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乱世の確率事象改変

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少女は龍の背に乗り高みに上る

 橙の色は濃く、窓から己が行く道を照らし行く。
 たたっと駆ける少女の脚は長くは無い。普段運動しない事も相まって、過ぎ去った後に微笑ましい笑みを向けられるのも詮無きかな。
 毎日。彼女は飽きること無くこの時間になると駆ける。
 もう既に文官達は見慣れてしまってはいるが、それでもやはり少女の走る姿というのは応援したくなるモノであるのか、暖かい感情をじわりと吹き出させるらしい。
 廊下を走るな、と注意するモノはいない。別段、そのような規則は定められておらず、城の主が何も言わないのならば誰も口に出そうともしない。
 もう少し、もう少しで辿り着く。
 息を弾ませて駆ける少女は、遂にその部屋に辿り着き、扉の前で息を整えること幾分……ゆっくりと、声を掛ける事無く扉を開いた。

「恋殿、今日もお疲れ様なのです!」

 開け放たれるや響く元気のいい甲高い声と、満面の笑み。部屋に歩み入る彼女は陳宮――――真名を音々音といった。その少女と親しいモノ達は、真名の呼び辛さからか、それとも少女が願ってか、彼女の事を誰もがねねと呼ぶ。
 燃えるような赤毛は光を受けて艶やかに光る。刺青の入った身体を寝台に落ち着かせて座っていた彼女の主は……ぼーっと窓の外を眺めていた。
 返答は無い。それもいつものこと。ねねの笑みは変わらず、そのまま歩みを進めて、彼女の主の横に静かに腰を下ろした。

「今日は藍々(らんらん)がまたお茶を零しそうになったのです。書簡が濡れて危うく大惨事というところでしたが、菜桜(なお)の機敏な動きのおかげで助かりましたぞ。いやはや、あいつのそそっかしい所はどうにかしなければと常々話し合っているのですが――――」

 腕をあっちにやったりこっちにやったり、身振り手振りを加えて、小さな身体で大仰に語るねねは楽しそうに今日の他愛ない話を紡いでいく。

 あの街のどこそこのお菓子がおいしいらしいから今度取り寄せてみよう、とか。
 仕事仲間が昼間に食べたなにやらはおいしかったらしい。自分は麻婆豆腐を食べたが辛すぎた、とか。

 多彩な話……にしては食事の話題が多いモノを、彼女は話し続ける。今日のこと、明日のこと、仕事仲間のこと、街の様子のこと、延々と話し続けた。
 されども……いつも返答は無い。彼女の主は無言で窓の外を見続けているだけ。昏い暗い、虚ろな瞳を空に向けて、聞いているのかいないのか。
 気にせず、ねねは笑顔を崩さない。ずっと、ずっと、話を続ける。
 それがねねと彼女の主、大陸の諸侯達に名高く噂される飛将軍呂布――――真名を恋、二人の現在の日常であった。

「――――というわけで、どうにか意見を聞いてくれたのです。やはり藍々は衣服を変えなくても、水鏡塾の制服のままでいいと思うのですよ」

 他の誰かが聞いたのならば、乾いた笑い声に思える小さな吐息を零して、ねねは笑顔のままで俯いた。表情を変えることは、無かった。
 今日の話題はもう尽きた。何も話す事が無くなった。何をしよう。どうしよう。毎日話していれば話題が尽きるのも当然。
 否、あるにはあるが、それをすれば……彼女の主は……
 次いでねねは、甘えるように恋に抱きついた。毎日、話が終わると、恋に自分の体温を分け与えるかのように、冷え切った心を温められるように、その行動を繰り返していた。
 身体を起こしている恋に抱きつけば、身長差から顔は触れ合わず腰にしがみつくカタチ。しかし、ねねはそれが幸せだった。
 耳に入るのは心臓の音。トクン、トクンと脈打つ生命が生きている原初の証明。それが聴こえればねねは幸せだった。
 其処はねねにとって一番幸せな場所。主の鼓動が耳に優しく響くこの場所は、彼女に安らぎを約束していた。

