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白鳥の恋

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第四章


第四章

「私にとってもエルザにとっても」
「エルザにとってもですね」
「そうです」
 ここをあえて強調してみせた。
「私はエルザが好きです」
 こうも言う。
「子供の頃から憧れていた役です。だからこそです」
「だからこそ、ですか」
「はい、最高のエルザをお見せします」
 彼女も誓うのだった。二人の歌手はそれぞれ顔合わせはまだだがその心はワーグナーに向けられていた。そしてそれが一つになる時が来たのだった。
 顔合わせになった。まず声をかけてきたのはエリザベータであった。
「お話は御聞きしています」
 実は人前では物静かで素朴なエリザベータであった。ロシア人は素朴で親切な者が多いというのが評判だがそれは彼女にも当てはまることであった。
「メトロポリタンで歌われていたのですね」
「ローエングリンはそうです」
 それがアーダベルトの返事であった。バイロイトの舞台の上でリハーサル前に話すのであった。
「他にはヴァルターも」
「そうでしたね。ワーグナーには造詣は深いのですね」
「いえ、まだでしょう」
 アーダベルトもまた人前ではドイツ人らしかった。謹厳な態度が評判であるのだ。
「まだワーグナーに入って間もないですし」
「それは私もです」
 エリザベータも謙遜してきた。
「ですがそれでも」
「そうですね。最高の舞台を作りましょう」
「はい。それでですね」
 エリザベータはおずおずと彼に言ってきた。
「シュトルツィングさんは元々はモーツァルトやロッシーニの方でしたね」
「ええ」
 それはもう言うまでもないことだった。いささか声の軽いテノールも出せる彼は本来はそちらの歌手なのである。しかし喉が強靭でしかも声の重いテノールも負担なく出せる為にワーグナーもできるのだ。
 その彼にエリザベータも問うたのである。
「モーツァルトの魔笛に出られたこともありますね」
「はい、あります」
 魔笛はドイツ語のオペラだ。だから彼が出るのはごく自然なことであった。
「魔笛もまた魔術的な作品ですね」
「そうですね。ローエングリンと同じく」
 魔笛はメルヘンであるとされローエングリンはロマンであるとされる。その違いはあるにしろ確かにどちらも魔術的な色彩が強い。エリザベータが言うのはそれであった。
「私は魔笛には三人の侍女で出ただけですが」
「そうなのですか」
「ロシアでもモーツァルトは人気がありますが」
 これは本当のことだ。ロシア人は元々オーストリアが好きなところがありその音楽に親しんできている。だからなのであった。他にはロシアオペラも人気がある。
「その中でも魔笛はやはり」
「人気があるのですね」
「ええ。他にはフィガロの結婚やドン=ジョバンニも」
 どちらもモーツァルトの定番だ。彼程世界で愛される音楽家もない。
「よく上演されます。私もどちらにも出させてもらいました」
「そうですか。それでは」
 ここでアーダベルトは話を核心に持ってきた。こう言うのだった。
「ワーグナーはどうでしょうか」
「ワーグナーですか」
「はい、今からやるこのワーグナーはどうでしょうか」
 それを聞くのであった。
「ワーグナーですか」
「タラーソワさんは元々ワーグナーがメインでしたね」
「はい」
 アーダベルトのその問いにこくりと頷く。やはり彼女のメインはそれであった。その声がワーグナーのものであるから当然であった。ワーグナーはソプラノに対しても独特の声を求める。だからなのである。
 それはエリザベータもわかっている。だからこう答え返すのだった。
「そうです。そしてそのワーグナーですが」
「どうなのでしょうか、ロシアでは」
「やはりそれなりに上演されています」
 答えはこうであった。
「ですから私も祖国で歌うことも多いのです」
「そうですか。それはいいことですね」
 アーダベルトはそれを聞いて穏やかに微笑むのであった。
「ワーグナーが上演されるとはドイツ人冥利につきます」
「そうなのですか」
「はい。ですから」
 そうしてまた言う。
「是非共今の舞台も」
「素晴らしいものにしましょう」
 それを誓い合うのだった。こうして二人は舞台に入る。それは指揮者も演出家も驚く程身の入ったものであった。まるで役が乗り移ったかの様に。
「まるであの二人のままだ」
「そうだな」
 豚いい裏の裏方達もそう言い合う。
「あそこまで今から身が入っているのはなかったな」
「わしも何十年もここにいるがな」
 その中のベテランが言うのだった。
「あそこまではなかったな、本当に」
「そうなのですか、やっぱり」
「ああ、あれは凄いよ」
 彼も感嘆の言葉を口にするのだった。舞台裏で照明器具を拭きながら。このバイロイトの舞台はかなり奥が深い。そこにも証明を使うからであった。
「だから今回は凄い舞台になるかもね」
「そうですか。じゃあ期待しますよ」
「そうだな。期待していいな」
 彼等も期待しながら舞台の設定を進めていた。その二人の熱はさらに高まるのであった。
「我が妻よ」
 リハーサルの中でアーダベルトはローエングリンになりきって歌っていた。
「それはできないのだ」
「何故」
 それはエリザベータも同じであった。エルザになってしまていた。
 
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