暗闇の廃病院の中はほんのわずかな月明かりと、双葉の持つ懐中電灯しか光がない。
廊下には壊れた医療器具、錆びれた自転車、首のない人形などが散らばっている。医療器具以外は、遊び半分で入った若者たちが持ちこんだ残骸だろう。
銀時が双葉の後ろにくっついて歩いてから数十分くらい経つが、何も起こらない。いや、何も起こらない方がいいんだが……。
“カサカサ”
「!」
と願ったとき、廊下に小刻みな音が響く。小さな影が銀時たちの足下を横切った。
双葉はそれを懐中電灯で追い、謎の影を照らすと――
“ヒヒヒ”
一つ目のクモのような紫色の生物が、不気味な笑い声を上げて素早く角を曲がった。それを目撃した銀時の声がひっくり返る。
「ななななななんだありゃ?!」
「突然変異だろ。天人どもが来たせいで、地球の生態系が狂ってるそうだからな」
ビクつくどころか冷静に分析する妹に、銀時は別の意味で驚愕した。
「はぁ!?お前それだけ?それだけか?」
「何が?」
双葉の態度に銀時は口が引きつった。
全く変化しない表情からは真意が読み取れない。
本気で怖くないのかそれとも……。
「ハハハ。やせ我慢してんだろ~。やめとけやめとけ。『怖い』って言っていいんだぞ。飛びついたっていいんだぞ。俺のそばにいろよ」
「ぜってーヤダ」
無表情に即答し、双葉は銀時を置いて歩いて行く。
自分の胸に何かがグサリと刺さったのを感じつつも、慌てて先に歩く双葉を呼び止めた。
「ちょっとォォォ!『ぜってーヤダ』ってなに?!俺今スッゲー傷ついたんだけどォ!!んな、やせ我慢は身体に毒だよ。それでもいいんだったらもういいよ!お前だけとっと行けよ!!」
「そうか。兄者、気をつけて帰れ」
双葉と銀時の距離がさらに離れる。唯一の灯が遠ざかって、銀時の周囲は暗くなり始めた。
「待ってー今の嘘!嘘だよ!!双葉ちゃんお願い、歌うたってェ。俺がココから出るまで歌い続けてェ!!」
前にもこんなセリフを言ったようなデジャブを感じながら、離れていく妹に叫ぶ。
そんな銀時の頼みを聞き入れたのか、双葉は立ち止まった。
そして――
「♪コンコン コンコン 釘をさす」
「……え?」
深く沈んだ歌声が廃病院の闇に溶けていく。
しかも低音――アルト調なので余計暗さが増す。銀時の背筋に寒気が走った。
「♪コンコン コンコン 釘をさす 藁人形が笑ってる コンコ「やめてェェェェェ!何その歌スッゲー怖いんだけどォォォ!ゴミ捨て場で神楽が口ずさんでたのより数千倍怖いんだけどォォォ!『♪』なんて可愛いマークとミスマッチじゃァァァァ!!てか何だよその歌ァ!?」
「山崎ハコの『のろい』」
「なんつーとんでもねェ歌うたってんだぁ!?空気読め空気!!ギャグで流れる歌じゃねェっての!」
「何を言っている、兄者。『のろい』は国民的アニメ「ちびまる子ちゃん」で流れた歌だぞ」
「なぬぅ!……とにかくそんな歌ダメ。別の歌。それ以外ならなんでもいい」
少し考える素振りをして、双葉は口ずさんだ。
「♪大江戸は~自殺する奴がい「やめろォォォ!!何ちゅうネガティブな歌選曲してんの!!もういいよ。お前といると余計怖ェから。マジどっか行って」
「そうか。兄者、頑張れ。来世でな」
「コラァァァァ!来世ってなんだ?俺このあとどうなるのォ!?嘘嘘嘘ォォォ!双葉ちゃんどっか行かないで!!一人が一番怖いからァ!俺のそばにいてくれー!」
「ぜってーヤダ」
「なんかループしてるゥゥゥ!これってデジャブ?地獄の無限ループだァァァ!!」
こんなやりとりが数回繰り返される。
それで一人で帰れるはずもなく、結局銀時は双葉と一緒に奥に進むしかないのだった。
* * *
あれから何度か帰ることを遠回しに勧めたが、双葉は入る前に見た老婆が気になるらしい。
