それが君の”しあわせ”?
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もすれば後退の時間なのだ。それ位頑張って―――でも、いずれは夫とああいう事をしたいなと心の隅で憧れるのだった。
= = =
「ねえ、この場合さ・・・私とアンタはどっちが幸せなのかな?」
「・・・・・・?」
咀嚼を済ませて麺と肉を呑み込んだ私は、間宵の言葉の真意を測りかねて首を傾げた。どっちが幸せとはどういう意味なのだろうか。金銭的?人間関係適?家庭・待遇的?それとも今という時を楽しんで生きているかという哲学的な問いなのだろうか。
私のリアクションから自身の言葉足らずに気付いたのか、間宵は質問に補足する。
「いや、味の違いが分かる私と分からないアンタ、どっちがこの場合幸せなのかってこと」
「それってどっちが幸せとかあるの?」
「例えばおいしい店と不味い店があったとするじゃない。アタシだとこの場合美味しい店じゃないと満足できない訳よ。でもアンタだとどっちの店でもある程度満足を得ることが出来る・・・それって、グルメな人の方が精神的に損してない?」
つまり間宵はこう言いたいわけだ。不味いものでも美味しいと感じて、美味しいものも美味しく食べられる人間は味の違いが分かる自分よりも得な生き方をしているのではないかという事を。そう悟子は推測した。
不味いというのは精神的にマイナスへ転じる。不味いものも気にせず食べられればそれはプラスだ。美味しい店の効用を+2、不味い店の効用を-2とすると、間宵の効用はプラスマイナスがゼロになる。悟子の場合は+1と+1で2の効用。分かりやすく数値に表すとそんな所だろう。
人は高カロリーなものほどおいしいと感じる味覚を持っている、と言われている。自然界は食物連鎖で成り立っているから必ず食べるものにあり付ける保証はなく、その中でより栄養価の高い餌を求めるように味覚が変化したのだとか。苦味も毒や栄養価の低いものを極力避けるために遺伝子にそう感じるよう組み込まれたのだろう。そう考えれば、生物学的観点からより本来の動物の在り方に近いのは間宵だ。
だが人間の社会には食べ物が溢れており、餓えることはまずない。むしろ飽和状態だからこそこのうどん屋の様な飲食店が乱立しているのだ。そんな中では味の違いをいちいち気にするより、取り敢えず食べて満足できる味覚の方がより少ないストレスで食事を行える。そう考えれば現代に適した味覚は悟子だった。
しかし、それは物の視方の一面でしかない。悟子はそのことをよく知っていた。
「ねぇ、中学の時のキャンプ覚えてる?」
「え?えー・・・あれでしょ?夏休みに周りの子たち集めて行ったけど、集団食中毒になってお開きになった奴」
「うん。お昼に出たお弁当が痛んでるのにみんな気付かないで食べちゃった奴」
「また唐突に懐かしい話を持ち出したわね・・・」
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