その魂に祝福を
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魔石の時代
第三章
世界が終わるまで、あと――1
前書き
新章開始。盗み聞き編。あるいは邂逅編。
1
これはリブロムに記されたかつての自分の物語。その始まりであり、滅んだ世界の終わりの記憶である。
新世界が始まってしばらくの間。自分は世界各地を転々としていた。
各地に残された魔物の排除や救済。自らの使命を果たすための手段の捜索。そして、世界の復興。目的はいくらでもあったが――問題があった。もちろん、どこを見回しても問題と障害しかないような有様だったが、それとは別だ。
具体的に言えば、自分の右腕。マーリンの魂を受け継いだその腕は、その結果彼と同じ異形の腕へと変化していた。とはいえ幸いマーリンを……かつて世界を救った彼を苦しめた老化の呪いは自分には生じなかった。その理由は、いくつか思いつく。もっとも、確証を得る事は出来なかったが――それでも、これはジェフリー・リブロムの加護だと信じている。意志の力で、自らの肉体を作り変えた彼の力は、今もこの身体に残っている。自分が望む限り、この姿を保ち続けるだろう。
とはいえ、この右腕は問題だ。何せ、これは世界を滅ぼし、牛耳った悪名高い『マーリン』の右腕なのだから。マーリンの人相は知らずとも、この腕は有名すぎる。迂闊に人里に近づこうものなら、死に物狂いで逃げられるか――最悪、玉砕覚悟で攻撃される。まずはこの腕を誤魔化す必要があった。
もっとも、それ自体はさほど難しい事ではなかったが。何せ、自分には全ての魔法が記された魔法大全が宿っている。もっとも、今は忘却を防ぐべく『奴ら』の知恵と力もろともに右腕の奥深くに封じ込めているが――ああ、そうだ。これもいずれ何らかの形でどこかに記憶しなければなるまい。歴代ペンドラゴンが受け継いできた人類全体の『知の総体』であり、生の痕跡……いわば希望だ。自分もこれを誰かに語り継がなければならない。その方法も、一つだけ構想があった。それはいずれ形にするとして――今はまずどうにかして右腕を誤魔化さなければならない。そして、言うまでもなくその方法はあった。
幻惑魔法を応用する事で、右腕をただの魔法使いの腕に見せかける事に成功した。この後に改良を加え――偽装魔法と呼称を変えたそれは、触れられても分からない程になる。自分の永い生涯の中で、最も多用した魔法だろう。このおかげで、人間にまぎれて生活する事が出来るようになった。
それが、新たな出会いへと繋がっていく。
魔物の排除と救済をしながら世界に点在する小さな隠れ里を巡っていると、そこで彼女達と出会った。
信仰組織――いや、救済組織サンクチュアリ。
世界の終わりを生き延びた唯一の魔法結社。その組織は、どうやら自分の噂を聞き付けてきたらしい。『マーリン』の瘴気が消えた頃から、妙に腕の立つ魔法使いが魔物を排除、救済しながら各地を転々としている。そんな噂になっているようだ。
やれやれ、右腕を隠しておいて正解だった。下手に『マーリン』の腕など見られれば、延々と追い回される羽目になっていたに違いない。折角自由の身になったのだ。逃亡生活に逆戻りは遠慮したい。それに、そんな事になったら自分の使命を果たす事も難しくなる
だろう。もっとも、この時点での偽装魔法はあくまで幻惑に過ぎない。それも、大して質のいい幻惑ではない。触れられればそれで終わりだ。……とはいえ、そんな緊張もそれほど長くは必要なかったが。
これは、その理由となった出会いについての――その最初の記憶である。
構成員に案内されたのは、サンクチュアリの総本山だった。もっとも、鬱蒼とした森の中に、今にも壊れそうな粗末な小屋が立ち並ぶそこは、自分が育った――今まで見てきた他の隠れ里と何が違う訳でもなかったが。それも当然だ。大きな集落を作れば、マーリンに狙われる。案内してくれた構成員によれば、少しでも生存率を上げるよう、小規模な集落を何ヵ所かに分散させているらしい。あまりにもちっぽけな抵抗だが――そのちっぽけな抵抗こそが旧世界が滅んでから数百年間、人間が生き延びた理由なのだろう。
