第六章 (2)
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足元に転がっていた男が、呻きながらもぞり、と肩を起こした。鬼塚先輩は奴の背中をぐいと踏みつけると、僕にランドナーのハンドルを手渡した。錆がういたハンドルに触れた瞬間、ぞわりと全身の毛が逆立つような寒気に襲われた。
「少し早い気がするが…今が『その時』だ。わかるな、姶良よ」
息を呑んで、鬼塚先輩を見返す。この声は、先輩のものであって先輩のものではない感じがする。この自転車を乗り継いできた、歴代の継承者達の残滓を帯びて、妙に錆びた深い声だった。……結局、鬼塚先輩の「予言」は正しかったのか。
「…借ります」
僕はゆっくり頷くと、柚木を促してランドナーにまたがった。柚木が荷台に腰掛けたのを見計らってペダルを踏みこむ。背後で車のドアが閉まり、排気音が響いた。僕はギアを最大にして、足に力を入れた。
背後に追手の気配を感じながら、ペダルを何度も踏み込む。それは、ふいごを踏むように風を捲き起こして、僕らはどんどん加速していく。
―――速い。
驚いた。ペダルはちっとも重くないのに、今まで乗ったどの自転車も比較にならないほどにぐんぐん加速する。追手との距離は、広がらないけれど縮まない。50〜60キロは出てるんじゃないか。腰に回された柚木の両腕に力が入った。腹を締められているような形だけど、もう全然痛くない。いつから痛くないんだろう…こいつに乗った瞬間からだ。
――これが、鬼塚先輩が毎日がちゃんがちゃんイワせながら汗だくで漕いでいたオンボロランドナーと同じものか?…まるでロードバイクみたいな乗り心地だ。ポジションも測ったように僕にぴったりで、立ち漕ぎなんてしようとも思えない。
「…おかしいだろ、これ…」
必死に漕いでいるうちに、頭の中がぼうっとしてきた。……これは、ランナーズ・ハイってやつだろうか。耳を裂くような冷気も、足の痛みも、追手の気配すら、ゆるいけだるさに溶け込んで心地いい。ペダルを踏むたびに増していく風の轟音とランナーズ・ハイの恍惚状態は、僕を世間から少しずつ切り離していく。今僕の周りにあるのは、轟音と真冬の冷気、息が詰まるような風圧……それと、背中に感じる柚木の体温だけだ。…今の僕は、追われる恐怖からペダルを踏んでいるんじゃない。
ただ走るためだけに、ペダルを踏んでいる。
電信柱の横をすり抜けるときに一瞬生じる「ゴゥッ」という気流の乱れ。それにも似たような雑音が、風の音に混ざっている。とても小さな違和感…故障の前兆かもしれない。僕は慎重に耳をそばだてて、音を拾う。
《……レ………ガレ………》
その音は気流の乱れにも、老人の錆びた呻き声にも、錆びて壊れかけた部品の悲鳴にも聞こえる。試みに少しだけ、速度を落としてみた。気流が緩まるのに比例するでも反比例するでもなく、謎の怪音は耳の後ろ辺りをかすめ続ける。
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