――今日も、変わりないのです。

 いつも通り、もう聞きなれた速さで刻まれるリズムは、安心と安息を心に広げていく。
 ねねは恐れていた。
 こうして動かない主を見ると、いつかその鼓動が聴こえなくなるのではないか、と。
 だからこうやって恋の鼓動を確かめるのも日課になっていた。
 ただ……恋が生きていると感じる瞬間は他にもある。

 幾分か後、ピクリ、と恋の身体が動いた。ゆっくり、ゆっくりと、ねねに顔を向ける。

「……来た」

 短い一言。昏い瞳は何を映しているのか。声音には感情など含まれてはいない。機械的で、事務的で、人に対話を求めるモノではない。
 ねねは……笑顔を向ける。心の内では、涙と絶叫を吐き出しながら。

「……いってらっしゃい、なのですよ。夜間にまでお仕事が入ってしまうとは、今日はついてないですなぁ」

 話している内に日は落ち、闇が部屋を覆い尽くしていた。
 ねねの笑顔は見えないだろう。だが、ねねは笑顔を崩す事はなかった。
 すっと、ねねが身体を離すと、漸く恋は寝台から立ち上がり、己が武器である真紅の方天画戟をひょいと手に持って、部屋から静かに出て行った。

 ゆらゆらと歩く姿は幽鬼のようだった。
 何かに糸で操られているかのような哀しい姿だった。
 自分の意思など、恋には全く含まれていなかった。

――行かないで……

 こうなる度に、ねねは何度もその言葉を呑み込んでいる。
 傍に居るだけで変わらない日常。それでもいつか戻ってくるだろうと希望を持って話しかけているのに、ねねの行いを嘲るかのように、平穏の時間を無碍に奪い去る非日常。
 遠くで絶叫が聴こえた。人の命が終わる声が聴こえた。バタバタと幾人かの走る足音が、遅れて聞こえた。

 また、彼女の主は冷たくなってしまった。

 ぶるぶると震える身体を自分で抱きしめた。ねねの顔には、もう笑顔は無い。
 はらりはらりと涙が頬を伝っていく。ぎしりぎしりと心の奥底が軋んでいく。
 気が狂いそうな絶望の暗闇の中で、心に押し込めている悲哀が溢れ出た。そうして少女は独り――――泣く。

「……っ……助けて……恋殿を助けて……月……」

 夜天に浮かぶ三日月は嗤うだけで誰も救ってはくれない。
 彼女は嘗て傍に居てくれた、陽だまりの居場所を作ってくれた銀髪の少女を求めた。
 叶わない願いだと、頭では分かっているのに。失われたモノだと、もう割り切ったのに。主が“仕事”に向かう度に、いつも願ってしまう。

――ねねがあの時、彼女を救い出す為に戻ろうと言えば……良かったのですか

 後悔を胸に渦巻かせる度に、愚かしい願いと分かっていながら、ねねはその願いを紡ぎ続けた。
 今の仮の主と同僚の前で言うわけにはいかないから。そして、自分の主の前でその名を出せば、気がふれてしまうと分かっているから……独りの時しか、自分の弱さも、嘗ての陽だまりも、ねねは零す事が出来ない。

 闇に溶け込む彼女の願いは……誰にも届く事は……無い。





 †




 ゆらゆらと蝋燭の灯が照らし出す寝台の上。うつ伏せに寝そべりながら、黒いキャミソールの中が見えるか見えないかギリギリの気だるげな動きで脚を上下させ、枕元に置いてある器の中から、赤く小さな実を一つ手に取り、わざとらしく大きく開けた口に含む。
 もぐもぐと食べた後、器用にも種とへたを繋げた果物の残骸を、その少女はくくっと悪戯な笑みを浮かべてから空の器にいれる。

「あー……だりぃ。一個じゃ足りねー」

 言葉をそのまま表すかのようにぐでーっと寝そべり、さらさらと長い金髪が寝台の上に広がる。灼眼の瞳をまた果物に向けて、じゅるりとよだれを啜った。
 美しい煌びやかな金髪。燃えるような灼眼の瞳。透き通って見える白磁の肌。抱きしめれば折れてしまいそうな愛らしい少女の体躯。
 その少女……否、女は劉表。荊州を治める州牧にして、漢王朝の血を濃く受け継ぐ旧き龍。