そこで、自分はゴルロイス……今代のゴルロイスと謁見する事となる。驚いた事に、今代のゴルロイスは女だった。いや、それ自体は驚くべきことではない。ただ、彼女は自分よりもまだ若い少女だった。
「先代のゴルロイス様は、若くして魔物に襲われ亡くなられましたから」
聞くところによると彼女は、先代ゴルロイスの妹の子であるらしい。ゴルロイス自身の子は、集落が襲撃された際――つまり、ゴルロイス自身が命を落とした襲撃の際に、行方不明となったらしい。結果、唯一残ったゴルロイスの血統が彼女だったという。
「あまり良い事ではありませんが……」
愁いを帯びた顔で彼女は言った。やはりゴルロイスの血筋というのは、重要な意味合いを持つらしい。
本当に必要なのは血筋や身分ではなく、意志である。ゴルロイスという名前と共に受け継がれてきたその信念こそが本当に必要なのだ。今度はただ神に祈るのではなく、人の想いを――希望を未来へと繋いでいく。それが私の使命だと。彼女は、そう言った。
それの言葉を聞いて、自分は安堵していた。あるいは、右腕に宿る恩師とその相棒の安どだったのかもしれない。
世界が終わったとしても、受け継がれる意思はある。今ここに、確かにあると。
二十一代目ゴルロイス――エレイン・カムラン。彼女がその『名』を継いだのは偶然だったのかもしれないが……それでも、彼女の意志は今もなお生き続けていた。
2
ついに管理局に感づかれた翌日。窓越しに陰鬱な曇り空を見やり、私はため息をついた。アルフと光は、使っていない空き部屋で何かしている。私も手伝おうとしたけれど、力仕事が主だからという理由で断られてしまった。
(どうしちゃったのかな……?)
光の様子がおかしい。他にも憂鬱の種には、事欠かないが――今一番気になる事はそれだった。何か、いつも妙にピリピリしている。管理局がやってきたから。原因はそれだと思うのだが……。
(ううん。そうじゃない)
おかしくなったのは、もっと前――温泉郷でジュエルシードを封印した時からだ。あの時から、少しずつ何かがおかしくなり始めた。妹さんを傷つけた事を怒っている訳ではない……と思う。少なくとも、私達に対する態度が変わったと言う事はない。むしろ、今まで以上に気遣ってくれている。なのに、時々妙に怖く感じる。
優しくしてもらえばもらうほど。
母のように、ある日突然豹変してしまうような気がして。
(母さんは研究が忙しいだけ! 光も、管理局が来たから警戒してるだけなんだ)
自分ひとり騙せないような嘘を自分に言い聞かせる。と、洗い終わりを告げる洗濯機のアラームが響いた。二人の気配がそちらに移動するのが分かる。
「やれやれ。そう言えば今日は曇りだったな……」
「イヤだねえ。鬱陶しくて」
「それもそうだが……。これじゃあ、洗濯物が乾かない」
「……いや、やってもらってる以上文句は言わないけどさ。アンタって、何か妙なところで所帯染みてない?」
「放っておけ。というかだな。仮にも女なら自分の下着ぐらいは自分で洗おうとは思わないのか?」
「いいじゃん別に。見られたからって減るもんじゃないんだし」
「……まぁ、お前らしいと言えばお前らしいか」
そんなやり取りをしながら、洗濯かごを持った光とアルフが戻ってきた。ここ最近で、すっかり見慣れた光景だった。……この世界に来てからの、私の日常。それがそこにあった。それは、何も変わっていないのに。
(でも、リニスだって突然いなくなっちゃったんだ……)
ずっと続くと思っていた日々は、ある日突然、何の前触れも無く終わってしまう。そんな事は、嫌というほど知っていた。
「…――ト。フェイト?」
「え?」
どうやら、しばらく呼ばれていたらしい。気付けば、目の前に光の顔があった。
