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喫茶店
第一章
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賀子はそれを否定しなかった。
「それに」
「それに。何だ?」
 最後に妻の言葉を聞いてみる気になった。彼女に顔を向けた。
「一度敗れても。御身さえあれば」
「また。戦えるというのだな」
「はい」
 妻はそう答えたうえでこくりと頷いた。
「ですから。今は」
「生き恥を晒せというのだな、わしに」
「そう取られるのなら構いませんが」
 千賀子の言葉は何時になく沈痛なものであった。
「ここは。文子の為にも」
「・・・・・・それも天命か」 
 北条は観念したように呟いた。
「生き恥を晒すのも。だがきっと汚名を晴らす時が来るな」
「はい」
 妻は言った。
「その時を。お待ち下さい」
「わかった」
 彼は遂に刃を収めた。
「では今は。思い止まろう」
「有り難うございます」
「しかしだ」
 だがそれで話は終わりではなかった。彼は妻に対して言った。
「おそらく軍は解体される」
「はい」
 これはもうわかっていた。少佐という階級にある彼にはそれなりの情報が耳に入ってきていたのだ。
「わしは今後公の職にはつけんだろう。ではどうするのだ?」
「それでしたら私に考えがあります」
「何だ?」
「喫茶店です」
 彼女は言った。
「喫茶店か」
「それでどうでしょうか」
「千賀子」
 彼はあらためて妻の名を呼んだ。
「御前の好きにするがいい」
「宜しいのですか?」
「宜しいも何も今わしの命は御前に預けたも同然だ。ならばそれに従うのが道理だ」
 彼は腕を組んでこう述べた。今切腹を思い止まらされたのだからそれに従うことにしたのである。彼もまたその覚悟はしていたのだ。
「ならば。御前がすることに反対はせぬ」
「はい」
 千賀子はそれを受けて恭しく頭を垂れた。
「しかしだ」
 だがここで一言付け加えた。
「わしのことはいいが文子を悲しませることだけはするなよ」
「わかりました」
 こうして千賀子は喫茶店を開くことになった。喫茶店といっても店はなく、闇市に大きな木箱を置き、その上に所々がへこんだやかんに水を入れ、田舎や進駐軍の裏手を回って何とか調達してきた蜜柑とコーヒー、そして精々金平糖を置いているだけのものであった。あまりにも粗末な喫茶店であった。
「これで上手くいくのかな」
 北条は開店した時せっせと用意する千賀子と文子を見て心の中で呟いた。彼も喫茶店のことは知っている。戦争になるまで帝都にあった多くの店とは比べるのもおこがましい、あまりにも粗末な店であった。
 だがそれでも千賀子と文子は真面目に動いていた。自分よりも妻によく似た可愛らしい娘もまた元気に働いているのであった。


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