Huit
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なたのように」
「ナーシャ、おまえ、俺に殺されたいのか」
あまりに近すぎて、エルの更に低くなった声が頬骨に響く。
「スペイン語がわからないのは嘘じゃない。聞き取れる程知らない。喋れもしない」
「ナーシャ」
ぐいとエルの顔が近づく。エルの唇がわたしの唇に、触れるか触れないか、呼吸をするだけでも触れてしまいそう。もしくは、もう触れているのかもしれない。
「なぜ、わかった。外見は言うまでもないが、俺のスペイン語は発音まで完璧だ。今まで誰にも気づかれたことはない」
「なんとなく。でも別に言いふらしたりなんてしない。そんなことをしてもわたしに利がないから」
「なんとなく?そんなもので…」
エルは一旦言葉を切った。わたしの瞳を探り、そこに嘘がないとわかったのだろう。ゆっくりと顔を離した。わたしとエルの間に空気が戻る。
「勘で?恐ろしい女だな、ナーシャ。良いスパイになれる」
「名前も胡散臭かった。『エル』なんて。スペインの英雄からとったでしょう」
レコンキスタ(国土回復運動)で活躍した貴族ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール。通称エル・シッド。絵本にもなり、国民には馴染み深い。
「できすぎと言いたいか?本名だよ。結構気に入っている」
その言葉が本当かはわからない。
「本当に誰にもばれたことはないの?」
「名前の件は女に聞かれることはしょっちゅうだ。大抵『俺のヒメーナになってくれ』と言えば黙る」
ヒメーナはエル・シッドの妻だ。虫酸が走る程気障ったらしい。こんな男に女は引っかかるのか。
「わたしを殺すの?」
「いや今はやめておく。運が良いなナーシャ。少し前の俺だったらさっさと殺してた。これでもおまえは俺の楽しいおもちゃだからな」
にこにこ笑いながらエルはわたしに近づいた。
「でもなぁ」
わたしは身の危険を感じて逃げようとした。エルがこういう顔をする時は大抵ろくなことじゃない。けれどエルは図体に似合わず驚く程機敏な動きでわたしを床に取り押さえた。
「また痩せたか?これじゃあ治りが遅くなるぞ」
心の底から嘆くようにエルが言った。言葉とは裏腹に、俯せに投げ出されたわたしの肘の関節の上に、エルの膝がのった。
「細いな。ちゃんと食え」
エルが、わたしの腕を、膝を載せたところを軸にして、関節と反対側に捻った。
わたしの全身に力が入り、冷たい汗が滲んだ。けれど、その瞬間はやってこなかった。
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