「母上……お体に障りますから起きたてで果物ばかり食べないでください」

 ビシリと張りのある声が部屋に響く。
 寝台の前で厳しい目を向ける少女、名は劉琦――――真名を菜桜。劉表の実子である。
 母親とは似ても似つかぬすらりと長い手足。薄い桜色の髪に瞳。誰が見てもこの二人を親子とは思わない。
 父方の血が濃く出てしまった結果、見た目が余りに違ってしまった。大陸では往々にして、女子には女の遺伝が濃く出るはずなのだが、稀にこのような事態もある。
 そのせいも含めて、劉表は劉琦に期待していない。
 期待していない理由としては、自分よりも知略に劣り、武勇もそこそこであり、人を惹きつける魅力も……成りあがってきた劉備と比べれば遥かに低いから、というのもあった。加えて真面目過ぎる事も劉表にとってはよろしくないようだ。

「好きなもん食べてなにがわりぃんだ。オレはもう甘いもんしか食わないって決めてんのー」
「ダメです! ほら、藍々も何か言ってください!」
「食べたくないって言ってるし、いいんじゃないッスかね」

 菜桜の隣に居た少女――藍々が、如何にも適当な様子で返答を零した。
 藍々……姓名は徐庶。肩で適当に纏めて流している藍色の髪に藍色の瞳、衣服は水鏡塾の制服を着こなし……彼女の友達の平坦な胸とは違い、ある程度膨らみがあった。身長も、竜と鳳よりも頭一つ大きい。
 朱里と雛里の友にして水鏡塾出身のその子は、とある事情を以ってここで仕えている。
 現太守は病に侵され、後継の菜桜は部下の掌握も薄いこの地に士官するなど、数多の智者の卵を育てる水鏡塾からの出身者としては異なこと。通常の思考をしていてはまずその狙いは読めないだろう。何か裏がある、と専ら上位の文官達の間では噂が立ってもいる。
 しかしながら、この地をどうにか盛り立てようとしているのは事実。藍々が来てからというもの、この地の改善はみるみる内に進んでいるのだ。
 劉表と菜桜はその頭脳への信頼から、まだまだ付き合いの薄い間柄ではあるが、真名も許しており、砕けた言葉も許容していた。

「もう! なんで私の周りにはこんな人ばかりなんですかぁ!」
「あー……うっせ……きゃんきゃん喚くな。とりあえず、久しぶりにオレを“起こした”って事は、大きな決定とかしなくちゃいけねーんだろ? ならお前らが立てた案を聞かせろ、ガキ共」

 果実を一つひょいと手に持って、食べもせずに手で弄び始めた劉表は、喚く菜桜に睨みを効かせて静かに覇気を向ける。
 劉表は病のせいでもう長くない。身体に走る痛みを鎮痛剤や睡眠薬で無理やり誤魔化して延命している始末。
 彼女は命を失うわけにはいかないのだ。まだ、やる事が残っている為に。
 だからこうして、娘や部下達が次の動きを決め兼ねた時にだけ“起こされる”。そして菜桜と藍々の意見を聞いてから、他の部下達の前に出て自分はまだ大丈夫なのだと見せつける。
 そんな劉表は他のモノ達からこんな名で呼ばれている。

『賢龍』

 学問を奨励し、多くの智者を集める事に尽力して、さらには才覚も飛び抜けていた為に、旧知のモノ達は彼女をこう呼ぶ。皇族の末裔でもある彼女に龍の名は似合っているだろう。
 だが、その名で呼ぶ誰もが、彼女の本質を知らない。知っているのは古くから彼女を良く知る水鏡塾の塾長と、目の前の二人、客分として仕えているねね、そして敵対している孫呉のモノだけ。うっすら気付いているモノは曹操くらいであろう。

 彼女から目を向けられて、ゾワリ、と肌が粟立ったのは二人共であった。

「……あたしから話しますけどいいッスか?」
「ん、手早くな。だりぃから」

 目を切って果実をコロコロと掌で転がして遊び始めた劉表を前に、藍々はきゅっと唇を引き結んだ。

「劉表サマの計画通りに……“袁家の毒”を暴走させる事に成功、曹操陣営に攻め入らせて敗走。さらには芋づる式に菜桜に反発を見せる輩が釣れたので、劉表サマからの内密の手紙をそいつらに渡しました。金と地位の餌を欲っして弱った孫策を攻める動きを見せてるッス」
「なげぇ……けど、まあいいや。続けろ」

