分裂
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第三章
第三章
「その間に決めるから。待っていて」
「うん、待ってるよ」
ペテルは微笑んで彼女の言葉に頷くのだった。
「君が帰るのをね。待ってるよ」
「有り難う」
こうしてエディタは祖国に旅に出るのだった。まだ分裂していないがそれがもう決まっていて祖国になった国の東半分に。電車で静かに向かったのだった。
「行ってらっしゃい」
「ええ」
二人が住んでいるアパートの一室を出る時に別れの言葉を交えさせた。部屋の窓から見えているプラハの景色は相変わらず美しい。しかしそこに見える色はくすんだものだった。空は暗く重い雲がたちこめていてそれが一層景色を暗く見せているかのようだった。
「祖国を見てくるわ」
「それじゃあね」
エディタは彼に別れを告げて祖国に向かった。電車はプラハを発ちそのうえでスロバキアに向かう。電車での旅は静かで落ち着いたものだ。そして車窓から見える風景は。見渡す限り緑であった。
「これがスロバキアなのね」
エディタは最初にそれを祖国だと思った。
「緑の多い国だって聞いたけれど」
進む限り窓からは森ばかりが見える。その深い緑を見てまずは微笑むことができた。
「いいわね。緑も」
彼女は木が好きだ。だからそれには抵抗がないのだった。
だからそれには抵抗がなかった。食堂車で食事を摂っている時に丁度向かい側に座っている老婆もその緑を見て目を細めさせていた。
「いいわね、やっぱり」
眼鏡をかけたその目で言うのだった。
「この緑が。やっぱりスロバキアよ」
「これがスロバキアなんですか」
「そうよ」
老婆は彼女の言葉にも応えてきた。その声も穏やかな笑顔であった。
「これがスロバキアなのよ。緑が多くて静かな国でね」
「そうですか」
「チェコとは違うのよ」
この言葉から老婆もまたスロバキア人であるとわかる。少なくともスロバキア人であるエディタにはこれだけで充分なのだった。
「この国はね。スロバキアなのよ」
「スロバキア、ですね」
「貴女もそうね」
老婆は今度はエディタの顔を見て言ってきた。
「貴女もスロバキア人ね」
「あっ、はい」
少し戸惑ったがそれでも返事を返すことはできた。
「そうです。プラハに住んでいますけれど」
「私もそうだったわ」
老婆はこうエディタに答えてきた。
「長い間ね。あの街にいたわ」
「そうだったのですか」
「いい街ね」
彼女もそれは否定しないのだった。しかしそれでもその顔は笑ってはいなかった。
「けれどね。あそこはチェコだから」
「スロバキアではないのですね」
「私はスロバキアに生まれたのよ」
彼女はこのことを強調するようにエディタに話すのだった。
「そして一つになるまでいたのよ」
「一つになるまでにですか」
「ええ。スロバキア人だったわ」
チェコとスロバキアは二次大戦の終結までは分裂していた。しかもチェコはナチスドイツに併合されていたこともある。複雑な歴史を歩んでいる国でもあるのだ。
「その国で生きていたけれど」
「それで一つになってプラハに行かれたんですか」
「そうよ。仕事を求めてね」
それはよくある話だった。仕事を求めて街に出るのは。それは何もこの国だけのことではない。どの国でもある話なのである。何時の時代でもだ。
「プラハに出てそこで結婚して家庭を持って」
「そうだったんですか」
「それからずっとだったわ」
話す老婆の目は遠いものを見ていた。
「ずっとプラハにいたわ。何十年も」
「長かったのですね」
「けれど子供達は独立して主人も亡くなって」
語る目に悲しさも宿った。愛する者が旅立ち亡くなったことに対する目である。
「それで私だけになって」
「スロバキアにですね」
「やっぱり私はスロバキア人だから」
このことをまた話すのだった。
「スロバキアに戻るわ。そしてそこであと少しだけいるの」
「そうですか」
「この窓から見る限り変わっていないし」
実際に東ドイツでは昔ながらのドイツが残っていると言われた。こえは共産主義の経済発展の遅れのせいである。その為に昔ながらのものが強く残ったのである。
「懐かしい祖国でね。静かに余生を過ごすわ」
「それが楽しみなのですね」
「そうよ。貴女はどうかしら」
老婆は今度はエディタに顔を向けて問うてきた。
「貴女もスロバキア人よね。どうするの?」
「私ですか」
「祖国に戻る為に来ているの?」
今度はさらに具体的に問うてきた。
「それだったらこのまま」
「私は」
俯き戸惑っていた。しかしその中でそれでも言うのだった。
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