つぶやき

水音
 
簡単な質問です。世界は何を中心に存在していますか?
 *注:文量がつぶやきレベルではなく、所々日本語がおかしいので、閲覧注意。

 まずタイトルの通り「世界は何を中心に存在しているか」という質問。
 あなたが考えた答えはマントルですか? 地軸ですか? 人間ですか? 命ですか?


 …そもそも最初の質問自体に欠陥があることに気づいていましたか?

 質問内における「世界」とは何のことか、「世界」の定義を変えることによって、答えは幾許か変わるはずです。「世界=古来より人類が構築してきた様々な社会構造の集合体」なのか、「世界=ある一定量の物質群によって構成されている存在(cf.=宇宙、地球)」なのか、私たちが一般的に使っている「世界」は前者であることが多いと思いませんか?
 たとえるなら「世界経済」と「異世界」という単語内における「世界」の定義は違っています。「世界経済」は、経済とは複数の社会構造(cf.交易・取引相手)が存在していなければなりませんが、「異世界=異なる社会構造の存在する世界」では必ずしもないのです。異論があれば、いつ、誰が、「異世界」はそうでなければいけないとしたのか教えてください。まず社会構造が成立するには一定の知恵を持った同類・同質の存在が複数必要なのです。資本主義にしろ社会主義にしろ、民主制だろうが共和制だろうが独裁制や絶対君主制だろうが、です。
 要は、人間が一人いたところで社会構造を有する「世界」は存在できないと私は思っています。よく「一人の世界」または「個人の世界」という比喩表現がありますが、あれは「領域」という意味であって、万物に対して排他的になっている自身を客観視した表現方法だと思っています。



 そして話は変わりますが、特に一人称視点チーレム無双オレ主TUEEE作品にありがちなチョロイン群について。
 (個人的には、わざわざR-15タグつけてハーレムやりたいんなら『Toらぶる○ークネス』クラスの濡れ場の一つ二つ入れてほしいんですが…)人の心はニコポ・ナデポできるくらいそんなに簡単ではありません。あるとしたら魔法か強力な催眠か…どこか成人男性向け凌辱ゲームの定番ネタくらいでしょうね、たぶん。
 私は、人間は理由がないと動けないものだと思っています。他の人や物を大切に守ろうとするのも、愛するのも殺すのも、理由がないとできないと思っています(一目惚れや突発的・偶発的な殺人のケースは除いて)。要は「一部不可能な領域はあるものの、感情は理性で制御できる」と考えている派です。生存本能やそれゆえの反射行動も、すべて「自分の身を守るため」という最大の理由があってこそ今の世まで引き継がれてきた人間の能力だと思っています。
 そこで思うのが、チョロインがチーレムオレ主が惚れる理由は何ですか? ということ。
 前述の通り、一目惚れなら私も理由は詮索しません。「Love is blind」という諺もありますからね。ただ同時に前述の通りニコポ・ナデポは魔法か催眠能力の延長線上としか思えない点があります。しかも往々にして主人公の人格に惚れたとしても大抵が鈍感難聴なヤレヤレ主人公であって、それ以上の深い描写がなされていないので、冷静に考察すると、どうしてこのチョロインはこのオレ主に惚れるのかという謎が発生してしまいます。
 個人的には、自身をその主人公に置換しても違和感しか生まない謎はストレス以外になりようがないわけです。


 さて、実はここから本題です。前述二つの話を合わせて「『理由』を持たない・持てないゆえに動けないチーレム無双オレ主は世界の中心として存在できるか」という疑問、おそらく「(物語)世界」の中心として存在出来るのであればチョロインから惚れられる理由にもなりそうですが、あなたはどう考えますか?
 