 劉表は、あーん、と口を開ける。熟したその実を食べよう、と。
 冷や汗が藍々の背を伝った。長い間、夢とうつつのハザマに居た為に思考も出来ず、情報も入れていないはずなのに、予定通りで上々だと言わんばかりのその態度は、軍師として高い能力を持つ藍々を凍りつかせていた。
 まるで全てがこの女に操られているかのような恐怖から、これから話す事が、どうか彼女の予定外の事態でありますようにと、藍々が願ってしまうのも仕方ないこと。

「黄祖の処刑も終わりましたけど……鳳雛と黒麒麟が曹操陣営に正式に所属しました。劉備軍には……帰らないみたいッス」

 ピタリ、と劉表の手が止まった。空気も止まり、徐々に、徐々に張りつめて行く。
 藍々からの情報は小石が池に投げ入れられた程度の波紋に過ぎない。されども、劉表の興味を引くには十分であった。

「……へぇ。なら流れが変わるじゃねーか」

 ぽいっと彼女はまだ食べていない果実を投げ捨てた。もうコレはゴミだ、と言わんばかりであった。
 後に、口元を引き裂いて、劉表は楽しそうに器の中の果実を選び始めるも……ふう、と満足げな吐息を落として動きを止める。

「黒麒麟だけならいざしらず、まさかお前の友達が曹操の所に行くなんてなぁ。それも、大の親友を見限ってとか……キヒ、キヒヒヒ」

 少女の見た目だというのに、劉表の笑い声は妖艶に過ぎた。楽しい、という感情が圧し出ている悪辣な笑い。
 声を聞いている二人は、這い回る悪寒に、無意識の内に己が身体に手を回していた。

「原因は黒麒麟、だな。うん、間違いねー。あー、くそ、曹孟徳め、羨ましい。水鏡の甘ちゃん思想とお綺麗な劉備の妄信にどっぷり浸かった奴を変えられる人材なんかそうそういねぇぞ」
「せ、先生は甘ちゃんなんかじゃ――――」
「だりぃ、分かってるから喚くな藍々。お前とオレの思考は相容れない。手を組んでるのは利害の一致からだけだ、そうだろ?」

 恩師の事を貶されてむっとした藍々が言い返そうとするも、怪しく光る灼眼を向けられて口を噤んだ。
 次いで劉表は、はん、とバカにしたように表情を緩めた。

「で? どうしたいか言ってみろ。お前のお綺麗な正義のやり方って奴をさぁ」

 片目を細めてにやにやと見つめられ、悔しげに表情を歪ませる藍々。菜桜は母の楽しそうな様子に心底不快げだと顔を顰めていた。

「……馬一族と密盟を結ぶのが先決かと。同時進行で劉備との友好も深め、劉璋の退場に協力。後に荊州と益州、西涼の同盟を組んで他への対抗としたいッス」

 具体的な案を示さずに、大きな流れだけかいつまんで話した。
 細かい動きは部下達が決める、というのはこの時代の組織に於いて普通の事であるが、こと劉表相手では全く別。豊富な人生経験と明晰な頭脳によってどうすればそれを為せるかなど、彼女にとって読み解くのは容易い。
 二人は喉が渇いていた。幾分の沈黙はそれほど重く、苦しい。藍々と菜桜は水分を求めようと生唾を呑み込んで、彼女の返答を待った。

「……キヒ、キヒヒ、あはっ! あーっはっはっはっ!」

 突然、ケタケタと嗤う劉表の口はまた、引き裂かれていた。どんな答えに辿り着いたのかは、彼女にしか分からない。

「ははっ! 甘ぇ甘ぇ。蜂蜜りんごくらい甘ぇ。皆で手を繋いで仲良しこよしってか? 弱った漢王朝を復興させる為に菜桜と劉備で地盤を固める。曹操は一代の傑物だから死ねば崩れるけど孫家は根絶やしにしないと終わらない。
 それなら擬似平和を作り上げよう。牽制のし合いの中、漢の偉大さを知らしめたままで本物の強者がどこかを誤魔化してうやむやにしてしまおう。今の命は大事だから、慈愛と優しさで民達を暖かくを包み込んでやろう。
 そうすれば乱世は早く終わる……そして政略で足を引っ張り合う、内密に隠し持った軍事力の探り合いと牽制でビビり合う、ぬるま湯のせいで金と権力の欲望を膨らませたバカ共が牙を研ぎ合う、そんなどろっどろで最っ高な、混沌とした世界を次の世代の奴等に投げ渡す! ……キヒ……いい子ちゃんのお前らしい。やってみなければ分からない、なんて自分を慰めても、鼓舞する為の自己暗示でしかねーぞガキ共」

