第一幕その三
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ある。彼は敷物に載せた赤い王冠を持っていた。それは金や宝玉によって飾られみらびやかな光を放っている。如何にも重そうであるがそれが何よりもロシアという国の重さを現わしているようであった。
「王冠だ」
民衆の中の誰かがそれを見て呟いた。
「王冠が入ったぞ」
「いよいよだな」
「ああ」
彼等は口々に言う。だがその言葉には特に熱意もなくただ無造作に言っているだけであった。彼等はそこにいるだけに等しかった。おそらく呼ばれなければ来なかったであろう。
「よし」
昨日の警吏がまた言った。
「ではよいな」
「はい」
民衆達は頷いた。
「声をあげよ」
「万歳」
彼等は言った。
「皇帝万歳」
やはり空虚な声であった。声は大きくともそこには心はなかった。
「ロシアの皇帝ボリスに栄光あれ」
「栄光あれ」
感情は篭ってはいなかった。それをクレムリンの奥深くで聞いている者がいた。
黒く厳しい髭に筋骨隆々の巨大な身体を持っている。髪は黒く、白いものさえなかった。顔はアジア系の血が入っていると思われるが男性的であり、目も鼻も口も大きく、しっかりしていた。その表情には威厳があり迷いは少し見ただけでは感じられなかった。だが彼はそのクレムリンの奥深くで一人上を向いて何かを見ていた。彼は毛皮を着て重厚な服をその身に纏っていた。
「陛下」
部屋の中に入って来た貴族の一人が彼に声をかけた。
「陛下か」
男はその声に顔を向けた。彼こそが今皇帝となろうとしている男ボリス=ゴドゥノフであった。
「もう私は皇帝ではないのだな」
「はい」
その貴族は恭しく答えた。
「あの民衆の声を御聞き下さい」
「民衆の」
「皆貴方を心よりお待ちしております」
「心からか」
だが彼はその声が空虚なことを見破っていた。
「おそらくは」
「おそらくは?」
「いや、何でもない」
だが彼はそれ以上言おうとはしなかった。
「では着替えよう。服を持って参れ」
「はい」
貴族はそれに従い部屋を後にした。一人になったボリスはまた上を見上げながら呟いた。
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