第九章 嵐の前
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習に従おうと決心した健気な女。風の中を疾走し、死と隣り合わせの恍惚を友とする。男のように髪を刈り上げ、いったい何を表現しようとしているのか。
相沢は愛おしいという思いが急激に膨らんでゆくのを感じた。その感情を抑制しようとするのだが、それは膨らむばかりで如何ともしがたい。じっと久美子の横顔を見詰めた。
どれほどそうしていただろう。久美子はその相沢の熱い視線に耐えている。震える瞼が久美子の恐れと期待を物語っていた。
そしてついに乙女の心が勝った。伏し目がちに首を徐々に相沢に向ける。視線は落としたままだ。その震える瞼が徐々に開かれ、視線は相沢の目を捉えた。その刹那、相沢はその身体を強く引き寄せた。
暖かなぬくもりと、ドックンドックンという心臓の鼓動が相沢の胸に伝わってくる。唇を重ねる。相沢が久美子の下唇に舌を這わせた。「あっ」という声が漏れる。唇が僅かに開かれ、相沢を受け入れた。二人だけの恍惚の時間だけが流れた。
背中に回した掌で柔らかな脂肪をまさぐり、相沢の唇は柔らかな頬を、首筋を濡らした。次第に興奮が二人を包み、久美子の荒い息が相沢を刺激していた。右手がティーシャツの裾から差し込まれ、ブラジャーに覆われた豊かな乳房に触れた。
拒絶は唐突だった。久美子が相沢のその手を瞬間的に押さえたのだ。強い力だった。相沢もその刹那現実を思い出し、乳房を握った手を引いたのだ。重い現実だった。それを思い出したのだ。相沢が言った。
「ごめん、あまりに君が愛おしくて、耐えきれなくなった。婚約していることを忘れてしまった」
久美子は黙って言葉を探していた。一歩身を引くと相沢を見た。
「そんな風に言ってくれて有り難う。私がデートに誘って、ましてこの高台に車を停めたのも私。何も期待なんかしていないなんて言っておきながら、考えてみたら逆に誘っていたみたい。馬鹿だった、私…」
「いや、違うんだ。僕が我を忘れてしまった、僕が馬鹿だったんだ。昨日、君が映画を見て涙をながしているのを見た。本当に可愛いと思った。抱きしめたいと思った。君の横顔を見ていたら自分が押さえられなくなってしまったんだ。今日、君が言ったこと、確かに聞いのに、すっかり忘れてしまった」
久美子はじっと相沢を見詰めながら言った。
「だったら今の私を忘れないで。一生、覚えていて」
と言うと、車に乗り込みドアを開け、相沢に乗るよう促す。相沢が車に身体を入れると、久美子はまっすぐ前を向き、ハンドルを握っていた。相沢がシートベルトを装着し、シートに背を着ける。アクセルが踏み込まれた。
何か言わなければと思うのだが相沢の頭の中は真っ白だった。己の気持ちに正直に従っただけなのだが、久美子はそこまで期待していなかったのではないか?あの夜景を、二人だけの空間で、目に焼き付けておきたかった
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