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冥王来訪
第三部 1979年
冷戦の陰翳
険しい道 その2
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生産手段・生産物などすべての財産を共有」なのであろうか?
ゴルバチョフは、生前この事を、「俺の物は俺の物、他人(ひと)の物は俺の物」と喝破した。

 東独の国家貿易の殆どを担ったのは、対外貿易省の商業調整局である。
これは、以前のマサキのドレスデン訪問回でお話ししたココ機関の別称である。
 正式には国家保安省通商調整担当局と言い、アレクサンダー・シャルク=ゴロトコフスキ(1932年〜2015年)の直轄組織だった。
ゴロトコフスキ―自身は貿易省次官だったが、同時にシュタージ特務大佐でもあった。
 ココ機関は、税関で押収した違法品や奢侈品を幹部の求めに応じて上納するのが一般的だった。
中には、脱税を理由に自由業者から美術品を没収し、それをそのまま幹部に転売することもままあった。
 そして、西独からココ経由で日用品や奢侈品を輸入し、時には国禁のポルノグラフィティすら収めたりもした。
つまり、ゴルトコフスキ―は、国営の闇屋のボスだったわけである
 そしてそれらを監督したのは後方支援総局で、1963年からルディ・ミッティヒ(1925年〜1994年)が責任者。
この経済担当の局長は、シュタージ次官を兼務し、後に中央委員会に選出される重役だった。

(以下は、シュタージ組織図の簡単なものである)
<i14065|48014>

 このようにシュタージは、自分たちが西側の自由社会の享楽を知りながら、東独市民を弾圧する腐敗した機関であった。
スパイ活動を通じて、西側のエレクトロニクスがどれだけ進んでいて、東独がどれだけ遅れているかを知っていた。
なので、シュタージは諜報活動や偽情報工作と共に、最新技術の窃盗にも力を入れていたのだ。

 トマス・ホーエンシュタイン自体は、特に反体制活動とは無縁だった。
だが、世界的な左翼作家ベルトルト・ブレヒトの薫陶を受け、その作風は暗に体制を批判する様なものだった。
 ブレヒト自身は、1930年代まで放蕩と作家活動を続けた後、NSDAPの政権奪取と共に国外に亡命した。
その後、北欧を転々とした後、モスクワ経由でニューヨークに渡って、カリフォルニアに移住した。
 映画『死刑執行人もまた死す』(1943年公開、原題:"Hangmen Also Die!")の脚本を執筆するなどして糊口をしのいだが、やがてトーマス・マンとも対立し、亡命ドイツ社会でも浮いた存在になった。
 そんな人物が東独に帰国することになったのは、1947年に始まった非米調査委員会が原因である。
1947年10月30日の尋問の翌日、即座にスイスに逃亡し、オーストリア国籍を取った後、東独に帰国した。
 当時の西独では、戦前にブレヒトが共産党やSPDに近かったことから、共産主義者とみなしていた。
その為、入国が拒否され、東独に帰
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