 凍りつく、心の奥底まで。
 自分の描く未来を言い当てられた上で真っ向から否定された。人の汚さを喰らい続け、蠱毒とも言える政治戦争を勝ち抜いてきた龍に。

「オレが生きられない世界がそんな楽しくなるってのはだりぃ……でもな、お前は見誤ってるなぁ、藍々。それじゃ間に合わない」
「え……こ、これが最速じゃないッスか? だって曹操は袁家との戦を行うし、孫策はあたし達の策でより長く内部掌握に時間が掛かるッスよ?」

 素直に疑問を零した藍々に対して、同意だというように菜桜もコクコクと頷いていた。
 はぁ、と劉表は大きくため息を一つ。

――“乱世如き”の話じゃねーんだよ。あの曹操に黒麒麟と鳳雛が付いたんだからそう上手くいくか、バカ共。このままじゃ泥沼の擬似平和になった瞬間に負けが決まっちまう。特に曹操だけは地位を上げたまま生かしちゃダメだ。治世では絶対に勝てない化け物なんだから。

 内心で言うも、口には出さない。
 反董卓連合が終焉した時点で、大局の展開が彼女には見えていたのだ。自分よりも短期間で新しい方策を数々打ち立て、取り込み、強大になっていった曹操。そんな相手が治世で手を拱くわけがあろうか。
 政治の改革、民の認識の向上……どちらもこの時代にしては異常に過ぎる速さで上昇していっていた。それも、軍事に力を注いでいるにも関わらず。
 数多の政策や改革を成功させる事の出来る人材の豊富さ、というのは有力者達が期待を受けている事に他ならず、切磋琢磨してより強大になるのは当然であろう。何より……曹操の才と器は、大陸でも並ぶモノが居ない。天は二物以上を与えた化け物をこの世に落としたのだ。
 そして、曹操が黒麒麟をモノにしているのも大きい。
 二人の大徳が分けられた、というのが何より大きかったのだ。
 劉備は単体でも、確かに異質な存在だと劉表も一目置いていたのだが、黒麒麟が離れたという事実が内部に澱みを残していると予想した。
 治世になればなる程に、その澱みが浮き上がっていくことであろう。そうなれば、その隙を曹操が見逃すはずが無い。ましてや藍々の友にして一段上の能力を有している鳳雛が、袂を分かった劉備の思う様に進めようとするか。
 故に彼女は、乱世の内に曹操を弱体化させる為に袁家の手助けを指示したのだ。次の戦で殺されれば良し、勝ったとしても戦力を少しでも多く減らせれば、と。
 劉表の頭の中では既に、乱世の終わりまでの道筋が思い描かれていた。そしてその為の方策も、頭の中には出来ているのだ。
 賢龍が長く積み上げてきた経験と知識、そして王の先見には、若い智者では届き得ない。

「まあいいや。自分で考えろ。とりあえず片方だけ却下な。馬の一族は放っときゃいい。あいつも病気だし、望み通り馬の上で死ぬだろ。劉備と一緒に劉璋を日陰の隅に押し込むのが最優先だ。オレ達の力を付けて、来るべき大戦への備えを充実させなきゃならねーな」

 自分で考えろと言われれば、もはや疑問を返す事は出来ず。藍々は驚愕と恐怖に支配されながらも何故なのか思考を練り上げていく。

「母上は……漢の忠臣である馬騰様を切り捨てるとおっしゃるのですか……」

 ただ……娘が行う義に従った反論を封じることまでは出来なかった。
 菜桜は握った拳を震わせながら、非情な母を睨みつけた。

「あん? あー……だからお前はオレに届かないんだ」

 哀しみを存分に含んだ視線。その意味を理解出来ず、彼女の娘は不快気に視線をぶつける。
 見返す劉表は心底から呆れかえっていた。

――感情なんざ切って捨てろよ。理と利で判断を下せないからお前は王に足りえない。公孫賛を切り捨てた劉備の方がよっぽど王に向いてるぜ。ま、後継を育てるには失敗だが、娘を育てるには成功したってとこか。

