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Fate/insanity banquet

作者:
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Fourth day


 罪は、人間皆が常に持っているものだ。罪を犯さない人間など存在しない。どんな素晴らしい賢者だとしても、それは例外ではない。
人が罪を犯すことを、こう表現した人間がいる。人間が誰かを憎んだり羨んだりした時には、その心には小さな棘がある。そして、次第に深く刺さっていく棘は、痛みを与えていく。そんな時に、悪魔は人に囁くのだ。罪を犯せばこの痛みは消える、罪を犯してしまえばもう苦しまなくて済むのだと。人の心は弱い。その囁きを肯定し、自らの判断で罪を犯すのだ。
だが、人は神に心から赦しを乞うことで、罪を犯していようと、その魂は救われる。神はそんな人間を理解し、愛する存在であるから。罪を犯した事実よりも、罪を犯した後にどうするか。人間に必要なのは、その選択だ。
それならば、赦しを願えば全ての人は罪から解放されるのか。それの答えは、否である。ただ一つだけ、例外がある。罪を持って生まれてきてしまった人間は、その罪から解放されることは無いのだ。
 その少年は、生まれる前から定められた運命を持っていた。神に最も愛されし御子であり、生まれながらにして罪を背負っている子。矛盾にも見えるその定めは、彼の心を蝕む。
――何故自分は生まれてきた。罪に穢れた自分は、生まれるべきでは無かった。こんなに辛く、苦しい生が待っているのなら、生まれてきたくなど無かった。ボクは、産んでくれなどと頼んでいない!!
 暗闇の中、悲愴にくれた声が反響する。少年の金の瞳からは、とめどなく涙が溢れていく。冷たく凍えるようなその涙は、氷の結晶のようだ。涙を流す彼を追い詰めるように、暗闇から憎悪に満ちた声が響いてきた。
 ――罪の子。
 ――呪われた子。
 ――お前は、罪を背負って生きる。
――その生の終わりに地獄へとその身は堕とされる。
 ――生まれたことを悔いよ。
 ――その生に呪いあれ。
 ――悔いよ。
 ――呪われよ。
 何十、何百もの声は呪詛そのもの。彼の存在を、生を、魂を。何もかもを否定し、呪う。普通の人間であれば、この言葉を聞いただけで発狂してしまうだろう。だが、彼は違う。耳を塞ごうともせず、その言葉を受ける。そして、最後の涙が頬を伝うと、彼は顔を上げる。虚空を睨みつけるその姿は、先程の自らの生の悲愴に喘ぐものではなかった。
「それでもっ!!」
 彼の叫声によって、呪詛はぴたりと止んだ。彼はふらりと立ち上がると、右手を胸に当て祈るような面持ちで言葉を紡ぐ。
「それでも、ボクは目的を果たす。どんな力を使っても。必ず、必ず!!」
 彼の誓いの言葉を聞き終えると、止んでいた呪詛は再び彼に向けて放たれる。
 ――傲慢だ。
 ――間違えなく災いが起きる。
 ――この国に惨禍をもたらす者。
 ――世界にあの惨劇が再び現れる。
 ――殺せ。
 ――殺せ。
 ――殺せ。
 少年は右手を高く上げ、その薬指にはまる指輪に力を込める。瞬時に、彼のいた暗闇の空間は裂け、彼の目の前は赤に染まる。地面に転がる人間の手足。血溜まりは彼の服の裾を汚す。
「そう。これでいい。何も間違っていない」
 力なく、彼は前に進んでいく。地に落ちた、彼と同じ人間の残骸を踏みつけながら。

「……や」
 誰かが自分を呼ぶ声がする。
「……みや」
 慣れ親しんだ友の声。
「衛宮!」
 ぱちりと目を開く。ぼんやりと見えるそこには、心配そうに士郎を覗き込んでいる、彼の親友である柳洞一成の姿があった。彼の顔を見たことで、自分が今学校の自分のクラスにいることを思い出す。意識が飛んで、夢を見ていたため、瞬時に判断が出来なかった。
士郎は瞬きをして、彼の顔に焦点を合わせた。
「ごめん一成。ちょっと、ぼーっとしてた」
何の話だっけ、と聞くと彼は話の続きではなく、士郎の顔色を窺いながら尋ねた。
「顔色あまり良くないが、大丈夫か?」
 昨日の朝、凛とアーチャーにも言われたことを思い出す。実際、今まで夢を見ていた頭はぼーっとしているし、体もだるい。今の自分の体調は万全とは言いにくい。だが、きっと困っているであろう彼を蔑ろにすることは出来ない。士郎は笑みを作って答えた。
「ああ、大丈夫。ちょっと、寝不足なだけだから」
 彼の返答を探るように見ていた一成。ふぅと息を吐き出し、彼を見つめる。
「……そうか」
 短くそう返答をすると、彼はぺしりと士郎の頭を軽く叩いた。
「俺からの頼みは、また今度で構わない」
 だから、早く体調を戻せ、と言われ士郎は苦笑しながら頷く。すると、パタパタと廊下から誰かが走っている足音が聞こえる。そ主の足音は士郎の教室の前で止まった。
「衛宮、ちょっといいか」
 教室のドアに立つ慎二から声を掛けられる。今の足音の主が彼だということに気が付く。一成と慎二はお互いの存在を認識すると、苦々しい顔をする。このままでは、何時ぞやの二の舞になると思った士郎は、慎二の用を済ませてしまおうと立ち上がる。教室のドアへ一歩踏み出そうとした時に、鋭い痛みが頭に響く。
 誰かに呼ばれているような。
 もう一歩、士郎が踏み出そうとするが、足元がぐにゃりと歪む。視界が揺れ、自分の体が支えられなくなるのを感じた。
「衛宮っ?!」
「衛宮!!」
 意識が遠くなる。必死な友人二人の声が遠く聞こえてくる。それに答えようと手を伸ばすが、その手は何も掴むことは無い。
 堕ちていく。
 先ほどの夢の中のように。暗闇が支配する世界へと。

