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無明のささやき
第十一章
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続けた。見ると嘔吐物に血が混じっている。まだまともに息が出来ない。ぜーぜーという息を繰返した。死を意識した時は悦楽、生を意識した途端、苦しみ。生きるということは常に苦しみを伴うようだ。
 飯島は洗い場で呼吸を整えた。立ちあがってシャワーの蛇口を取り、血の混じった嘔吐物を流した。そして温水を体全体に浴びた。苦しさが去るのをじっと待った。10分もそうしていただろうか。
 面白いと思ったのは、鏡に映る自分の顔がまるで他人のように感じられ、しかも、その顔を自分の目で見ていないことだ。頭の10センチほど上からそれを見ている。徐々にそれが降りてゆき目に重なった。くくくと笑った。そうか、魂が体から少し離れかけていたのだ。
 飯島は、朦朧とした頭で考えた。死は甘美なのかもしれない。死の予感を感じてから、恍惚が体全体を包んだ。それまで経験したこともない感覚を味わった。お袋の声で湯船から顔を出さなければ、更なる恍惚が待ちうけていたかもしれない。
 神は優しい。神は人間の体を優しく包んでいる。死に際しては、苦痛を和らげるように配慮している。飯島はそう直感した。脳内麻薬物質が分泌され、死に伴う苦痛や恐怖を、えも言われぬ恍惚へと変貌させてしまうのだ。
 飯島は或るシーンを思い出した。それはテレビで見た野生動物のドキュメンタリー番組だった。インパラの群れに一頭のライオンが近付いてゆく。インパラは一見小鹿のような外見をしているが、抜群の跳躍力と瞬発力を持った小動物である。
 とその時、一頭のインパラがライオンに近付き、その目の前で踊るような仕種をみせた。なんとライオンを兆発しているのである。さあ、捕まえられるものなら捕まえてごらん、とばかり二本の前足を前後左右に踊らせているのである。
 この無謀な挑戦は、何を意味しているのだろう。このインパラは恐怖以上の感情に突き動かされたのは確かだ。最後は無残な結果に終わったのだが、ライオンの鋭い牙に喉を刺し貫かれた時、彼の脳は恍惚に満たされていたのではなかろうか。
 飯島は居間に戻るとウイスキーの瓶を取りだし、グラスに注いだ。それを一気に飲み干し、酔いの冷めかけた脳に再び本物の麻薬を流し込んだ。そして呟いた。
「分かったよ、お袋、死ぬまで生きてやる。」

 佐久間の脳の片隅に残された正気が一瞬蘇った。記憶を手繰り寄せれば、飯島の表情は嘘を言っているとは思えない。飯島は種がないと叫んだ。本当なのだろうか。もし本当だとするなら、愛子の父親は誰なのか?
 だが、眠っていた狂気が再び目を覚まし、正気は急激に萎む。いいや、飯島は嘘をついてる。愛子の父親は飯島に違いない。もし、そうなら、どんなことがあっても許すわけにはいかない。どこかに、その証拠が、その痕跡があるはずなのだ。
 いや、そんな証拠も痕跡も、どうでも良い。殺してしまえ。佐久
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