真夜中の廃病院に妹を一人残して帰ることもできない。というより、怖いから銀時は一人じゃ帰れない。
「コラ!怖くねェつってんだろうが!!」
「兄者、誰と話している?」
「あ、いや電波が……」
「は?」
“プルルルルルル
プルルルルルル”
突然、廃病院に電子音が鳴り響く。ドクンと銀時の心臓が跳ね上がる。
二人は音のする方へ行くと、ある個室の机の上に電話を見つけた。
電子音に合わせて電話のランプが光っている。
「で、電話!?なんで鳴ってんだ?おかしいだろ。ココ廃病院だぞ」
「確かにそうだな。知らないで掛けてきたのかもしれない」
「へ?」
銀時が聞き返す前に、双葉は何の躊躇いもなく受話器を取った。
「取んなァァァ!」
「おい、お主間違っているぞ。ココは十年前から閉鎖されている廃病院だ。助けが欲しいなら119番にかけ直せ」
廃病院の電話と真面目に話している。
相手は誰であれ、それはある意味スゴい姿だ。銀時の口はぽっかりと開いたまま塞がらない。
「落ち着け。聞いているのか」
「どうした?」
「かなり錯乱しているようだ」
双葉の耳から離れた受話器を銀時は手に取ってみる。
もしかしたら本当に間違い電話かもしれない。いくら無表情無感情な双葉でも、不気味な電話だったら動揺するはずだ。
そう考えながら、銀時は恐る恐る受話器を耳に当てた。
【…助けて…助けて…【苦しいよ痛いよ痛いよ】【キャー【グエッ】…だずげで………オマエモミチズレ】
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
受話器は銀時の絶叫と共に勢いよく投げ捨てられた。強い衝撃を受けた受話器からは、もう相手の声は聞こえない。それでも電話の悲鳴が耳に残り、荒い息が止まらなかった。
「兄者まで錯乱してどうする」
「錯乱せずにいられるかァァァ!怪奇ボイスのオンパレードじゃァァァ!!お前こんなのと話してたのかよォォ!!」
一人喚く銀時を半ば呆れた様に冷めた眼で眺め、双葉は深々と溜息をもらした。
「……やはり兄者は帰った方がいい」
「一人で帰れるか!大体よぉなんで俺ばっかビ、ビビ……決めたァ!オメェのビビり顔見るまで絶対ェ帰んねーからな」
銀時はビシッと双葉を指差して断言した。
カッコよく決めているつもりらしいが、言っていることは何とも情けない。そんな外見と中身がミスマッチしている銀時の主張に、双葉は少しはにかんだ笑みを見せた。
「なら二度と帰れないな」
「なんだ。その余裕っぷり超ムカつくな。チクショー次行くぞ!」
「この先で失神するなよ。背負って帰るのだけは御免だ」
「誰がブッ倒れるかァ。俺の心にはバズーカあんだよ。悪霊退散できる威力持ってんだよ。それで一発ブチこんでやるよ」
幽霊って実体ないだろ、と直後に双葉のツッコミが入ったのは言うまでもない。
次に出くわした怪現象は『血だらけの階段』。
血まみれ階段の暗闇から、子供の不気味な笑い声が聞こえる。
「コレ!」
「声だけではな。しかし姿も見せないとは臆病で情けない腰抜けな奴だ」
「………」
何か言ってやりたいが、言葉が出てこない。口を噛みしめて先に進むことにした。
「次!」
お次の階は廊下の窓の外に出現した。
赤い人魂と舌をベロベロ出して眼がイっちゃってる物体が空を浮遊している。
完全にお化けとしか思えない。銀時は逃げたいくらいだが、「フラフラ飛んでるだけか」と双葉は冷静に見つめて呟くだけだった。
「可愛い……」
「あ?」
「いや、なんでもない」
「……次!」
そのまま歩き続けようとした。
だが、非常階段に通じるドアの下で、黒い『何かが』うごめいた。
銀時の心臓がドキリと高鳴り、足が止まる。何事かとソワソワしていると、双葉の懐中電灯がうごめく正体を照らした。