「どうかしたか?」
「な、何でもないよ?」
「だが、泣きそうな顔をしている」
慌てて目元に手をやって――自分の失敗に気付いた。これでは、泣きそうだったと言っているようなものだ。
「あの、本当に……っ!」
わたわたと言い訳でもするように――誰に何を言い訳すればいいのかもよく分からないまま、言葉を探す。
「大丈夫だよ」
そっと頭を撫でられた。本当に、本当に泣きそうになった。いや……少し耐えきれなかったのかもしれない。頬を何かが滑り落ちていく感触を覚えた。
「大丈夫だ。確かに厄介事は増える一方だが……まぁ、今までの事を思えば、これくらいはまだ平気だよ」
苦笑でもするように、光は言った。根拠などあるとは思えない。けれど、不思議と大丈夫な気がしてきた。無条件に信じてしまえそうな、不思議な感覚。昔、それと同じような感情を抱いた事がある。例えば母さんであったり、例えばリニスだったり――…。
「色々あったからな。少し疲れているんだろう。少し眠るといい」
彼は本当に魔法使いだった。魔導師というものがどういうものかまだ知らなかった頃。絵本で読んだ魔法使い。どんな問題も、杖の一振りで解決してくれる優しい魔法使い。その一言で、意識が軽くなる。ふわふわと浮かび上がって、夢の世界へと逃げ込んでいく。
「おやすみ。きっと大丈夫だから」
ああ……。知っているのに。分かっているのに。
杖の一振りで何でも解決できる。そんな都合のいい『魔法使い』なんて、どこにもいない事くらい。
3
光がフェイトを寝かしつけてからの事だ。
「こんなもんでいいのかい?」
「ああ、上等だ。即席としては申し分ない」
アタシは光の指示のもと、使っていない小部屋の四方に何だかよく分からないガラクタを配置し、それを繋ぐように奇妙な文様で魔法陣らしきものを描いていた。その染料は……まぁ、例によってとでも言うべきか、光の血だった。相変わらずグロい魔法を使おうとしているらしい。
「物欲に乏しいあの子に助けられたな」
魔法陣に魔力を注ぎながら、光が苦笑する。今この部屋には、光が用意したがらくた――本人いわく供物とやら――しか置かれていない。備え付けてあった家具は、近くの物置に放り込んである。そんな事が出来るのは、ひとえに物がないからだ。その気になれば、もっと色々と買い揃えられるだけの予算はあるのだが――フェイトが欲しがらない以上増える訳もない。と、それはさておき。
「これは?」
展開された魔法は――アタシの感覚からすれば、結界のようだった。実際、通常空間と隔離されているのは間違いあるまい。だが、この空間はただの結界ではない。妙な殺気が漂っている。
「訓練用……供物の試し撃ち用の異境だ。元々は偽典リブロムに付加させた『記述』の一つだが、それに少し細工して異境として再現した」
「訓練用って……。何でそんなもん今さら必要なのさ?」
光は、クロノとか言う執務官を特に苦も無く一蹴して見せた。というより、彼の妹が止めに入らなければあのまま殺していただろう。まさかあれが本気だったとも思えないし、今さら秘密の特訓が必要だと言う事もあるまい。
「色々と事情があってな」
だからその事情ってのは何なのさ――問いかける前に、総毛立った。温泉宿で感じたあの『恐怖』に本能が悲鳴を上げた。
「早く立ち去れ。でないと……」
この結界――いや、異境とやらの効果なのか、巨大なネズミのような化物が、次から次へとわき出てくる。それを見据え、光は……光の姿をした怪物は嗤っていた。
「今夜の夢見が悪くなるぞ」
ああ、確かに夢見は悪そうだ。その怪物は、ネズミの化物どもを端から斬り捨てていく。妙にリアルな血の匂いに思わず吐き気がした。狼であるアタシが血の匂いに怯えるなんて、全く悪い冗談だ。その怪物の視界に入らないように、慌てて周囲に結界を張る。本能は、今すぐここから逃げ出すべきだと叫んでいた――が、
(それはダメだ。何が起こっているか見届けないと……っ!)