 そう考えて、ふっ、と自嘲気味に笑みを零した。
 菜桜は軍師達やどこぞの覇王ほど聡くは無い。だから母の心情を読み取ることが出来なかった。
 ギシリと歯噛みを鳴らした菜桜は、怒気を膨れ上がらせて口を開いた。

「それで……それで母上は誇り高き漢の皇族の末裔と言えるのですかっ! 王朝の忠臣を見捨てるのなら、人々に胸を張れると、天に向かって真っ直ぐ立てると思っているのですかっ!」

 実直な物言いは正論。ただし、義に即した心を優先するモノ。
 これが白蓮や桃香であれば、感銘を受けて己を見直したかもしれない。あの河北動乱の時とは状況が違うが故に。
 しかし劉表は彼女達のように義を優先するモノでは無かった。菜桜の母である劉表は……彼女にとって悪であった。

「もう黙れよクソガキ。忠臣を守って王朝が亡んだら意味が無いってーの。見捨てた場合の利は自分で考えるか藍々に聞け。オレはだりぃから説明しねー」

 べーっと舌を出して嘲りの声を向ける。
 もはや我慢出来ず、立ち上がって詰め寄ろうとするも……

「……いい加減にっ――――」
「これ以上騒ぐと劉表サマのお体に障るッスよ」

 まだ言い返そうとした菜桜を藍々が制した。
 ふるふると首を振られて、下唇を噛みしめた菜桜は、母の容体を気にしてそれ以上の言葉を紡ごうとはしなかった。
 もう何も興味は無いというように、劉表はまた脚を上下させて果実を選び始める。赤くて小さい、艶のある一つを嬉しそうに手に取って、彼女は笑った。

「キヒ、そうだ。漢の再興をするならオレの仕事が出来たな」

 果実を選んでいる間の沈黙に耐えて、漸く発された言葉に二人は首を捻る。病床にいる彼女が動かざるを得ない程の仕事は無いはず、そう考えて。
 口元を吊り上げ、三日月型に引き裂かれた嗤いは何が楽しいのか。劉表はただただ楽しげであった。

「お前らは今決めた予定通りに劉備と親交を深めて来い。劉璋のクソ坊主を追い遣るまで荊州には帰ってくるな」
「なっ……」
「虎の軍勢の対応は……まさか……彼女達を使うんスか?」

 驚愕から絶句した菜桜とは別に、もう間違うまいと瞬時に狙いを読んだ藍々。劉表は薄く目を細めて、ペロリと舌を出した。

「まあな。そろそろいいだろ。あと、曹操にも孫策にも乱世をかき混ぜる為の先手を打つ。オレの判断に全てを委ねろ」

 言い放つと同時に、あーんと口を開けて一つの果実を口に入れた。おいしそうに食べる彼女は無邪気な子供のようであるのに、二人には化け物にしか見えなかった。

「キヒ、キヒヒッ……さあ、悪いことしようぜ♪」

 嗤う哂う、嬉しそうに瞳を昏く渦巻かせて。
 乱世を喰らう悪の龍は、死の淵にして最後の喰い物を見つけた。





 †





 もう、幾度の夜を越えたのか。幾度悔やんだことか。
 ねねの主は元に戻らない。友を信じたのが悪かったのだろうか。主の命を優先したのが悪かったのだろうか。
 全ては我が身の罪。そしてこの冷たい時間は罰なのだ。そう、悲哀を胸に溢れさせていた。
 主に話しかけても何も返って来ない。何かしろと言いつけられると動くが、食事と風呂でさえもねねが言わないと向かわない。自発的には何もしない。
 城に侵入者が入る度に、その鋭すぎる感覚を以って排除して、また部屋に戻ってくるのも、与えられた仕事であるがゆえ。ねねが操っていた無敵の呂布隊は……もう此処にはいないから、練兵をする事も無い。
 そのように、思考を止めて『人形』に戻ってしまった主とは違い、ねねには暖かい光をくれるモノがいる。