 そこに彼はいた。
 艶めく黒髪を風になびかせる。彼の表情を映さない瞳は、希望を失ったように濁っていた。真っ直ぐ士郎を見つめる彼に、問いを投げかける。
「君は、誰なんだ」
 初めて彼を見た時からの疑問。繰り返し見る夢の中の登場人物。士郎の問いかけに、彼は何も答えない。ただ、無表情で士郎を見つめている。士郎は痺れを切らしたように声を大きくする。
「どうして、俺は君の記憶を見るんだ。君は、一体」
「時は来たり」
 一歩。彼はその歩を進める。暗く沈んだ彼の瞳は、士郎の姿の実を映す。それがなぜか恐ろしいと、士郎は感じ、後ずさりをする。
「この時間軸、空間軸。あの人が望んだ世界」
 淡々と彼は告げる。そして、一歩、また一歩と彼は近づいていく。その気迫に気圧されるように、士郎の脚は止まってしまった。
「この時を何千年と待っていた。ようやく理想は叶い、真実となる」
 士郎との距離は数センチ。彼は能面のような貼り付けた笑みを見せると、その手を伸ばし、士郎の首に手をかけた。
「ぐっ……」
 頸動脈を押さえ、気管を潰そうとしている彼の手によって、呼吸が出来なくなる。必死に酸素を吸おうとはくはくと口を開閉させる。彼は士郎のその様子にうっとりとした表情を浮かべた。恍惚に濡れた顔は、悪魔に憑りつかれているよう。
「衛宮士郎。君は、ボクの大事な……」
 その言葉は最後まで紡がれることは無かった。

 ひやりと冷たい感覚によって、意識が呼び覚まされる。
「う……」
 うっすらと目を開けると、そこには先ほど自分を心配そうに見ていた顔が再びあった。あれ、デジャヴ? などと思っていると、相手は心底ほっとしたように息をついた。
「目が覚めたか、衛宮」
 彼の後ろに見える白い天井は、見覚えの無い物だ。ぼんやりとした頭で、自分の記憶を辿る。どうしても直前まで見ていた夢が、それを辿るのを邪魔する。
「一成……、おれ、は」
「保健室だ。いきなり倒れたから、流石に驚いた」
 彼が姿勢を戻して椅子に座りなおすと、眼鏡のブリッジを上げる。彼の倒れたという言葉で、自分が教室で意識を失ったことを思い出す。一成は、寝不足だと先生が言っていた、と教えてくれる。その言葉に少なからず驚いてしまう。まさか、自分が寝不足で倒れることになってしまおうとは。
「何か悩み事でもあるのか?」
 士郎が寝不足になるほどのことが何なのか、彼は知って力になりたいと考えていた。自分の右腕と考える彼は、一成にとって大事な存在であるのは確実だ。いつも自分は彼に頼むばかりで、自分が彼にしてきたことなどは小さなもの。だから、もし今彼に悩みがあるのなら、その重荷を分けてやりたい。一成の思いは、大事な親友としてのものだ。
 士郎ははっきりとしない頭で、言葉を選びながら答えた。
「ゆめを、夢を見るんだ。誰かの過去。すごく、辛い夢を。繰り返し、繰り返し、何度も何度も」
「そうか」
 一成は短く答える。そして、きっぱりと一言告げた。
「だが、それは夢だ。夢でしかない」
 彼のその言葉に、士郎はどきりと心臓が音を立てることに気が付いた。夢は夢。現実とは混じり合わない、幻想の世界。だから、それを気に病む必要は無いのだ。
「そう、だな」
 そう答えると、安心したのか、自分に睡魔が襲ってくるのを感じた。だが、このまま眠っても、またあのような夢を見てしまうような気がする。どうしたものかと考え、そばに一成がいることを思い出す。
「一成、手握ってもいいか。そしたら、夢の続きを見ずに済むような気がして」
 口に出してから、しまったと感じた。いくら何でも高校三年生の友人に頼むことではなかったと。撤回しようと考えていたが、言われた本人である一成は何食わぬ顔で了承の声を上げる。
「構わん。遠坂が迎えを呼ぶと言っていた。それまで、眠るといい」
彼は布団の中にあった士郎の右手を探る。すぐに自分の右手に、彼の手の体温を感じた。ぎゅっと力を入れて握ると、彼も握り返してくれる。誰かがそばにいてくれる、その暖かさに安堵しながら、士郎はゆっくりと目を閉じた。



 右手に感じていた暖かさは、いつの間にか消えていた。その代わり、誰かの体温を体全体に感じる。ふわりふわりと浮いては沈む意識の中、自分が今誰かに背負われているという事実だけを士郎は認識していた。急ぎ過ぎない歩調は、意識の覚醒を遠ざけるものだ。瞼を空けることは出来ずにいると、彼の耳に会話が聞こえてきた。
 ――全く、何故私が……。
 ――仕方ないでしょ。私も桜も、士郎抱えて家に帰れるほど、力が強くないんだから。
 ――君であれば……いや、何でもない。何でもないから、その振り上げた拳を下ろして……ってイタッ。
 ――先輩、大丈夫かしら。
 ――サクラ、その男に担がれている、ボロ雑巾みたいなのがあなたの想い人なのかしら?
 ――そ、そんなんじゃ、ないけど。って、先輩の評価酷くない?
 ――さっきから気になってたんだけど、桜。そいつ誰よ。
 ――あれ、遠坂先輩、噂聞かなかったんですか?
 ――噂? 今日はあいにく忙しくて、特に耳に入ってこなかったけど。
 ――彼女は、今日転校してきた、うちの学校唯一の外国人の、シヴァさんですよ。

