第三章
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「正式に契約の申し入れが来たんだよ」
「主席指揮者になのね」
「それに音楽監督にな」
コヴェントガーデンは欧州でも有名な歌劇場だ。そこの指揮者、音楽監督となるともうかなりのものだ。
それで彼はこう言うのだった。
「受けるさ」
「ロンドンに行くのね」
「ああ、俺は世界に出る」
そうすると私に言う。
「そうするさ」
「そう。じゃあ」
「来てくれるか?」
彼は笑顔で私を見て尋ねてきた。
「俺と一緒に」
「御免なさい」
私は覚悟を決めていた。前からそうしていた。
だからこそこう返した、どうしても俯いてしまっているけれど。
「私はやっぱり」
「ロンドンは無理か?」
「ここに家族もいるしお仕事もあって」
「生徒もいるんだよな」
「大学もピアノのレッスンのね」
「そうだよな。ここが御前の町なんだよな」
この東京が。
「だったらやっぱり」
「この町からは離れられないわ」
私は彼に言った。
「どうしてもね」
「そうか。じゃあ」
「ロンドンは一人で行って」
私からの別れの言葉を私の口から告げた。
「そうしてね」
「わかったさ」
彼も苦い、とても残念な顔で私に答えた。そして。
旅立ちの日に空港で別れた。家に帰ってもいるのは私と赤い鳥だけだった。
泣かなかった、それでも彼と一緒に飲んだそのワインを飲みながら鳥を見て呟いた。
「一つの夢が適って一つの夢が破れて」
私が密かに想っていたその夢が。
「そういうものなのね。人生って」
ワインの深い酔いが今の私には必要だった。
次の日の朝まで飲んで悲しみをワインで流した。そうして。
その朝を迎えた私の耳に鳥の鳴き声が聞こえてきた。鳥は私を待っていてくれた。
けれどその籠を開けて餌をやってからこう鳥に言った。
「好きな場所に行きなさい」
夢が適えられなかったからこう鳥に告げた。すると鳥は。
そのまま何処かに飛び去った。窓も開けていたのでそこから出た。
鳥はすぐに何処かに飛び去った。朝日の向こうに。
私はお風呂に入ってそれでワインの香りを消して日常に戻った。お酒に強い自分の体質にこれまで以上に感謝した。
それから暫く経って彼から手紙が来た。そこには彼の笑顔とロンドンでの部屋があった。
その部屋の中にあの鳥がいた。籠の中に。
私はその赤い鳥を見て一人呟いた。
「夢はあるべき場所に行くのね」
手紙には鳥が彼が朝起きたら窓辺にいてそれで飼うことにしたと書いてあった。夢は今は彼の場所にある、私のところからは去ってしまっていた。
赤い鳥逃げた 完
2012・10・3
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