水音
 
またしても貴重なご意見ありがとうございます
返信内容から見るに、おそらく私の質問の意図を理解されています。

根拠なき感情のくだりは私も賛同します。ただ、感情と理性の関係性が歪んだ光様と私との大きな差異ですね(数式的に示すと『感情=理性』か『感情<理性』というところでしょうか)。
難しい題材ですが、こうして他者の見解に触れられる場所は少ないですから…。


最後に。
くどくて煩雑な私の言い回しは、単にリテラシー能力の無い人に語謬や錯誤を起こさせて自分の逃げ道を用意するためのものです。
私自身の日本語の知識も怪しいですが。 
歪んだ光
 
実は何日も前から考えあぐねていました。
突然の書き込み、失礼します。このつぶやきは数日前に見かけたものの、内容がとても難しく自分の中で意見を纏めるのに苦労していました。こちらの理解が及ばないところもあったので、水無さんが違うと思われた所はご指摘下さい。

社会というのは、多少語弊の混じる言い方ですが共同体と換言出来るので、“社会構造を有する世界は複数の人が存在しなければならない”というのは確かなものです。ただ、ここで定義される世界は非常に具体的であり、「私の世界」を語るには、後者は抽象的なので不都合があるのではないかと思います。例えば認識論を中心とした時、オレ主が今の状況を認識することで物語としての世界は形成されます。この認識論を延長させると、とりあえず「私の世界」も存在できます。もっとも、この世界論は観念的過ぎて、認識しないものには無頓着であるという指摘を免れません。物語としての世界論はこれで良いでしょうが、少しつまらないので議論を包括的にします。
包括的世界の中心は何か。要は、物語としての世界や、共同体としての世界の最小公倍数は何かという議論です。証明が長くなるので論証は割愛しますが、あらゆる物事の背景には感情がこめられていると思われます。例えば、支配構造の根拠にもそれを承認する肯定的価値判断があり、認識論も、中心となる人物の感情によって、何が背景になり何が主題となるかが決定します。
次に人間の感情ですが、理性と感情は対等であり、どちらも主従関係は結べないと思われます。と言うのも、空腹は理性では誤魔化せないし、論理は感情によっては補完されないからです。持論ですが、理性と感情は両議的であり、行き着く先に一議的存在である「私」がある筈です。私が全ての原点あるとき、そう考えるのも私だからであり、そう感じたのも私だからです。つまり、登場人物の感情理由に対し説明義務を負わないとする考えです。言うなれば「赤き真実」。ただ、その代わり筆者は読者がそう推測出来るための描写を前後に散りばめておくべきですが。物語である以上根拠無き感情はルール違反ですし。
では、最後に。
世界の中心を感情だと仮定するなら、それは「私」を背後に控える現象を中心とした、非常に移ろい易いもので具体的な物は中心に成りにくい。しかし、「私の世界」においては自分を中心に置く以上、オレ主は世界の中心になり得る。これが結論です。長々失礼しました。字数が1000を越し言葉足らずとなって申し訳ありません。 
水音
 
貴重なご意見ありがとうございます
普段から言葉足らずで余計な一言が多いせいでゲスパーされやすい私が、非難轟々、嫉妬乙とか書き込まれて当然な内容をぶちまけたにも関わらず、丁寧な返答があったことに驚きを禁じ得ません。

実際、私が知らない・気づかないことは多々ありますし、揚げ足を取られたならそれは理論として不完全であって修正すればいいだけのことです。

あと、釈明すると私はメアリー・スーが嫌いではありません。ハーレムや転生ものもそれなりに読みます。たとえば有名どころで義妹や八男、異世界迷宮や謙虚は私も好きですし、ノクタにもいくつか私の好きな作品があります。
また、チーレムだろうと他者から評価されている点は素直に羨望の対象です。個人的嫉妬も多少ありますが……。

本音は、私が苦手なのは猪突猛進でもないのに短慮なキャラであって、憎い相手がいたからエターナルフォースブリザード()放ってとにかくSEKKYOな言動が生理的に無理なだけです。もちろん私の駄作にもそういうキャラはいますが、精神的異常性を伴わせたうえでそういう言動を取らせています。チーレム()を引き合いに出したのは、そういう類の話において、メアリー・スーが何の目的もないまま、プレゼントされたチートだけでニコポ・ナデポしてハーレムを構築する展開が多いという印象を受けざるをえないからです。
そんな自分から何も考えず何も目的として持たないメアリー・スーたちと前述した義妹、八男、異世界迷宮や謙虚の主人公と違うのは、明確な目的の達成のために日々切磋琢磨して(義妹が微妙に違うかな?)いる点でしょうか。


…と、まだ長くなりそうなので、返信はここらで割愛します。
改めまして、返答ありがとうございました。 
KT@ヘタレの人
 
ふむふむ
 コメント失礼いたします、KTと申します。
 あんまりこういったコメントに対する意見って暁では来ないですよね。
 もっと意見交換が積極的になればいいのに、と常々思っています。

 僭越ながら自分の意見をば。


●世界の中心って?