時は本日の朝のホームルームに遡る。
 いつものように衛宮邸から登校してきた桜は、朝の士郎の様子を思い出していた。ぼんやりとしていた彼は、ただの寝不足だと言っていたが、それだけで片づけていいものか。自分の周りで話している級友たちの話し声も気にならないくらい、彼女は心配していた。彼の教室に行ってみようか、でもさっき別れたばかりだし。
ぐるぐると考えているうちに、始業のチャイムが鳴っていた。教室に入ってきたのは、自分のクラスの担任の中年の男性教師。日直に号令をかけさせ、出席をとっていく。次々と呼ばれていく名前を聞き流していく。出席はとり終わったようで、教師は出席簿を閉じて、生徒たちのほうを見る。
「今日からうちのクラスに、転校生が来る」
 その一言で、静かだった教室がざわめき始める。士郎のことで頭がいっぱいだった桜も、意識をそちらに向ける。なんとも微妙な時期だ。こんな時期に入ってくる転入生とは、どんな人物なのか。
「入っていいぞ」
 教師の言葉が終わると同時に、教室の前方のドアが開く。クラス中の視線が、一斉にその一点に注がれる。
 そこに現れたのは、一人の少女だ。長く腰のあたりまで伸びた黒髪。真っ直ぐに伸びたそれは、彼女が歩を進めるたびに波打ち、秀麗さを放つ。彼女の肌は、健康的な小麦色に輝いている。そして、リボンは取ってあり、ボタンがかなり大胆に開けられている胸元。クラスの男子の視線は、もちろんそこに釘付けだ。彼女の豊満な胸を見て、桜は自分の胸元に思わず視線を落としてしまう。
 黙って彼女の登場を待っていた教師だったが、その姿を見て待ったの声を掛ける。
「ちょっと、一体どんな格好を……!」
 若干顔を赤らめてしまう教師に、キョトンとした表情で彼女は答える。
「仕方なくってよ。この制服のボタンを上までとめてしまっては、わたくしの胸元はきつくてきつくて、息が止まってしまいますもの」
「だからと言って、そんな非常識な格好をしていいと思っているのか?!」
 確かにここまで制服を改造して着るというのは、非常識と言われても仕方ないように思える。だが、それを選択した本人は納得いかない表情で反論する。
「どんな格好をしようと、それを決めるのは他の誰でもない、ここに居るわたくし。他人に指図される覚えはありませんわ」
 その言い方は、まるで自分が法だと言っているような絶対さがあった。どこかの金ぴかを彷彿させるそれに、桜は何とも言えない気持ちになる。彼女は自分の胸をぐっと突き出して続ける。
「大体、触りたいのなら、触りたいと、そう一言いえば承諾しても構わなくってよ。日本人の胸というものは、実に慎ましやかで、男性からすると物足りないでしょうに」
 どうぞ、というようにボタンを更に外そうとする彼女。今まで彼女に気圧されていた教師だったが、流石にそのことの重大さに気が付いたようだった。数分前に彼女が入ってきたドアを指さす。
「き、み、は、廊下に立っていろ!!」

 朝のホームルームはそのような様子で幕を閉じた。自由奔放というか、実に不思議な彼女によって引っ掻き回された後、何とも言えない空気の中、教師は教室を後にした。そして廊下に出た後、やはりというか、転校生である彼女の姿は無く、教師は憤りを隠せずに職員室へと戻っていった。
 一時間目、二時間目と彼女は教室に姿を現さなかった。三時間目の少し長い休み時間に、桜は彼女を探そうと屋上に行く階段を上っていた。突飛な彼女の姿に、どこか惹かれるものがあった。彼女と話してみたい、そう感じた。自分の勘に従ってみるのも悪くない。そう思って、桜は扉を開けた。
 ひんやりとした空気が頬を撫でる。風はそこまで強くないが、屋上ということでそれなりのものは吹いている。スカートが風によってはためいて、それを押さえながら進む。
そして、彼女を見つけた。長い黒髪は、風に吹かれてうねる姿は生き物のようだ。なんと声を掛けようか迷っていると、彼女から動きがあった。
「全く、嫌になってしまうわ。日本人って、ホントお堅い」
 あなたもそう思いませんこと? と、彼女は自分の後ろに立つ桜に声を掛けた。後ろを見ずに、数メートルも離れているというのに気づかれたことに若干驚きを隠せない。彼女はそんなことは気にせずに続ける。
「わたくしは、シヴァというの」
 先ほど自己紹介をする暇もなく、去って行った彼女。ようやく、彼女の名前を知ることが出来た。
「ええっと、シヴァさん?」
 聞き慣れないものであるし、彼女は見た目と同じように外国の人なのだと理解する。彼女は、自分の隣を指さして桜に座るよう促す。
「呼び捨てで構わなくってよ。あなたは?」
「私は、間桐桜。よろしくお願いします」
「それじゃあ、サクラと呼ばせてもらうわ」
 互いの名前を知ったところで、沈黙が訪れる。彼女と何を話そうか、と悩んでいると向こうから話題を振られた。
「この国に来るのは初めてなの。ナマコやウニを食べる人種だと聞いていたから、どんなものかと思っていたけれど、とても素敵なところよね」
 ゲテモノを食べる恐ろしい人種だと思っていた、と語る彼女を見て、これが日本人が誤解される理由の一つか、と桜は判断する。確かに海にすむ生物は、結構なんでも食べるのが日本人かもしれない。自分ももちろん好きだ。
「シヴァは、どこの国の出身なの?」
「いろいろなところを転々としていたわね。生まれはエチオピアだけれど。それ以上に、他の国で過ごした時間の方が長いわ」
「そう、なんだ」
 そこで言葉を切ると、再び沈黙が訪れる。次は自分から話さねばと思うが、この目の前の彼女に緊張感を抱いている。頭の中が真っ白になっていると、また彼女から言葉をかけられる。
「あなたは、どうしてわたくしのところに来たの? よほどの変わり者じゃなければ、今日は誰もわたくしのところには来ないと踏んでいたの。あなたは……そこまで変わっているようには見えないけれど」
 彼女に尋ねられて、正直困った。自分にもしっかりとした確信というものは無い。ただ、彼女に惹かれたのは事実だ。彼女と話してみたい、彼女のことを知りたい。
「教室にシヴァが入ってきた時に、ビビッときたっていうか。シヴァと友達になりたいって、そう思ったの。だめ、だった?」
 首を傾げ、彼女からの否定の言葉を恐れるような顔をしていると、シヴァはくすりと笑みを漏らした。
「友達、いい響きね」
「え?」
 彼女は心底楽しそうに笑っていた。眉を下げて、花のような笑みを見せる彼女。
「仲良くしましょう、サクラ」
 そう言うと、右手を差し出す。差し出されたその手の意味を理解し、桜も手を握り返す。女性の手にしては、しっかりとした物だった。その手は、士郎のような守る側の手のようだと、桜は考える。
 その後、士郎が倒れたということを聞き、血相を変えて保健室にかけていく桜を、シヴァは珍獣でも見るかのような視線を向けて楽しそうにしていたのは、別の話である。