最悪、フェイトに危害が及ぶかもしれない。この半月ほどで少なからず信頼を寄せる様になったこの魔導師が、アタシと同じように――あるいはそれ以上に彼を信頼している主を傷つけるところなど見たくはない。そのためにも、見届ける必要がある。
……――
「何だ、まだいたのか?」
それからどれくらいその殺し合い――いや、一方的な殺戮劇を見ていただろうか。光が動きを止め、のろのろとこちらを見ていった。どうやら、正気に戻ったらしい。
「当たり前だろう」
それは本当に光か? あの怪物ではないと断言できるか?――そんな恐怖を飲み込んで、何でもないように告げる。完全に人間の姿になっていて良かった。尻尾でも見られれば、虚勢である事が一目瞭然だ。
「それで、一体アンタはどうしちまったんだ?」
この問いは、もっと早くすべきだったのかもしれない。あの温泉宿で済ませておくべき質問だったのかもしれない。あるいは、答えなどないのかもしれない。だが――
「……少し長くなるぞ」
「構うもんか」
観念したようにため息をついてから、光は自らの右腕を示しながら言った。
「俺達魔法使いは、正義のための人殺しだと言う話はしたか?」
彼が語り出したのは、『魔法使い』という生き方だった。故郷を奪われ、弾圧され、忌み嫌われながら、それでも『正義』のために魔物退治を――魔物と化した人間を殺し続ける。そんな生き方を。
にわかには信じがたいが――なるほど、そんな生き方をしていれば、命のやり取りに慣れ切っているのも納得できる。
「だが、魔法使いの使命はそれだけじゃあない」
「それだけじゃない?」
右腕の包帯を少し緩める。その掌にはZのような形をした奇妙な痣があった。
「ああ。ただ殺しただけでは魔物化した人間の魂……その思念は、その強欲さゆえに再び魔物化する事がある。だから、その魂を生贄として自らに封じ込める必要がある」
他人の魂を取り込む。それがどういった行為なのか想像もつかないが――それでも、嫌なイメージしか思い浮かばない。
「そんなことして、平気なのかい?」
「まさか。魂を取り込めば取り込むだけ、その代償として右腕は侵食され異形となり、いずれは自分自身が魔物となる」
右腕。確かにあの『怪物』が目を覚ます直前、光はその右腕を意識していた。
「つまり、アンタのここ最近の殺気だった感じはその代償とやらのせいなのかい?」
だが、一見して光の腕は普通の腕のようだった。もちろん、掌の痣を除いてだが。
アタシから見えば、それほど深刻な代償を追っているようには思えなかった。
「そうなる。ただ、この代償は普通の代償じゃあない」
「普通じゃない?」
今さら普通という言葉が出てくるとは思っていなかった。そんな生き方ができる時点で、とっくに狂っている。そう思った。
「ああ。この代償――殺戮衝動は、最悪世界を滅ぼしかねない。実際、かつて滅ぼしかけたという事実がある」
鼻で笑う事が出来たらどれだけ良かっただろう。だが、光が本気で暴れ出せば、この街くらいは軽く廃墟になるに違いない。
「かつてって事は、その時は滅ぼさずに済んだんだろ? その時はどうしたのさ?」
その殺戮衝動に囚われた魔法使いを殺したという以外の答えでありますように。かなり本気で祈りながら問いかける。
「代償というのは、言いかえれば未練だ。それを果たしてやれば鎮まる」
それはそれで血生臭い事になる。今さらそれを回避する事はできそうにないが。熱湯でも飲み干すような気分で、飲み込みがたい何かを飲み込み――覚悟を決める。
「それで、今回は誰を殺せば満足するんだい?」
主だと言いだしませんように。再び心の底から祈る。それが叶ったと言うべきか――光はこんな事を言いだした。
「それが分からないから困っている。そもそも、この衝動が向けられていた本人はとっくの昔にこの世にいないんだ。だから、本来蘇ってくるはずがない」
鎮めたと言う事はつまりそういうことだ。取りあえず、それについてはそれ以上深くは考えない。問題は、彼の殺戮衝動を止める手段がないという事だ。
「蘇ったって、一体いつから? その辺に原因があるんじゃないかい?」
「いつ蘇ったか……」
光は嫌そうな顔をした。それに関しては心当たりがあるらしい。
「お前たちと初めて接触した時だ」
告げられた時、思ったよりもショックはなかった。確かにあの時から、光の様子はおかしかったのだから。
「じゃあ、アタシ達を殺す?」
アタシ達と行動を共にしたのもそれが目的だったのだろうか。そう思ったが――それはおかしい。殺す気なら、あの時殺していればよかった話だ。
