雲は遠くて
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8章 美樹の恋 (その4)
下北沢駅のホームは、
1週間前の、2013年3月23日の土曜日から、
地下に移ったばかりだった。
下北沢駅の、直近の駅、
世田谷代田駅、
東北沢駅のホームも、地下に移った。
下北沢駅では、23日の始発から、地下鉄のように、
地下3階にある新ホームへ、電車が到着した。
改札は、地上に2カ所ある。旧南口の階段を、下りた近くに、
新しい南口。
北口は、これまでの北口から、
井の頭線寄りに、新しくできた。
23日の早朝からは、ラッシュ・アワーの渋滞の原因だった、
開かずの踏切がなくなった。
おかげで、人や車の通行が、スムーズになった。
地上の使用しない線路は、半年ほどかけて、撤去される。
いまも、廃止になる地上の駅のホームや踏切に、
惜しむように、カメラを向けるひとたちがいる。
「下北も、変わっちゃうね。これでいいのかな。
おれは、前のままの駅も、好きなんだけど・・・」
北口の改札を出ると、立ち止まって、ふり返って、陽斗がいった。
「きれいになって、便利になるんでしょうけどね。
新しい駅のデザインとかにも
反発している人も、多いらしいわ。
『おでんくん』の、リリー・フランキーさんとか、
坂本龍一さんやピーター・バラカンも、
再開発には反対らしいし・・・」
美樹も、廃止となってしまった駅を、眺めながら、そういった。
「ぶらぶら、のんきに歩ける街並みが、
無くなっちゃうのは、どうもね。
自動車とかを優先させて、
街を、効率よく、整理整頓
させたいんだろうけど」と陽斗。
「わたしも、いままでのままが、好きかな・・・。
はるくん、はるくん、
この近くの神社の、
いま、ちょうど、満開のころの、
桜でも見に行こうよ」
ふたりは、陽斗の家でもある、
ジャズ喫茶・GROOVE(グルーヴ)から、
3分くらいのところの、神社へ向かった。
神社の庭には、樹齢20年ほどの、
高さ10メートルくらいの染井吉野が、
1本、植わっていた。
4月7日で、散り始めだったけど、
まだ半分くらいの桜の花が残っていた。
桜は、天気も良く、青空のなかに、
華やかに咲きほこっている。
「同じ生きものでも、桜とか、植物って、
平和だよね、美樹ちゃん。
それにくらべて、人間の世界は、いつだって、
戦争はあるし、貧困や格差があったりして、
次から次へと、問題ばかりで、
なかなか、こんなに、きれいに、生きられないつーか」
「そうよね、桜とかも、生きていて、
幸せって、感じることが、あるのかしら」
美樹は、陽斗を見ると、明るくほほえんだ。
陽斗も笑顔になった。
陽くんは、きっと、だんだん、有名になって、
すてきなピアニストになっていくんだろうなあ・・・。
美樹は、男っぽい凛々しさと、
純粋で、こわれてしまいそうな、ナイーブさのまじった、
陽斗の笑顔を見つめながら、そう思った。
陽斗は、世の中のこと、人生のこと、
哲学的なことなどを、ひとの何倍も考える、
ちょっと風変わりな、タイプの男子であった。
自分のことよりも、友だちのこと、世の中のこと、
そんなことで、考えこんだり、悩んだりするので、
高校時代をいっしょに過ごした美樹は、
よく、陽斗には、ひやひや、心配もさせられた。
けれど、そんな、陽斗のやさしさが、
女心をくすぐる、美樹の好きなところだった。
最近の陽斗は、そんな自分の、やさしすぎる癖を、
客観的に見つめられるようになっていて、
そんな自分自身を、笑いとばしてしまったりと、
ユーモアのあるオトナとして、少しずつ、成長していた。
陽斗の父親は、知名度のある、ジャズ評論家であり、
ジャズ喫茶のオーナーであったり、
母親は、私立の音楽大学の、
ピアノの准教授。
そんな家庭環境も多分にあるが、
陽斗は、20歳という若さで、
すでに、新鋭の才能のあるピアニストという評価を
世間から得つつあった。
ふたりが、高校のころから、立ち寄ってきた、
神社の境内には、
白や黄色の山吹や、
大紫ツツジとかも咲いて、美しかった。
≪つづく≫
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