 ――ということがあったんですよ。遠坂先輩。
 ――外人って怖い。
 ――人のことを猛獣を見るような目で見ないで頂けるかしら。猛獣なら、あなたの方がお似合いよ。
 ――ちょっとそこに直りなさい。大丈夫、痛くしないから。
 ――結構ですわ、先輩。
 ――凛、一般人の人通りもあるのだから、そういうことも考慮にいれたまえ。見られでもしたら、大変だろう。
 ――それでも、抑えきれない時があるのよ……アーチャー。
 ――あ、ほら。着いたぞ。宝石をしまってくれ、凛。
 ――それでは、わたくしはここで。また明日、サクラ。
 ――うん、またね。シヴァ。
 彼女たちの会話は、士郎の鼓膜を揺らす。先ほどよりもはっきりと聞こえてきた声は、彼の覚醒が近づいてきている証拠だった。

 桜たちが完全に衛宮家の門をくぐり、かなりの距離を取ったことで彼女は先ほどまで見せていた柔らかい表情を消す。そして、自分の後ろにある気配に声を掛けた。
「セイバー」
 その名を呼ぶと、黒い粒子が集まり形を成していく。
「はっ、マスター」
 現れたのは、黒のゴスロリドレスを纏い、その両手にドーナツを握っている黒セイバー。彼女は、黒セイバーの姿に嘆息するが、すぐにはっきりとした声で彼女に命令する。
「衛宮士郎を監視しなさい。それと、あの転生者の少年を殺すのは後回し。昨日と関係して、少し気になることが出てきたから、ここであの子供に余計な手を回して、衛宮士郎から目を離すわけにはいきません」
「了解した」
 黒セイバーは、彼女の言葉に一度ドーナツを食べる手を止める。そして、真っ直ぐ彼女を見つめて答えた。それを満足そうに見て、彼女は呟く。
「相変わらず、姑息な手を使っていること……。よほど、わたくしに邪魔されたくないと見えてよ。まぁ、もちろん今回もぶち壊してあげるけれど」
 くすりと忍笑を見せると、彼女は踵を返して歩き始める。もふもふとドーナツを口に運びながら、黒セイバーはその後を追う。
「時にマスター、今日の夕飯は……」
 彼女に呼ばれた時から気になっていたことを、黒セイバーは尋ねる。彼女は黒セイバーの手の中のドーナツを無言で見つめる。
「そうね……バーサーカーに買い物は頼んでおいたの。その食材が揃っていれば、ナポリタンとかミートドリアを作ろうと思っているわ。それでよろしくって?」
「いい、すごくいい。デザートにショートケーキなどがあると、直のこといいが」
 キラキラと目を輝かせている姿は、通常のセイバーと何ら変わりのないものだ。彼女は黒セイバーの手の中のドーナツをもう一度見つめる。
「それなら……、商店街で買っていけばいいわ。……バーサーカーにも買っていこうかしら」
「彼はああいった菓子の類は、あまり口にしないかと思うが」
「まぁ、そこは気持ちというものよ」
 先ほどまでの張りつめた雰囲気はどこへやら。中のいい姉妹のように話しながら、二人は二人の帰路へとついた。