「まさか。お前達を殺したりしたら、その時こそ俺はこの衝動から逃げられなくなる。わざわざ自分からその時を速める気はないさ。ただでさえ残り時間が少ないってのに」
この言いよう。おそらく、だが――彼は本当は何が原因で蘇ったのかも把握しているのだろう。あえてアタシ達に言わない理由は分からないが。それに、今はそんな事はどうでもいい。今、光は聞き捨てならない事を言った。
「残り時間が少ないって……あとどれだけあるのさ!?」
すでに自分自身で限界を把握できている。それは、かなり深刻な状況だ。掴みかかるよ
うにして問い詰める。
「答えな! いつまでにその衝動を鎮めればいい!?」
いつまでに、その原因に辿り着けばいい?――そのために、アタシ達にできる事はあるのか。それさえも分からないが。
「一三日――いや、もう一日過ぎたからあと一二日か」
言葉に詰まる。思った以上に、時間がない。それはつまり、こういうことだ。
――世界が終わるまで、あと一二日
4
「ん……」
薄闇の中で目が覚めた。知らない間に眠っていたらしい。寝かされていたソファから身体を起こし、少しだけ眠気が残る目をこする。
(もう、こんな時間……)
窓越しに夜の街を見やり、ぼんやりと呟く。そのまま、取りあえずカーテンを閉めた。何となく珍しさを覚える。
「そっか。こんな時間まで開けっぱなしって久しぶりかも」
いつもは、もう少し早くに光が閉めてくれるから。珍しさの正体に気付き、思わずくすりと笑った。私には兄はいないし、父親の顔も知らない。けれど、もしもいたのなら、それはきっと光のように感じたのではないだろうか。そんな事を思った。
(初めて会った時は、あんなに怖かったのに)
あの時、何かが間違っていれば、本当に殺されていた。あれからまだ一月も経っていないのに、そんな事を思う自分に少しだけ呆れてしまう。
でも、悪い気分ではない。酷く優しい気持ちで呟いた。途端――
「あぅ……」
お腹が鳴った。誰も聞いていないはずだけれど、それでも顔に血が集まってくるのが分かった。
「えっと……」
誤魔化すように――実際にそのつもりで、部屋を見回す。光の姿もアルフの姿も無かった。この時間に、光が食事の準備をしていないと言うのも珍しい。買出しに行くにはもう遅いし、そもそもまだ備蓄はあったはずだ。
(どこ行っちゃったんだろう……?)
静かな部屋。それが妙に不安を掻き立てた。あの二人が、私を置いてどこかに行くというのもあまり考えにくいが……。
「あ……っ」
そこで、微かに光の魔力を感じた。すぐ近くにいる。ホッとしながら、そこに向かって歩き出す。使っていない小部屋。そこの扉が僅かに開いていた。二人の声もする。
「アルフ――」
声をかけようとした。声をかけて、中に入ろうとした。だが――
「……少し長くなるぞ」
入れなかった。光によって語られるその『魔法使い』の生き方があまりに悲しくて、身体が動かなかった。あまりにも辛くて、この場から逃げてしまいたい。そう思った。
逃げてしまえばよかったのだ。そうすれば、聞かなくて済んだのだから。
「つまり、アンタのここ最近の殺気だった感じはその代償とやらのせいなのかい?」
二人の話は、光の『異変』へと移っていく。おそらく、それが本題だったのだろう。
殺戮衝動。その言葉に、アルフの口調が険しくなるのが分かった。
「一三日――いや、もう一日過ぎたからあと一二日か」
ああ……。光達は、一体何の話をしているのだろう。あとたったそれだけで光がいなくなってしまうなんて、そんな事が……。
「……アルフ。念のためお前に頼んでおきたい事がある」
真剣な声で、光が言った。
「もしも俺が堕ちたら、相棒……偽典リブロムを読みとけ」
「偽典リブロム? それに相棒って……」
「俺が扱う魔法の全てがそこに記されている。……生きた魔術書だよ。口と人相は悪いが、別にそう悪い奴じゃあない」
光は苦笑したらしい。それを聞いて思い出した。あの子――光の妹が持っていたあの奇妙な本の事に違いない。
「それを読みとけばいいのかい?」
それを読みとけば、光を救う事が出来る。……私はそう思った。きっと、アルフもそう思ったはずだ。けれど。
「ああ。その中に、不老不死の怪物の殺し方も記されている」
殺し方。光はそう言った。それは、つまり……
「アタシにアンタを殺せって言うのかい?! そんな事――」
「フェイトにやらせる気か?」
「ッ! それは……」
「お前がやらなければ、その怪物はあの子を殺すぞ」
