第六章
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今、貴方は押し黙っている。どういうことなのですか。」
ようやく相手が沈黙を破った。
「実を言いますと、或る噂が業界に流されています。それを信じているわけではありませんが、私共といたしましては、それをクライアントに報告する義務がございまして…」
「その噂っていうのは、何なのです。」
「その、何て言うか、」
「さあ、はっきり言って下さい。何を言われても、今の私は驚かない。さあ、はっきり仰って下さい。」
「はい、分かりました。正直に申します。つまり、飯島さんの左遷の原因が業務上横領の疑いがあったという噂です。私個人としましては信じておりませんが、噂は噂として間違い無く存在しますので。」
飯島は押し黙った。誰なんだ。根も葉もない噂を流したのは誰なんだ。飯島は孤独と絶望に打ちのめされた。心の隅にしまっておいた、一縷の望みが潰えた瞬間である。
その夜、飯島は泣いた。風呂の中で、お湯の中で泣いた。決して見られたくなかった。和子には気付かれたくなかった。センターでの任務が終えれば、本社での営業部長の席が用意されていると匂わせていた。そんな可能性などないのだ、嘘なのだ。
飯島はその嘘に泣いた。嘘をつき続けることなど出来ない。すぐに嘘の上塗りをしなければならないだろう。和子はその嘘にうすうす気付いている。虚勢を張るのも限界であった。泣くしかなかったのである。
二人が帰って、和子は夕食のしたくにかかっていた。飯島は、くるくると体を動かす妻になにげなく視線を向けていた。ふと、あの根も葉も無い噂を思いだし、深い絶望感に打ちのめされた。悔しさで体が震えた。
誰が、何故、身に覚えの無い噂を流しているのか。業務上横領など考えられない。悔しさは体全体を震わせている。和子が料理を運んできた。ビールの缶は既に空になっている。和子は空き缶を摘み上げ、台所に消えた。
飯島は深く溜息をつき、目の前に置かれた煮物に箸を伸ばした。味も何も感じなかった。和子が暖簾から顔を出し聞いた。
「どうします、もっとビール飲みます。それとも、ご飯にします。」
「日本酒を頼む。冷でいい。」
和子は飯島と視線を合わさず、暖簾の向こうに消えた。飯島の視線を避けているようだ。もしかしたら、と飯島は思った。視線を避けているのは自分かもしれない。章子との浮気が飯島の心に後ろめたさを植え付けていた。和子の視線が怖かった。時折見せる何かを訴えているような表情が怖かったのだ。
詰問されるかもしれない。そう考えると、身のすくむ思いであった。それを避けるにも、そして、心の鬱憤を晴らすにも、酔っ払うのが一番だった。飯島は、コップ酒を一気に飲み干した。そして叫んだ。
「和子、面倒だから一升瓶持ってきてくれ。」
和子は台所から顔を出し何か言おうと口を開きかけた。飯島は視線を避け窓の外を眺めた
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