東京百物語
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ゆり
二本目★
…また、だ。
「次何だっけ?」
ゆりは青ざめた顔をあげた。
「民法だよ~」
ガラス張りの渡り廊下を、ゆりは山下と坂田と前川の友人四人で一緒に歩いていた。
その、窓にうつった四人の顔。微笑む友人三人に比べて、一人だけなんと強張っていることだろう。皆が楽しそうに話す声は、ゆりのカラカラに乾いた皮膚の上を滑る。
ゆりの顔は、まるで死の崖縁を覗き込む亡霊のようだった。それはある意味当然のことかも知れない。ゆりは最近夜もあまり眠れていないし、食べ物も喉を通らない。肌なんて生まれてこの方見たことがないほど荒れている。
大学は広い。教室も、廊下も。真っ直ぐで無機質な廊下。ゆりの後ろには誰もいない。そう、誰もいない、のに…。
ゆりはおそるおそる振り返った。
誰かがゆりを見ている気がする。いや、見ている。確実に見ている。じっと、ねっとりと。その視線だけを感じる。そうだ。視線、視線、視線視線視線…。
「…ゆりちゃん?」
ゆりははっと顔を上げた。心配そうにゆりの顔を覗き込む山下、いつも一緒にいる坂田と前川…。皆が訝しげな顔でゆりを見ている。
「ねぇ、ゆり今の話聞いてた?」
眉を顰めた坂田がぶっきらぼうに言う。
「…ごめん。何だっけ」
ゆりは素直に謝った。
「いや、話は別に良いんだけど…ゆり、さぁ…何かあったの?」
おそるおそると言った風に口を開いたのは前川だ。頬の横で姫カットにした艶やかな髪をくしゃりと掻き上げ、困惑したように言う。
「いや、ええと、最近元気ないから、さ…」
ゆりが答える前に前川が弁解するように自分で言った。それは前川以外の二者も同感なようで心配するような目でゆりを見ている。
「特に何も無いよ…」
いや、それは嘘だ。何もなくなんてない。それはここにいる三人にもわかっているだろう。いつも共にいるのだ、わからないはずがない。優しい友に心配を掛けてしまっているのは心から申し訳ないと思う。でも、幽霊だなんて…ゆりには何をどう話したら良いか、全くわからないのだ。ゆりはただ曖昧に微笑む。そんなゆりを見て、三人は困ったように顔を見合わせた。
夜、家に帰ってもゆりの心は晴れなかった。電気をつけ、靴を脱ぎながらベットの上に腰掛けふうと一息つく。その時だった。
(コン、コン)
部屋に響く音があった。
…ノック?
ゆりはじっとドアを見詰めた。音は玄関のドア向こうから聞こえる。人が来たのだ。出なければ…。でも、何かがゆりに「違う」と囁く。
違和感の正体はすぐにわかった。ゆりは、時計を確認する。短針が指すのは十一。つまり、今の時刻は深夜二十三時。よく考えずとも、誰かが訪ねてくるような時間ではない。そして近くに、こんな夜遅くにゆりの家を訪ねてくるような気安い友達は住んでいない。
しかしノック音自体を気のせいだと思えば思い込めるほど小さな音だった。
少しの間ゆりは逡巡してから、そっと部屋の電気を消した。咄嗟に居留守を使おうとの考えだった。
女子の一人暮らしは色々と用心しなければならない。先ほどのノックが聞き間違いでなかったとしても、こんな時間に家を訪ねてくる人間が常識を持った人の筈がない。
そう決めつけて、ゆりは息を殺してやり過ごす。
三十分ほどそうしていただろうか?もういいだろうと、ゆりは電気をつけて、テレビのリモコンにも手を伸ばした。しかしその電源を入れる直前だった。
(コン、コン)
嘘…!?
ゆりはそれとわかるほど震えあがった。
即座に電気を消すと、気のせいだ気のせいだと言い聞かせながら布団を被り眠ろうとした。眠れる訳もなかったが、その夜はそれ以降ノックが聞こえてくることはなかった。
そして当然、次の日ゆりは寝不足だった。
(ねむ…)
ゆりはあくびを噛み殺しながら一日を過ごし、家に帰ってきた。今日も、帰宅時間は二十三時。眠さに襲われているゆりは、昨日の恐怖をもう忘れていた。
いつものように家の電気をつけ、ベットに座る。このまま眠りたいぐらいだ。実際、ゆりはうとうとと舟を漕いでいた。
(ガチャ)
突如大きい音が響いた。ゆりは眠気も飛んだ勢いで顔を上げた。大きく開かれた瞳で、入り口を激しく凝視する。
ドアは、開いていない。
けれど今の音は、ドアノブが、外からまわされた…音だ。
そして嫌なことに気づいてしまった。
ゆりのアパートは、ドアの横が大きな窓になっていて、磨りガラスなので向こうに人が立っていれば黒い影として見えるのだ。
絶対にあるはずのその影が、ない。今日も、そして昨日も。誰もいないのに扉が鳴り、ドアノブがまわる。
足音、足音は…した?いいえ、来る足音も去る足音もしなかった。
では一体何が、昨日ゆりの家の扉を叩き、今またドアノブに手をかけたのか。
昨日はノック、今日はドアノブ…それなら明日はどうなる?