 シヴァと別れ、衛宮邸に入った桜だったが、現在の時間と自分の家にいる彼のことを思い出す。玄関の扉を開けようとしていた凛を彼女は呼び止める。
「あの、遠坂先輩」
「何、桜?」
 振り返った彼女に、申し訳なさそうな顔をして桜は告げる。
「その、先輩のことはすごく心配なのですが、夕食の支度とかあって今日はもう帰りますね」
「珍しいわね。あぁ、なるほど。あの子を一人であの家に置いておくのは、ね……」
 凛は、昨日彼女が連れていた少年の存在を思い出す。どこか儚げのような、そうでもなく力強そうな。ついでに以前見たことがあるような、幼気な少年。時臣と同じように庇護欲が駆り立てられる彼を、あの間桐の家に置いておくのは危険だ。主に、間桐慎二や間桐慎二、ちょっとだけ間桐臓硯の存在があるのだから。ライダーとアサシンがいるとはいえ、心配なものは心配だ。
「えぇ。また明日の朝来ます。先輩に、よろしく伝えておいてください。それじゃあ」
 パタパタと駆けて行く桜を見送り、凛は今度こそ家の中に入ろうとする。今まで黙って士郎を背負っていたアーチャーは、いい加減自分の背中の荷物が鬱陶しくなったようだった。
「いつまで眠っているつもりだ、衛宮士郎」
ゆらりゆらりと気持ちよく揺られていた士郎は、ぺしりと額を叩かれ目を覚ます。
「んんっ……?」
 目を擦りながらゆっくりと瞼を開くと、そこに見えたのは不機嫌極まりないといったアーチャーの横顔だ。
「あ、アーチャー? って、あれ。俺、保健室で寝てたんじゃ」
 二、三度瞬きしたことで、自分の置かれている状況に気が付く。背中から降りようにも降りられない。凛は黒い髪を揺らして士郎を振り返る。
「それはもうぐっすりと。起こすのも悪いし、アーチャーに運んでもらったのよ」
「そう、だったのか。悪いな」
 士郎の言葉に、アーチャーは大げさにため息をつく。
「そう思うのなら、早く体調を戻すことだ。全く、寝不足で倒れるなど、期末試験前の学生ではあるまいし」
「分かってる、っていうか随分具体的な例えだな」
 士郎は、ねちねちと続いていきそうな小言を遮る。
「桜も心配してたんだから、早く元気になりなさいよね」
 凛が靴を脱いで家の中に入っていくと、士郎はアーチャーによって、玄関にぽいっと投げ捨てられる。強く腰を打ち、恨みがましく彼を睨む。だが、ここまで自分を運んでくれたという事実で、文句は言いにくい。
「ありがとな。その、運んでくれて」
 アーチャーはそれには何も答えず、士郎の顔面に彼の学生カバンを寄越した。見事にクリーンヒットしたそれを顔からはがす。やはりこいつには、一度文句を言わないと気が済まない。カバンを掴み、アーチャーの背中にぶん投げるため立ち上がると、士郎の胸に黒い塊が飛び込んでくる。
「シロウ! 吾輩は、お腹がすいたのであるっ!」
「ぐふっ……クロ……」
 弾丸並みの速さで士郎のお腹に直撃したクロ。クロは、テンション高めにそう宣言する。クロが飛び込んだ衝撃で尻餅をついている士郎に、セイバーが声を掛けた。
「お帰りなさい、シロウ」
「た、ただいま。セイバー」
 セイバーは、ご飯、と言って士郎から離れようとしないクロを摘まみ上げる。それに抵抗してじたばたと動くクロのせいで士郎に近づけずにいると、彼女の後ろからはひょっこりと茶色の髪が覗いた。
「おかえりなさい、士郎さん」
「ただいま、時臣」
 家にいるというのにしっかりとリボンタイを締めている彼からは、やはり優雅な雰囲気が滲み出ている。最初に出会った時に、凛と似ていると思ったのはやはり勘違いだったのだろうと心の中で思う。
「今、失礼なこと考えなかった?」
 エプロンを手に取っている凛が、顔を覗かせる。それを否定するため、士郎は大きく頭を左右に振る。訝しげに士郎を見ていたが、今日は問い詰めはしないようだ。
「そう……。まぁいいわ。とりあえず、士郎は休んでて。今日は、私とアーチャーで作るから」
 アーチャーに中華鍋を投影してもらおう、と言っていた彼女の足元にクロが近づく。
「む……。吾輩は、リンのご飯よりも、シロウのご飯が好きなのである。リンが作ると、全部赤い料理になるのだ」
「うるさいわね。そんなこと言うなら、煮干しだけ食べてればいいじゃない」
 猫は辛いものは苦手だ、と言い張るクロを凛は一蹴する。それに不満そうにクロは口をとがらせる。
「それは嫌なのだ。別に、猫は魚が好きなわけではないぞ。猫は魚が好きというのは、日本人の固定観念なのだ。クロは、魚よりもお肉の方が好きなのである」
「アンタ、本当に文句が多いわね……」
 今にもクロをしばきそうな凛を見て、士郎が立ちあがり彼女の手のエプロンを取る。
「俺が作るよ、遠坂」
 彼の言葉に凛は目を丸くする。そして、むっとした表情を見せた。
「士郎、さっきまでヘロヘロだったのに、よく言うわね」
 桜ほどではないが、士郎が倒れたと聞いてかなり動揺した。無理矢理でも昨日顔色の良くない理由を問い詰めておけばよかった、と後悔したのだ。
――こっちは心配してるってのに、本当にこいつは。
自分の心配も知らないで、と言いたくなるのをぐっと抑える。リンに続き、セイバーも士郎に顔を近付けながら、息巻いて説得を試みる。
「リンの言う通りですシロウ、私はいまいち何があったのかよくは知りませんが、無理は禁物です。美味しいシロウの料理が、もし二度と食べられなくなったら……。考えるだけで恐ろしい!」
 士郎の料理スキルが大河によって奪われた時のことを思い出し、セイバーは必死に訴える。今の彼女にとって、士郎のおいしいご飯が食べられなくなる、というのは死刑宣告に等しい物だ。
 女性人二人の説得も、士郎はうまい具合にかわしていく。
「大丈夫、さっき一成が横にいてくれて、かなり気分は良くなったし。一日、殆ど動いていないから、ちょっとぐらいは仕事しないとな」
「そこまで言うなら止めないけど」
 不満が残っている表情を隠しもせずに凛は言った。士郎はそれには気づいていないようで、冷蔵庫に残っているものを思い出して、士郎は献立を呟く。
「今日は、平目の甘酢あんかけかな」
 平目と魚の名前を聞き、凛は人の悪い笑みを見せて、クロに詰め寄った。
「あら、そこの黒猫は魚よりも肉が好きだったんじゃなかったかしら? それだったら、今日の夕飯んは要らないんじゃ……」
「シロウが作ってくれるのであれば、何でも美味しく食べるのである! 肉でも、魚でも!」
 士郎という部分を強調すると、クロは廊下をパタパタと走っていく。とりあえず、手洗いうがいをと士郎が考えていると、彼の横に時臣が寄ってくる。
「僕、手伝います。料理は、あんまり得意じゃないですけど」
「ありがとう、時臣」
 凛が彼を弟と称したが、こんな可愛らしい存在なら、自分の弟にもなってくれないかと思った士郎だった。
 