酷く――場違いなくらいに落ち着いた光の声に、悪夢が現実へと切り替わる。十二日後、この二人が殺し合う。アルフと、光が殺し合って――光がいなくなる。ひょっとしたらアルフも。
地面が揺れた。立っていられない。ぐらりと身体が揺れた。支えきれなくなって、目の前の扉にすがりつく。半開きの扉はそのまま大きく開け放たれた。
「フェイト……」
光とアルフの、酷く驚いた声が重なった。この二人が――この二人までいなくなってしまうかもしれない。視界が滲んで、二人の顔がよく見えなくなる。
「嫌だよ……」
滲む様に、二人がいなくなってしまうのではないか。その恐怖に怯え、近づこうとする。だけど、震える膝では立ち上がれなかった。それでも、手で這いずって近づく。
「嫌だよ。何で、何でみんないなくなっちゃうの!?」
光の右腕に縋りつく。声をあげて泣いたのはいつ以来だろうか。
「私、良い子にするよ? 魔法の勉強も頑張るよ? ジュエルシードだって一人で集められるよ? だから、もういなくならないでよ……ッ!」
「フェイト……」
光が頭を撫でて、アルフが肩を抱いてくれる。それでも――だからこそ、涙が止まらない。もう自分でも何を言っているのか分からなくなった。
「何で?! どうしてみんないなくなるの?! 嫌だよ。寂しいよ。誰か助けてよ! どうして……ッ!」
息が止まるくらいに、強く抱きしめられた。
「大丈夫だ」
静かな声。優しい声。殺戮衝動に囚われているなんて嘘のような声で、光が言う。
「大丈夫だよ、フェイト。怖い事なんて、何もない。寂しい事もないさ」
その言葉に首を振る。優しい嘘なら聞きたくなかった。
「嘘じゃないって。まずは妹を紹介しよう。……まぁ、今は敵同士だからあまり良い印象はないかもしれないが、根は素直でいい子だ。きっと仲良くなれる。それに、あいつの友達もいい子が揃ってる。親友二人は特にな。きっとあちこち連れまわされて、寂しいなんて言ってられないぞ? あとは……そうだな。翠屋って店に行ってみるといい。ウチがやってる店だが、俺が作るより遥かに美味い物を食べさせてくれる」
髪を梳きながら、言い聞かせるように光が言う。それはとても楽しくて幸せな未来だった。でも、でもね、光……。
(その中に、光はいるの?)
光を優しい魔法使いだなんて言ったのは一体誰だろう。こんなにも――こんなにも残酷なのに。
「必ず、そんな未来を用意する。だから、大丈夫だ」
……残酷なくらいに、優しいのに。だから、どうかそんな事は言わないで。
最悪でも、血塗れた魔法使いが一人この世から消えるだけだ、なんて。
(それじゃダメだよ。あの子が悲しむよ。それに――)
きっと、私も耐えられない。だから、消えるだけだなんて、そんな事を言わないで。
5
夢を見た。夢を見ていた。とても哀しい夢を。
「何で私を生んだんだ!?」
金髪の、綺麗な少女が叫ぶ。その子はそのまま、母親らしき女性へと掴みかかった。そのまま、力任せに殴り蹴り始める。息が切れるまで。あまりの光景に、思わず言葉を失う。そんな私の前で、彼女はさらに魔力を収束し始める。
(ダメ!)
声にならない悲鳴。それは魔法――それも、光と同じ魔法だった。彼の魔法には非殺設定がない。それを思い出し、反射的にその女性を守ろうとしたが。
「クソッ!」
その女性は、少女を遥かに上回る魔導師だった。少女の魔法をあっさりと防いで見せた。何度も何度も。放たれた魔法の全てを。彼女の魔法が未熟な訳ではない。むしろ、かなりの実力だろう。光の魔法には詳しくない私にもそれが分かる程度には。だが、それでも。どれほど楽観視したところで、その少女に勝ち目などなかった。母親らしきその魔女との実力差はそれほどに圧倒的だった。
「さぁ、ニミュエ。ご飯にしましょう。ね?」
魔力が尽きるまで暴れた少女に、母親は優しく微笑みかけた。それは、仮初の笑みなどではない。本当に、彼女は娘を愛している。言葉の一つ一つ。表情の一つ一つ。仕草の一つ一つ。全てからそれが伝わってくる。だからこそ、歪な親子だった。
少女の母親への憎しみは、反抗期などという生易しいものではない。いつ殺してもおかしくない。いや、今すぐにでも殺したがっているのは、私の目にも明らかだった。
それができないのは、単純に母親がとても強力な魔導師だったからだ。それでも、少女――ニミュエと呼ばれた彼女が手を止める事はなかった。魔力が戻れば、再び母親に向けて暴力を振るいだす。
(何で? 何でそんな酷い事するの?!)