「なっ!」
それは歪んだ形相の洋風人形だった。
手にするエグいナイフが懐中電灯の光によってキラリと輝く。
「チャイルドォォォォォォォォォォォォ!?」
【ハァーーイ♪待ってたよ~】
裂かれた口を目元まで引きつらせ、洋風人形は坂田兄妹へ刃をむき出しに突進してきた。
そして跳躍。銀時に鋭いナイフを向ける。銀時は反射的に腕を顔面に据えるが、それでは攻撃を防ぎきれない。
その様を見た洋風人形の口元がさらに歪み、ナイフが振り下ろされ――
“バコッ”
人肉を引き裂く代わりに、別の音が廊下に響いた。
疑問に思いながら目を開けると、洋風人形を踏みつけている双葉が映った。銀時に飛びかかった瞬間に蹴り落とし、そのまま身動きをとれないようにしたらしい。
その足でグイグイと押さえつけ、双葉は洋風人形を見下ろした。
「おい、ガキ。そんな見かけ倒しのナイフで何がしたいんだ。あと『待ってた』と言ってたが、いつからだ?少し前からか?まさか、私たちがここに来るまでずっとそこで座っていたのか。くだらない。
お主、待っているだけでは何も始まらないぞ。待つだけの人生は何も生まない、空っぽで退屈だ。何より待っている間の時間が無駄だ。無駄にするくらいなら、私は誰かを堕としに行くな。これ以上お主が時間を無駄にするなら、私が有効に活用しよう。さぁ、どんなふうに堕とそうか」
マシンガンの如く降り注ぐツッコミは、洋風人形に弁解する隙すら与えなかった。
軽やかな口調とは裏腹の双葉の黒い笑み。そのギャップのせいで、洋風人形より怖く感じる。
『堕とし方』をあれこれ語り始めた頃、ようやく銀時のツッコミが入った。
「コラァァァァァ。チャッキーになに長ったらしい説教してんだ。つか最後のってお前の願望だろーが。子供相手に大人気ねェよ」
「大人がガキの指導をするのは当然のことだろ。兄者は怠り過ぎだ」
「何言ってやがる。いざって時は無垢な子供を汚らわしい大人の階段へ導いてるだろ。理想と現実は違ェってことを教えんのが大人の役目だ」
「その前にコレは人形だがな」
『人形』。
そう、チャッキーはホラー人形なのだ。子供相手に説教とか言ってる場合ではない。
「つーか、これチャッキーだよ。あのチャッキーだよ。チャッキー知ってる?」
「知っている。自分の顔があまりに醜いから、美人を妬み襲っている惨めな人形だろ」
「全然違ェェェェェェェェェ!!それ見た目だけで連想したお前の勝手なイメージ!チャッキーはな、殺人鬼の魂が乗り移った人形だって。さっきみてェにズガズガ襲ってくだんよ。怖ェだろ」
「というよりここまで酷くひん曲がった顔を見ると哀れさを感じる」
ホラーに容姿求めてどうする、と言い返そうとした時……すすり泣く声が廊下に響き渡る。
銀時は目を丸くして、泣いてる本人を確かめた。そう、泣いていたのはさっきまで置いてきぼりにされていたチャッキーだった。
【グスン、グスン。……俺だって、俺だって好きでこんな顔になったんじゃないやい】
「あれ?チャッキー泣いてる?」
不気味な笑みは依然として変わらない。
だが頬にはいくつもの水滴が流れ落ち、顔はくしゃくしゃに濡れていた。加えて駄々っ子のように泣いてる。もはやホラー要素は一切なし。
【別にキ○タクみたいなツラに憧れてなんかねーよッ】
そう涙にまみれながらチャッキーは走り去り、悲痛な泣き声も暗闇に消えていった。再び廊下には銀時と双葉の二人だけになった。
「結局妬みか!お前そんな理由で人襲ってたのかチャッキィィィィィィ?!」
恐怖もかけらもない、ただの泣き虫になってしまったチャッキー。
そんな姿にさせた張本人の感想は、ただ一言。
「露骨だな」
「それだけか!」
=つづく=