もう限界だった。ゆりはこどものように膝を抱えて泣き始めた。
老婆は思いつめたような顔でこちらに歩いてくるゆりを見つけると、不揃いの歯を覗かせてにやりと笑った。
「来ると、思っていましたよおおおおおおお」
「本当に祓えるの」
ゆりはぶっきらぼうに言った。この老婆が怪しいのはわかっている。しかし、今は藁にでも縋りたい気分だった。
「もちろん、祓えますともおおおおおおおお」
老婆はしたり顔で頷くと、ゆりをどこかに誘おうとした。
老婆のにやにや笑いが気持ち悪い。でももうゆり自身にはこれ以上どうしようも出来ない。ついていくしかないのだ、ここまで来たら。ゆりは今日、大学へ行かず電車に乗って真っ直ぐ新宿を目指した。これ以上、一分だってこのわけのわからない幽霊に苦しめられたくない。いつぞやの夜、この老婆は言っていた。このままでは、ゆりは死ぬと。死にたくない。この苦しみから、どうにかして逃げ出したいー…。
「ゆりちゃん!」
ゆりははっと振り返った。雑踏の中、そこにいるわけのない人がいた。友人の山下が、人波を掻き分けて一目散に走ってくる。その後ろには、憧れの青山もいる。目の前の老婆が苛立たしげに舌打ちをした気がした。
ゆりは動揺しながらも一歩、駆けてくる山下に向かって踏み出す。
「山下、あんた、どうして…授業は…」
「みんな、が、ノートとって、くれてる…っはぁ…」
山下は膝に手をつき息を整えると、きっと顔を上げた。今まで見たことがないぐらい真剣な顔をしている。怒られる!ゆりは咄嗟にそう思いぎゅっと目を瞑って首を竦めた。
「おばぁさん!」
しかし山下はもの凄い勢いで老婆の手を掴んだ。
これまたゆりは焦った。山下の怒りはゆりではなく老婆に向かったのだ。いくら怪しくても老婆がゆりの最期の頼りの綱であるのは間違いない。ここで大学に連れ返されるのも、老婆の機嫌を損ねてやっぱり除霊をしないと言われるのも困る。
「山下…」
「おばぁさんっ、宜しくお願いします!」
止めようとゆりが山下の腕にかけた手は、その予想外の言葉にすっと力が抜けた。
山下は鬼気迫る顔で老婆の手を握りしめている。
「ゆりちゃん最近本当に元気がないんです。あたし達じゃゆりちゃんが苦しんでいるのになんにも、なんにもしてあげられなくて…。だから、どうか、宜しくお願いします!ゆりちゃんを助けて下さい。お願いします!お願いします!」
山下は何度も何度も頭を下げた。いつの間にか青山がゆりの横に立ち、その肩に優しく手を置いていた。その温もりに思わずゆりが青山を見上げると、青山はふわりと優しく微笑んだ。ゆりの頬に流れだした涙を、ターコイズブルーのハンカチでそっと押さえてくれる。青山のハンカチからはお香のような品の良い香りがした。ゆりはくしゃりと顔を歪めて、涙と共に押さえきれない嗚咽を漏らした。憧れている人の前で、女らしさとはかけ離れた顔をしている。けれど二人の優しさがゆりの心に染みて、取り繕うこともできない。迷惑はかけられないと思いながらも、本当は誰かに頼りたかった。助けてと言いたかった。辛かった。ずっと。
「…やれやれ…」
暫くすると、老婆は眉根を寄せ根負けしたように肩を竦めた。生真面目に頭を下げる山下に向かって、やめろとでも言うように手をひらひらと振った。
「女の子がそんなコメツキバッタみたいにペコペコするじゃないよ」
「でも、でも…っ!」
「わかった。あんたらの気持ちはわかったから…はぁ。…いいカモだと思ったんだが」
小さい声で老婆は何かをブツクサ言うと、ついてくるよう言い置いて歩き出す。
「ゆりちゃーん?」
自分の名を呼ばれてゆりは立ちすくんでいたことに気がついた。老婆と山下はとうに遙か先にいた。慌ててきょろきょろと周りを見れば青山が一足前に立っていて、行こうとでも言うように微笑んでいる。
ゆりは涙を拭いながら、そっと足を踏み出した。
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