最終章
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いているの。」
亜由美は右手の入り口をちらちらと見ては涙を新たにした。微笑もうとするのだが、しゃくりあげてしまい、うまく笑顔が作れない。顔が泣き顔になってしまうのだ。
店の入り口から、少女を肩に抱いた男が近付いてくる。亜由美は、化粧をしてこなかったことを後悔していた。せめて口紅くらいはしておくのだった。昨夜は遅くまで内職をしていたため、寝坊してしまったのだ。
男が微笑みながら歩み寄ってくる。肩に抱かれた知美が手を振っている。もう涙で何も見えなくなってしまった。杉村が近付いて声を掛けた。
「石田君、今日はもう、帰りなさい。事情は明日聞かせて下さい。レジは私がやります。」
「店長、有難うございます。」
そう言うと、亜由美は夫と子供のもとに駆け出していた。杉村はその後姿をちらりと見て、お客に声をかけた。
「申し訳ございません。彼女には何かしら事情があるんでしょう。さあ、急いでレジを打ちますよ。」
杉村の手は自動的に動いた。誰よりも早く正確に打つ自信がある。大根は150円と打ちこみ、牛乳のバーコードをさっと光りにさらす。しかし、よく動く手とはうらはらに、その頭の中は空白になっていた。
三人の寄りそう後姿が目の片隅に焼き付いた。淡い恋心のまま終わりがきたようだ。その方が良いのかもしれない。心が傷つくこともない。ただ、昔、恋した女の面影を追っていたに過ぎないのだから。
手を繋ぐだけで心ときめいたあの頃を懐かしく思い出す。今となっては、キスくらいすれば良かったと思う。ほんの少しの勇気さえあれば、思い出も違ったものになったかもしれない。しかし、まだ若かったのだ。
初めてのデートの時、彼女は言った。「私、ハーフなの。日本と朝鮮のハーフ。」にこりと笑った笑顔が清清しかった。杉村はその時、こう言った。「人種が交わると優秀な子孫が出きるんだ。」その時、初めて手を握った。
彼女の母親は後妻だったが、朝鮮人ということが原因で家を追われた。狭い町に噂はすぐに広がった。そんなおり、あの人でなしの先生が彼女に侮蔑的な言葉を吐いたのだ。その言葉は彼女に言ってはならない言葉なのだ。
杉村は思わず立ちあがり、先生に詰め寄った。その襟首を掴み、黒板に押し付けた。先生が黒板拭きで頭をこずいた。そこで切れたのだ。あとのことは覚えていない。幸子の叫ぶ声が聞こえた。
「杉村くん、やめて、お願いやめて。」
気が付くと、先生は血だらけで倒れていた。
ふと、ほろ苦い思いが胸をかすめ、その情景が彷彿と浮かび上がった。20年以上前のことだ。待ち合わせ場所に、幸子が佇んでいた。校門の陰に隠れ、遠くからじっと見詰めた。東京から無けなしの金をはたいて駆け付けた。一目見るだけでよかった。失業中だったから、とても会う気にはなれなかったからだ。
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