第十一章
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っていた。広い湯船にあお向けに寝ている格好である。最初、視覚はぼんやりとした青色を捉えていた。何を見ているのかを認識するまで時間がかかった。
飯島は顔を傾け浴槽のブルーのタイルを見ていたのだ。タイルを縁取る白い目地まではっきり見える。夢か?いや違う。意識の明瞭さ、目に映る現実は夢とはまるで違う。ふと、水面を見上げた。タイルの色に照らされ水面が青く輝いて見える。
さらに水面の上に視線を移すと、水道の蛇口があり、そこから水滴が落ちた。水滴は水面を突き抜けたがすぐに押し戻された。と同時に、水面に小さな輪が生じ、それが同心円状に広がって行く。
じっと見ていると、再び水滴が零れ、水面を揺らした。またしても同じ情景が目の前に映し出されてゆく。静寂の世界で繰り広げられる周期的な波動。この世のものとも思えぬ美しさが広がっていた。飯島は飽かず眺めた。
その時、自分が息をしていることに気付いた。水の中で息をしている。何故そんなことが可能なのか、不思議に思った。けれど、そんな現実を自然に受け入れた。恐らく死にかけているのだう。死の淵に一歩足を踏み入れていると直感した。
甘美な感覚が体全体を包んでいる。この感覚をどう表現すれば良いのだろう。肌と、それを包む液体との境がしだいに消えうせて行く。液体に体が溶けてゆくようだ。甘美な感覚はさらに増している。
瞼が重くなり目を閉じた。恍惚が体全体を包んでいる。えもいわれぬ恍惚、今まで味わったことのない悦楽、いったいこれをどう表現すればよいのだろう。肉の悦楽ではない。むしろ肉から開放される悦楽なのだ。
末端が周囲に溶け始めた体は広漠たる宇宙に浮かんでいる。毛細血管があたりに散らばって、心臓の鼓動とともに血の飛沫が空間に吸い取られて行く。なんという悦楽だろう。何と言う開放感だろう。
このまま死ぬのも悪くはない。そう思った時だ。
「駄目よ、仁、起きなさい。自殺は駄目。」
脳内にその声は響き渡った。
飯島は現実に引き戻された。お袋の声が聞こえたのだ。水面から顔を出し、回りを見回した。誰もいない。そこには、いつもの見慣れた風景が広がっているだけだ。湯船に続く青いタイル、目の前にはあの蛇口、洗い場には石鹸が転がっている。
ぼーっとして殆ど朦朧状態だが、あれはお袋の声に違いなかった。幻聴なのだろうか。目の前に蛇口からぽたりと水滴が落ちた。あれは幻視などではない。間違いなく水中からこの蛇口を見上げていた。
その瞬間、尻が滑って、お湯をしこたま飲んだ。気管にお湯が入って咳き込んだ。水飛沫を飛ばして、飯島は立ちあがると、バスタブから這い出た。喉が詰まりゲーゲーという往復の呼吸の音が響くだけで、空気は少しも肺に入ってこない。苦しさが極限に達し、悲鳴とともに苦い液体を吐き出した。
這いつくばり、肩で息をし、尚も吐き
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