十幕 Lost Innocence
3幕
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ノックの音がしたが、エルは答えなかった。
ドアが開く。外の灯りが少しだけ部屋を照らして、消える。それから客室そのものの灯りが点けられた。
ドアの前に立っているのは、夕飯を持ったルドガーだった。
「エルが腹空かせてるから持ってってやってくれって頼まれた。フェイに」
ルドガーは部屋に入ってきて、ベッドサイドテーブルの上にトレイを置いた。
「フェイ、が……」
最愛の父を殺した、最愛の妹。
白い白い妹。父の胸を貫いた手だけが、冗談のように、真っ赤だった。
「――、ちゃんと冷ましてきたから持てる思うけど、気をつけてな」
ルドガーがエルの前に片膝を突き、スプーンを載せたスープ皿を差し出した。
エルは衝動に任せてスープ皿を弾き飛ばした。
皿が転がって中身を床にぶちまける。
「こんなのちがう! エルが食べたいパパのスープじゃない!」
魔法使いのように、どんな食材も綺麗に切ってしまう父の手。
何時間も煮込んで、その間は火が点けっぱなしだから近づいてはいけない、と優しく注意された時の声。
時間が経つにつれていいにおいがして、フェイと一緒に何度もキッチンをこっそり覗いた。それが見つかって、二人できゃあきゃあ言いながら逃げるのがお約束。
思い出は、とめどなくエルの中に溢れて。
「パパは、エルのパパはッ!!」
「エル!!」
気づけばエルの小さな体はルドガーに抱きすくめられていた。
「――逃げようか、エル」
「ルドガー…?」
「メロドラマの駆け落ちみたいにさ。エルと俺で、誰も俺たちを知ってる人がいない土地に行くんだ。もちろんフェイも一緒に。そんで、日当たりのいい小さな部屋でも借りて、3人で、暮らそう」
ルドガーの笑顔は明るくて。未来には苦しみも悲しみもないと錯覚しそうになるほどで。
夢想した。ルドガーの語る優しいばかりの未来絵図。叶ったら自分もルドガーもどんなにか幸せになれるだろう。
ルドガーはきっと彼の全てを懸けてエルとフェイを幸せにしてくれる。エルもかけがえのないパートナーである彼と、この世でたった一人の妹を、エルの全部で幸せにしたい。
叶うはずがない、ただの慰め、絵空事の未来図。
だとしても、あえて言葉にしてくれる――そんなルドガーが大好きだった。
幼くピュアなココロの結晶。父の死と共に砕けてもう戻せない。
けれど、精一杯の言葉をくれた彼に応えるくらいなら。
「エルも――エルも、ルドガーといきたい」
ルドガーは感極まったようにエルを抱き締めた。きつく、きつく。歓喜とも苦悩とも取れる抱擁。父とは全く違う抱き方。
エルもルドガーの背に両手でしがみつき、肩におでこを押しつけた。
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