 料理があまり得意ではないと言った時臣の言葉は、嘘ではなかった。甘酢のあんと軽く油で揚げた平目と野菜を絡めるだけの、至極簡単な料理のはずだった。だが、現実はそう上手く行かず、主に時臣が四苦八苦することとなった。パプリカを包丁で切ればまな板から飛び、生姜を摩り下ろそうとすれば生姜が飛び。と、時臣がいた台所は、どうしてそんなにも食材が宙を舞うのか不思議な空間だった。彼が入った瞬間だけ、重力の法則が無視されたかのようになってしまうのだ。やっとのことで料理を終えた士郎は、底知れぬ疲労感に包まれることとなる。
だが、実際の味はセイバーや凛からは好評であった。それがせめてもの救いだというように、彼女たちからおいしいという声を聞いた時、時臣は心底ほっとした表情を見せていた。
そして、夕食の後の団欒の時間、テーブルの上の籠に入っているみかんを剥きながら凛が尋ねる。
「で、士郎。その寝不足の原因、分かってるの?」
 学校で一成と話したことを質問され、士郎は答える。
「ここ四日ぐらい見続けてる、夢が原因かな」
「夢ですか?」
 セイバーに聞き返され、士郎は頷く。
「誰かの生前の記憶。前、セイバーの記憶を見た時みたいな感じなんだ。すごくリアルで、眠ってる気がしないんだ」
 眠っている気がしない、という言葉にアーチャーが口を開いた。
「レム睡眠によって、脳が眠っていない状態が続き、限界を迎えたということか。全く、夢ごときで倒れるとは軟弱だな」
「……」
 否定したいが否定できない。恨めしそうにアーチャーを見るが、彼は素知らぬ顔をしている。
「誰かの記憶……。リンたちが出会った、新たに現界したサーヴァントの影響でしょうか」
 悪影響を及ぼすとすれば、それ以外の原因が思いつかない。だが、その仮説には決定的な穴がある。
「それも考えられなくはないけど。士郎がマスターじゃないから、可能性的には低いと思うわ」
 凛たちが考えている中、士郎の視線はテーブルの上で丸くなっているクロに注がれていた。黒セイバーと対峙した時に、自分と時臣を守るように現れた存在。その存在は確かにこの猫の中に存在している。だが、自分を守ると言った存在が自分に不利なことをするようには思えない。そうなると、原因は別にあるのだろう。
「まぁ、原因も大事だけど、対処も考えなきゃね」
 どうしようか、と考えていると毛繕いをしていたクロがするりと士郎の膝の上に乗る。
「対処法なら、士郎が誰かと一緒に眠ればいいのだ」
 ぴんと耳を立てて、自信に満ちた声で続ける。
「さっきその一成とやらがそばにいた時は、夢を見ずに眠れたと言っていただろう。誰かと一緒であれば、見ずに済むのだ」
「たまたまっていうことは無いの? そんな簡単に夢を見なくなるなら、それは手軽でいいと思うけど」
 あまり信じられていない様子に、クロは心外だというように続ける。
「クロはシロウのことで嘘をついたりしないのだ。シロウが倒れて、あったかいご飯が食べられなくなるのは困るのだ!」
 どうやら本気らしいということが、クロの必死さから伝わってきた。彼もセイバーと同じように、おいしいご飯が生命線のようだ。
そして対処法が見つかったのならば、誰が士郎と共に寝るかという問題が生まれる。同じ男性のアーチャーは、黙秘によって拒否している。セイバーと凛は、年頃の女性という問題が付いて回る。そうなると選択肢は自ずと一つだけになる。
「それじゃあ、僕が一緒に寝てもいいですか?」
 自発的に時臣は名乗りを上げた。
「士郎さんほどじゃないんですけど、ちょっと僕も緊張して眠れなくって。士郎さんと一緒だったら、よく眠れる気がするんです」
 いいですか、と首を傾げて尋ねる彼に、士郎はこちらこそ、と答えた。