声をあげても、二人には届かない。そんな私の前で、ニミュエは憎しみを――殺意を募らせていく。その殺意のままに魔法を振るうごとに、徐々に右腕が黒く染まっていった。
黒く染まり、包帯で覆われる様になったその腕は――皮肉な事に、母親のその腕によく似ていた。
しかし。それでもなお、母親には遠く及ばない。彼女の母親はそれほどに強大な魔力を秘めていた。それこそ、光に匹敵するのではないかと思うほどに。
だからだろうか。彼女はついに家を飛び出した。
(待って! そんなのダメだよ!)
慌てて後を追いかける。追いつけるとは思えなかった。だけど、そうせずにはいられなかった。だって、こんなのは哀しすぎる。
「待って!」
初めて声が出た。そのまま、彼女――ニミュエの右腕を掴む。そこで、初めて彼女は私を見た。その頃には、私もそれが夢だなんて事は忘れていた。
「何で、何であんな酷い事するの!? どうして出ていくの!?」
あんなに。あんなにも大切に思われているのに!――それは言葉にならなかった。言葉にしてしまえば、もっと酷い言葉になるのは分かっていたから。
あんなにも愛してもらって、何が気に入らないの?――彼女が羨ましくて妬ましい。そんな自分を、はっきりと理解していた。だが、
「何でだと?」
ニミュエが睨みつけてくる。あるいは憐れんだのかもしれない。
「私はアイツが生み出した。勝手な願いで……こんな、普通じゃない身体でだ!」
普通ではない身体。それが何を意味するのか私には分からなかった。なのに――
「その憎しみは、オマエにも――オマエの方がよく分かっているだろう?」
何で、彼女はそんな事を言うのだろう。彼女は、一体何を言いたいのだろう。言葉を失った私に、ニミュエははっきりと憐れみの視線を向けた。
「もう、いい加減に気付いているはずだ。いつまで目をそむけ続ける?」
その声は――場違いにも、酷く優しかった。
(ダメ。ダメ。言わないで!)
それを言われたら、私が――フェイト・テスタロッサが壊れてしまう。理由も分らないまま、首を左右に振る。懇願するように。それが通じたのかどうなのか。
「まぁ、いい。オマエが私と同じように狂ってしまう前に、私がオマエを解放してやる」
それは、確かに優しさだったのだろう。その時、ニミュエは酷く優しい目をしていた。
「憎んでもらって構わない。どうせ私――私達にはそんなやり方しかできないからな」
告げると、ニミュエは私に背中を向けた。夢が終わる。直感的にそう思った。
「待って!」
夢の終わり。滲んだ世界の中でその背中に叫ぶ。
もう分かっていた。理解していた。
「お願いです! 私は大丈夫だから!」
彼女の哀しみ。怒り。憎しみ。それが、光を蝕む殺戮衝動の正体なのだと。
「お願いだから、光を連れて行かないでください!」
そして。どうすれば、彼を救う事が出来るのかも理解できた。……少なくともこの時は、分かっていた。
…――そして、夢が終わる。
「おはよう、フェイト」
いつも通りの朝だった。キッチンではいつも通り光が朝食を作っている。昨日の話が、全部悪い夢だったと、そう錯覚してしまいたくなる。
「フェイト。その……大丈夫かい?」
「……うん」
涙の跡。それが夢ではなかったと告げる。夢……そう言えば、何か夢を見た気がする。とても哀しくて、とても苦しくて。それでも、とても大切な夢を。
「さぁ、フェイト。顔を洗っておいで。朝食にしよう」
思い出せない。思い出したくない。……思い出さなければ、ならないのに。
だって……もう時間がないのだから。
――世界が終わるまで、あと一一日
後書き
さて、いよいよ時間制限もつき、物語は一気に進んでいく――とも言い難いですが。
無印編もそろそろ終わりに向かいます。
この章はちょうど折り返し地点ですから、決着に向けてまずはそれぞれ腹を括ってもらいましょうか。
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