「体調は……見るからに悪そうなのです。意地っ張りも程々にするべきと、ねねは優しいので忠告してあげますぞ、龍飛(たつひ)

 流れる金髪は灯りに照らされキラキラと輝き、燃えるような灼眼は優しい色。少女の見た目であっても、自分と倍以上も離れているとは信じ難い事実。
 仮の主である劉表――――龍飛は、自分に向けて苦しげに微笑んでいた。優しく胸に抱かれているねねは、与えてくれる温もりに甘えていた。

 病が与える狂いそうな痛みに耐えながら微笑む龍飛。娘にも、臣下達にも、決して見せる事の無い、誇り高い龍の弱い姿は、失ってしまった『彼女』を思い出させる。

「キヒ……どうやらオレは次の戦くらいで最後らしい。だから……ねね、力を貸してくれ。あの子が幸せに生きられるように」

 胸が締め付けられた。
 此処にいるのは劉表という王では無く、龍飛という母。
 乱世を喰らう王として悪を為しながらも、子の為の最善を選び続ける。それが彼女だった。臣下にも娘にも、王としての姿を示す彼女は、姿は全く違うのに月と同じに見えた。

「ねねと恋殿は何をすればいいのですか?」

 分かっている。尋ねるまでも無い。彼女はあの……偽りの大徳、劉玄徳を大陸の王に据えようとしている。皇族の同血筋である菜桜ならば、配下としても優遇されるは必至。その為に力を貸すのだ、ねねと、ねねの主は。
 腸が煮えくり返りそうな怒りを、抑えつけられない憎しみを、全て飲み込んで力を貸してくれと、そう言っているのだ。
 死に淵の最期の願い。きっと、彼女は今だけしか“龍飛”には戻らない。ねねの前でだけしかその姿を見せない。だから……これが彼女の最期のわがまま。
 ねねと恋を助けてくれた恩がある。でもきっと、ねねの心に湧いている彼女の力になりたいという気持ちは、助けられなかった月への懺悔と同質であるのだろう。

「分かってるくせに、可愛いやつ」

 彼女はねねを子ども扱いしない。ねねをねねとして、頭の出来がどのくらいかを明確に読み取って相応の扱いをしていた。同時に、才に胡坐をかくなとも含めているのだ。
 故にねねは彼女を信頼出来る。恋の為に全てを費やしてきた事を、彼女は月のように読み取って、一人の軍師として扱ってくれるから。
 同時に、楽しげに笑う彼女は、娘を見るようにもねねの事を見ていた。そんな目で見られては、からかう事も出来ない。

「とりあえずお前には憎しみを飼いならす練習として一つ我慢して貰わなくちゃならない。十日前後くらいで曹操のとこに土産を持って行くからな。藍々は使えないからねねだ。鳳雛と話をさせるわけにはいかないんだ」

 全身に鳥肌が立つ。心の内から憎しみが溢れ出る。無意識の内に噛みしめた歯が、ギリギリと音を立てていた。

「ねね達に、あの裏切りモノと、恋殿の心にヒビを入れた男に会えと……そう言うのですか」

 脳髄から溢れる怨嗟は留まる事を知らず、目の前で痛ましい瞳を向ける彼女は関係ないのに、睨みつけなければ気が狂いそうだった。
 ねねは大きな憎しみから、二人を殺したくて仕方ない。
 恋は……きっと二人と出会った時だけ“人”に戻る。憎しみという、最も度し難い感情を思い出して。
 友を殺した男は、何故か恋を恐怖に落とした。だから彼女の心にはヒビが入っていた。
 恋が壊れた最後の要因は……月と詠の死亡報告と……裏切り者が出たこと。

 どうしてあの神速が、皆でまた集まろうと言ったのに、逃げ切れずに捕まり、そして……友の忠義の姿に涙していたはずなのに、敵に降ったのか。
 友への想いはその程度であったのか。主への忠はそんな安っぽいモノであったのか。ねね達はずっと……ずっと信じていたのに。

