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『ステーキ』
ヨシユキの話
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は三十二年の歳月をかけてゆっくりと吉之を、吉之たらしめていた。
僕の中にある僕としてのプライド。吉之はそんな場所で生きていた。
壊れる程度の弱い自尊心などないと思っていた。それは恥ずかしいものだと思っていた。例えば陰茎が人より大きいとか。そんなものだ。ヒビが入ってから気づいた。人を性欲なしで想うということがひとつ、僕の他人に誇れるところだったんだな。俗にまみれた笑顔に唾を吐き、自分ならもっとうまくやれると思いながら。
その自尊心のヒビは吉之の顔を硬くして童貞を表す。サツキさんのエロティックな唇が、気持ち悪く心を乱していた。この手の感情が柔らかく心を温め、爽やかな性欲になることを知らないのだ。
ヒビ割れた殻のすきまから吉之が漏れ出て、過去の日々が薄い、血の通わない物語に変わってゆく。ヒビの入ったその殻に新しい膜を作るために吉之の心が動こうとしている。プリリとしたおっぱい。まだ遠い。何かをしなければ。
 世の中に絶対的なプライドなんてありはしない。そう思う吉之はとても頭がいいのだ。漏れ出たものを、また元通りに収めることなんて出来はしない。仮に元通りになったと思ってもそこには完璧性がなくなっている。そのことを知る人は少ない。そう吉之は思い少し慢心した。

 席を立ったサツキに吉之は「ありがとうございました」と言う。ピタピタの薄いシャツにダウンジャケットを羽織って、背を向けて彼女は歩いていった。その細い足首に平べったい靴を履いている後ろ姿は、トナカイのようだった。

 サツキさんが席を立ってしばらくカントクは感情の無い顔で黙っていた。その沈黙は怒りとか憤懣、敗北などが混ざっているんだろうな。いや、そんなに上品なものじゃないかもしれない。何せ、カントクの股間は明らかに膨らんでいたから。勃起してたんだね、カントク。
 大きな窓のカウンターに一人の男がいるのが目にとまった。頭を短く刈り込んだ、猫背の男だった。顔を見ることが出来ないから、歳の頃はわからない。首筋を見るとまだ肉に張りがあるからそれほど老いてはいないのだろう。
「もう出ないか?」とカントクが言った。胸の奥から響く低い声だった。
「もう一杯、飲んで」と僕が言う。
 そのやり取りに僕は、触れちゃいけないものがあるんだな、と感じている。心の奥深くを悟られてはいけない人が出す声。自分を乱すものを力でなだめようとする声。カントクはとても敏感。僕がフラれたっていうのにさ。カントクの勃起はおさまったようだった。
 そこに、友人が笑いながら走って来た。大きな窓の向こうから手を振って自動扉をちゃんと待って、それでも彼は走ってやってくる。友人はテーブルに手を突いて、カントクの顔をむき出しの眼球で見つめている。
「あのさ」と息を弾ませて言う。「音楽。音楽聴くと金儲かる。知らない?」嬌声。「人間の脳ってつ
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