良縁
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第一章
第一章
良縁
海軍少尉伊藤真太郎は海軍兵学校を出て遠洋航海を終えたばかりであった。海軍生え抜きの青年将校としてその将来を有望されていた。
海軍将校というだけでなく背も高く容姿端麗だった。だから実家に帰ればそれこそ大変な騒ぎだった。それはかなり変わった騒ぎであった。
「全くな」
「どうかしたのかい?父さん」
「どうしたもこうしたもない」
彼の実家は静岡の方のごく普通の農家だ。幼い頃より神童と謳われ品行方正で知られた彼だがその家は至って普通の農家なのだ。
「御前が兵学校に行ってからこうなった」
「こうなったって?」
「御前が家に帰るとな。いつもこうだ」
家の外を指し示す。見れば若い女の子や学生が結構見える。
「必ずああして家の周りをうろうろしてくる」
「そういえば中学の時はそんなのなかったような」
「中学は中学だ」
父は言う。見れば伊藤は海軍士官の軍服を着ている。紛れもなく海軍将校である。
「海軍とは違う」
「それは自覚しているつもりだけれどね」
「海軍はな」
父は言った。ごく普通の農家の中で。
「憧れだからな」
「僕もそれはわかってるつもりだけれどね」
またつもりだと言う伊藤だった。話しながら座布団の上に座りちゃぶ台の上のお茶を持った。
「だから入ったんだし」
「入りたいと思って入られる場所じゃないだろう」
海軍は当時はそんな存在だったのだ。
「ましてや兵学校だぞ」
「うん」
「入られるものではない」
東大に入るよりもまだ難しかったのだ。
「そこに入って出ているのだからな」
「だから皆来ているんだ」
「憧れだ」
またこのことを我が子に告げた。
「御前はな。結婚もまだなのだろう?」
「そんな話あったらまず父さんに連絡するよ」
苦笑いしながらお茶を飲んでいる。
「真っ先にね。そうじゃない」
「いつも通りか」
「うん。ところで母さんは?」
「買い物だ」
こう息子に答えた。
「魚を買いに行っている」
「魚ね」
「鯉だ」
笑顔を息子に告げての言葉だ。
「御前の好きなな。どうだ?」
「有り難う」
父のその言葉を聞いて微笑む。
「嬉しいよ。最近食べてなかったからね」
「横須賀にはいい店が多くあるんじゃないのか?」
「忙しくてね」
苦笑いを浮かべて父に述べた。
「外に出る時間が殆どないんだ」
「そうなのか。まあそうだな」
今の彼の言葉を聞いて頷く父だった。
「青年士官はそうだな」
「うん。ずっと船の中にいるよ」
彼は今船の甲板士官をしているのだ。甲板士官とは船の雑務一切を取り仕切る。なりたての海軍将校では最初の仕込みの場である。
「たまに出てもね。艦長達のお供だし」
「宴か」
「うん」
父の言葉に頷く。
「楽しいけれどね。好きなものは食べられないよ」
「そういうものか」
「色々とあるから」
海軍の宴会というものはそうだったのだ。若い頃はあくまでお供なのだ。
「だから。どうしてもね」
「鯉も食べられないか」
「縁がなかったよ」
こういうことだった。
「残念なことにね。食べるのは海のものが多いね」
「まあそうだろうな」
息子のその言葉にある程度納得したという感じで応えた。
「そういうものだろうな」
「まあね」
「わしはそういうことは経験ないがな」
農家にあってはそれも当然だった。宴といえば村の皆で集まって楽しく飲む。そういうものなのだ。海軍のそれとは全く違っているのだ。
「そういうものなんだな」
「うん。だから嬉しいよ」
にこりと笑って父に告げた。
「今こうして鯉が食べられるのがね」
「いつもいいものを食べているのだろう?」
当時の海軍は将校と下士官及び兵士で食べるものが違っていた。将校はかなり豪勢なものを食べていたのである。これはイギリス海軍に倣ってのことだった。
「それでもか」
「だから。好き嫌いは別だよ」
これが彼の言葉だった。
「味はね」
「そういうものか」
「それでさ。父さん」
話をしながら父に問うた。
「鯉はどう料理するの?」
「鯉こくだ」
料理の名を息子に言った。
「それでいいな」
「うん、有り難う」
父の言葉を受けて穏やかな笑顔になった。
「じゃあそれを頂くよ」
「しかし。おかしなものだな」
父は息子と話しつつそれまで思っていたことを口に出した。
「偉くなっても好きなものは食べられないものか」
「うん」
彼もまた父の言葉に頷く。
「そうみたいだね、本当に」
「世の中は上手くいかないものだな」
「そうかな。上手くいってるじゃない」
「そうか?」
息子の言葉に首を捻ってしまっていた。
「そうは思わないがな」
「だって僕がさ」
「ああ」
「海軍に入ったんだよ」
微笑んで父に告げたのだった。
「しかも兵学校に。卒業して今もこうしてここいいるしさ」
「確かに凄いがな」
それだけ海軍、しかも兵学校に入るということは凄いとされた時代だったのだ。だから父も息子のこのことを振り返って凄いと言うのだ。
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