 だから恋は壊れた。悲哀と憎悪と猜疑心から……全ての感情と意思を凍結させた。
 賊を屠って根城を手に入れた時、彼女は一人で敵を殲滅した。人形のように戦うその姿に、ねねも、呂布隊の者達も涙を零した。
 そして呂布隊は、ねねから解散の言を告げられていた。
 反対は出来なかった。呂布隊にとってねねの言は絶対。さらには最善が何かを一番理解していたのはねねなのだから。
 いくら無双の勇者であろうと、恋は一人の少女。心を取り戻すのに必要なのは……乱世を駆ける呂布隊では無く、平穏な日常であったのだ。兵士達は涙を呑んで、二人の元を去った。いつか、いつか主が戻った時に、また戦わせてくれと願いを預けて。
 故に、呂布隊はもう居ない。

 共に戦う仲間がいない孤独は、より一層ねねの心を憎しみに駆り立てていた。一人で主を支え続けるねねは……憎しみに縋って生きていた。
 そして恋が“人”に戻って二人を殺せば、友を殺したその男と自分は同じになったと気付いて、もはや恋という愛らしい少女には戻らない。
 自分は殺したいが、恋の事を想えば二度と会いたくない。それがねねの本心。

「出会うかどうかは曹操次第だ。それと勘違いしてるのか? 一緒に行くのはねねだけな。呂布は此処に置いて行く」

 瞬時に思考を回したねねはうざったそうに口を尖らせた。

「……袁家の虫は、そんなに集ってくるのですか」
「孫呉もな。最近増えただろ? 虎はオレの事を調べたくて仕方ないのさ」
「居ない隙を突いての戦には――――」
「ならねー、させねー、ありえねー。オレが起きてる以上、虎が自由に動けるわけがねぇんだ。だから牽制も込めて曹操の所に出向く。覚えておけよ、ねね。一つの糸を引いて他の糸も操るのが一流の軍師だ。その高みに辿り着けなくても、自分を相手に状況を置き換えて、自分達がされて嫌な事をしてやりゃあいい。悪戯、いじわる、嫌がらせ……その全てが策になるんだぜ?」

 憎しみが知性の光に呑み込まれたのを見て、自慢げに語り聞かせる龍飛は、師というよりは母に見えた。
 黒いタールのような感情が渦巻いていたはずのねねの心は、その穏やかな表情に救われている。
 恋が哀しい情報を聞く前にこの優しさに包まれていたなら、と思ってしまうのも詮無きこと。
 じくじくと心を苛む悲哀を押し込めて、ねねは龍飛に強い瞳を向ける。もっと、この龍から学ばなければと心に誓って。

「頭に刻み込んでおくのです。それとねねは……龍飛に着いて行きますぞ。恋殿と離れるのは寂しいですが、呂布隊が居ない今、智謀知略でも守れなければ、恋殿の専属軍師とは言えませんからな」
「その意気だ。キヒ……さあ、今はおやすみ。オレはここにいる。お前の気持ちを分かってやれる。お前は独りぼっちじゃないんだ」

 ゆっくりと目を閉じた。
 優しい声音が子守唄のように耳を擽る。頭を撫でる手が温もりを与えてくれる。
 次第にうとうとと、心地いいまどろみが全身を包んでいっていた。

「大丈夫……大丈夫さ。オレが……お前を高みに連れて行ってやる。オレを誰だと思ってる? 天下に名高い賢龍だ。誰よりも……高く飛ばしてやるさ」

 小さな寝息が聞こえ始めた。
 慈しむように一つ撫でた後に、龍飛はねねの身体を抱きしめた。
 そしてそっと……耳元で囁いた。

「憎しみは、なーんにも生み出さない。お前みたいなガキがいつまでも引き摺られていいモノじゃねーんだ。だから、悪いこと全部教えて高みに連れて行ってやるから、憎しみを呑み込んで……幸せになれ。お前はもう、守るべきオレの子なんだから、さ」

 旧き龍では無く母である彼女は……主の為に走り続ける小さな少女の平穏を願っていた。

 
 

 
後書き
読んで頂きありがとうございます。

ねねちゃんのお話。
この物語では彼女も成長します。
劉表、劉琦、徐庶はオリキャラです。
大体キャラの感じを掴めて頂けたら嬉しいです。

物語が動き出します。
ただ、ズレた歯車は容易には噛み合いません。

ではまた 
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