 正直、考えたことなかったですね。というか、「そんなものがあるのか?」というのが自分の抱いた感想です。水音さんの言う通り、「周囲の環境」が無ければ世界は存在し得ない、そして周囲というのはいろいろなものが絡み合って作られています。であれば、一概に「ここが中心だ!」とはいえないんじゃないか、と。

 ただし、これには揚げ足が取れまして、「どこでも中心と断定できない」イコール「どこでも中心だと否定できない」のではないかと。つまりは物語の中心(世界の中心、とまではいえませんが)を作者の考えた「主人公」にするのは決して不可能ではないのでは、と。たとえそれがどのような脇役人間であろうと欠陥人間であろうと、です。……このサイトで「脇役の物語」を書いているものとしてそう主張したい(笑)


●チート無双でニコポ連発チョロインってどうよ

 おそらく「吊り橋効果の極端な例」と考えるのが一番なのでしょうかね。この手の主人公はえてして無茶苦茶強いです。あるいは無茶苦茶な特殊能力をもっていたり、無茶苦茶な特色があったりします。その力をヒロイン達の前で……それも殺されそうになっていたり大変な目にあっていたり精神的に不安定な状態のヒロイン達の前でどーんと披露するわけです。そりゃあ多少……というかどれほど人格に問題があろうと彼女らはその人に興味を持つでしょう。「ニコ」やら「ナデ」やらされた日にゃあ一目ぼれぞっこんのチョロインにもなりましょう。……という感じでしょうか。

 このあたりは、自分も殺されそうになったところを通りすがりのヒーローに助けてもらった経験はない(笑)のでその際の「吊り橋効果」がどれほど強く働くかは具体的にはいえませんが、「それは盲目的に恋するほど強い」と主張できなくはないかなあと思います。

 ……で、それをふまえて。
 昨今確かに違和感を感じるほどの「チョロイン」は増えている気がします。おそらくこの「吊り橋効果」を拡大解釈して「強い力、特殊な能力を見せ付ければヒロインは恋愛感情を抱く」と捉えてしまっているのかなあ、というのが自分の感想です。


 別の視点からの見方としては、こういった「強いものに好意を抱く」を、動物的な本能としても捉えられます。もう少し言えば、生きるか死ぬかの世界……「人間的な感情」が麻痺してしまうほどの世界であれば、人間でも動物と同じようにこの感情を抱くのでしょう。なので『剣と魔法のダークファンタジー』だの『生きるか死ぬかのデスゲーム』だのの世界ではあまり違和感は無いように思います。

 これには水音さんのおっしゃるようにそれにふさわしい「世界」が不可欠です。そりゃあこの現実の日常で、たとえば明日隣の席の山田君が壁を素手で殴り砕いて『ニコ』しても自分は『ポ』とはなりません(笑)。違和感を感じるのはこのあたり、「世界観がニコポにふさわしくない」のかもしれませんね。


 最後に本題への自分なりの感想として。
 「『理由』を持たない・持てないゆえに動けないチーレム無双オレ主は世界の中心として存在できるか」。私としては「できます。ただしそれには、それにふさわしい世界が必要となるとはおもいます」でしょうか。


 蛇足ですが。昨今は「自分と重ね合わせて感情移入できる主人公」よりも「自分(ていうかこの現実世界の人類)では届かないような特異な存在である主人公」のほうが好まれる傾向ですね。これはまあ一種のブームであり、時代に合う合わないの問題だと自分は割り切ってます。自分は「主役になれない脇役の物語」をこのサイトで投稿しております(笑)