 最低限の物しか置いていない士郎の自室は、布団を二枚敷いても随分と余裕があるものだ。自分は左側、時臣は右側に寝ることにして、二人は布団に潜り込んだ。
「誰かと一緒に眠るのって、すごく久しぶりです」
 少し嬉しそうに言う彼を見て、士郎は頬をほころばせる。
「俺もそうだよ」
 こんな風に布団を並べて眠るのは、切嗣が健在だったころ以来かもしれない。大勢で雑魚寝をしているのとは違う、どこか安心できるこの感覚はいいかもしれないと士郎は感じていた。
「士郎さんは、その、夢は、怖いですか?」
 時臣の窺うような声で、突然、自分に投げかけられた質問に士郎は少し考える。生々しい夢での描写は、気分のいいものではない。だが、怖いとは少し違う気がする。
「怖くはない、と思う。でも、悲しい夢なんだ」
 士郎が答えると、時臣はゆっくりと話していく。
「僕も、繰り返し見る夢があります。その夢は、怖くて、押し潰されそうになる。そんな夢……」
荘厳な気を持つ教会に、自分が一人で立っている。誰かに呼ばれたような気がして振り返ろうとすると、心臓に痛みを感じる。痛みによって歪んでいく視界の中で、眩しいほどの金がうっすらと映る。夢はいつもそこで終わっていた。もちろん、朝起きてしまえば心臓の痛みなどない。不思議な夢は、決まって彼が不安を抱えながら床についた時に見るものだった。
 夢を思い出した時臣が黙ってしまったのを見て、士郎は保健室で一成が口にしたフレーズを彼に向けて言う。
「でも、夢は現実にはならない。夢は、夢でしかないから」
 士郎の言葉で、緊張して張りつめていた時臣の空気がいくらか柔らかくなるのが分かる。
「そうですね」
 彼が短く呟くと、再び沈黙が訪れる。それは息苦しい物では無かった。
「あの、手を握ってもいいですか」
「うん、俺からも言おうと思ってた」
 布団から左手を出し、時臣の布団に近づける。彼の小さな右手を見つけると、そっと握る。
 暖かい。
誰かの温もりは、人をここまで安堵させるものなのだ。
 その夜、士郎は夢を見ることは無かった。ただ、温かい存在に守られる。そんな感覚だけが、彼を包んでいた。




 間桐雁夜となった少年は、以前と同じ学校に登校していった。この家に引っ越してきても学区が変わらなかった、というのは彼にとって幸いなことだった。学校側には、彼が養子となったことは伝えていない。雁夜のその容姿はただでさえ目を引くものだったし、以前の家庭環境が良いとはいえないものだったことも、面倒なことに
 家に帰宅し、ランドセルを自分の部屋に置きに行く。大きなこの間桐の家で自分に割り当てられた部屋。
「ここが、かつてのマトウカリヤの部屋だった場所……」
 殺風景な部屋だ。ベッドと机、小さな箪笥。家具といえばこの三つしかない。机に備えついている引き出しを見るが、何もそこには無かった。この部屋に、マトウカリヤがいたという痕跡は何一つ残っていない。それは少し寂しいようで。
「いや、当然か」
 小さくそう呟き、雁夜はランドセルを机の上に置く。ふぅと息をつき、彼は思いを巡らせた。

 雁夜は、幼い頃から「マトウ」という言葉を知っていた。その言葉は「彼」が最も嫌っていた言葉であった。自分は「彼」とは違うという意味でその言葉を嫌ったりはしなかった。いつか、自分は「マトウカリヤ」になるものだと気が付いていた。
 雁夜は、自分の中に眠る一つの記憶を知っていた。それが芽生えたのは、今から三年前。大病を患った時のことだ。何か月も彼は病院のベットの上で苦しんだ。熱にうなされ、体の痛みに呻く。自分の体が、他の誰かの物になったように、上手く動かない。それどころか、自分が今生きているのかさえ分からないほどの苦しみ。拷問のような毎日を過ごし、いつしか自分の死を望むようになっていた。死んでしまえば、この苦しみから解放されるのでは。それならば、いっその事、死んでしまいたいと思ったのだ。
 そんな中、高熱に悩まされ、自分が現実にいるのか夢を見ているのか分からなくなっていた夜のこと。雁夜は一人の男の夢を見た。ぼろぼろの体で、今にも死んでしまいそうな彼は、その体を奮い立たせ、前に進む。その後ろ姿は頼りない。だが、彼の瞳には強い意志が灯っていた。体が引き裂かれていようと、ただ一つの想いを胸に立ちあがる姿は、神聖なモノのように思えた。それを見た後、雁夜はほんの少しだけ、生きていたいと思った。あんな姿になっても、人間は生きられる。だったら、自分もまだ頑張れるのではないか、と思うことが出来た。それは、雁夜の失っていた希望のようなものだ。それから一週間後、彼の病は一旦落ち着きを見せた。
 意識がはっきりとするようになり、何か月かぶりに両親と話した日のこと。
雁夜はそれを視た。
否、思い出していた。前世の記憶という形で。
七年間という雁夜の生きてきた年月の記憶を押し潰そうとして、それは彼の中に流れ込んでくる。その中身は、幸せな記憶などほんの一部。後は全て憎悪によって埋め尽くされていた。
愛した人の幸せも分からずに。
自分の中の矛盾に満ちた想いにも気が付かず。ただ、一つの希望を求めて奔走した彼には何も残らなかった。
彼の一面だけの記憶ではなく、感情を交えた記憶を見たことでマリヤのその男への評価は変わった。
「ダメ人間」
 かつてのマトウカリヤに下した結論がそれだった。
殺人未遂、職務放棄、ストーカーなど他多数。七歳の子供が知るには、些か刺激の強いものを雁夜は視た。あれが自分の前世だというのは、かなり頭が痛い。頭だけでなく、心も痛い。だって、「俺のサーヴァントは最強なんだ」とか言っちゃうし。
兎にも角にも、彼はそれを視てあることを誓った。自分は、あのマトウカリヤにはならない。まぁ、なろうとしても、彼が執着した遠坂葵という人物は自分の前にはいないのだし、なれる気はしないが。それでも、彼が自分の家を、一人の恋敵を憎むようなことは自分はしない。もし彼らに出会ってしまったら、笑顔で笑いかけてやるのだ。あのマトウカリヤは理解できないような笑顔で。
 そんな雁夜の思惑は、ここ数日で現実となってしまったのだが。

