばして道を進んでいった。
この様子を一部始終眺める者たちに、SATは気が付かなかった。
国道を挟む、木々生い茂る山の斜面。
御堂文昭がそこにいた。
カーキ色の野戦服を身に纏い、AK-47の改良型自動小銃AKMをスリングで背に吊っている。
今回のテロ。その首謀者はこの男だった。
倒木を用意し、手製の爆弾を投げ込んだのも御堂である。
御堂は闇に溶け込み、仲間を一人連れて、道路を見下ろしていた。
「素人だな。立て籠もってる犯罪者ばかり相手にしているからだ」
「どうして殺さなかったんですか?」
尋ねるのは御堂と同じ野戦服を着た青年だ。
その手にはルーマニア製の自動小銃PM md.90カービンが握られている。
「あれはSATだ。このままダムまで誘き寄せる」
「奴らが狙いではないんですね」
「その通り。さ、先に倒しておいた他の丸太にSATがビビって動けないうちに、ダムに戻ろう。日本山林保護戦線の連中、SAT以上に素人で使い物にならんからな」
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