 ガチャリと扉が開く音が聞こえる。間桐の家は広いが、人は数人しかいなく、部屋も閑散としている部屋が殆どのため、家の中の音は伝わりやすい。今の感じからして、玄関のドアが開いた音だと雁夜は判断する。自分の部屋のドアを開け、廊下に出る。そして、玄関を見渡せる踊り場にてってと小走りしていく。その間に、現赤んから入ってきた人物の声がする。
「桜、いるのか?」
「……誰だろ」
 聞き覚えの無い声が、自分の知る名前を呼んだことで、雁夜は疑問符を浮かべる。この家にいるのは、桜、ライダー、臓硯、アサシンの四人以外は知らない。それであれば、今桜の名前を呼んだのは誰なのだろうか。
 踊り場に着き、そこから玄関を見下ろす。そして、そこに立つ一人のワカメに声を掛ける。
「お姉さんなら、まだ帰って来てないけど」
「ん? お前……誰だよ。何、我が物顔でうちにいるわけ?」
 訝しげに見つめられ、言葉に詰まる。
「……」
 なんて説明しようかと考えるが、それ以前に自分が彼のことを何も知らないことに気が付く。まずは彼の名前から聞こうと思い、雁夜は玄関へ降りて行った。

 桜は彼女のサーヴァントであるライダーと共に、間桐の家に帰って来ていた。
「結構、遅くなっちゃった。兄さん、もう帰ってるかな」
「慎二なら、数週間放置していても、乾燥ワカメに変化するだけだと思うので大丈夫ですよ」
 表情を一切変えずに言うライダーの言葉に、桜も頷く。
「うん、それは分かってるんだけど、雁夜君が心配だから」
 慎二ではなく、あくまでも雁夜のみの心配と言ったところだ。彼女たちが台所の扉に近づいた時、中から何か声が聞こえてきた。
「やめろっ、何してんだよ」
「うるさいな、僕の言う通りにしてればいいんだよ」
「ふ、ふざけんな。あぁっ、ダメっ!!」
 その声が、自分の義兄である慎二と、義弟である雁夜のものだと気付いた瞬間、桜はその手にフライパンを構える。嫌な予感がし、桜は速攻で扉を開ける。そこにいたのはやはりというか、雁夜の襟元を無理やりつかんでいる慎二と、それを振り払おうとして頬を上気させている雁夜の姿があった。
 その様子に息を飲んだ桜は、無言で二人に近づいていく。
「兄さん、死刑です」
語尾に黒いハートマークを付けた彼女は、フライパンを手に取り、慎二に殴りかかる。
「おわああっ?! 桜、いきなり何するんだよ!」
 咄嗟に雁夜から手を離し、その一撃を避ける慎二。慎二の手から離れたことで、桜は雁夜を抱きとめる。
「大丈夫、雁夜君。私が遅くなったから、こんなことになってごめんなさい」
 桜の胸に押し潰されている雁夜は、何か言いたげにしている。だが、押し潰されているため、もごもごと動くことしかできない。桜は慎二を睨みつける。
「兄さん、見損ないましたよ。前から、見損なっていましたけど、今回はもう許すわけにはいきません。私の大事な弟に……。覚悟は出来ていますよね?」
「ちょっと待てよ、桜。いや、待ってください、お願いします」
 先ほどの一撃が自分にクリーンヒットしていたら、絶対にヤバいことになっていた。桜の一発を防がねばという一心で、彼は弁明を試みる。だが、彼女には届いていないようだ。
「何ですか。私は、兄さんが女の人以外でもいいということにも僅かながら衝撃を受けてるんですよ。まさか、小さい男の子まで……」
「だから、勘違いしてるんだよ! お決まりのパターンに完全に入っちゃってるんだよ!」
「最初から屑だとは思っていましたが、小さい男の子に手を出すほど屑だとは思っていませんでした」
 一向に自分の話を聞きそうにない桜にしびれを切らした慎二は、声を荒げる。
「だから、人の話を!!」
 聞け、という前に桜は自分の後ろに立つライダーに視線を送る。
「ライダー」
「えぇ、サクラ。久々に真っ向から慎二をぶん殴れるので、日ごろの憂さが晴れます」
 清々しい笑顔で、ライダーも前に出る。二人がポキポキと指を鳴らして近づいてくるのを見て、「あ、これ詰んだ」と自分の死を覚悟した慎二だった。

「一緒に夕飯作ってたんだ。まぁ、殆ど俺がやったんだけど。お姉さん、疲れて帰ってくるだろうからってお兄さんが」
 二人からの制裁、という一方的な暴力を受けた慎二が雑巾のように丸まっているのを横に、雁夜と桜は夕食の準備を進めている。桜の胸から解放された雁夜は、さきほどの慎二の行動を説明する。
「え……?」
 思いがけなかった事の真実に目を丸くする桜。雁夜は続ける。
「俺が出来るっていうのに、横から口出してきてたんだよ。お兄さん、えみやっていう人のことで、お姉さんは頭が一杯だろうからって言ってたよ」
「兄さん……」
 ただのワカメだと思っていた兄が、ほんの少しでも自分を気にかけてくれた。それが、くすぐったいようで、自然と微笑みがもれてしまう。そんな桜に、思い出したように雁夜が付け加える。
「それと、料理が出来る男子はモテモテへの一歩だとか何とか言って、俺にやり方教えろとか言って来たけど」
 それを聞いた瞬間、桜の表情が凍り付く。あ、これ言っちゃまずかった、と雁夜が思った時には、桜のフライパンがもう一度慎二に振り下ろされていた。

 あの男がどう思うかは分からない。それでも、桜が笑顔でいることが出来るようになったこと、それは雁夜にとって喜ばしいことであるのに違いなかった。記憶の断片で見た彼女は、希望を失った目で世界を見ていた少女であったからだ。そんな彼女が笑える今の子の世界は、幸せな世界なのだろう。
 温かい味噌汁を口にして、雁夜は小さく微笑みを漏らした。


 
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